![]() ![]() ![]() ![]() |
黒曜石
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
![]() ![]() 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 日本史を塗り替えた黒曜石![]() 赤城山麓の村々で納豆などの行商をしながら独学で考古学を学んでいたアマチュア研究家の相沢忠洋(←)(大正15年 -平成元年)が、昭和21年(1946)のある日、自転車に乗って群馬県笠懸村(みどり市笠懸町) 同年夏にはついに黒曜石製の長さ約5センチメートルの石槍(↙)(長7㎝、幅3㎝)を発見、関東ローム層中にも、縄文文化以前の土器をもたない、上部更新世(洪積世)の旧石器時代人が生活していたことがわかった。 ![]() この発見によって、それまで土器時代以前の日本列島に人類は居住していなかったとされた定説を覆し、日本にも旧石器時代が存在したことが証明された。これ以降、日本全国において旧石器時代の遺跡の発見が相次ぐことになった。相沢忠洋の発見は、日本考古学史上の不朽の業績とされる。 ![]() 相沢忠洋は、浅草の夜間小学校卒。納豆の行商をしていれば、朝晩行商に出て日中は発掘が出来る。「夜学の小学校しか学歴のない納豆行商人が考古学をやるのは生意気だ」と心無い人達から中傷を受けた。相沢は、「考古学がやりたいから、納豆の行商をしているのだ。サラリーマンでは、時間に拘束され遺跡の踏査が自由に出来ない。目的の手段として行商をしている」と言っていた。『岩宿の発見』の著作がある、文章も上手で小説家なみである。 ![]() この自転車(→)だそう。東京まで出土品の相談のため再三往復したそう(百キロの道と書いている。舞鶴からだと京都市内へ行くくらいの距離、自転車も頑丈にできていたよう)。自転車だから発見できたのかも知れない。車だとピューと行ってしまうので、小さな物は見落としてしまう。 『黒曜石 3万年の旅』 岩宿の発見
今では10,000箇所以上という。黒曜石で作られたひとつの石器が、日本の歴史を大きく塗り替えることになったのは、終戦後間もない昭和二四(一九四九)年、今から五〇年前の、初夏の日の出来事であった。 広大な赤城山麓の考古学的調査を、行商のかたわら続けていた相沢忠洋青年の自転車のペダルは、笠懸村岩宿の赤土の切通し前で止まった。 相沢さんが目を凝らしながら、関東ローム層と呼ばれる赤土の崖面を丹念に観察すると、その地層の中になかば突き刺さるようにして、ガラスのように輝く石が入っている。その石を引きぬくと、長さ七センチほどの薄い木の葉形をした石器が、完全な形で姿を現した。 石器の全面に平坦な加工が施され、先端部からは細長い樋状剥離がなされた槍先形の尖頭器である。空にかざしてみると、中心部に白い雲のようなすじが入った美しく神秘的な黒曜石でできている。この石器こそ、後期旧石器時代の後半、とくに信州和田峠の黒曜石原産地周辺でさかんに作られた特徴的な形態の尖頭器=有樋尖頭器であった。 当時、一万年以上前に堆積したといわれる更新世のローム層中に、縄文以前の文化、すなわち今日の旧石器文化が、アジアの東端に位置するこの島国に存在したと考えてみる研究者はいなかった。むしろ、相沢忠洋という無名の一青年の柔軟な発想が、日本旧石器時代の扉を開いたといっていい。 相沢青年の発見から四年後の昭和二八(一九五三)年、今度は吹雪の野辺山高原の発掘で、地元研究者由井茂也さんと芹沢長介さんらによって、美しい半透明な黒曜石でできた小指の爪ほどの細石刃が、日本で初めて発見された。 こうした最初の発見を経て今日では、北海道から沖縄まで五〇〇〇個所を超える後期旧石器時代遺跡が確認されるようになった。日本の旧石器時代は、相沢忠洋さんや由井茂也さんなど、純粋な研究心と高い志をもつ在野の研究者の、地道なフィールドーワークによって明らかにされてきたところも大きい。 (岩宿遺跡) 「関東ローム層」(縄文時代以前の地層で5~15m以上の厚みがある)が大量の火山灰で形成されていたことから、当時の日本列島は人間の住める環境ではなかったと考えられた。日本列島の最古の住人は縄文時代に大陸から移り住んだ人々というのが当時の考古学の常識で、それより古い時代は専門家にとって興味の対象外でした。実際に発掘調査で関東ローム層が現れると、そこで調査が打ち切られていた。 岩宿では上下2層の石器文化層が確認された。下層の岩宿I文化と呼ばれる石器群は、地表下約1.5メートルの中部ローム最上部の暗色帯中に含まれており、楕円形の石斧2点の他、掻器類・刃器状剥片・石核があって、石材には主に頁岩が用いられている。同層からは多数の自然礫やクリ材の炭化物もみられた。この暗色帯の最上部にはAT火山灰がみとめられ、岩宿I文化の年代は3万年前以前に溯ると考えられる。岩宿II文化は、上部ローム層中に含まれる切出状のナイフ形石器を指標とする文化で、瑪瑙・頁岩・黒耀石・安山岩など多様な石材が用いられている。 相沢の発見は岩宿II文化時代のものである(ATより上層で、2万5千年前)。 黒曜石(オブシディアン Obsidian)![]() 鳥浜の縄文博物館↑ 火山の噴出物で、流紋岩質マグマが急激に冷やされることで生じると考えられている。二酸化珪素が約70%から80%で酸化アルミニウムが10%強、その他に酸化ナトリウム、酸化カリウム、酸化鉄、酸化カルシウム等を含む。ガラス質(二酸化珪素・SiO2)が多く含まれている。 外見は黒く(茶色、また半透明)ガラスとよく似た性質を持ち、脆いという欠点はあるが、割ると非常に鋭い破断面(貝殻状断口)を示すことから先史時代より世界各地でナイフや鏃、槍の穂先などの石器として長く使用された。日本の鏃等は後期旧石器時代から使われていた。 ![]() 黒曜石が産出されるには、流紋岩質マグマが噴出して、かつそれが急速に冷やされるという2つの条件を満たすことが求められ、火山があれば、黒曜石があるというものではない。 『黒曜石-三万年の旅』 藁科博士のお話では、日本列島全域におよぶ黒曜石蛍光X線分析によって、元素組成の異なる一七〇種以上の原石群の識別が可能であるという。いいかえれば、元素組成に基づくなら、一七〇個所以上の化学的原産地が区分されるということになる。
図には、但馬にも点がある、これは豊岡市福田という地域であろう。一般に先史時代の石器の原材料として多用された、良質で産出量の多い黒曜石原産地をあげると、つぎの二十数個所ほどとなろう。 北海道-白滝・置戸・十勝三股・赤井川、青森-出来島・深浦、秋田-男鹿、岩手-花泉、宮城-湯倉、山形-月山、新潟-佐渡・板山、長野-和田峠・霧ヶ峰・男女倉・八ヶ岳、栃木-高原山、東京-神津島、神奈川-箱根畑宿、静岡-柏峠、島根 -隠岐島、大分-姫島、佐賀-腰岳、長崎-淀姫、熊本~鹿児島県境-桑ノ木津留、鹿児島-三船などである。 さらに厳選すれば、北海道では白滝、本州では和田峠、九州では腰岳、島嶼部では神津島、隠岐島、姫島などが、質量ともに優れた原産地となろうか。 福井県内の産出地は、坂井市三国町安島周辺と鯖江市と越前市にまたがる三里山(346m) の2箇所という。 ![]() X線管球の対陰極からの一次X線を物質に照射すると、,その物質に含まれる元素に固有な波長の特性X線を発する。この特性X線をとくに蛍光X線とよぶ、放射される蛍光X線は、回折結晶およびX線検知管を備えたX線分光器によって各波長ごとに分光し、X線スペクトルを得る。分析に用いられるX線の波長範囲は、約1.2 nm から0.03 nm にわたる。特性X線は、Na~Euの間のK系列X線、Zn~UのL系列X線、Ce~UのM系列X線など。試料面を照射する一次X線は、普通は、連続X線で、これはかなり深いところまで侵入するものと考えられるが、一般分析では表面から十分の数 mm 程度とされている。蛍光X線スペクトルの強度から物質中の元素の定量分析も可能で、ことに微量成分の分析は、試料を分解することなく非破壊で,迅速かつ正確に行える。 蛍光X線の発生は、原子核に近い殻の間での電子の遷移に基づくものであるから、その波長は原子の種類あるいは原子番号だけに関係し、化合物でも結合状態にほとんどよらない。そのため、蛍光X線のスペクトルを調べると、それを放射する元素の原子番号を知ることができ、物質の元素分析や組成分析に利用される。 その波長と強度から、ホウ素より重い元素を対象とした元素の組成や量についての情報が得られる。非破壊分析法の一つとして、文化財の調査、犯罪捜査などに用いられる。 蛍光X線分析は、液体・固体試料とも適用でき、とくに試料を非破壊でそのまま分析できるという利点があるが、X線の空気あるいは装置の窓材による吸収が問題となり、真空にしても周期表でナトリウム以下の軽元素への適用は困難である。 この分析により、出土黒曜石の原産地を正確に知ることができる。 ![]() 浦入遺跡でも北陸や東海地方の特徴をもつ縄文土器、富山県産蛇紋岩製の磨製石斧や大型の耳飾り、コハク製の玉類、島根県隠岐産の黒曜石が出土しており、山陰地方や北陸地方へこの舟を利用して遠隔地との交流が行われていたことが分かります。その他にも、浦入遺跡からは石錘も出土し、丸木舟を使って海に出て漁労も行っていたことが想定されます。 縄文時代中期~後期(5000~3500年前) ![]() ![]() 上野遺跡で後期旧石器時代の石器152点が見つかり、京都府埋蔵文化財調査研究センターが2020/9/17、発表した。石器の特徴や地層などから遺跡は約3万6千年前と推定され、後期旧石器時代では最古級という。 約3万年前の姶良カルデラの噴火でできた火山灰層と、約6万年前の大山(鳥取県)の噴火に伴ってできた軽石層の間から出土。台形石器と呼ばれる狩猟道具の一部や、獣の解体に用いる石器も見つかった。台形石器を中心とした国内の遺跡は約3万4千~3万8千年前であることから、中間値として3万6千年前と推定した。石器素材は多くが由良川水系産のチャートとみられるが、隠岐諸島産の黒曜石も5点出土した。 ![]() ![]() 2020年11月26日 京都府埋蔵文化財調査研究センターは日、福知山市夜久野町井田で発掘調査を進めていた稚児野遺跡で、石器群が見つかったと発表した。国道9号付近の約3300平方メートルの台地から、時代を裏付ける指標となるナイフ形石器など、後期旧石器時代の約700点が出土し、約3万6千年前の遺跡と推測できる。これは府内では京丹後市の上野遺跡と並ぶ最古、国内でも最古級という。 稚児野遺跡は、牧川と畑川に挟まれた標高104メートルに位置する。1981年に行った初めての発掘調査では、平安時代の遺跡と確認されていた。 国道9号の夜久野トンネルのオープンカット工事に伴い、昨年6月から約3300平方メートルを対象に本格的な調査を進めたところ、約3万年前、鹿児島湾にある姶良カルデラの噴火で飛来して形成された火山灰層の下から、相次いで石器が見つかった。 調査区域内には、石器がまとまって出土する直径7メートルから10メートルほどの集中部が9カ所ほど見られた。多くの集中部から作業台に使われたと思われる台石やたたき石が確認され、一帯に作業時に出たと思われる石片が散らばっていた。石器の加工場として機能していた可能性があるという。 出土品の中からは、狩猟のための槍先に使った「ナイフ形石器」、動物の皮なめしなどに使った「掻器」、物を削る際の「削器」、刃の部分を磨いた「石斧」など、合わせて10点が原形をとどめた状態で見つかった。 他の石片も含め、石材にはチャートや頁岩のほか、遠く離れた島根県隠岐諸島産の黒曜石、奈良県と大阪府の境にある二上山周辺から運ばれたと思われるサヌカイトも使われていた。 後期旧石器時代は、日本に人類が初めて渡来したころも含まれ、当時の遺跡は日本最古といわれる。とくに関東地方で多く発見されているが、府内では京丹後市の上野遺跡に次ぎ、稚児野遺跡が2例目。 ![]() ![]() 『両丹地方史19』(74.3.20) 梅ヶ平発掘調査について 大江町史談会 奈良井俊一
梅ヶ平遺跡は主に縄文時代の遺跡と見られている。「梅ヶ平」はA図に示す通り、大江町字内宮の西南の高台である。現在はその大部分が植林されているが、数年前までは畑地として、桑・そ菜・たばこなどを作っていた。昭和七年頃、内宮の荒木粂太郎氏が、自分の耕作地で石鏃を発見されてから、現在に至るまでに確認ざれたもの五十個を越えるであろう。京都府遺跡地図にも「遺物散布地」として登録されている。拾得された遺物は石鏃に限られているが、集中的に発見されているので、何らかの調査の必要を感じたのである。 過去において、当地で発見されたといわれる石鏃の中に、黒曜石のものがあったが果して当地のものかどうか疑っていたのである。しかし今回の調査で、16Iのグリッドから黒曜石剥片が発見され、当地出土のものと確認できた。 ![]() 『京丹後市の考古資料』 竹野遺跡 弥生時代前期の溝から黒曜石の破片も出土した。 ![]() 『京丹後市の考古資料』 宮ノ下遺跡 所在地:網野町小浜小字城山 立地:日本海に面した洪積台地上(砂丘) 時代:縄文時代早期~前期 調査年次:1955年(網野高校郷土史クラブなど)1957年(同志社大学文学部考古学教室) 1955年の調査により、炭化物および石錘、石鏃などの石器のほか、貝殻、魚鳥骨片などが出出した。1957年には押型文土器.条痕文土器などの縄文土器片が約300点、石器約10点、獣骨片約80点などが出土した。石鏃は黒曜石、サヌカイトを使用する。 ![]() 『京丹後市の考古資料』 経塚古墳 所在地:久夷浜町布袋野小字経塚 立地:川上谷川上流城左岸丘陵端 時代:古墳時代後期 調査年次:1989年(久美浜町教委) 現状:完存 古墳周辺の耕作土からは黒曜石製の剥片石器(台形石器または掻器)が、中世墓からは須恵器、黒色土器が出土している。 ![]() 『夜久野町史2』 荒堀遺跡 所在地 大油子(荒堀) 本遺跡で注目されることは、縄文前期に該当する石鏃が、島根県隠岐島で産出する黒曜石であり、当時の交易を考える上で貴重な資料を提供したと言えるであろう。 ![]() 『綾部市史』 石斧・石鏃・石錐・砥石などが合わせて十数点発見され、その中には、瀬戸内か出雲地方の産出と思われる黒曜石製の石鏃などもあって、文化交流の一面をしめしている。 ![]() 『福井県史』 鳥浜貝塚の出土品のなかには黒曜石がある。剥片石器の原料であり、製品も出土している。この石は火山活動の産物であり、産出地が特定されるという特性がある。黒曜石の産地の割出しには、蛍光X線分析という方法が有効のようで、鳥浜貝塚の黒曜石は、日本海西部の島根県隠岐島産と内陸部の長野県霧ケ峰産のものであることが判明している(東村武信・藁科哲男らによる)。 石鏃や石匙など剥片石器の材料である黒っぽいサヌカイト(讃岐石)はきわめて大量に出土するが、この石の産地も、瀬戸内海を渡った香川県金山産と奈良県から大阪府にひろがる二上山のものが鳥浜貝塚に運ばれたことが判明している。こうして、陸・海の交易の道がうかんでくるのである。このほか石器の材料で、輝石安山岩も鳥浜貝塚で検出されるが、その産地はどうも能登半島の可能性がきわめて強いようである(藁科の教示による)。 ![]() 隠岐島の黒曜石 『黒曜石 3万年の旅』 隠岐島の黒曜石
島根県隠岐島、久見の断崖からは、時々はイルカの群が跳ねるという比較的穏やかな日本海が見えた。この海を西に行けばやがては朝鮮半島、北に上ればロシア沿海州へとたどり着く。ロープに伝わりながら崖面を注意深く降りると、黄白色の火砕流中から握り拳ほどの黒々とした黒曜石が無数に顔をのぞかせていた。漆黒で不純物が少なく、質のよいのが久見の黒曜石の特徴である。 この場所では、時には一五〇キログラムにもなる大形の黒曜石塊が採掘されるという。私を案内してくれた八幡浩二さんは、父の昭三さんとともに親子二代地元で黒曜石の加工業を行ない、隠岐の西郷町で「八幡黒耀石店」を営んでいる。 八幡さんは、一歩踏み違えると海の藻屑となるこの断崖から、黒曜石を注意深く掘り出し、硯や水差し・ネックレスなど美しい黒曜石工芸品を製作、その製品は島根県伝統工芸品として指定を受けている。その一方で八幡さんは、隠岐の黒曜石を利用し、石鏃やドリルなど石器製作にも取組み、実験考古学にも深い関心をみせている。 隠岐島は、焼火山を頂く島前と、大満寺山を頂く島後からなる火山島である。黒曜石は、その島後にあり、久見・加茂・津井・福浦・今津などの産地が知られている。中でも久見は、最も産出量が豊富で良質な黒曜石原産地である。また、加茂でも拳大ほどの黒曜石が入手できる。重要な点は、氷期が終焉を告げるまで隠岐島は本土と陸続きの「隠岐半島」であった点である。神津島とは異なり、後期旧石器人は陸伝いに黒曜石を運ぶことが可能であったとみられる。 藁科博士の分析によれば、瀬戸内海に浮かぶ島々、現在は瀬戸大橋に結ばれている香川県櫃石島の大浦遺跡・花見山遺跡、羽佐島遺跡、与島遺跡の旧石器時代遺物に、久見・加茂・津井の黒曜石が用いられていた。また、山口県宇部市の南方遺跡、山口市幸崎Ⅱ遺跡でも久見の黒曜石が用いられている。岡山県恩原2遺跡では、ナイフ形石器の文化層には久見・加茂・津井の黒曜石が、細石刃の文化層には加茂・津井の黒曜石が利用されていた。 兵庫県春日七日市遺跡では、AT火山灰(約二万五〇〇〇年前)より下位に位置する第Ⅱ分化層から、局部磨製石斧などとともに久見の黒曜石一点が発見されている。つまり、隠岐島の黒曜石資源開発は後期旧石器時代初期の三万年近くまで遡るのである。 これまで確実に旧石器時代といえる遺跡は、隠岐島自体では発見されていなかった。しかし、ついに九九年一一月ついに、西郷町乗船遺跡で発見された黒曜石の石器が、島根大学(当時)竹広文明さんの鑑定によって細石刃石核であることが判明した。報道した『山陰中央新報』の写真をみる限りにおいても細石刃石核であることは間違いなさそうだ。 これを契機に、島のどこかに眠っているであろうに違いない、黒曜石採取拠点となった旧石器人のキャンプの発見が期待されるのである。 ![]() ![]() ![]()
|
![]() ![]() 資料編の索引
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Link Free Copyright © 2025 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com) All Rights Reserved |