日葉酢媛と朝廷別命
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 丹波の五女あるいは四女、三女、二女『古事記』『日本書紀』の記事 丹波の五女(紀)、丹波の四女、三女、二女(記)が記録されていて、その中の一人、日葉酢媛は垂仁天皇の皇后になられたと伝える。 『日本書紀』 垂仁5年、 願はくは妾が掌りし
垂仁15年に、 十五年の春二月の乙卯の朔甲子に、丹波の五の女を
秋八月の壬午の 朔に、日葉酢媛命を立てて皇后としたまふ。皇后の弟の三の女を以て妃としたまふ。唯し竹野媛のみは、形姿醜きに因りて。本土に返しつかはす。則ち其の返しつかはさるることを羞ぢて、葛野にして、自ら輿より堕ちて死りぬ。故、其の地を號けて堕國と謂ふ。今弟國と謂ふは訛れるなり。 『古事記』 (開化条)の三女と一男 (垂仁条)の二女 「汝が堅いめし美豆能小佩は誰かも解かむ。」とのりたまへば、答へて白ししく、「
(垂仁条)の四女 其の后(沙本毘売命)の白したまひし随に、美知能宇斯王の女等、比婆須比賣命、次に
伝えは史料によってバラバラ、というか同じ史料すらバラバラなので、その史実は不明としか言いようもない、いろいろとあちこちで伝えられていたものであろうか。人気のあるハナシで、伝説のように語り継がれていたのでなかろうか。 だいたいこうした場合は、一番少ないのが本当かも知れない、あとはハナシのオヒレの部分になろうか。 しかし、日葉酢媛(比婆須比売)が垂仁大王の奥様となられたことは間違いはない。 (イラストは、『丹後王国物語』より、勝手に拝借させてもらったもの) 垂仁というのは奈良時代に作られた漢字二字の漢風 片目片足だからもともとは金属精錬の神様なのであろう、妖怪に零落した姿しかワレラは知らないが、元々はエライ神様であったものであろう。 垂仁のあたりに金属関係の来歴がまとめられているような感じである。誉津別命や鳥取の物語とか、都怒我阿羅斯等・天日槍とか、丹後のマスの先進金属技術王国のお姫様とか、この時代(3世紀後半から4世紀前半ごろ)金属文化はじめ先進技術の重要性に気づきそれを取り入れようとした、革命的な大王であったのかも知れない。垂仁は紀では140歳、記では153歳生きたという。 垂仁に嫁いだ姫は丹波の何人だったのか文献上ではわからないが、たぶん二女かも知れない、 ずっと後の史料になるが『丹哥府志』に、 岩木村【磐撞別命】垂仁天皇の皇子磐撞別命、母を真砥野媛といふ、真砥野媛は丹後道主命五女の一人なり、召されて后妃となる、竹野郡磐撞の里に由緒ありと申伝ふ、磐撞今中略して岩木に作る。
眞砥野媛(圓野比賣)とは姉妹なのであろう、兄比賣・弟比賣というのはこの二人のことかも知れない。淳葉田瓊入媛と薊瓊入媛はイリの名を負っているので、三輪王朝の人であろう、父親が三輪王朝の人、母親は丹波王朝の人であるかも知れない。 日葉酢媛世代だけでなく、何度も何世代も丹波・三輪の間では通婚が行われていたのではなかろうか、だいたいは2対2の対等平等な同盟国間での平和と友好の証としての通婚であったと思われる。 日葉酢媛は、丹波道主王の娘。垂仁天皇の皇后。景行天皇の母。日葉洲媛命につくり(景行紀)、日葉酢根命にもつくる(垂仁三十二紀)。垂仁天皇は丹波の五女をめして、後宮にいれたが、その第一であるとみえる。同十五年皇后にたてられ、三男二女を生んだ。その第一を五十瓊敷入彦命、第二を大足彦尊、第三を大中姫命、第四を倭姫命、第五を稚城瓊入彦命というとみえる。同三十二年薨じた。 日葉酢媛たちは立派な息子や娘たちを育てられた、狭穂媛が「私のなき後は、この子たちしかおりませんよ」と強く推薦するはずの姫たちであった。 『古事記』 氷羽州比賣命を娶して、生みませる御子、印色入日子命。次に大帯日子淤斯呂和気命。次に大中津日子命。次に倭比賣命。次に若木入日子命。
大帶日子淤斯呂和氣命は、天の下治らしめしき。〔御身の長、一丈二寸、御脛の長さ、四尺一寸ましき。〕次に印色入日子命は、血沼池を作り、又狭山池を作り、又日下の高津池を作りたまひき。又鳥取の河上宮に坐して、横刀壹仟口を作らしめ、是れを石上神宮に納め奉り、即ち其の宮に坐して、河上部を定めたまひき。次に大中津日子命は、〔山邊の別、三枝の別、稲木の別、阿太の別、尾張國の三野の別、吉備の石无の別、許呂母の別、高巣鹿の別、飛鳥の君、牟禮の別等の祖なり。〕次に倭比賣命は、〔伊勢の大神の宮を拝き祭りたまひき。〕
(ほかの姉妹たちも立派であるが、もう引かない) そして亡くなられてからもズコイ… 『古事記』 比婆須比賣命の時、
古典文学大系本の注に、「祝」は「棺」の誤りかとあり、補注に「姓氏録左京神別に「石作連。火明命六世孫、建真利根命之後也。垂仁天皇御世、奉為皇后日葉酢媛命、作石棺献之。仍賜姓石作連公也。」とある。石棺作りの部民を定められたのである。」 『日本書紀』 三十二年の秋七月の甲戌の朔己卯に、皇后日葉酢媛命〔一に云はく、
天皇、是に、大きに喜びたまひて、野見宿禰に 丹後が誇る姫で、銅像の一つくらいあってもバチは当たるまい。 紀の一書によれば、日葉酢媛は、 母は丹波の河上の日葉酢媛根命で、久美浜町の川上の摩須の人。摩須というのは今の 久美浜町須田の衆良神社↑ その少し奥側(湯舟坂古墳側)に「川上摩須館跡」と伝えるところがある。小さな案内板があるが、ゼッタイに見落とすようなものである。そこの径↓を少し入った所に日葉酢媛の実家があったかも…。 朝廷別命開化記に、 とある朝廷別命は比婆須比賣命の弟であるが、それよりも丹波道主命の唯一の息子である(ほかにも息子がいたかも知れないが記録には見えない)。何ともスゴイ名のため、何か気になるが、資料はない。 たぶん「別」というのは皆「朝廷別」なのだと思う、それを略して「別」と言っているのではなかろうか。だからこの人は正式には「丹波朝廷別」とか「丹波別」とか呼ぶのではなかろうか。 「三川の穂」は、参河国 『騎馬民族国家』は、上田正昭氏説を紹介している。(この原典を手に入れられないので孫引) 「別」の問題にふれ、「応神朝以前の国内外征服戦に関する日本側文献の伝承において、その戦闘の主人公を調べてみると、建沼河別(武淳河別)、御諸別、鴨別、荒田別、鹿我別などと、『別』を称するものが意外に多く、日本武尊などの王族将軍についでいる」ことを指摘し、これらが「別」を称しているのは、それなりに注目に値するので、それは誉田別・去来穂別・瑞歯別などのように、「別」は五世紀を中心とした大王(天皇)族の称呼であり、本来、大王・王族を中心に付せられた特別の意義をになうものであったからである、と説いておられる。
「別」というのは大和大王家のワケ(分家)のいった意味であるかも知れない。彼もまた、父の使命を継いで、大和大王軍を率いていたのでなかろうか。征服戦争というか、後の信長軍や家康軍みたいなハナシであろうか。 基本的戦略としては、大和大王家本家やその配下豪族と在地有力諸豪族との間で、嫁をもらったり、嫁にやったりの婚姻関係を結び、他国内に分家を立てて、平和的に統合を進める、どうにもならない場合は在地豪族と領土の分捕り合戦をしていたのかも知れない。 地元の伝承としては、 『丹後旧事記』 朝廷別尊。旦波道主命第五の男子母は川上摩須郎の女也比治真名為が原にありて御饌都神を奉し祭るなり景行天皇の伯父王成務天皇の伯父王。
『丹後路の史跡めぐり』 道主命の末子の朝廷別命は日下部氏の祖で丹波の国造となっており、真到野の子稲別命がそのあとを継ぎ、子孫は丹波直の名を授けられて、代々この地にあって丹波郡の郡司をつとめている。
ワケは天皇になれる資格があるのではなかろうか。 狭穂彦・狭穂媛・室毘古王は彦坐命の同母の子で、丹波道主命とは腹違いの兄弟の関係である。日葉酢媛は、狭穂媛から見れば兄弟の娘ということになり、一世代若い姪である。 狭穂彦と垂仁は 日葉酢媛やその姉妹・兄弟は開化の4代目にあたり、ここにも皇位継承権があったものと思われる。あくまでも理念上建前上の権利であって、皇位継承順位第何10位とかであろうから、ほぼナシに等しく、実際に発動されることは、本家によほどの事態が発生でもしない限りは、ゼロかも知れない… しからば、実力でなってみせる、となれば、失敗すれば狭穂彦、成功すれば天武や継体のようなことかも… 音の玉手箱
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