丹後の古墳-舞鶴の古墳②
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 舞鶴の古墳②中期の巨大古墳は1基もないが、後期の、その終末期になると、意外にも丹後最大の古墳群をつくる。 大波古墳群・奥原古墳群(大波下) 古墳はどこ? 結構人が集まったようで、市の広報を見てやってきた人々なので、舞鶴人ばかりでなかろうか、エライな舞鶴人。しかし大波の地元の人ばかりかも知れない、それならばご先祖の血を引いて大波あたりはエライモンぱかりだな… 古墳はどこ? その足元の丸いマウントも古墳でっしゃろデ こいつが7号墳。デカイ天井石、こんなものどうやって運んだ。この超重そうな大石のオカゲで石ドロボーどもに石室を破壊されずに済んだのだろうか、大きな天井石はそうした意味もあったものかも… こちらの方へ羨道があったのだろうか。石ドロに盗まれたものか、よくわからん状態のよう。 石室はこんなリッパなもの。花崗岩を3、4段積み上げている、花崗岩は当地では入手できない。 『舞鶴市史』 大波古墳群 字大波下
大波中川が流れる谷間の東側丘陵下に奥原古墳群(字大波上)、さらに同西側山裾にそって大波古墳群があり、奥原古墳群は一九基、大波古墳群は五九基の円墳が確認される。干田古墳群と同時代、すなわち古墳時代の終末期に、この地方の平野部に集落が発達して、その有力農民一族の墳墓がここに築かれたものであろう。すべて横穴式石室を設けた円墳である(図50)。 大波古墳群は、五九基を三群に細分することができるが、一族中、それぞれ有力な家族別に築造され、そのうち第七号墳が最大で最有力者の墳墓であったとみられるが、同墳は群集墳のほぼ中央部に位置し、丘陵腹に築かれた円墳である。径一五㍍、高さ三㍍、羨道部の天井石が一枚抜きとられて開口し、横穴式石室に出入りができる。石室の全長九・四㍍、玄室長六・一㍍、玄室内の高さ約二㍍を測る(写真45・図51)。玄室幅は奥壁部で一・三㍍、中央で一・五㍍あり、羨道部幅一・二㍍の無袖式石室で、入口から幅が次第に広くなり、中央で最大に達し、奥壁へ向かって狭くなる。壁石の石組みは下方ほど大きい自然石を積み、天井の方へ多少の持出しがある。玄室と羨道の区別はつきにくい。天井石は六枚残り、いずれも幅一㍍から一・二五㍍のものを、面を整えてならべる。現在は石室内に土砂が流入し堆積している。開口部は東で五・六号墳とほぼ同方向である。市内の古墳中、横穴式石室が完存して自由に出入できる唯一のものといえるが、棺や出土品は見当たらない。 大波・奥原古墳群の背後の山の反対側に干田古墳群がある。河辺八幡神社の谷向かいに位置する。両古墳群の直線距離は2㎞弱で、同時代の古墳群である。この時期の舞鶴の中心地はこのあたりであったのであろう。 『舞鶴市史』 干田古墳群 字河辺中小字干田
有力農民の墓とは思えない、海と関係があると思う。河辺中の集落から耕地を隔てた南方丘陵斜面上、平変電所の南東二〇〇㍍に位置する。周囲は雑木や畑地に囲まれ、一帯は竹やぶとなっている。近くに石垣をめぐらせた畑があり、この石材は古墳の石材を利用しているし、水田中を流れる小川の小橋も古墳の石を用いたものがある。 古墳は丘陵下の緩斜面に築かれ、一六基の円墳が、数㍍から二〇~三〇㍍の距離で散在し、いわゆる群集墳をなしている。いずれも径一〇㍍前後の比較的小型で、古墳時代終末期の様相を示している。古墳の分布状態から四基ないし五基の群に分けることができ、有力農民一族の家族墓の形をとどめる。この古墳群は大正十二年、京都府によって外形などの調査が行われ、また昭和四十一年、府立東舞鶴高等学校郷土研究クラブによっても調査されている。一六基のうち一号墳・二号墳について述べる(図47)。 一号墳は、丘陵斜面に立地し、径一二㍍、高さ二・五㍍の円墳で横穴式石室を有する。羨道部は崩れて不明、天井石の一部を失い玄室だけが残っている。玄室長二・六三㍍、奥壁幅一・五五㍍、石室の全長約六・五㍍をはかる(写真44・図48)。 二号墳は、一号墳の北一〇㍍の丘陵端にあり、径一四㍍、高さ二㍍の円墳で、天井石三枚が抜きとられ一枚を残すのみとなっている。羨道部は埋没しているが奥壁部は露出し、墳丘はほぼ完存状であるが、内部施設は半壙している。奥壁高一・一㍍、奥壁幅一・四㍍、玄室現長二・八㍍、玄室のもとの長さは五~六㍍と推定される。出土品は、昭和二十五年ころ石室の底をさらえた時、玉類(切子玉二、勾玉三)、金環(大二、中一)、鉄のみ(破片)一、刀子(破片)一、鉄鏃一、須恵器(椀一、横瓶一、蓋杯・杯破片多数)、土師器(椀一)が発見された。切子玉は大は長さ三・二センチメートル、幅二・〇センチメートル、小は長さ二・九センチメートル、幅一・六センチメートルの無色水晶製六角柱である。勾玉は一個はめのう、二個は碧玉製である。鉄のみは刃部を欠くが有銎式、鉄鏃は長さ六センチメートルに細長い茎部のみで、内三個はきつ先部はあるが箆はぎ部が欠損している。 土器類は破片が多いが、蓋付須恵器は、口縁部のかえりが小さく小型で実用性を欠き、恐らく祭祀用のものと考えられる。横瓶も小型で胴の上部に張りがあり、丸底で口縁部に近い外側に稜がある(図49)。 終末期古墳群とは 終末期古墳とは、古墳時代末から飛鳥時代にかけての7世紀頃の古墳を指す。奈良県明日香村のキトラ古墳や高松塚古墳などが、特に有名である。6世紀末には前方後円墳築造の時代が終焉を迎えるという大きな変化があり、それ以降律令制に向かう段階で造営されたのが終末期古墳である。墳形には、円墳・方墳・八角墳・上円下方墳などがあり、中期の前方後円墳などと較べるとずっと小形である。埋葬施設には、横穴式石室や横穴のほかに、各種の横口式石槨、木炭槨などがあり、棺には木棺・石棺以外に乾漆棺や須恵器の四注式屋根形陶棺などがある。副葬品は概して少ない。まもなく仏教が伝来し、古墳はつくられなくなっていく。 『宮津市史』 丹後地域で一〇基以上からなる群集墳は、久美浜町暮石古墳群、丹後町大成・高山・矢畑古墳群、弥栄町塚田古墳群、加悦町入谷古墳群、舞鶴市干田・大波古墳群のわずか八か所にすぎず、二〇基を越えるのは暮石、入谷、大波の三か所しかない。
久美浜町 谷中を豊岡に通じる街道が通っている。(府道永留豊岡線、西の大阪峠(370m)を経て兵庫県豊岡市三宅側に通じる、天日槍が通ったの伝承がある。現地で聞いてみたが今も通れるかは不明)。伯耆谷には弥生後期の須田遺跡があり、多数の古墳群が分布し、この谷全体で130基と言われる。(図↓中6が暮石古墳群。9が湯舟坂二号墳、19が湯舟坂遺跡)。丹後最大数を誇る後期古墳群で、王家の谷と呼ばれる由縁であるが、その築造時代は舞鶴大波のものよりかなり長そう… 与謝野町明石の しかし丹後の古墳なのか若狭の古墳なのか、いずれに属するのか、あるいはまったくそうした地域性はない何か別のものなのか、今後の研究が待たれる。 須田古墳群にしても、入谷古墳群にしても、丹後を代表する古代遺跡の集中地で、歴史の年輪幅が違い、舞鶴大波あたりは見劣りして比べものにはならないが、郷土愛からあえてムリして較べてみたら、というハナシである。 (参考) 入谷古墳群 『加悦町史資料編1』 入谷古墳群 (所在地 京都府与謝郡加悦町字明石小字入谷)
立 地 丘陵斜面・丘陵稜。 遺 構 現存二六基、最大約三〇~六〇基の横穴式石室からなる群集墳。現存二六基は、径八~一七㍍の円墳で、立地、石室開口方向からそれぞれ二~三基の支群により構成される。 一一号墳は直径一二㍍、高さ三㍍の円墳。丘陵南斜面に立地し、隣接する一二号墳と二基からなる小支群を形成し、一一~一四号、一五号墳の五基三小支群からなる中支群を形成する。埋葬施設は右片袖式の横穴式石室で、奥壁幅一・五㍍、玄室長四・八㍍、玄室高一・九五㍍、羨道長一・二㍍、羨道幅一・二八㍍、石室現存長六㍍を測る。奥壁は現状では二段積みで、上段、下段ともに二石からなる。玄室側壁は大きく見れば左右側壁ともに三段積みであり、側壁の架構と天井石の架構が交互に行われることを特色とする横穴式石室である。袖石は柱状石材を立てて用いる。左側壁では玄室と羨道を区分する石としてやや大型の石材を立てて用いる部分かおる。前壁は現存しないが、一九一九年の実測図によると袖石に直接架構された可能性かおる。天井石は、現存四石であるが、玄室に架構された天井石は大きく見れば六石であり、玄室中央部のみ側壁三段目が存在し、この部分で最も玄室高が高くなるが、むしろ、この型式の石室は奥壁部分の玄室高が低く構成されることが、埋葬空間の構成原理ではより大きな特色である可能性を考え、この型式の石室を「鞭谷五号墳タイプ(奥低式)」として設定している。 一四号墳は直径一二・五㍍、高さ二・五㍍の円墳。丘陵南斜面に立地する。埋葬施設は右片袖式の横穴式石室で「鞭谷五号墳タイプ」。奥壁幅一・五㍍、玄室長四・八㍍、玄室高一・五五㍍、羨道長一・二㍍、羨道幅一・二八㍍を測る。奥壁は二段積みで、上下段ともに、奥壁幅に近い大型石材に小型石材を隙間に充填して調整する奥壁大型一石指向タイプである。玄室側壁は大きく見れば四段積みで、奥壁に架構される天井石のみ一段低く架構され、この部分のみ三段積みとなり、側壁各段の架構に対応して天井石の架構される高さの異なる一一号墳とは立面構成が異なる。袖石は、柱状石材を用いることは一一号墳と共通するが、この柱状石材の上にも石材が積まれ、前壁が直接架構され、羨門部で玄室高が低くなる一一号墳とは異なる可能性がある。 一五号墳は直径一七㍍、高さ三㍍の円墳で群中最大規模の古墳。丘陵南斜面に立地する。埋葬施設は無袖もしくは右片袖式の横穴式石室で、奥壁幅一・七五㍍、石室最大幅二㍍、石室残存長九・四㍍、石室高二㍍を測る。奥壁は大きく見れば二段積みであるが、下段は奥壁幅に等しい大型石材一石により構成される鏡石の使用が認められる。上段は、大型石材の隙間を小型石材で充填しており、大型石材二石による奥壁二段積みとはいえない。側壁は大きく見れば用材の大きさを揃え、二段積みを指向しているが、左側壁では、縦目地はよく通すものの、下段上面の横目地の通りは悪く、上段石材の大きさが不均等であり、天井石との隙間に小型石材を充填して補っている点が目立ち雜な感じである。右側壁でも最奥部以外では上段石材と天井石の隙間を小型石材で充填している。この時石室中央部の高さを高くしている可能性があり、「鞭谷五号墳タイプ」との石室との関連も想定される。天井石は現存二石である。 遺物 入谷古墳群出土と伝える須恵器及び土師器があるが、一部を除き古墳を特定できない。須恵器はTK43~TK217型式併行期であり、群形成の年代の一点が推定できる。 まとめ 入谷古墳群は、群集墳の形成が希薄な丹後地域の中で、内容の一部が確認できる最大規模の群集墳である。群中には前方後円墳など大型古墳を含まず、等質的な古墳により構成される。「鞭谷五号墳タイプ」の石室は、丹後地域では鞭谷五号墳、入谷一一・一四号墳の三基が確認できるのみであるが、すべて野田川流域の加悦谷に集中している。「鞭谷五号墳タイプ」の中での先後関係は、①奥壁幅一・六㍍をこえ、奥壁並行葬が可能な鞭谷五号墳、②側壁三段、天井石三段積みで、左側壁に玄室と羨道を区分する石材を持つ入谷一一号墳、③奥壁一石傾向二段積みの入谷一五号墳の順に型式変遷加行われたものと思われるが、この変化はごく短期間に行われた可能性もある。「鞭谷五号墳タイプ」の石室が北部九州型石室の属性のひとつである奥壁並行葬の埋葬法式による石室から変化したものであるとすれば、隣接する丘陵稜線上には、畿内型石室の要素も取り入れた北部九州系石室の入谷西A一号墳が存在するので、墓域の移動も含め、石室系譜の継続性が確認できるか課題である。 入谷西古墳群 『加悦町史資料編1』 入谷西A一 ・D一号墳 (所在地 京都府与謝郡加悦町字明石小字入谷)
立 地 丘陵稜線上及び丘陵端部。 遺 構 計四九基の古墳及び弥生墳墓からなる。 A一号墳は丘陵端部に位置する横穴式石室墳で、墳形、墳丘規模は不明。石室は丘陵基部側に開口し、左片袖傾向の強い両袖式石室で、ハの字形に開く前庭部を持つ。奥壁幅二・一八㍍、前壁幅二・一四㍍、石室最大幅二・二六㍍、玄室長三・八九㍍、玄室残存高一・五㍍、玄門幅〇・八六㍍、前庭部長二・一一㍍、開口部幅一・六㍍を測る。用材は花崗岩で、奥壁、側壁ともに基底石はやや大型の石材を横積みし、奥壁は三石、右側壁は五石、左側壁は四石からなる。側壁は二段目以上を小型の石材を小口積みまたはやや大型の石材を平積みし、持ち送る。袖石は両袖ともに方柱状態の石材を立てて用いる立柱石であるが、右袖石は直接右前壁を構成し、左袖石のみ玄室内側に突出して配置し、小口積みの前壁を構成する左片袖傾向の強い両袖式である。玄室と前庭部の境界には小型の石材を二段小口積みにし、段を形成し、前庭部が玄室に比べ三〇㌢高い。前庭部側壁は小型石材が乱雑に貼石状に積まれ、天井石は架構されず、花崗岩の一枚石による板石閉塞の可能性が報告されている。床面は二面で、第一次床面は地山直上に、幅七〇㌢、深さ二〇㌢の木棺を床面に固定する小口穴かとも思われる土坑が四基検出され、初葬は玄室主軸に並行する二棺並行葬である。第二次床面は、第一次床面を整地後に、棺台の配置から奥壁、右側壁に並行して一棺ずつが復元できるが、さらに左側壁にもう一棺ある、三棺T字型配列である可能性が高い。 第二次床面の玄室内では、遺物が奥壁に並行した部分、左右玄門部の三ヶ所に集中し、追葬時における片づけが行われた典型的な状況を示す。 D一号墳は丘陵端部に立地する。尾根基部側に幅七七㌢、深さ三八㌢の区画溝を持ち、埋葬施設は竪穴式石室が一基である。墳丘規模は、削平、流出が著しく不明だが、長軸一五㍍程度の平坦面を持つものと見られ、盛土が行われていた可能性も報告されている。埋葬施設は、石室幅一・二五㍍、残存長〇・八二㍍を測る竪穴式石室一基が検出されている。短側壁は二段のみ残るが垂直に積まれ、基底石は二石を横積みにし、二段目は平積みである。一方、長側壁は、短側壁同様、基底石は横積みするが、二段目以上は持ち送りつつ平積みする。 遺物 A一号墳の玄室内副葬品は、耳環二、鉄鏃一二、鹿角装刀子四、刀子一二、馬具(素環鏡板付轡一、鉄地金銅張飾金具三、鉄製飾金具一、鉸具一)、須恵器七九(蓋杯蓋二九、盖坏坏部三匸三二、無蓋高坏五、ハソウ、台付ハソウ二、提瓶六、横瓶一、短頸壺一、小型壺一、壺一、甕一)、土師器一四(坏七、高坏六、小型壺一)で、須恵器の型式はTK10型式新段階とTK209型式に併行するものに大別される。鉄鏃は三角鏃が多く、長三角形式の長頸鏃がある。 D一号墳の石室床面からは、須恵器無蓋高坏口縁部片(35)、土師器直口壺(36)が、溝埋土及び表土中からは、土師器甕(37)、須恵器片等が出土している。また、36内から鉄針(錐か)(34)が出土している。須恵器無蓋高坏は、口縁部と坏部底面の境界付近に二条の沈線と波状文が施されるもので、口縁部はやや直線的で、三方透かしを持つ。TK10型式古段階に並行するもの。このほか墳丘削平時に出土した須恵器蓋坏(38・39)もTK10型式古段階に併行するもので、当古墳に伴うものとしても齟齬がない。 まとめ 入谷西古墳群は、群の形成が古墳時代前期初頭に始まり、群形成の最終段階で北部九州系横穴式石室を導入し、その後丘陵斜面の入谷古墳群へと墓域を移動している。A一号墳は北部九州系石室で、左片袖傾向が強い両袖式石室であることから、北部九州の石室構築技法の影響を受けながら、玄室平面形の決定については畿内型片袖式石室を指向したものであり、注目される。このことは、第二次床面において、北部九州型石室の属性のひとつである奥壁平行葬を含七三棺T字型埋葬が行われていることは注意したい。 音の玉手箱
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