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そら知らなんだ

奈具岡遺跡
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -84-)


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少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上タイムリミット上言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。


奈具岡遺跡

だいたいの位置は、羽衣伝説で知られる式内社の奈具神社の向かい側の山々、というか岡、というか広い高原のような所である。国道482号なら、府立高校の校舎がある裏山のかなり広い一帯である。ベタっとした高原ばかりでなく、ちょっとした山もあり谷もありの地形。行っても何もない、だいたいは農場で、畑か草地か薮地で、人は住んではいない。こんな高い所を農地にして、水はどうするんだ、という感じがする。府道53号網野岩滝線(バイパスであろう)が遺跡の真ん中を通る。

広いので航空機からでないと全体は見えない。上の写真の位置は奈具岡遺跡の東のはずれくらいの所で、右も左も手前側も同遺跡である。この道をずっと行けば岩滝に出る。平林初之輔は「等楽寺の道」と書いているが、古来重要な街道でなかったかと思われる。地図にするとこんなことである。↓

府道53号沿いにある案内板から登ると、ここにも案内板があって、次のように書かれていた。
奈具・奈具岡遺跡群
奈具岡遺跡
 奈具岡遺跡は100基以上の住居・建物跡が検出され、竹野川中流域の弥生時代拠点集落の一つとして評価されている。奈具岡遺跡と総称される範囲は広く、遺構の時期・性格が異なるものも含まれ、大きく二つに大別できる。一つは平野部から少し谷を入るところで丘陵の鞍部を囲むように斜面や丘陵底部に立地する弥生時代中期の玉作り関連遺構などが存在する部分(奈具岡遺跡東部)、もう一つは竹野川に面した丘陵上に住居跡が散発的に立地する西部である。この弥生集落を特徴付けたのは、玉と鉄器の生産工房が検出され、生産遺構・工具・製作工程が明らかになった東部である。奈具岡遺跡最盛期に該当すると見られる住居・建物跡は重複しつつ95基確認され、竪穴住居跡は20基程、残りは斜面をL字形にカットして平坦面をつくる簡便なテラス状建物跡と呼ぶものである。石製の玉は緑色凝灰岩と水晶の2種の玉が製作され、鉄器生産を行っていたと見られる鍛冶炉なども検出されている。多数の未製品を含む膨大な遺物が出土しており、実際にはそれに数倍する完成品が出荷されていたと考えられるが、まとまった製品の出土地は判明していない。
(その他の主な遺跡)
 奈具遺跡は、峰山高校弥栄分校の敷地内が中心的な部分にあたる。調査は、1919年に梅原末治氏が土器を採集したことに始まり、1971年に平面調査が行われ、代表的な弥生集落の一つということが判明した。竪穴式住居1基が現在も校舎下に保存されている。奈具岡遺跡最盛期の住居域はこの奈具遺跡を中心とした範囲と推察される。
 奈具谷遺跡は奈具岡遺跡最盛期と同時期の低湿地遺跡で 水田・水路跡やトチノミの灰汁抜き場などが多数の木器とともに検出され、集落における生業を示す痕跡として多くの貴重な資料を提供した遺跡である。
 奈具墳墓群は奈具岡遺跡最盛期と同時期の墳墓群である。丘陵上に20mXlOm程の連続する方形墳丘墓群で、埋葬に関して階層性は見られないことから、玉の製作などに従事した人々の墓域ではないかと想定される。
 奈具岡遺跡西部に立地する奈具谷古墳群中、奈具谷4号墓と5号基は方形貼石基で、山陰地方との関連が指摘される墓である。最盛期よりやや後出する弥生時代中期末~後期の築造と思われるがこれらは奈具墳墓群とは異なり、特定の個人が埋葬された墳墓と思われる。
奈具岡北1号墳
 自然地形を最大限利用し、後円部・前方部ともに整形痕が希薄な全長約60mの前方後円墳。後円部墳頂に2基の墓坑を築く。注目されたのは墓坑脇にまとめて供献れた須恵器(陶質土器)12点で、最も多い高杯の形態は変化に富む。日本で最も古いタイプの一群であり、日本製初期須恵器なのか朝鮮半島製陶質土器なのか、両者が混在するのか確定していないが、これだけの初期須恵器あるいは陶質土器が一括供献されている例は全国的にみても稀である。この他日本では類例の無い装身具・銅釦(銅製ボタン)も2点出土した。築造時期は5世紀前半、倭の五王の時代、被葬者は内外を問わず政治的動乱に関わっていた可能性が指摘される。これらの出土遺物は、平成13年(2001)に京都府指定文化財となっている。 京丹後市教育委員会
古くは府立高校の敷地にあった弥生遺跡であったが、その裏山や裏谷にも遺跡が眠っていた。今の水田面からは2、30メートルばかり高い所である、弥生人はこうした少し高い場所に暮らしたようである。奈具岡、途中ヶ丘、日吉ヶ丘、寺岡とかたいていは岡がついている、水田には適さないが、村の古い家などは、今もだいたいは高い場所にある。高い所から低い所ヘと時代が進むにつれて、人の住む場所が移動しているのかも知れない。
『京丹後市の考古資料』
奈具岡遺跡(なぐおかいせき)
所在地:弥栄町溝谷小字奈具岡
立地:竹野川東岸中流域丘陵谷部
時代:弥生時代中期中葉~後葉 古墳時代前期~中期
調査年次:1971、1979年(府教委)1981、1985年(弥栄町教委)、1984年(古代学協会) 1992199519961998年(府センター)
現状:全壊(国営農地)
遺物保管:市教委、府センター(一部京都府、府センター保管:重要文化財)
文献:C045、C091、C095、C112、C124、F253、F254、F255
遺構
 奈良岡遺跡は竹野川中流域の入りくんだ谷部をとりまく丘陵斜面地に位置する。周辺の丘陵上には弥生時代中~後期の奈具岡貼石墓、奈具墳墓群といった墓域がみられ、一連の遺跡群としてとらえられる。 第4次、7次、8次の各調査では丘陵斜面地に広がる弥生時代中期の玉作り遺跡を検出した。
 玉作りに関する遺構としては斜面地にL字状に掘り込まれた円形テラス状の住居を96基(第4次調査22基、第7・8次調査74基)検出した。第4次調査区と第7・8次調査区は丘陵によって隔たれてはいるものの、隣接した谷部に位置する。第4次調査区は、日常使用される土器も多くはなかったことから、専ら緑色凝灰岩の管玉を製作した工房群とみられる。第7・8次調査区では水晶や透明度の高い石英塊を素材として小玉や棗玉・勾玉、ガラス製小玉の製作を行う工房群であったと考えられる。つまり、谷部全体が弥生時代中期後半の玉作りの専業的生産域であったことが窺える。
また、調査地域の西端、竹野川の氾濫原に面した丘陵裾部の第2次・9次調査では古墳時代前期から中期半を中心とした竪穴住居3基や竪穴住居3基や掘立柱建物3基、柵列などの集落遺構を険出した。さらに、縄文時代と想定される落し穴も見つかっている。
遺物
玉作りの素材から、玉製品が作り出されるまでの各行程がわかる未成品や失敗品とともに玉の加工に用いられた石製、鉄製工具などの未成品も揃って出土しており、弥生時代中期の玉作りに関係するさまざまな生産具も製作されていた。
 第4次調査出土遺物には、おもに碧玉および緑色凝灰岩、翡翠などといった緑色の管玉製作を専門としていたらしい。玉石素材から一辺4㎝程度の四角い石核や、それらを分割した板状さらには角柱状の小さな個体が大量に出土した。四隅角を丸く円柱状に研磨して、直径1㎜以下の石の錐で穿孔していくわけだが、穿孔直前の未完成品からは長さ1.0㎝前後、直径2~3㎜の非常に小さな管玉が製作されていたことがわかる。また、素材の碧玉や緑色凝灰岩を擦り切って分割するための紅簾片岩の板石(石鋸)や、管玉の表面を研磨するための砂岩製の砥石、管玉を穿孔するためのガラス質安山岩や瑪瑙製の棒状の石錐(石針)などもある。これら加工する道具の未成品や失敗品もみられ、当該地区で玉を加工する道具も製作していたことがわかる。このほか各種磨製石器などを転用したと思われる玉加工具もある。土器はわずかにみられるのみで中期中葉でも新段階(第Ⅲ様式新相)に収まるものである。
 第7・8次調査では、六角柱体の水晶や石英塊の素材が数十kg見つかっており、谷部の土壌を洗浄すればその量はさらに増加したものと思われる。水晶はその結晶表面を剥がし取った角柱体に加工されており、この種の未成品、失敗品が最も多い。その後、敲打、研磨して円柱状にした後に輪切りに分割して穿孔し、数点の小玉を作り出す工程に進むが、この段階の失敗品も多数みられる。一部には太めの角柱体から棗玉1点を作り出す途中の失敗品や勾玉の破片もみられる。
 このような水晶製玉煩の加工具には、先端が薄くなる小さな鉄の棒や安山岩、瑪瑙、珪化木などを素材とした穿孔用の小さな石錐(石針)がある。いずれも第4次調査区同様、調査地内で製作したようであり、これらについても未成品や失敗品がみつかっている。また、第4次調査区と同様に緑色凝灰岩の管玉製作も継続しており、その未成品や加工具もみられる。
 さらには、中国から輸入されたカリガラスや鉛ガラスで作られた勾玉や小玉などの破片も見つかり、それらの加工もこなしていたらしい。
 本調査区でも土器の出土はそれほど多くはないが、中期後葉(第Ⅳ様式)を中心とする。鉄製工具や石鏃なども出土したが、農業など他の食料生産に関する道具が非常に少ないことも注目することができる。 第2・9次調査出土遺物には、古墳時代布留式併行期の土師器や、須恵器出現前後の土師器がある。出土量は少なく、古墳時代中期まで奈具岡遺跡が連綿と継縦したとすることはできず、散発的な居住を推測させる資料といえる。
意義
 当該遺跡は、丘陵斜面と谷部に、立地する弥生時代中期の大規模な玉作り専業工房である。膨大な調査面積であったにもかかわらず、その規模と内容が明らかにされた極めて重要な遺跡である。
 弥生時代中期に営まれた玉作り集落の全容を明らかにしたのだが、勾玉や管玉、小玉などとそれを作るための加工具の原料がはるか遠隔地からもたらされた貴重な交易品であったこと、またそれを巧みに利用していたこともわかったのである。とくに当時鉄素材は貴重なもので、出土した鉄片のなかには、当時、前漢帝国の最先端の技術で製作されたものが含まれていた。つまり、鋳造した鉄を固体のまま、炭素を取り去って柔軟な鋼素材としたものがあることが理化学的組織分析によって明らかとなったのである。また、カリガラスや鉛ガラスも弥生社会では生産できないものであった。一部には溶融したガラス片があり、高温を維持してガラスを再熔融する技術を持っていたことがわかる。これらの遺物はおそらくは中国大陸との交流がないと入手できないものばかりである。また、硬玉(翡翠)や碧玉、瑪瑙なども北陸地方などといった遠隔地との海上交易によって入手していた可能性が高いことからすれば、この工房から生産された玉類がいかに高価なものであったかがわかる。おそらくは奈具岡遺跡から生産された半透明白色の勾玉や小玉、緑色の管玉などは地元で消費されるものではなく、遠隔地との交易資源として利用されたものとみることができる。つまり玉作りが遠隔地との交易を行う契機となったとみることができ、首長層の経営手腕によっては農業生産だけでは得られない貴重な宝物が数多くもたらされていた可能性は高いといわねばならない。
 奈具岡遺跡の周囲には方形貼石墓や、方形台状墓、方形周溝墓など、弥生時代のさまざまな墓制がみられる。異なる墓を造営することから、奈具岡遺跡に関わった集団の階層分化と世襲化の動向を窺うことができ、首長層はこのような高級な工芸品製作のための専業集落の経営によって、経済的権力を手中に占めていたとも思える。
 奈具岡遺跡の調査によって、北部九州や畿内中枢部主導の弥生社会という歴史叙述に加えて、近畿地方北部、日本海沿岸地域の交易による社会発展を想定することができる考古学的証拠が得られたといえよう。

奈具谷遺跡(なぐたにいせき)
所在地:弥栄町溝谷小字奈具岡
立地:竹野川東岸中流域丘陵谷部
時代:弥生時代中期中粟~後葉
調査年次:1994、1995年(府センター)
現状:全壊(国営農地)
遺物保管:府センター
文献:C096、C112、F150
遺構
遺跡は丘陵上に位置する奈具遺跡に侠まれた狭長な谷部にあたる。弥生時代中期後半の水利施設、板材と杭によって護岸された排水路と、取水を目的とした施設を検出した。取水口下流からトチノミの集積が検出されたことからアク抜きのための水さらしを行なっていたことが判明した。また、2度の発掘調査によって50㎝を越える水路を検出した。
遺物
排水の悪い谷部の泥湿地のため、弥生時代中期の木製品が大量に遺存していた。取水ロでは剣形木製品と砧、網代状の編み物などが出上した。田下駄・えぷり・鋤のほか、槽・桶・箱材・高杯・杓子・火きり臼・機織具・梯子・剣把・連続渦文を施した板材など各種木製品が多数出土した。弥生時代中期中葉から後葉〔第Ⅲ~Ⅳ様式〕の土器が混在していたものの、水路の埋土最下部から第Ⅲ様式の土器、埋土上層から第Ⅳ様式の土器が出上する傾向が窺える。土製品では銅鐸形土製品が注目される。舞孔1孔が描写されており日吉ヶ丘遺跡(与謝野町)同様、器壁の厚いタイプとなる。このほか、石鏃や石庖丁・磨製石斧などのほか、緑色凝灰岩玉材や紅簾片岩石鋸など玉作関連の資料も出土している。なお、護岸施設付近からはイネの細胞に含まれる珪酸体(プラント・才パール)が険出されたことから調査地周辺において稲作が行われていたことが判明した。
意義
当該遺跡は丘陵裾の谷部から竹野川流域の氾濫原に整備された水田に導水するための潅漑施設と考えられる。弥生時代中期に営まれた奈具岡遣跡の玉作り工房を維持するために欠かせないインフラ基盤工事であり、多様な木製品は高度な加工技術に裏打ちされた豊かな生活を垣間見せてくれる。

奈具墳墓群・奈具岡遺跡方形貼石墓(なぐふんぼぐん・なぐおかいせきほうけいはりいしぼ)
所在地:弥栄町溝谷小字奈具岡
立地:竹野川東岸中流城丘陵上
時代:弥生時代中期中薬~後期前葉、終末期
調査年次:1984年(古代学協会)、1972、1986年(弥栄町教委)、1994年(府センター)
現状:全壊(国営農地、峰山高校弥栄分校ほか)
遺物保管:市教委、府センター
文献:BOO2、BO28,B030、CO99
遺構
奈具、奈具岡遺跡調査地域の東側、奈具谷遺跡見下ろす細長い丘陵上に位置する3基の方形台状墓、2基の方形周溝墓がある。弥生時代中期中葉から中期後葉〔第Ⅲ~Ⅳ様式〕に属する。丘陵の南西側が山道設置によって削平されており、墳丘の幅が5mほど減じてしまっていたが1号墓は墳丘長21.2m、幅11m以上、高さ1.5mに達することが判明した。2号・3号基もほぼこの規模となる。2号墓は墳丘長20.0m、幅10m以上、高さ1.5m、3号墓は墳丘長15.8m、幅9.0m以上、高さ1.1mである。1号墓では7基(箱形木棺墓5・土壙墓1)、2号墓でも7基(箱形木棺墓6・土壙墓1、3号墓では2基(箱形木棺2)の埋葬施設が検出された。いずれも長さ2mを超える墓壙内に箱形木棺が埋置されていた。1号墓第2・4主体部、2号墓第3・6主体では、墓壙を掘削し、木棺を埋置したあとに甕を破砕してその破片を木棺上に蒔いており、こののち丹後半島に盛行する方形台状墓に見られる土器破砕供献の風習をはやくに見出すことができる。南西側の墳丘削平部分を勘案すれば、1,2号幕両者ともにそれぞれ10数基以上の埋葬施設が存在していたことになろう。このほか、2号墓の北西斜面裾に埋葬されたと考えられる土壙木棺墓(5、7号墓)がある。また、3基の台状墓の南東、やや高い丘陵側に2基の方形周溝墓(4、5号墓)を検出した。復原すれば周溝一辺10m以下の小規模なものだが、連接して丘陵周辺に広がっていた可能性が高い。4号墓では、墓壙が検出されているが、台状墓のそれよりも小さく、台状墓の埋葬施設よりは「格下」といえる、さらに、調査地域西端、竹野川氾濫原に接する丘陵先端部には方形台状の墳丘斜面に平石を据え並べた方形貼石墓2基が部分的に検出されている。埋葬施設は不明だが、日吉ヶ丘遺跡(与謝野町)方形貼石墓に類似する弥生時代中期後半の大型墳丘墓になる可能性が高い。弥生時代後期の土器が出土しているが、周囲の住居跡のものであろう。また、その南側では、弥生時代終末期の方形周溝墓2基が検出されている。
遺物
調査地域の東側、丘陵上の3基の台状墓からは木棺の上で破砕供献された甕が出土した。弥生時代中期中葉に位置づけられる。2号墓の墳丘裾から検出された6号墓からは広ロの壺や高杯が出土しており、やや新しく中期後葉の様相を認めることができる。注目されるものとして、2号墓第4主体部の墓壙埋土から出土した石英塊がある。透明度は低いものの、玉類作成の際の石英素材とすれば、奈具岡遺跡において水晶製玉類を製作した人々の墓であったということができよう。
このほか方形貼行墓付近からは河内(生駒山西麓)産の弥生時代後期の土器が出土している。方形貼石墓がこの時期かどうか不明であるが、畿内中枢邸との交流を示す重要な遺物とみることができる。また、弥生時代終末期と考えられる方形周溝墓からは瀬戸内地方などの墳丘墓にみられる定角式鉄鏃が出土している。
意義
奈具岡遺跡の玉作りは弥生時代中期中葉から後半を中心に行われていたが、奈具墳墓群はこの専業的な玉作りに従事した人々の墓であもことが推測される。奈具墳墓群の発掘調査によって、丘陵先端の縁辺、竹野川氾濫源近くに方形貼石墓、丘陵頂部に方形台状墓、その周辺に方形周溝墓が分布していたものと想定され、人々はこれら周囲の3種類の墳墓に埋葬されたことがわかる。方形周溝墓は最もサイズが小さく一辺10m以下で埋葬の周りに溝を掘削するだけだが、台状墓は全長15~20mを超え、盛り上を行なって埋葬のための募穴を穿っている。さらに方形貼石墓は、より大きな墳丘規模を持つものと想定され、方形の盛り土の周囲の斜面に石を貼りって荘厳化している。同じ地域に居住していた人々でさえ、異なるランクの墓に埋葬され始めていたことを示しているのかもしれない。
奈具墳墓群は弥生時代中期後葉に西日本で発達した初期墳丘墓の様相を示す貴重な調査成果とすることができよう。

穴ノ谷2号墳(あなのたににごうふん)
所在地:弥栄町溝谷小字穴ノ谷
立地:竹野川中流城右岸丘陵上
年代:古墳時代中期
調査年次:1997年(府教委)
現状:全壊(国営農地)
遺物保管:丹後郷土資料館
文献:C117
遺構
 穴ノ谷2号墳は、標高約70mの丘陵の尾根上に所存する一辺約20m、高さ1.5mの方墳である。墳丘は20㎝の厚さで盛土されており、南西側と北東側に浅い区画溝を設けている。
 第1主体部は、墓壙の長辺のみ二段に落ちる長さ7.4m、幅3.1m、深さ0.9mの二段墓壙の中に、長さ4.7m、幅0.8m、深さ0.45mの箱形木棺を直葬する。棺内を区分する仕切板が木棺短辺よりそれぞれ0.9mと1.2mの位置にあり、仕切板間の距離は2.15mを測り、ここに遺骸を安置したものと考えられる。遺物は、木棺上から鉄鏃2と鉄鎌1が出土し、南側の据え付け穴から鉄釧2、勾玉2、管玉13、竪櫛14が出土している。このうち鉄釧と玉類は集中して出土していることから一連のものとして使用されていたと考えられる
 第2主体部は、第1主体部の東側に同じ向きで作られている。長さ6.3m、幅2.9m、深さ0.6mの二段墓壙の中に木棺が直葬され、棺内から鉄剣1点、竪榊7点が出土している。墳丘の平坦面に土師器壺1があり、第2主体部の埋葬終了後に墓壙の脇に据えられたものである。
遺物
 鉄訓は、2点ともに、勾玉1点と管玉9点と銹着して出1している。どちらも同じ形状で長径6.5cm、短径5.5cmの楕円形を呈し、幅は1.1㎝、厚さ0.3㎝断面は長方形である。各々に直径1.6㎝、幅0.9㎝、厚さ0.1㎝前後の遊環2個が付着している。いずれも板状の鉄板を曲げて作られている。
 鉄鏃は2本とも小型の細根式で片丸造の形式であり、長頸鏃の祖型の形式である。鉄剣は剣身長42.8㎝、剣身幅2.8cm、茎部長8.8㎝を測り、鞘入りの状態で副葬されている。鉄鎌は長さ10.0cm、最大幅2.0㎝の直刃鎌であり、長方形鉄板の一方に刃部をつける。
 また 注目すべき遺物として鉄釧がある。与謝野町加悦の小虫1号墳では、鉄釧が棺内の頭部付近より竪櫛などとともに出土しており、穴ノ谷2号墳も同様の出土状況である。一方、京都府内の徳雲寺北1号墳(南丹市)や幣羅坂古墳(木津川市)の例では手首に着装しており、丹後地域の副葬形態と違っている点は興味深い。.

奈具岡北1号墳(なぐおかきたいちごうふん)
所在地;弥栄町溝谷小字奈具岡
立地:竹野川中流域右岸丘陵上
時代:古墳時代中期
調査年次:1995~96年(府センター)
現状:全壊(国営農地)
遺物保管:京都府(府センター保管:府指定文化財)
文献:C1O6、C112
遺講
奈具岡北1号墳は、水晶製玉作り工房の奈具岡遺跡やトチノミの灰汁抜き場として知られる奈具谷遺跡を眺む丘陵稜線上に築かれた7基の奈具岡北古墳群の最高位に位置する。自然地形を十分に利用した、ややいびつな形をしており、報告書によると南北に主軸を持つ墳長60m、前方部幅26m、高さ3.6m、後円部径27m、高さ2.4mを測る前方後円墳とされる。段築、葺石、埴輪の外表施設はない。埋葬施設は後円部中央で2箇所発見されている。中心埋葬である第1主体部は、長さ5.8m、幅2.1mの墓墳の中に長さ3.95m、幅0.45~0.75mの長側板が小口部分を挟む組合式箱形木棺があり、東側から1.8mの範囲まで礫が敷き詰められていた。第1主体部の墓壙上からは陶質土器12.土師器高杯3、ミニチュア土器1が破砕された状態で出土した。また棺上からは鉄矛1が出土したほか、棺内の礫床部分から鉄剣4、銅釦2とともに容器に入った鉄鏃53とその周りで刀子1と不明鉄器3が出土し、棺の西端で鉄鏃8が出土している。
第2主体部は、長さ4.Om、幅1.8mの墓壙内に長さ2.8m、幅0.7mの木棺が納められており、木棺の小口付近が舟底状を呈している。なお、第1、2主体部とも東枕である。第2主体部の墓壙上からは、土師器高杯と小型丸底壷各1、棺上からは鉄鏃4が出土している。そのほか、前方部西側肩部付近からは、珠文鏡1面、後円部南東側裾付近から土師器高杯、棒状土製品、滑石製勾玉も出土している。
遺物
第1主体部の陶質土器は、墓壙上祭祀に伴うもので、有蓋高杯2セット、無藍高杯5、器台1、壷2の12点がある。これらの陶質土器は日本海側では初めて出土したものであり、その形態から韓国慶尚南道地域で生産された可能性が高いとされている。また、ボタン状の銅製品である銅は中国製の遺物とされている。鉄矛は矛部と石突1点とが出土し、両者間の復元長は3.3mである。
意義
奈具岡北1号墳は、出土遺物から5世紀前半に築造れたもので、前方後円墳であるならば、丹後地域に数少ない中規模クラスのものである。多くの鉄器とともに陶質土器や銅釦といった朝鮮半島や大陸との関係を直接示す遺物が副葬されており、鉄生産と深いかかわりを持った被葬者像がうかがわれる。
奈具岡1号墳の朝鮮半島製の遺物は古墳時代中期においても、大陸や半島と交流が継続していたことを示すものとして重要である。

奈具岡南古墳群(なぐおかみなみこふんぐん)
所在地:弥栄町溝谷小字奈具岡
立地:竹野川中流城右岸丘陵上
時代:古墳時代前期~後期
調査年次:1997年(府センター)
現状:全壇(国営農地)
遺物保管:府センター
文献:B075、C114
遺構
奈具岡南古墳群は、三つの尾根上に築かれた23棊からなる古墳群である。北尾根には5号墳、11~22号墳の13基が、中尾恨には1~4、8、9、23~25号墳の9基が、南尾根には7号墳のみがある。これらは、横穴式石室を埋葬施設とする5号墳を除き、すぺて木棺直葬墳である。また、墳丘を持つ古墳(14基)と地山を整形した階殿状の台状墓(9基)とに分かれる。
墳丘を持つ最大の古墳は、長辺20m、短辺16m、高さO.8mを測る方墳の1号墳である。また最大の台状墓は、長辺12m、短辺10mの17号墳で、全体的に墳丘規模に卓越した差は見られない。
一墳一葬の古墳はわずかであり、多くの古墳は家庭墓の域を出ない一墳多葬(2~4基)の形態である。特に北側の尾根に展開する古墳時代前期~中期の古墳については、地山面に穿った二段墓壙の中に箱形、H形、割竹形、舟形などの多彩な構造の木棺を時つ。また特異な例としては、22号墳第主体部の土師器2個を使用した壷棺がある。
遺物
遺物は相対的に少ない。13号墳第1主体部では刀子、ヤリガンナ各1、第2主体部では鉄剣、ヤリガンナ、刀子各1、14号墳第2主体部では鉄剣1、第3主体部では滑石製勾玉3と緑色凝灰岩製管玉2、16号墳第1主体部ではヤリガンナ1、鑿1、18号墳第1主体部では鉄剣1、ヤリガンナ1、第2主体部では滑石製勾玉1、緑色疑灰岩製管玉1、3号墳第1主体部では鉄鏃24,鉄刀、刀子、ヤリガンナ、鎌、鑿状工具各1がある。また3号墳第2主体部の棺外からは鉄斧1とTK10型式併行期の須恵器杯蓋1、杯身2が、9号墳の墳丘部からは小型丸底壷が、5号頃の横穴式石室内からは耳環1、須恵器杯身1、土師器4が出土している。
意義
奈具岡南古墳群は、7世紀中葉の7号墳を除き、4世紀後半から6世紀中葉までの間に次々に築造された。各古墳の時期については、北尾根では古墳時代終末期の5号墳を除きいずれも4世紀後半~5世紀前半、中尾恨の3、4号墳は6世紀中葉の所産である。埋葬施設は、前期から中期の古墳では地山面を大きく掘り下げた大規模な墓壙をもつが、後期段階では墓壙、木棺とも極めて小型化する。また、1号墳が中間形態的な墓壙を持つことから、1号墳と3、4号墳の間に墓制の変質およぴ画期が訪れたと判断されている。
奈具岡北古墳群を含む丘陵の北部側から築造が開始され、時間経過とともに次第に丘陵南部へと築造場所が変遷したものと判断される。奈具岡南古墳群は、周辺の奈具、奈具岡遺跡と奈具岡北古墳群との関連の中で意義付けられる必要がある。


水晶玉作り工房

奈具岡は、弥生中期中頃から後半のかけて、水晶玉を一貫生産した大コンビナートである。また鉄器が多量に、10㎏と当時の日本一の量が出土した。


水晶もガラスも原料は同じ二酸化珪素(SiO2)、同じシリコンなので、専門家でもどちらかかを見分けられないそうである。あまりにも無色透明で綺麗に透き通っている、不自然に美しすぎるものは人工であるかも、自然だから水やほかの元素が混じっていて、これくらいが天然か↓ネウチとしては低くなるとか。
少しずつ結晶は成長していく、100年で1ミリほどという。5センチほどになるには5.000年はかかる、たったこれだけでも日本史の半分の時間を必要とする。ワレラの人生は水晶の1ミリにも足りない。ムシケラ同様のはかないものである。

水晶はモース硬度7、ガラスや鋼鉄などに容易に傷つけることができる硬さだという。こんな硬いものを、どうやって加工して穴をあけるのであろう。鉄では穴はあかない、豆腐で包丁に穴はあけられない。今ならダイヤであろうが、弥生の当時はそうしたものがない。10円玉:3.5、木工用の釘:4.5、ガラス:5、ナイフの刃:5.5、歯(永久歯)のエナメル質:6、鋼鉄のヤスリ:7.5という、鉄といってもいろいろで、炭素量の多い鉄材を焼き入れすれば、水晶に穴があけられるほどに硬くなるのだろう。そうした鉄器がないと水晶玉作りはムリ、鉄とその高度な加工技術とがセットになった技術であり、渡来のものであろう。
水晶(水精)は中国語。水晶やガラスは玻璃(はり)(凡語の中国語訳)とも呼ぶ。丹後には水晶がない、国内でも知られた産地はない、水晶を呼ぶ古い日本語も知られていない、丹後では何と呼んでいたのであろう、単にタマだったのだろうか。ガラスは英語glassだろう。
水晶やガラスはどうやら海外から持ち込まれたものである、たぶん中国産でなかろうか、中国といっても四川省が有名だが、呉か越の国ではないか、さらに奥のネパールとか。それをたぶん朝鮮経由で入手して、奈具岡で加工して、それはまた朝鮮加耶へ売り、そうして鉄素材を手に入れていたのではなかろうかという。
『丹後王国の世界』(丹後古代の里資料館展示ガイド)
奈具岡遺跡の水晶玉つくり工房
 竹野川中流域にある奈具岡遺跡(京丹後市弥栄町溝谷)は、弥生時代中期の大規模な玉つくりの専業的生産集団の遺跡です。
 弥生時代中期中葉に緑色凝灰岩の管玉を製作した工房群(22基)と、中期後半に水晶を素材にした小玉、棗玉、勾玉と、中国から入手したカリガラスや鉛ガラスを使って小玉を製作していた工房群(74基)があります。どちらの工房からも未成品や失敗品が出土しており、材料から製品が作られるまでの玉つくりのすべての工程が明らかになりました。また、玉つくりに必要な加工具も製作しており、硬い水晶に孔を空けるための鉄針や石針も出土しています。
 このほか、中国製の鋳造鉄斧など重さ10kgもの鉄製品が見つかりました。この時期の日本では、鉄素材を朝鮮半島からの輸入に頼っており、ガラスといっしょに交易により手に入れたと考えられています。 弥生中期中葉から後半の日吉ヶ丘遺跡(与謝野町明石)からも多量の鉄製品が出土しており、丹後半島の人びとは鉄をあやつる高い技術力を持っていたことがわかります。
 なお、丹後の遺跡からは水晶玉の完成品がほとんど出土しないことや朝鮮半島南部では多量の水晶製品が出土することから、奈具岡遺跡の水晶玉は、鉄の素材を入手するための交換財として消費された可能性もあります。

奈具岡遺跡の鉄素材と加工品

従来の弥生歴史観を変える、あるいは見落としを補正させるような遺跡
北部九州や畿内中枢部主導の弥生社会という歴史叙述に加えて、近畿地方北部、日本海沿岸地域の交易による社会発展を想定することができる考古学的証拠が得られたといえよう、という。
中国や朝鮮が、何か現在よりもはるかに近い存在に思えてくる、こうした地からの渡来がなければ、歴史を引っ張る先進丹後はなかったあろう。



近くに羽衣伝説の豊宇賀能売(とようかのめ)命を祀る式内社・奈具神社がある。ノボリにあるようにケの乙女は新羅大明神として今も祀られているよう。
明治36年奉納のノボリ↑
新羅大明神とはケの乙女のことであることがわかる。ケの乙女(豊宇賀能売命)は後の豊受大神であろうから、豊受大神とは新羅大明神だとわかる。後に神道の教理は複雑になって、何が何やらわけがわからなくなっているが、素朴に見るなら、豊受大神=新羅大神と見られる。新羅というか加耶だろうが、そうだとすれば、伊勢の外宮さんも…、それはまた取り上げてみる。
(このたりは文献資料などにはまずないか曖昧にしている。80年前なら思想警察が飛んできた、今ならその名を隠して××あたりが何か言ってくるかも)
何も不思議なことではないことがわかる、たぶん弥生時代から祀られていたのではなかろうか、どこから渡来してきた人達の遺跡であるかがわかる。

奈具神社は奈具岡遺跡の北の谷になる。南の谷には式内社・溝谷神社がある。江戸期には新羅大明神と呼ばれていた。その神額→
ご先祖様、これはご丁寧に、たいへんよくわかりました。そういうことでしたんですね。氏神さんはふつうは村人たちの先祖を祀るもので、わけのわからないものを祀ったりはしない、これなら山のサルでも歴史が理解できることでしょう。
当社は永万元年(1165)平重盛、天正年間(1573-92)織田信長が社殿を再建したと伝え、現存の「新羅大明神」の神号額は信長の寄進と伝えるが、この額がそれかはわからない(古い額がまだいくつかあるが、壊れて板が欠けていたり字も読めない)。境内に明智光秀奉納と伝える石灯籠がある。

日本のふるさと丹後、その丹後のまたふるさとが、遠いがかなり明確に見えてきた。
遠~いふるさと、思い出す、お~もい出す、そんな歌があったが、もう忘れてしまった、忘れたことすら忘れてしまったが、こんなことで思い出しはじめるのである。
時勢の波にワルノリして古い本来の祭神が消されてしまうことが多いが、幸いにも当地周辺には残されていた。歴史の灯台を守りぬいてくれた先人がいたのだ。感謝。
検索してみるとこんな歌だった→「喜びも…」「喜びも…

奈具岡のみならず、丹後のルーツ、日本のルーツ、遠い故里と地球規模の先進工業技術と交易圏が見える遺跡の1つと言えようか。


古墳時代の出土物はいつか取り上げる。





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La Virgen de la Macarena


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