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そら知らなんだ

智恩寺と普甲寺
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -95-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
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少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上タイムリミット上言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

智恩寺(文殊堂)



天橋立の南側入口にある寺院で、文殊さんと言えば知らぬ人はなかろうと思われる。臨済宗妙心寺派。山号は天橋山。正門は南面する。本尊が文殊菩薩であることから、五台山(山西省忻州市五台県にある古くからの霊山。標高3,058m。台状の五峰からなる華北の最高峰、仏教では、峨眉山・天台山とともに中国仏教の三大霊場の一。文殊菩薩の住む清涼山とされ聖地として、古くから信仰を集めている。別名は清涼山。ユネスコ世界遺産(文化遺産)。中国国家級風景名勝区、中国の5A級観光地)という山号を通称する。一説に中国五台山の文殊菩薩を勧請したとも伝える。日本三文殊の1つといわれ通称「切戸文殊堂」「九世戸文殊堂」という。
「拾芥抄」に「智恩寺 丹後九世ノ戸、文殊天竜、六斎供灯明云々」とみえる。九世戸文殊として早くから知られ、中世にはお伽草子の「梵天国」に、京都清水寺の観音の霊験で生れた主人公が智恩寺の文殊に、その妻が成相寺の観音になったという話を記す。謡曲「九世戸」「丹後物狂」などにも取り上げられ、「丹後物狂」ではシテが名乗りとして
 かやうに候ふ者は丹後の国白糸の浜に岩井の某と申
 す者にて候、われ久しく子を持たず候ふ間、橋立の
 文殊に一七日参籠申し、祈誓仕りて候へば、ある夜
 のこ霊夢に、松の枝に花を添へて賜はると見て、程
 なく男子を設けて候、
と述べ、その霊験が知られる。
創建は、大同3年(908)平城天皇が天の橋立に行幸され、霊夢に感じて勅願により建立されたと寺伝はいう。山号・寺号は、延喜4年(904)に醍醐天皇の勅により付され、その勅額と称するものが伝えられる。勅願所となって、文殊会料の荘田寄進があった。平安期には丹後国司藤原昌保や平重盛が文殊堂などの堂宇修覆にあたったと伝えられる。真言宗寺院であったと推測されるが詳細は未詳。禅宗寺院化は南北朝期嵩山居中(大本禅師)入寺が契機となったようである。足利義満・義持,細川幽斎・三斎などの保護を得たほか、丹後国田数帳に与謝郡に九世戸二町三六歩、「石河庄」のうちに九世戸御免が二町、「稲富保」内に九世戸四段、「大仏寺」の一町を九世戸御免と、計五町四段三六歩の寺領をあげている。なお現与謝郡野田川町字石川に九世戸の地名が残る。
足利義満も至徳3年(1386)から応永14年(1407)に至る約20年間に6回もこの地を訪れている(「東寺王代記」「教書卿記」)。
永禄12年(1569)閏五月京都を立った連歌師紹巴は「天橋立紀行」の6月23日条に
 戒岩寺を過て宮づと云村より文珠堂に入了、院主出
 むかひて、寺前の潮をくませて焼ける風呂に入、夕
 すゞみにながめくらし、二十四日払暁より天橋立の
 きれどをわたり、府中など一見して帰寺畢、文珠縁
 起拝聞、天神七代地神二代正哉吾勝々速日天忍穂耳
 尊之時に向臨之九世戸と云々、天浮橋の事などおも
 ひあはせらる、
と記す。江戸時代の様子については文化11年(1824)8月13日配札と修行の途次、当地を通った野田泉光院が「日本九峰修行日記」に「九世戸の文殊へ着、本堂八間四面、納経す、楼門あり、門前茶屋多し、和泉式部三角五輪石塔あり、大寺也」と記す。
門前は賑わって、「丹哥府志」に「毎年六月廿五日は文殊の会式なり、其前夜は出船とて通夜参詣の人あり、又往来の人々互に悪口を語る前々の習なり」とその祭礼の賑いを述ベる。現在1月10日の戎祭、7月24四日の出船の祭が行われているが、江戸時代の戎祭には賭場が開帳され、また近辺に新浜遊郭もあった。

境内にある柿葺二間の多宝塔(国重文)は寺伝で明応9年(1500)丹後国府中城主延永修理之進春信建立と伝えられてきたが、大正期の修理の際、「明応九年三月釿始 同七月十九日立柱」の墨書の発見などで史料的に確証された。
近世には宮津藩主歴代の保護を得た。寺領50石、末寺25か寺、塔頭(子院・小院)は久昌院・本光院・寿昌院・対潮庵・心月院の5院庵を数え、本堂(文殊堂)・鐘楼・山門・方丈・経蔵・地蔵堂・観音堂・多宝塔・衆寮などの諸堂宇完備の寺観を呈している。
寺格は乗輿免許5か寺の1寺に入り、御目見は第3番目であった。寺勢興隆は京極高広に依るところが多く、寛永(1624~44)年中、別源禅師を招請し中興開山としている。第2世住持南宗和尚が明暦(1655~58)年中に文殊堂修理を行ったのをはじめ、8世完道和尚、10世蘭渓和尚など諸堂宇修理に尽力し寺観を保った。
現存の建物のうちで、本堂に相当する文殊堂は明暦年中および宝暦(1751~64)年中の江戸期に修理を経たと伝える。内陣中央の「神建の柱」と称する四本柱や天井は室町初期を下らぬ古いものであるが、全体的には江戸初・中期頃の建築物である。本堂には多彩な絵馬がかかる。正徳5年(1715)義士討入の絵、この地方で盛んであった俳諧・和歌の額、和算・砲術などの奉納額、千石船の模造の船絵馬などもある。そのうち和算の奉納額は文政元年(1818)の加悦町の佐々木竜景門人の新井(伊根町)住石倉浅治郎、同12年の後野村(加悦町)広瀬儀光、天保8年(1837)の宮津藩小笠原長荘・新井正表書の3点である。絵馬は庫裏にも掲げられ、そのうち板地幸色の酒屋絵馬は寛文9年(1669)に宮津の住人25人が奉納したもので、1つの画面を上下二段に分けて酒の製造工程と店の繁栄の様子を措いている。

山門は「黄金閣」と称して、明和4年(1767)の再建、方丈は天保(1830~44)年間再建で、上間の床板は「一分七目の松」と称され、天の橋立公園を領有していた時期(明治維新まで)、その松を建材として用いたものである。庫裏は寛政11年(1799)改築、楼門は「暁雲閣」と称し享保(1716~36)年間再建、鐘楼は明治14年再建。無相堂は寛永年中、鎮守堂は嘉永(1848~54)年中の再建と伝える。
木造文殊菩薩と脇侍善財童子・優・王像三躯と金鼓一口は重要文化財。青銅で径50・9センチ、厚さ9・7センチ。鰐口とよばれるもので、側面に「至治二年壬戌十月十六日、海州首陽山葵師寺禁□造成棟梁道人守理(中略)伏願皇帝万々歳」の刻銘がある。至治二年(1322)は元の年号で朝鮮高麗王朝の9年である。智恩寺には大陸(元)渡来の仏画二幅もあり、ともに丹後の文化を考える上で貴重。
そのほか、鉄造湯船は上端径173センチ、高さ63・5センチで、内側銘によって願主物部家重、山川貞清鋳造と知れる。もと興法寺(弥栄町)にあったもので、成相寺にある同型湯船とともに貴重である。また等身石造地蔵が2躯あって、1は応永34年(1427)九月一四日丹波郡三重郷(大宮町)大江越中守永松寄進、1は、水享4年(1432)沙弥祐長寄進である。同じく等身阿弥陀石仏が1躯、嘉吉元年(1441)の刻銘がある。丹後に特有の板碑は国人佐野備前夫妻の文明16年(1484)供養碑、明応3年(1494)逆修碑をはじめとして多数がある。鉄砲の名人、もと弓木城(岩滝町)城主稲富伊賀守供養碑(施主京極高知)、俳諧の武人斎藤徳元の墓碑など、この地方の歴史を物語るものが多い。
境内にはそのほか和泉式部歌塚と伝える鎌倉期の石造宝篋印塔があり、明応(1492~1501)頃、山門より600メートルほど南にある鶏塚から掘り出したという。マリア燈籠と称する織部燈籠。海岸にたつ「智恵の輪」は、かつて航海安全の輪灯籠であったと伝える。
智恩寺文書には細川藤孝・忠興の検地・禁制などの文書をはじめ歴代宮津藩主の折紙、九世戸智恩寺幹縁疏(文明18年)1巻ほか寺史を語る多くの文書が含まれている。絵画も多いがなかに大陸渡来(元時代)の絹本著色釈迦三尊像(一幅)、同地蔵菩薩像一幅などは注目される。工芸品には藤原時代の古鏡その他がある。

智恩寺の近辺には、文殊菩薩の乗る獅子にちなんだ獅子崎(しいざき)獅子(ちし)、文殊奥院と称する戒岩寺、文殊菩薩化現のとき乗っていた雲が化したという岩のある雲岩寺(野田川町)、文殊菩薩が最初の示現地である経ケ岬から、九世戸に移る途中に一時滞在したという穴文殊の洞穴(丹後町)など、文殊信仰に関する伝承も多い。

『丹哥府志』
【五台山智恩禅寺】(臨済宗、寺領五十石、塔頭五院、末寺廿ケ寺)
寺記云。五台山智恩禅寺は其始を詳にせず、抑山を五台と號し智恩と称するは延喜皇帝より始まる、文珠堂に掛たる智恩寺の扁額は則、皇帝の宸筆なり、是以延喜皇帝を中興の開基と称す。文珠堂の聯云。天一地一忍穂尊創久志渡基。前三後三延喜帝賜智恩寺額。蓋是其大槧を掲示するなり。是より後殆一百年を経て藤原保昌本邦の刺史となる、是時再び伽藍を重修せり。保昌の後殆二百年小松重盛又伽藍を重修す。其後将軍足利義持公親ら文珠堂に参詣して白銀若干を賜ふ蓋重修の為なり、其時一族一色氏本邦の刺史なり、一色氏の次に細川侯、細川侯の次に京極侯、是より代々伽藍を重修して今に至る。蓋享保明暦寛政以上三度是時の重修には、今上皇帝より黄金を賜ふ、伝奏の書今に存す、是山門の黄金閣と称する所以なりといふ。之の正面に仏殿あり、所謂文珠堂是なり、本尊文珠菩薩は帝釈化人の作なり、額智恩寺の三字は延喜皇帝の賜ふ處なり、一の額に五台山といふは隠元禅師の筆なり、堂の内に掛たる聯は前に所謂天一地一前三後三なり、又一の聯に天橋架起五台山龍女献珠擁護神代降臨七仏祖獅王?足?叫とあり、化僧無染之ょ書す。仏殿の後に法堂あり、法堂の東に方丈あり、方丈の次に食堂あり、食堂の次に衆寮あり、衆寮の前に鐘楼門あり、暁雲閣といふ。暁雲閣の左に東司あり、東司の次に禅堂あり、次に久昌庵、次に本光庵、次に寿昌庵、次に寂定門、額の文字は悦山の筆なり、次に観音堂以上仏殿の東に連り山門の前に至る仏殿の西に無相堂、次に塔宝、次に鉄磐、鉄磐の大サ六尺四方内に銘あり今僅に正徳三年の四字をよむ、俗に鬼の椀といふ、泉を引て毎に溢る其水の清き実に掬するに堪へたり。鉄磐の次に経蔵あり、額に標月指の三字を題す、即非の筆、経蔵の次に二重の塔あり、明応三年府中城主延永修理進是を建つ、以上仏殿の西に連り山門に至る。仏殿正面に石灯篭一対京極侯之を建つ。其前に又石灯篭一対蓋是喬松院殿の建る所なり。石灯篭の前に松樹道を挟て左右に各二株、松樹より山門に至るすでに卅間余、山門の額に海上禅叢の四字あり、園大納言の書する所なり、樓上に十六羅漢を安置す。其正面の額に黄金閣の三字を題す、九条尚実公の書なり、是より以前に末国開先の四字額に題してありしよし、末国開先は国末開先の心なり文字の顛倒却古代を想するに足る。山門の前東の方に下馬札あり、凡境内南鶏塚より北江尻村に至る凡卅六町、西穴憂の里に至る廿九町。毎年六月廿五日は文珠の会式なり、其前夜は出船とて通夜参詣の人あり、又往来の人々互に悪口を語る前々の習なり。
宝蔵目録 …

普甲寺

普甲峠の大江山スキー場跡の脇から辛皮、大俣方面へ1㎞ばかり下る。

林道沿いにある弁天堂↑  右の道を50メートルばかり行けば普賢堂↓

その前の駐車場?に礎石が4つ、仁王門跡とか


これが普甲寺(ふこうじ)跡で、宮津市字小田の寺屋敷という5軒ばかりの集落があり、水田もある。平安時代創建の寺院跡で、今は寂れて弁天堂と普賢堂のみが建ち、普賢堂の前には仁王門の礎石が残る。
案内板に
普賢堂(普甲寺跡)
 普甲寺は、平安時代、延喜年中(九〇一~九二三)の建立で、普賢菩薩を本尊とし、本願は美世上人とされています。
 その後幾多の戦火により焼失し、その跡に普賢堂が建立されました。
 江戸時代中期、貝原益軒は『丹後与謝海名勝略記』享保十一年(一七二六)に、「普甲寺の旧跡あり これ普賢の道場にして」「今辻堂のようなり 普賢堂」と記しています。
 普賢堂の建つ場所には、建物の礎石と思われる石列が巡っており普賢寺を偲ぶものとなっています。当地では「ふげんさん」として親しまれています。
夜も昼も京へ、丹後へと険しい山路を超える旅人の無事を祈る普賢堂の御詠歌
よるもひも やまじを
   こえる もろ人の
 只 無事なれと 祈るなりれり
淵滝山 法光寺
上宮津・杉山エコ・ガイドの会
令和四年十月
平和堂財団環境保令活動助成事業

『宮津市史』に、
普甲寺の創建
宮津の南に聳える普甲山の中腹に、かつて普甲寺という大寺が存在していた。今日はわずかに遺跡を残すのみであるが、中世には京都にも知られた大寺院であった。
 鳥羽院政期にあたる天養元年(1144)に橘忠兼が編纂した、我が国最初の国語辞典とされる「伊呂波字類抄』の「諸寺」にも、「普甲寺」の項目がある。これによると、同寺は延喜年中に建立されたと記されている。また、鎌倉中期成立の有職故実書『拾芥抄』には、普甲寺の本願を美世上人としている。したがって、普甲寺は10世紀初頭に美世上人が建立した寺ということになる。ただ、残念ながら美世上人の生没年はもちろん、詳細な事績も不明確で、普甲寺創建の経緯も知ることはできない。
 『沙石集』には、極楽往生・聖衆の来迎を祈る「鳧鴨」(普甲)の上人の記事が見える。これによると、上人は正月の祝い事として小僧を極楽の使者に見立て、天の橋立で極楽からの書状を受け取る儀式をおこなっていたところ、それを知った国司から装束の寄付等を受け、迎講と名付けられて盛大な儀式となったという説話がある。
 第三節で後述するように、迎講は10世紀末に僧寛印がかの恵心僧都源信に学んで創始したとされている。しかし、「沙石集」の説話によると、源信より古い段階で、普甲寺において独自に迎講の原型が成立していたことになる。『沙石集』に登場する上人を美世とは断定できないが、寛印が普甲寺で迎講をおこなった背景に、同寺における浄土信仰や迎講の原型の存在が関係していた可能性は高い。
 なお、『沙石集』と同様の説話を『今昔物語集』は11世紀半ばに丹後守に就任した大江清定の時期とするが、源信の時代よりはるかに下るため、独自に迎講が創始された時期としては遅すぎる。
一方、説話集『古事談』には、つねに大般若経を虚読(そらよみ、暗唱)していた同寺の僧が経典の罰を受けたという説話がある。僧が経を読まないことから、無視された経典の怒りによって、憎の目が飛び出して経典に付着したという荒唐無稽な内容であるが、京の貴族たちが普甲寺に強い関心を抱いていたことの証拠といえる。
 この時期の仏教関係の出来事としては、延喜三年六月、山城・摂津以下一○か国とともに、丹後にも国読師が設置されている。国読師は僧侶の役職で、国講師に次ぐ地位に相当し、国司や講師とともに国分寺や国内諸寺を統括する役職であった。当時、正式の補任がおこなわれず国分寺僧が代行していたが、彼らの資質や修学の僧にしかるべき役職が与えられないことが問題となり、読師が任命されたという。
 先述の三善清行の意見封事では、諸国講読師をはじめ、国分寺僧等の資質の低下が問題視されているが、丹後でも有能な読師を任命して、寺院や僧侶にたいする監督を強めようとしたものと考えられる。


 平安時代の初めごろ、舞鶴市大浦半島の医王山多祢寺の中興開山・寄世上人が、普甲山に一寺を建てて、これを普甲寺としたという。
どれほどの規模であり、伽藍であったかは明かでないが、古老たちの伝承では一山六十余ヶ寺ともいい、あるいは百ヶ寺ともいい、中世は南の紀州高野山に対して北の高野山とまで喧伝されたともいわれた盛時があったともいう。

創立は延喜年中(901~923)とみられ、僧・美世(寄世)が、普甲寺を建立したと伝わる。
『伊呂波字類抄』に、
普甲寺、延喜年中建立

『拾芥抄』に、
普甲 普賢、本願美世上人、

『沙石集』に、
迎講事
 丹後国鳧鴨(ふかふ)と云所に、(美世)上人有けり、極楽の往生を願て、万事を捨て臨終正念の事を思ひ、聖衆来迎の儀をぞ願ひける、せめても志を休んとて、世間の人は正月の初は、思願ふ事、いわひ事にする習なれば、我もいわひ事せんと思て、大晦日の夜、一人つかふ小法師に状を書てとらせけり、「此状をもて、明朝元日に門を叩きて、「物申さん」といへ、「ゐづくより」と間ば、「極楽より阿弥陀仏の御使也、御文候」とて、此状を我に与へよ」と云て、外へやりぬ、上人の教の如に云て、門を叩きて、約束の如く問答す、此状を、いそぎあはてさわぎ、はだしにて出で、請取、頂戴してよみけり、「裟婆世界は衆苦充満の国也、早厭離して、念仏修善勤行して我国に来るべし、我聖衆と共に来迎すべし」とよみつ、さめほろと泣泣する事、毎年に不れ怠、其国の国司下りて、人々国の事物語けるついでに、斯る上人あるよし人申けるを国司聞て、随喜しつゝ、上人に対面して、「何事にても仰を承りて結縁可れ申」と、被れ申けれども、「遁世の身にて侍り、別の所望なし」と、返事せられけれども、「事こそかはれども、人の身には必要ある事なり」卜、しゐて被れ申ければ、「迎講卜名て、聖衆の来迎のよそをゐして、心をもなぐさめ、臨終のならしにもせばやと思事侍り」と被れ申けれは、仏菩薩の装束等、上人の所望に随て調じてぞ被れ送ける、さて聖衆来迎の儀式の臨終の作法なむと年久ならして、思の如く臨終の時も来迎の儀にて、終り目出かりけり、これを迎講の始と云へり、あまのはしだてにて始めたりとも云、又恵心僧都の脇足の上にて、箸ををりて、仏の来迎とて、ひきよせひきよせして、案じ始給たりと云侍り、実に物にすき、其道を始む人は、寝寐も其事に心をそむべし、「習さきよりあらずは、懐念いづくんぞ存せん」といへり、よくよくならすべきは、臨終正念の大事也、然二世の人往生を願ふやうなれども、朝夕しならひ、思なす事は、流転生死の妄業なり、正念現尊の儀したうべきをや、

『古事談』に、 
丹後ノ国ノ僧、大般若虚読ノ罰ヲ受クル事

丹後国普甲と云山寺の住僧、大般若虚読を好而為業、已経年序畢、或時手披経巻虚読之間、後頭をつよく被殴とおぼゆるほどに、両眼抜て付経巻之面云々、件眼ひつきたる経は于今在彼寺云々、

「黄薇古簡集」に収める貞治4年(1365)2月日付の文書に、
普甲寺 金堂
   奉安置教主世尊涅槃仏像壱鋪
 夫以開法随喜之結縁者、併為済渡苦海舟、一乗無二
 之値遇者、偏報土得生直路也、然者帰遺勅之金言、
 而擬十号之即身、渇仰綵面尊像、号観四八相之粧、
 何不為当来之資量、豈無報恩謝徳之思慮哉、依茲励
 自他筋力、令然形像図絵之功、縦雖為芥爾毛端之作
 善、哀愍求願之懇志、令垂冥助給、仰願酬仏果広海
 四恩、法界速疾頓成無差平等利益、敬白、
    貞治四年乙巳二月 日 金剛仏子性盛敬白
  大絵師洛陽住中務丞、于時道号常調、
金剛仏子性盛なるものが金堂に涅槃像を安置したことが知られる、という。

普甲山の南側斜面になり、丹後国田数帳では、所在を加佐郡に入れて、一四町九段余のうち当知行は五町三段で九町六段余はすでに不知行としている。そのほか与謝郡石河庄に四町三段御免地、丹波郡末次保のうち一町七段余、久延保一町三段余、光武保のうち八段余、以上合計知行分で一三町四段余に及んでいる。

その後この一帯は戦場となった。『宮津府志』が記すところによれば、応仁元年の頃より数度の大乱により焼失している。
応仁3年4月1日の丹後一色義直殿と若州武田殿内逸見殿の合戦、
明応7年5月27・8・9日の丹州殿と若狭殿の合戦、
永正3年7月31日の丹州義有殿と若州元信殿の合戦、
同4年6月27日の丹州義有殿と若州方葛西殿の合戦、
天文16年2月6日の丹州義幸殿と若州元光殿の合戦、
同11年2月又々丹州殿と若州殿合戦。
数度の戦乱に堂塔ことごとくみな焼失して、いまもあるのは普賢堂と弁天堂、二王門の跡と、道筋が数多くあるのみという。

この後の普甲寺については『丹哥府志』は、
【普甲寺】元亀二年将軍信長故あって延暦寺を焚焼して将に余類なからしめんとす、於是住僧遁て西岩倉及善峯寺に匿る。将軍信長之を追て又西岩倉善峯寺を焼く、是以住僧都下に匿ること能はず、遂に丹後普甲寺に遁る将軍信長其丹後に遁ると聞てよって又人を丹後に遣し普甲寺を焼く。是時普甲寺廃寺となる。其伽藍の跡なりとて礎石尚残る、今ある所は僅に普賢堂のみ。西岩倉及善峯寺は元禄の頃大に伽藍を全修す、故あって吾祖先之を知るよって話説家に残る、事は祖先の常州笠間に在し頃なり。今惜むらくは既に丹後に移て後其事あらば当に普甲寺も西朝倉及善峯寺の如くなるべし。

「宮津府志」の普甲山の項に「古へ普甲寺とて大刹有り、それゆゑ山をも普甲と名付けしと云読も見えたり」とみえ、また「丹後与謝海図誌」には
嶺に宮津より二里の碑あり、其東に普甲寺の旧跡あり、是れ普賢の道場にして、開山は棄世上人といふ、今辻堂のやうなり、普賢堂あり、荊棘生ひて路も断、尋る人もまれなり

『舞鶴市民新聞』
*松本節子の舞鶴・文化財めぐり〈146〉*「栃葉観音堂」その2普甲寺跡をたずねて*普賢堂裏の土中から金銅仏*中世の往来しのばす坂碑や石仏*
…ここが寺屋敷です。
 車をおりて、とある家の裏手の森をめあてにのぼると一堂があり、草焼きの煙にみちびかれて、地元の方にお会いすることができました。
 吉田種作さんといわれるこの方から、普甲寺についてきくことができました。
 吉田さんのお父さんが、昭和二年の八月に、この普賢堂裏から土を採ろうとして、坂道のかたわらを掘っていて金銅仏を発見されました。
 この仏像は、像高十八・五㌢㍍の如来立像で、奈良時代のものとされ、現在は、国立東京博物館に保存されています。
 普賢堂の森を中心に、現在は田畑になっている周囲の段に、それぞれ堂宇がたち、普甲寺の七堂伽藍があったと言い伝えられています。現在は、この普賢堂とその西の弁財堂だけがのこり、森の前の広場にたつ稲木の付近には、かつて、山門があったといわれ、礎石だけがのこっていました。
 その下を通る舗装道をそれて旧普甲峠の一部が残っています。
 それらしい杉の大木のかたわらには、古い形式の板碑や石仏が二十六基。訪れる人もない熊笹におおわれたこの道が、かつて、日本海と由良川周辺を結ぶ重要な道であったことを語りかけていました。
 栃葉観音堂から東へ、元普甲道は、大俣(おおまた)から小俣への分岐点で山をおり、桧(ひのき)川にそって地頭へ出たものと思われ、小俣には、普甲谷干田、普甲谷ナワテ、普甲谷口、普甲谷廻りフチなど、普甲と名のつく小字名が三十六ものこっています。

『丹後旧事記』
普甲山。延喜式神名帳に與佐郡布甲神社と云を載たり今此社定らならず又元亨釈書に普甲寺と云ふ伽藍有て慈雲と云ふ高僧の住けるよし此故に普甲山と呼ぶ、慶長五年京極修理大夫高知入国の砌不幸音をいみて千歳峠と改むべしと令ありしとかや天橋記に此山を與佐の大山といふ名所と記せり。帝都より南麓内宮村迄廿四里あり山陰道往来の大道なり夫より峯まで二里此間に二瀬川あり左の方に千丈ケ嶽鬼の窟あり又峯に宮津より二里の建石あり其東の山中に普甲寺の伽藍の旧跡あり是普賢の道場にして開山は棄世上人といふ今も小さき普賢堂あり又砂石集に丹後国普甲寺といふ昔尊上人ありと云々棄世上人は愚中興 集に見えたり。俚俗の云伝へしに普甲山は大伽藍にて荘田貮万石あり今に関東には普甲寺旧跡の地ありと也與佐の大山といふ事は歌所の部に記す。

『丹後の宮津』
歴史の大江山
 この大江山は、なんといっても大丹波時代はもちろん、丹後の国ができてからも、奈良や京都からの難所であった。そこで「あまのはしだて」のほとり、府中の国府へ通ずる公の国道は、赤石ヶ嶽と千丈ヶ獄との中間鞍部を山河へ、そして大江山の加悦谷がわ山すそを桑飼・石川の村々をへて、堂谷から石田へ、石田から板列の弓木・岩滝・男山を府中へといそいだものであった。だが、そうした大むかしでも、公の国道ばかりでなく、近くて通りやすく、それが便利であるなら、やはり準国道といった道も早くからひらけた。それは大江山の東、普甲山と大山といわれた杉山との鞍部を越す道、すなわち現に「元普甲」といわれる道がひらかれたのであった。
  待人は行きとまりつゝあぢきなく年のみ渡る与佐の大山   和泉式部
 ところがそうした上代では、道がひらかれることは、当時としては同時に古代仏教がひろまることであった。いまは跡かたもないが山河の根本寺、普甲山の普甲寺などがそれであり、それより以前にはすでに府中に天平の国分寺があり、また成相寺や文殊智恩寺もひらかれたであろう。そこで、山河の根本寺のことはほとんど不明であるが、菩甲寺についてはなお盛んであった往時を想像させる資料もあり、ことにその創建が平安の初期、延暦年間の開山だという寺伝は、多少の相違があっても、大きなズレはないであろうから、大江山の歴史からいえば、その関係はもっとも早かったといえる。こうした実状にそえて、普甲山には旧式内・布甲神社があったことが明かであるから、普甲山道の重要性も考えてよい。もっとも山河から下へおりた加悦谷には、大虫・小虫神社をはじめ、物部神社・矢田部神社などのあることも、また国道筋の当然なすがたであろう。
普甲寺址にたつ
 以上のようなことを頭にえがきつゝ、バスで普甲峠へ、その道々、右左の窓に送迎する宮津谷のながめは、頂上にちかづくほどすばらしい。やがて峠の頂点でバスをおり、とりあえず目の前の大江山スキー場へ足をむける。スキー時はもちろんであるが、春から秋へかけてのここからのながめは、まことに雄大である。ことに宮津湾の方よりも、遠く丹波の山々をはじめ、京都の愛宕山までを一望のうちにおさめることは、まったくここならではの景観であるし、もし十月の末から十一月にかけての季節であれば、四囲の山々が、それぞれに紅葉して、まことに目のさめる思いがする。スキー場から寺屋敷への道を約六百メートル、そこにいま見る堂宇はわずかに普賢堂と弁財天堂がさびしく建つにすぎないが、しかし現に本堂という地名のあたりから、その前庭の草むらの中には、そのむかしの礎石がいまもならび、盛んであった往時を回顧するに十分である。この寺屋敷には現在八戸の民家があって、かっての寺々のあとを水田に畑に、苦しい生活がつずけられているが、その田畑からは時に思いもそめぬ古仏像や仏具が出土し、いまも京都博物館や個人の手に保存されている。ここが現在のように荒廃したのは、すでに四百年のむかしからで、それはあの信長が比叡山を焼いた元亀二年九月(一五七一)、 山僧の一部が岩倉の善峯寺と、丹後の普甲寺へにげこんだときゝ、たちまち兵を派遣して善峯寺を焼き、またここ普甲寺も焼いてしまった。その後、善峯寺は復興されたが、普甲寺はふたたび元の姿にはもどらず、今日まで普賢道場の跡として、一般に寺屋敷といわれてきたのである。さらにこの山の歴史をみると、足利の時代に丹後守護の一色氏は、但馬の山名、若狭の武田などから再三攻撃され、その最後はいつもこの普甲寺山に拠って敵をようやく喰い止めたのであった。その攻防の戦いに死んだ多くの武将たちが、山中のそこここに葬られたものか、いまもスキー場附近の「五輪ヶ尾」という山には、文明(一四六九)から永正(一五二○)にかけての五輪の墓石が散乱し、そのたたかいのはげしさをしのばせている。あの俳人一茶が「おらが春」の巻頭に「普甲寺の上人」という物語を書いてもいるが、その盛時には一山六十ヶ寺といゝ、寺領も丹後・丹波はもとより、関東にさえあったと伝えるここ普甲寺址にたって、いまなお残る多くの遣蹟を思うとき、歴史の流れのきびしさを、かぎりなく味わうことができるのである。

『上宮津村史』
大江山および布甲山の歴史と伝説
普甲寺
伝えるところでは平安時代の初めごろ、加佐郡医王山多祢寺の中興開山として、すでに朝廷にも知られたという寄世上人が、奥丹後路から平安京への交通上の要衝難関である布甲山に一寺を建てて、これを普甲寺としたことはすでに記した通りである。この寺が当初どれほどの規模であり、伽藍であったかは一切明かでないが、古老たちの伝承では一山六十余ヶ寺といい、あるいは百ヶ寺ともいい、中世は南の紀州高野山に対して北の高野山とまで喧伝されたともいわれた盛時があったというのである。事実はともかくとして、こうした伝承を幾分か裏書する資料としては、成相寺所蔵重要文化財「注進丹後国諸庄郷保惣田数帳目録」の加佐郡分に-
 一、普 甲 寺  十四町九段三百四歩内
同じく与謝郡分に
  一、石 河 圧
     二町九段         普甲寺御免
     一町四段         同寺内御免
さらに丹波郡(中郡)にも
  一、末 次 保
     一町七段二十五歩     普 甲 寺
  一、久 延 保
     一町三段百四十六歩    普 甲 寺
  一、光 武 保
     八段七十四歩      普 甲 寺
また別に与謝郡分に
     八町一段二百四十五歩(五ヵ所)普甲寺
などがあり、伝えるところでは関東方面にも寺領があったともいうから、これが鎌倉期から室町中期ごろまでの実状と仮定して、当地方では狭谷山成相寺にも匹敵する大寺であったといえよう。
 そこでこの奇世上人がいかなる人物であったか、現在では前記の加佐郡医王山多祢寺に伝えられる寺伝「縁起」によるほかないが、即ちこの「縁起」には-
 丹後州加佐郡白久荘医王山多禰寺者密教嗣統之霊場而本朝人皇三十一代用明天皇即位二年王子麻呂子創草之地也-云々
といい、麻呂子王子は鬼賊が与謝郡(加佐郡)河守荘三上之山に拠って庶民を害するので、勅命により討伐に下ったのであるが、これが神仏の霊力によって勝利をえたので、王子の報謝のために七仏薬師を鋳て、これを丹州七ヶ所に勧請、その一がここ多祢寺であるというのである。その以後の約二百年間、多祢寺は荒廃にすぎ、当時塔頭寂静院の僧寄世はこの有様をいたく嘆いていたのであった。時あたかも延暦元年(七八二)にあたり、そこで前記「縁起」は続けて-
 然後当于桓武天皇之御寓歴百九十六年而有奇世上人住此山僧中之肉麟也襄密法之玄奥住于寂静院嘆及殿宇朽廃消居諸于時延暦元 年壬戊五月天皇聖体有悩焉此時撰効験之明師於四海而皇詔遥降奇世上人也抽丹襄符薬師之神咒而奉三密之香水則叡襟忽快失於是 上人之雄名震雲上故得帝力之余祐而山中再復旧観無是以為当山之中興也-云々
と記し、これ以上に寄世上人の何者であり、いかなる素性の僧であるかにふれない。麻呂子王子と丹後の鬼賊退治のことは他に諸説があり、多祢寺が果して王子麻呂子の創草であるかどうかは別として、ここに中興開山という寄世上人こそ、今日の多祢寺の開山であり、この僧がまた布甲山普甲寺創建のため、当時の朝廷の余力をえたことも、想像しうるところである。
 ところが多祢寺に一山の鎮守として勧請する熊野権現社が、実は中尊権現として象に乗る普賢菩薩であって、普甲寺の本尊がまた元来普賢菩薩として、世に「普賢の道場」と喧伝され、同じ布甲山に祀られたと伝える延喜式内社「布甲神社」が、その普賢菩薩と神徳を同じくする「天之吹男命」、 もしくは「大直毘之命」といって、いずれも福徳を司る神であると伝え、いわゆる仏家の本地垂跡説によったのではないかとも考えられ、ここに布甲神社と普甲寺の密接なる関係が想像される。…


布甲神社(与謝郡式内社)


布甲(ふこう)神社はどこに
 普甲山にあったとされる神社。跡地は確定できない。
「宮津市志」の普甲山の項に
 又延喜式神名帳に当国与謝郡に布甲神社と云ふをのせたり、此社今さだかならず、若此辺に在て山の名によりて社を名付しにや、神名によりて山を呼しか
「丹後国式内神社取調書」 に引く丹後国式内神社考は
 普甲峠の中間に普甲寺の跡あり、夫より少し隔りて 鳥居あり、普甲神社なる事疑なし、されど寺は廃絶 し分散せる時、神社も何地へか遷せしなり、今之を考るに小田村の内字富久と云地の神社是なるべし、或書に布甲神社は天之吹尾命、今云温江峠を吹尾越亦吹尾峠と云、又旧記に岩窟内有風気云々、俗謂風穴云々とあるを考ふるに、吹尾峠は布甲峠の旧名なるをふかうと呼ならん、布甲と書るならん、富久の地にある社、中古来妙見と称して太しき古社なり、
現宮津市字小田の富久能(ふくの)神社であるとするのは確かとはいえない。

『宮津市史』
布甲神社 普甲山付近に存在したらしく、近世の地誌類にも普甲山に存在したとしているが、残念ながら跡地は不明である。
 普甲山には、成相寺とならんで市内の重要な山岳寺院である普甲寺が存在した。普甲寺は、平安時代創建と伝える山岳寺院で、『沙石集』の迎講の説話(一七七)の舞台と考えられているが、安土桃山時代に火災にあったとされ、現在は普賢堂、弁財天の小祠、若干の礎石、経塚が存在するにすぎない。
 また、この式内社を字小田小字宮ノ谷の富久能神社(日吉神社)に比定する考えもある。この神社はかって妙見大明神と呼ばれており、現在の本殿は天保十二年(一八四一)の建立である。
 ただ、普甲山付近に式内社が存在したことは、厳しい山道である普甲峠越(現在の宮津市と大江町あるいは舞鶴市を結ぶ山道)が、古代にさかのぼる理由の一つとなるのである。

『丹後旧事記』
布甲神社。布甲山。祭神=富久能大明神 天吹男命。延喜式竝小社。
普甲山。延喜式神名帳に與佐郡布甲神社と云を載たり今此社定らならず又元亨釈書に普甲寺と云ふ伽藍有て慈雲と云ふ高僧の住けるよし此故に普甲山と呼ぶ、慶長五年京極修理大夫高知入国の砌不幸音をいみて千歳峠と改むべしと令ありしとかや天橋記に此山を與佐の大山といふ名所と記せり。帝都より南麓内宮村迄廿四里あり山陰道往来の大道なり夫より峯まで二里此間に二瀬川あり左の方に千丈ケ嶽鬼の窟あり又峯に宮津より二里の建石あり其東の山中に普甲寺の伽藍の旧跡あり是普賢の道場にして開山は棄世上人といふ今も小さき普賢堂あり又砂石集に丹後国普甲寺といふ昔尊上人ありと云々棄世上人は愚中興 集に見えたり。俚俗の云伝へしに普甲山は大伽藍にて荘田貮万石あり今に関東には普甲寺旧跡の地ありと也與佐の大山といふ事は歌所の部に記す。

諸先人ともに見落としているようだが、フコウというのは「吹く」のことであり、吹尾の意であろう、銅を吹く、鉄を吹く尾根のことで、金属採集精錬の山であったろうという点である。
元普甲道は上宮津の金山という集落から始まるが、その金山は普甲山の別名であったのであろう。式内社や大寺院が山中にあった経済的背景は大鉱山があった、と推定する。大江山の続きであり、銅山でなかろうか。






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星の世界」       「いつくしみ深き…」(賛美歌312番)
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