玉砕の島①
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 アッツ島玉砕、キスカ島撤退玉砕の始まりドーリットル隊の本土初空襲 1942年(昭和17年)4月18日。空母ホーネットから発進したB-25爆撃機16機が、日本本土を初めて攻撃をした一連の空襲。ドーリットル中佐を指揮官とするB-25爆撃機16機は、日本本土各地(東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸等)に空襲を実施し、主に民間に被害が出た。日本軍に与えた衝撃は極めて大きかった。四月一八日午後二時の東部軍司令部発表では撃墜九機、これはウソで、爆撃を終えたB-25のうち15機は中国大陸に不時着して放棄された。この際、搭乗員8名が日本軍の捕虜となった。また1機はソ連に不時着したという。1機も堕とせなかった。 ミッドウェーとアリューシャン作戦 1942年(昭和17)5月7日、珊瑚海海戦によりニューギュアのポートモレスビー攻略の企図を阻止された日本軍は、つづくMI(ミッドウェー)作戦で大敗を喫し、戦争は重大な転機をむかえた。MI作戦は2月ごろから計画、ドーリットル空襲の衝撃によって足進され、参加艦艇350隻150万トン、飛行機1000機、将兵10万人という空前絶後の大作戦であった。米側は事前に連合艦隊の暗号を解読して察知し、昼夜兼行の準備を整えて待機し、日本の作戦齟齬も手伝って日本海軍は致命的な打撃をうけた。 6月5日未明、第一次攻撃隊がミッドウェー基地を襲撃したが、敵機なく、第二次攻撃を準備中、哨戒機から「敵機動部隊発見」の報があり、艦船攻撃の準備にきりかえた。そこヘ米海軍機の急降下爆撃をうけ被害はわずかだったが、自らの爆弾、魚雷が誘爆をおこし、ついに日本海軍の至宝であった航空母艦赤城、加賀、飛竜、蒼竜が沈んでしまった。そのうえ、翌日未明対潜水艦の回避運動中、巡洋艦が衝突し、後に、三隈は米空軍の攻撃をうけて沈没した。開戦以来無きずの日本海軍は、半年後に最初にして最大の痛手をうけた。 大本営はこの大敗戦をひたかくし、同時に遂行されたアリューシャン作戦といっしょに「大戦果」を発表してごま化した。 アリューシャンはミッドウェー作戦の一環であったが、ミッドウェー作戦の目的がそもそも明瞭でない。海軍に引っ張られた作戦であったが、ミッドウェー島を攻略して、どの方面からも敵艦隊の機動を封止し、我が作戦基盤を前方に推進することというが、前線をどこまで進めても安全にはならない、むしろ兵站は伸び、内側が空いてしまう。物資に劣る、劣るといってもひどく劣る国が戦線を広げたら負けるに決まったハナシである、戦線を広げたら負け、長期戦も負け、当然のリクツもなく、ここも「進め、進め、ツッコメー」の作戦しかなかったものであろうか。ミッドウェーが失敗したうえは、アリューシャン攻略は意味を失った。 経済力・生産力・技術力の差 『20世紀・朝日クリニクル』 戦後のアメリカ戦略爆撃調査団のリポートは、冷静に次のように判定している。 「日本の経済的戦争能力は限定された範囲で短期決戦を支ええたに過ぎなかった。蓄積された武器や石油、船舶を投じて、まだ動員の完了していない敵に対し痛打を浴びせることはできる。ただそれは、1回限り可能だったのである。日本の運命はすでに決まっていた。その経済は、アメリカの半分の強さをもつ敵との長期戦であっても、支えることはできなかったのである」 当時の米は、日本の10~20倍の生産力があったとされる。戦争も経済法則が貫徹する。 あとの面白くもない、責任もとらない人間どもの思いつきの茶番劇では、どうなるものでもない。 経済力だけてなく、政治力や外交力、文化力…総合的な格差は蛙と牛ほどもあった。ワシは牛よりももっともっと強い、神の蛙だと信じて、空気を吸い込みすぎて自ら爆発してしまったアワレなアホ蛙のようなものであった。 山本五十六長官の死 進め、進め、ツッコメーの、真珠湾攻撃で名をあげた英雄・山本五十六連合艦隊長官が撃ち落とされた。 昭和18年4月18日、山本長官は最前線に近いブーゲンビル島南端周辺の基地へ将兵激励のため、山本長官らが乗る2機の一式陸上攻撃機と護衛の零戦6機がラバウルを飛び立った。あとわずかで目的地というところで、16機のP38戦闘機が現われ、2機の爆撃機に集中砲火を浴びせ、本長官の乗った爆撃機はジャングルに墜落。翌日、軍刀を手にしたままの姿で絶命している山本長官が日本軍の捜索隊によって発見された。山本長官の死は1か月伏せられ、5月21日に発表された。ある村では「山本元帥の戦死!!間違いではないか!!」という回覧板が配られるほど衝撃的な出来事であったという。 海軍暗号が解読されていることが判明したのは戦後になってからであった。何もかもが解読されていたのではないが、重要な暗号が解読されていた。米英の情報技術は高く、感覚もよい。 『私の歩いた道・戦争』(綾部市・温井半一郎) 任務(戦闘配置)は、主として、暗号電報の作成と解読の仕事でした。暗号は「海軍ろ暗号」という数字暗号で五けた(万台)の數字暗号に無意味な五けたの乱数を加えたり引いたりするものでした。この暗号はアメリカに解読されていたと言はれていますが、一部解読されたことがあっても、全部が解読されたとは信じられない程、よく出来た暗号でした。(平成二・四・一五) 日本側は、長官機の撃墜は、偶発的な不運な遭遇戦で、暗号が解読されていたとは見ていなかった。しかしそれは日本側の希望的観測でしかなく、実際は暗号を解読したうえで周到に計画されたものであった。米軍は日本海軍の通信を傍受、暗号を解読し視察のスケジュールを詳細につかんでいた。米情報参謀は「日本海軍は時間に正確だ。ヤマモトは日本の特急のように必ず時間通りにやって来る」と確信したと後に語っている。 しかし米軍はジレンマに陥る。山本長官を正確に攻撃すれば、米軍が暗号を解読したことを日本に覚られ、暗号を変えられてしまう可能性がある。情報は戦争のゆくえを左右する。日本海軍の情報を得られなくなるリスクを冒してでも、山本長官の攻撃に踏み切るべきか、「ヤマモトに代わりうる者はおらず、殺害すれば日本海軍の士気に大きな影響を与えられる」と判断し攻撃に踏み切ったという。 何もこれだけではない、すでに機密情報はダダ漏れであった。ミッドウェー島の占領と艦隊決戦の二兎を追った作戦の失敗は指摘されているが、海軍の慢心もひどい。当時料亭の女将や芸者たちが「次はミッドウェーを取ってハワイですね」とか、「ミッドウェーは水無月島という名前になるんだそうですね」と言っていという話がある。またある司令部は6月以降は、郵便物をミッドウェーへ転送してくれと横須賀郵便局へ連絡したという話もある。あっち行ってベラベラ、こっちでベラベラと将校が機密情報をしゃべりまくる。軍港は写すな、写生もするな、仮に何か見ても聞いても一切口外してはならない、とか勝手に国民は縛っておいて、テメエはこんなことであった。防衛省、違反や不正218人処分、海自だけで113人とか、まことに恐れ入ったハナシで、後輩の荒廃もすざましい。赤レンガだなどの偶像崇拝の国民側も情けない、トカゲのしっぽ切りでなく政権中枢から腹を切らせるべきだろう、傀儡政権の傀儡軍のような精神が腐り果てたものの姿のようなアワレすら感じるほどのクソに見えてくる。高い軍事費ゼーキン払う納税者こそ、よい面の皮で、つまらぬ目にあってアホくさいうえに、よい恥さらしなことだ。 アッツ島(日本側は熱田島と呼んだ)の玉砕 アッツ島は、長さ(東西)48km、幅(南北)13km - 24km。面積は 893 km2 で、米国で23番目に大きな島。気候は曇りや雨・雪、霧が多く、時折強風も吹く。晴天は1年に8~10日ほどしかない。残りの日は雨が降っていなくても濃さの差はあれ霧が出ているのが通常である。雨などによる年間降水量は39–49インチ (990–1,240 mm) で、秋から初冬にかけて最も降水が多い。 ツンドラ気候に近い。暖流のアリューシャン海流のため緯度の割には気候が和らぐとはいえ高緯度のため気候は冷涼で、日中の最高気温は夏でも10℃台前半にしかならない、冬の寒い月の平均気温が-3℃、最低気温で-17℃程度。一本の木もないし、動物もいない。草が生えているが、湿原で歩くのも難しい。 日本軍は5月に実施されたミッドウェー作戦の陽動作戦として、また北東方面からの連合軍空襲阻止を企図し、米領土であるアリューシャン群島西部要地の攻略または破壊を目的として、さらに米ソ連絡遮断を企図して、アリューシャン作戦を発動した。 アッツは陸軍、キスカは海軍。 日本陸軍の北海支隊(独立歩兵一大隊、独立工兵一中隊、高射砲中隊、補助部隊、約1,150名)はアッツ島を、舞鶴鎮守府第三特別陸戦隊はキスカ島を攻略する。大本営陸海軍部、連合艦隊、第五艦隊の方針は統一されておらず、アッツ島玉砕の原因は攻略計画立案時から内包されていた。大本営海軍部(軍令部)と連合艦隊は「キスカやアッツの守備は陸上兵力と水上機だけで良い」「飛行場を造るつもりはない」と考えていたが、第五艦隊や日本陸軍は「飛行場を建設して積極作戦に打って出たい」と考えていた、という。 ほとんど守る意味はなく、彼我の戦力差が大きすぎたため日本軍は、最終的にアッツ島、キスカ島の確保を断念し、5月20日、アッツ島の放棄と、キスカ島からの撤退を発令した。アッツ島守備隊は上陸した米軍と17日間におよぶ激しい戦闘の末、5月29日に指揮官の山崎が、残存兵力を率いて最後のバンザイ突撃を敢行、結果として日本軍は、16人もしくは29人が捕虜となったがそれ以外は全員が戦死あるいは自決し、守備隊は玉砕した。 奇跡のキスカ島(鳴神島)撤退 昭和18年5月、アッツ島に1万1000人の米軍が上陸し、激戦の末、日本軍守備隊2600人余りが玉砕した。 アッツ島玉砕後、日本軍側は、次はキスカ島に米軍が進攻してくると考え、守備隊の撤収作戦に乗り出した。昭和18年7月、すでに米軍が取り巻く中での作戦は困難を極めたが、すきを突いた霧の中での撤収作戦で守備隊全員を収容し、撤退に成功した。 脱出予定日は7月11日午後4時キスカ湾、もし2時間過ぎても艦影ない場合は翌日、以後それを繰り返す、とのことであった。全島の全陣地から集結した全将兵5200名、この日キスカ湾に救出艦影なし、次の日も次の日も次の日も…姿がない。もうダメかこの島で死ぬしかないのかと、あきらめはじめていた7月29日、霧の湾内に↑救出艦隊が姿を現した。 そして、撤退に気付かないまま8月15日に3万5000人の連合軍(米軍とカナダ軍)が上陸した。 この撤収作戦は「奇跡の脱出」と言われた、重包囲下からの超幸運の脱出であった。どこか一つでも女神に横向かれれば、ここもアッツ同様に全滅していたであろう。 脱出は成功したが、先立つ食糧武器弾薬などの補給作戦中に亡くなった方も多い。 舞鶴の海軍墓地内に、 「キスカ島及びその周辺 陸海空域戦没者 慰霊碑」↑が建てられている。 その碑文に、 キスカ島及びその周辺陸海空域の戦況を偲びて。第二次大戦で北辺の守りを固めるため昭和十七年四月舞鶴鎮守府第三特別陸戦隊が編成され同年五月十八日勇躍征途についた。万里の波濤を道し六月七日キスカ島に敵前上陸を敢行し之を占領した。向井海軍少佐指揮のもと六千有余の陸海軍部隊が敵の奪還を阻み北辺の守リを固めていたが戦は日増しに激しさを加え阿修羅の攻防の凄じさは言語に絶するものがあった。昭和十八年五月二十九日アッツ島は山崎部隊長以下全員二千六百三十八名が玉砕。以来キスカ島及びその周辺海域は血飛沫をあげての浄奪戦となった。戦況を憂慮した大本営はキスカ島部隊に転進を命じ同年七月二十九日撤収八月一日ホロムシロ島への転進に成功した。これは偏えにアッツ島玉砕の英霊とキスカ島及びその周辺陸海空域における玉木海軍少将以下二千二百余柱の尊い犠牲の賜と深く感謝と敬意を表すると共にその遺徳を讃え御霊の安らかなお眠りを祈り永遠にかかる戦争を繰り返えさぬことを永く後世に伝えたくここに慰霊碑を建立するものであります。 合掌
昭和六十年十月二十八日 キスカ会 『防人の詩(南太平洋編)』 …一方、同島(アッツ)の東方に位置したキスカ島には五千六百余人の守備隊か配備されていた。彼らは、自らが、やがてアッツ島の守備隊と同じ運命下に陥るであろうことに気付いていた。この島の守備に任じていた将兵は舞鶴第三特別陸戦隊を主力として編成されていた。北方方面第五艦隊司令部において、このキスカ島の陸海軍将兵五千六百余人を全員無血撤退させるべく決死的な行動がはじめられたのは五月末から六月にかけてのことであった。その方策として潜水艦の急派が試みられたが、八百余人の救出を行ったのみで、急派された潜水艦は、同島を洋上封鎖した米艦隊のため帰投をみないものが目立ちはじめた。
このためキスカ島守備隊の全員無血撤収を企図する第五艦隊司令部では、新しく連合艦隊司令長官となった古賀峯一大将の強い要望もあって、同島の主力部隊を一挙に撤収せしむべく、同艦隊の総力をあげての作戦に踏み切ることを決定した。そして、北千島幌延基地に在泊していた作戦部隊は七月二十二日夜十時すぎ、緊急出港準備の下命を受け、軽巡「多摩」をはじめ、第一水雷戦隊旗艦軽巡「阿武隈」以下の駆逐艦隊が一斉に抜錨するやアリューシャン列島に向けて出撃した。艦隊は総計十六隻からなり、ただ、その針路は東方ではなく、真南へ百八十度の針路をとっていた。 艦隊は翌二十三日午後三時前、一斉に針路を東方に転じ、二十五日には北千島とアリューシャン列島のほぼ中間位の洋上を東航しつつあった。このように艦隊がアリューシャン列島への直進航路を避け、あえて南下、その後において東方へ変針するL宇型の航路をとったのは、米軍哨戒機圏の外周を航行する必要に迫られていたためであった。同時に、艦隊の上空には隠密裏の作戦行動のため、終日、艦影を包む強い濃霧の発生気象を必要としており、厳重な無線封鎖のもとに艦位、針路とも完全な秘匿下の航行を続けなければならなかった。 第五艦隊にあっては、すでに一週間前の七月十五日、強い濃霧発生の気象情報下に、キスカ島周辺洋上まで接近していたが、いよいよ島内守備隊の撤収直前になって突如、気象状況の急変に見舞われ、「海霧発生の見込みなき」状態に置かれたため、急拠、反転、帰投せざるを得ない救出不成功の苦汁を味わされていた。そして、再度の出撃も、強い濃霧発生の気象予報下に決行されていたが、艦隊はあまりの濃霧のため出港四日目の二十六日、第一水雷戦隊旗艦「阿武隈」の右舷に、海防艦「国後」が衝突、後続の駆逐艦三隻も相次いで衝突する予想外の事故に見舞れたのだった。だか、この衝突事故による各艦の被害は、いずれも軽微であったため、駆逐艦一隻のみか自力帰投するだけにとどまり、艦隊は翌々二十八日、補給隊を解列し、さらに二十九日朝には第五艦隊司令長官河瀬四郎中将座乗の軽巡「多摩」をも反転し、一水戦司令官木村昌福少将の直率する艦隊は単縦陣の隊列をとるや二十ノッ卜に増速し、濃霧に閉ざされたキスカ島に接近したのだった。 この日、キスカ島突入艦隊に対して、同島の日本軍守備隊がら発信された気象電文は「雲量、雲高ともに不明。視程一」というものであった。「視程一」とは視界五十メートル以内の状態を意味し、駆逐艦の艦橋に立った見張員は、ようやくにして自艦の艦首までを視認できるまでの濃密な海霧の発生を指していた。そして、この濃密な海霧か艦隊のキスカ湾突入の直前、わずかなから薄れ出し、艦隊は至近の距離に島影を視認するなかで、同島北端を迂回するかたちの針路をとりながら東岸の湾内に進入を開始し、午後一時すぎ、湾内の海辺一帯に集結、待機する守備隊将兵の前に投錨した。 そして、投錨後五十五分間の短時間で四千八百余人の守備隊主力全員の収揚を完了し、旗艦「阿武隈」、軽巡「木曾」、駆逐艦「夕雲」「風雲」「秋雲」など守備隊将兵 を満載した各艦は相次いで湾内を抜錨し、湾外にて警戒中だった駆逐艦「島風」などとともに艦隊は二十八ノッ卜に増速し、全艦とも無事に北千島幌延泊地に帰投したのであった。このキスカ島からの撤退成功は、それが米軍の完全な制海、制空権下の洋上にい決行されたことからら奇跡の撤収作戦と呼ばれた。事実、一艦の喪失をもみることなく撤収作戦は完了したが、この日、同島周辺の海上封鎖にあたっていた米艦隊は、たまたま補給の必要を生じたため同島の封鎖を解き、一日間だけ同島周辺から立ち去っていたのであった。 それは、日本艦隊にとって、まさに偶然としか言えない幸運の日でもあった。そして、半月後の八月十三日、日本軍守備隊の撤収を知らなかった米軍上陸部隊二万九千人は、総計九十余隻の大艦船群によって同島の海上を完全に封鎖、包囲したうえ、もぬけのからとなった島内に猛烈な艦砲射撃と爆弾の雨を降らせながら上陸を開始した。その結果は、濃霧による識別不能下の丘陵前進に際して、味方同士の誤射を繰り返し、ついに百人を超える戦死、傷者をみた後、ようやくに日本軍守備隊の撤収後であることを知ったのであった。 駆逐艦「長波」の乗組貝、溝口吉政上等水兵によれば、このような奇跡の撤退作戦といわれ、第五艦隊司令部が異常なまでの緊張感に支配され続けたキスカ撤退作戦ではあったが、彼自身は「それほどの突きつめた気持ちではなかった」という。溝口上等水兵の乗艦「長波」は同作戦に先立つ南太平洋の戦域において、日米両軍が死力をつくしての攻防を展開していたガダルカナル島戦に、兵員、糧秣の補給などに前後十三回も出撃し、その後、内地に帰投して艦の破損個所の大修理を終えた直後、こんどは、南太平洋とは正反極のベーリング海洋上に浮かぶアリューシャン列島への出撃命令に接し、キスカ島守備隊の収揚作戦にあたったのであった。 溝口上等水兵は「自分の本来の任務は水測であったが、北千島幌筵泊地を出撃の寸前、対空火器の強化指示を命じられ、大急ぎで陸軍の軽機二門を艦橋の上に装備し、自分は対空戦闘兼見張員としてキスカ島に向かった。そして、航行の途中、濃霧のため三重衝突をみた駆逐艦のうちの一艦は自分たちの『長波』で、艦尾を破損する被害ではあったが、航行可能なため、そのままキスカ島へ直航することになった」という。 「そうして、七月二十二日の出港後、七日目の二十九日、艦隊は濃霧のキスカ島に接近したが、このとき『長波』は守備隊収揚艦の近くで警戒にあたることを命じられていたため、湾内を遊弋していた。このとき、わずかに薄れかけた海霧のかなたに自分は突然、真っ黄色な……それは、内地でみる菜の花畑のような光景を発見した。この黄色の花は湾口から背後の丘陵地一帯を埋めつくすように咲いており、自分は『こんな極寒の地にも、こんな美しい花か咲くのか』と不思議に思いながらわれを忘れて望遠鏡をのぞき込んでいた。その直後、自分は背中を思い切りどやしつけられた。振り返ってみると航海長の仁王様のような顔があった」。 南太平洋の歴戦の一水兵は、警戒艦「長波」の艦上にあって、異国の名も知らない花をみつめていたひとときを、いまもなお、一編の詩情として、その脳裏に刻んでいる、という。ただ、彼の乗艦「長波」は、同作戦の終了した直後、幌筵泊地から舞鶴港に向かい、濃霧の海上で発生した三重衝突の際の艦尾の被損個所の修理を受けることになった。 玉砕が相次いだ--
問うのも馬鹿馬鹿しいかも知れないが、少しだけ取り上げてみると、 |
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