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藩校(明倫館・礼譲館など)
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![]() ![]() 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 藩校代表的な藩校は、会津藩の日新館、米沢藩の興譲館、長州藩の明倫館、中津藩の進脩館、佐賀藩の弘道館、熊本藩の藩校時習館、鹿児島藩(薩摩藩)の造士館などが有名である。特に薩長などの雄藩では教育においても優位に立っており、有能な人材(吉田松陰や坂本龍馬など)を輩出して、後の明治維新にも影響を与えた。 また、越後長岡藩の就正館(文政13年(1831年))や長州藩の有備館(天保12年(1841年))のように藩内だけでなく江戸藩邸内にも藩校を開設した藩もあった。 藩校は広義には医学校・洋学校・皇学校(国学校)・郷学校・女学校など、藩が設立したあらゆる教育機関を含む。藩校は、藩の費用負担により藩地に設立されたが、一部の例外として江戸藩邸に併設された学校もあった。藩士に月謝の支払い義務はないうえに、成績優秀者には藩から就学支援金を給し、江戸等に遊学させることがあった。 全国的な傾向として、藩校では武芸も奨励され、7歳・8歳で入学して第一に文を習い、後に武芸を学び、14歳・15歳から20歳くらいで卒業する。教育内容は、四書五経の素読と習字を中心として、江戸後期には蘭学や、武芸として剣術等の各種武術などが加わった。 きびしいテストがいくつもあったという。藩校の入学における主な試業(試験)は素読吟味で、四書(「大学」「中庸」「論語」「孟子」)のうち、抜粋した漢文を日本語訳で3回読み上げる。、読みの誤謬、遺忘(忘れてしまうこと)の多少で合否が決まる。江戸幕府では10月頃に行われていた。藩校の入学試験に合格しても、次から次へと試験を行わなければならず、落第した者には厳罰が課せられる。特に三度の落第すれば過酷な処分が待ち受けていた。主な処分として、嫡男なら相続の際に家禄が減俸されたほか、罰金や役職制限(の出世の道が閉ざされる)などの処分を科せられることもあり、親の役職を継ぐにもままならず無役のまま生涯を送ることもなりかねなかったという。いつの時代もきびしい。 チャンバラが仕事であるはずのサムライがベンキョーベンキョーと言い始めたのは、徳川家光時代までの武断政治から、文治政治へと転換を始めたころからであった。このころから藩校が各地に設立されていった。日本初の藩校は、寛文9年(1669)に岡山藩主池田光政が設立した岡山学校(または国学)である。名古屋藩が寛永年間(1624-1644)に設立した明倫堂が日本初とも言われる。 全国的に藩校が設立された時期は宝暦期(1751年-1764年)以後であり、多くの藩が藩政改革のための有能な人材を育成する目的で設立した学校が多い。また柳河藩や米沢藩のように江戸時代中期頃に藩の儒臣の自宅につくられた孔子廟や講堂を江戸時代後期に移転、拡大し藩の役職に藩校関係職を設立して藩営化して藩校とする場合も見られる。 各地では優秀な学者の招聘も盛んに行われた。発展期には全国に255校に上り、ほぼ全藩に設立された。藩校の隆盛は、地方文化の振興や、各地域から時代をリードする人材等の輩出にも至った。 幕末には、佐賀藩、金沢藩、山口藩、中津藩、薩摩藩、佐倉藩等の一部の藩校は、国学・漢学に止まらず、医学、化学、物理学、西洋兵学等の学寮を併設する事実上の総合大学にまで発展していた。 明治4年7月(1871年8月)廃藩置県で藩校は廃止されたが、明治5年8月(1872年9月)学制発布後の中等・高等諸学校の直接または間接の母体となった。 1886年(明治19年)中学校令の公布とともに、東京大学予備門が廃止され、全国に文部大臣の管理に属する七校の官立高等中学校(後に(旧制)高等学校と改称)が開設された。各高等中学校のうち、山口、鹿児島、金沢(第四)の本部(本科)、および岡山(第三)、仙台(第二)、金沢(第四)の医学部は、旧藩校 (山口明倫館、鹿児島造士館、金沢明倫堂)や、藩医学校(岡山医学館、仙台養賢堂、金沢医学館)の流れを汲むものであった。これらの旧藩校の後進諸校は、その後(改組・中絶・再興等を経て)大学にまで発展することになった。 この中学校令では、尋常中学校は一県一校とされたため、その他の旧藩校は、県庁所在地で旧制(尋常)中学校に改組できたものは、現在でも新制高等学校として存続しているものが大半である。また非県庁所在地では一旦高等小学校に改組されたものが多く、その後の高等小学校の廃置によって消滅したものも少なくない。 各地の藩校。-近くのものだけ-![]() 学問所(時期不明) 致道館(時期不明) ![]() 進徳館(1715年)→篤信館(1865年) ![]() 惇明館(1808年)→現・福知山市立惇明小学校 ![]() 学校(元禄ころ) 邁訓堂(1824年) 広徳館(1824年) 鉄門館(1824年) ![]() 講堂(仮)(1729年)→教先館(1870年) ![]() 振徳堂(1766年) 養生斎(天明ころ) 成始斎(天明ころ) ![]() 又新館(1849年) 崇廣館(1858年) ![]() 礼譲館(1818年)→文武館(1868年)→現・宮津市立宮津小学校 ![]() 明倫斎(天明ころ)→明倫館(1862年)→現・舞鶴市立明倫小学校 ![]() 敬業堂(寛政ころ) ![]() 稽古堂(1833年)→女学校(1870年 - 1871年) 稽古堂(1834年・江戸) ![]() 学問所(1775年)→弘道館(1782年)→現・兵庫県豊岡市立弘道小学校 ![]() 講正館(1773年)→講正学舎(1900年に小浜藩主酒井忠道により学生寮として創設) 順造館(1774年)→現・福井県立若狭高等学校 必観楼(時期不明) 信尚館(1818年) ![]() ![]() 『舞鶴市史』 藩学
田辺藩「明倫斎」の創立は天明年間といわれるが、それより以前、享保年中(一七一六~三五)、第三代藩主牧野英成は、京都の儒者中村惕斎の門人河村久八を新規召し抱え、藩士杉本剛斎とともに藩の学事を担当させて、藩士子弟の教育に意を注ぎ文教振興の基を開いた。 剛斎は、はじめ藩士増山勘九郎に就いて学んだが、氏の勧めで大坂に遊学し、惕斎の門人の鈴木某に師事して程朱の学を学び、学成るに及んで帰藩し医儒として藩主英成に仕えていた。 次いで天明年間(一七八一~八八)、第六代藩主宣成(ふさしげ)の代に至って、初めて田辺城内三の丸に「明倫斎」を築いて藩校を開設し、闇斎学派の久米訂斎門人の御牧忠蔵を聘して学事をつかさどらせて藩士子弟の教育に当たらせた。これについて 「滝洞歴世誌」(「田村家文書」)は次のように記している。 戊甲(天明八年) 近年大坂ヨリ田辺殿様ヘ三牧忠蔵と申儒者御抱被遊 御家中学問稽古被成町者皆行 在大庄屋小庄屋共御家中節句御礼御免にて聞きに参り折々聞参 「明倫」とは、孟子勝文公篇の「設為庠序学校以教之、皆所以明人倫也、人倫明於上、小民親於下」により命名され、人間の道を明らかにして教えみちびく学校のいいである。 その後、京都浅見絅斎門下の岡田貞治、御牧忠蔵の子御牧柔次郎らを招いて儒員とし、忠蔵の後を継いで、明倫斎で教授させた。 文政・天保期(一八一八~四三)、第八代藩主節成(ときしげ)は、藩士速水貞亮簡軒を儒官に抜てきし、更に嘉永三年(一八五〇)、江戸で儒者・文章大家の名声を博していた当藩藩士野田希一笛浦を帰国させて、藩校明倫斎の儒員として藩学の刷新を図らせた。笛浦は儒員・側用人として仕え、学問所奉行、明倫斎学職となって勧善寮・蔵修寮を増設し、藩学に昌平学派を育成した。 しかし、田辺藩学における学風は天明以来、闇斎学派朱子学に終始したので、笛浦の昌平学派はやゝ趣を異にしたため、笛浦没後(安政六年)、両派の間に一時抗争の種となった。 文久年間(一八六一~六三)、第九代藩主誠成(たかしげ)の代に藩校明倫斎を増改築して「明倫館」と改称し、学校職員を拡充し、新たに藩士水谷八十七郎寒水を抜てきして儒員とした。更に安政六年、三上新左衛門影雄是庵(奥平棲遅庵玄甫門人)を聘して学事を担当させて拡張を図ったが、是庵は慶応三年辞して郷里伊予松山に帰った。 田辺藩における一藩の学風は朱子学派をもって終始し、なかでも闇斎学派が中核をなした。左にその系図を略記する。 (闇斎学派) 山崎闇斎 -佐藤直方-稲葉迂斎-稲葉黙斎-奥平棲遅庵玄甫-三上是庵(○藩儒) -浅見絅斎-若林強斎-西依成斎-古賀精里-野田笛浦(○藩儒) -三宅尚斎-久米訂斎-御牧忠蔵(○藩儒)-御牧柔次郎(○藩儒) (「近世藩校における学統・学派の研究」笠井助治) 増改築した田辺藩学問所は、大手門を入った東側にあって、明倫館と勧善寮と蔵修寮とから成り立っていた。明倫館か中央にあって南向きとなり、勧善寮はその前東側にあって高等学問所とし、その反対の西側に蔵修寮が建てられて、学問所奉行およびその係員の詰所となっていた。なお、明倫館は建坪五五坪、勧善寮は建坪一七坪半、九坪、一三坪七五の三部屋、蔵修寮は建坪二〇坪、一四坪半の二部屋を有する建物であった。 以下田辺藩学校の諸制度・諸規定について「日本教育史資料弐」に基づいて概説する。 教育方法 藩士族卒の子弟の教育方法として、士族の子弟は八歳より元服の期に至るまで必ず入校させる。しかし卒はその志望に任せる。成童の後は志願者で優等の者は学寮に入れて教育を施すのを本体とするが、家塾修業を希望する者があれば許可する。藩費をもって他国へ遊学させ、また私費で遊学する者を奨励補助する等は一定のきまりはないが適宜行う。月次講義を実施しており、この席へは上執政から下士族の子弟に至るまで、勤務不勤務を問わずすべて成童以上は聴聞に出席しなければならない規定とした。しかし、卒はこれを問わずとしていることから、藩の教育が士族中心のものであることが明らかである。 平民の子弟の教育については、藩にはその設営がなく、適宜家塾寺子屋等で学習するものであるが、藩としてはこれを禁止した事はない。 士族の子弟が八歳で入学すると「小学内外篇」「家礼」「四書」「近思録」 「五経」の順序に素読を授け、生徒をその程度に応じて小学生、四書生、五経生、学頭生(卒業生の呼称)の四科に分ける、「五経」を終れば歴史を加え、一二歳になると「小学」会読授業を行うが、年輩にならなくとも進学の度に従って会読、輪講をさせる。修業時間は、大抵辰時より講釈・会読・輪講、午時より読書、未時より習字・算術などを行い、終日入校させたが、文学、武術互いに出席出来るよう、多少差異のある時間割を組んで実施した。 学科 専ら漢学を主としたが、安政年間より洋学、医学も修業を希望する者は許可し、藩費をもって修業させ、また、算法・筆道・習礼等の授業を行った。 弓馬槍剣砲術遊泳も同様すべて学校が諸入費を賄った。弓槍剣柔木馬は学校構内に稽古所を設け、時間は文場に差し支えない様各師家に任せ、砲術は私家・家塾において、弓は人家を隔てた場所に設けた各矢場において稽古させる、遊泳は毎年五月より八月まで、小人・大人一緒で近傍の海辺で練習する。また、弓・槍・剣・砲・柔は気候に応じて、暁天から行う寒稽古や、夜稽古と称して午後一〇時まで修業した。 文武両道修業が目標であるので、文武に比重はないが武芸にはその定限がない。文学年齢は八歳になれば必ず入学させ、二〇歳までは事故のない限り退校することは許されない。 試験法 学科については春秋試験は行わないが、小学生は、「小学」「家礼」の素読が終了すると試験のうえ、四書生に上げる。「四書・近思録」を読み終ると五経生に進め、「五経」素読が終ると学頭生へ挙げる。 また、少年は年齢に従って相当の課程を立て、素読進歩の者へは年末試験の上、翌年開校の節、その状況により四書集註、五経素本、四書白文附点、近思録、小学、家礼、四書白文無点、訓子帖のおよそ八等に定めて賞与し、格別優等の者へは別に賞を与えるなど文武奨励にっとめた。 例えば、文学については少年の皆勤者には年数に応じて扇子、半紙・奉書、書籍を賞与し、大人寄宿の出精者には肴料・目録金、また学問格別上達者は、秩禄を増しまたは月俸を加えられた。武芸について出席良好の少年生徒には扇子、半紙、大人には酒・吸物・肴料、段入には目録金、肴料を褒賞された。いずれも開講の時に授与された。なお、格別出精者へは麻上下時服等を、上達の者は文学の場合と同様に賞与され、また、師家に対しても家芸出精、門人取立宜敷者は、上下時服あるいは増禄加秩、席進などが行われた。 武術の試験は、藩主在城の節は槍剣柔弓馬は城内にて一覧し、小銃・大砲は別に場所を設けた。弓馬槍剣柔は例月輪番に一覧あるいは年一回それぞれ門弟一統に一覧など時々変更があった。砲術は各流派においてあらかじめ日を設定しておいて、年一回一覧する。藩主江戸在府のときは家老が代見する。 職員・生徒 藩校には舎長(元治二年より学問所奉行と改称)、学頭、記録方、記録方見習等の職員があって、それぞれ上士、中士、あるいは卒より出勤した。 舎長は文武場の入費総ての事務を指揮し、学頭は学事を担当して諸生の教育を司る。記録方は舎長の意を得て諸賄簿及び文武入出簿等を詳細記載し、また学頭の談を得て書籍の出入等を記録する任に当たり、道具方は文武場の諸物品を管理し、堂中の清掃を担当した。その他、教員学頭・堂中取締・寄宿舎取締・授読・同補助・糾誡・習字師・同手伝・算師・習礼師・門候給仕兼等、職員概数五〇余名を数える。少年生徒の数はおよそ二〇〇~三〇〇名内外、うち寄宿生は二四、五名ばかりと少ない。 学校の経費は、文政のころは一か年現米一二〇石を当てていたが、維新後は現米七五〇石を支出した。学費について藩士に賦課したことはなく、入学金・謝金も徴収していない。なお、寄宿生は飯米のみ自費で、その外はすべて校費で賄っていた。 藩主臨校 藩主は正月例開講の節は臨校し、他は城中にて毎月定日を設けて講義を聴聞し、生徒の試業にも同様時々聴聞したが、殊に、第九代藩主誠成は熱心で、月々の講義はもとより、生徒の試業、輪講等にも毎月あらかじめ日を定めて、自ら臨校聴聞した程である。 また、江戸藩邸においては、第七代藩主以成の時、邸内に仮校を設け、「済美堂」と号し、代々林大学頭を師とした。以成は古賀弥助(精里)の門に入り、時に私邸に招いて講義聴聞し、また、太田錦城の門人三谷潜蔵や佐藤一斎にも教えを請う熱心さであった。 以上、田辺藩校の概要を述べたが、藩校が家中藩士の子弟の教育を施すことを目的としているため、その教育方法には、「卒ハ其ノ志望ニ任ス」「尤卒ハ之ヲ問ハス」とあって、下士卒の子弟の教育は別扱いとしていた。 これらについて田辺手代町の「郷土遺風と其人物」(舞鶴図書館蔵)には士分校と下士卒校とに分けた時間割が編成されており、追記として「撃剣(随意科)は一年を通し夜明より八時まで、但し下士卒の子弟は士分校生徒の横暴を恐れ、十七、八歳に至るまで一人も出場せず」と記している。更に、 男子七歳に至れば初めて藩校に入学す(京口、宮津口のものは入るものと否らざるもの随意なりしも、当町は挙って入学する風あり) 三月節句の翌日、町の年長且つ優等生一人全児童を引率し、早朝より学校関係の役人、教員、首席家老等の邸に至り、引率者は一々氏名を述べ、明日より入校の旨を依頼し、一同頓首して去る。此時初めて御門より出入、城内高貴の邸宅、往来にて高貴に会する作法等実地に就て丁寧に授く、夕方帰宅赤飯を焚きて内祝をなし、翌日より一同と共に登校す。別に朝出と称し、朝食前二時間余読書を受く、是れ児童に早起運動の良習慣を与へん為め、町の設けたる私設機構にして、町の先輩無報酬にて是に任す(教師は町の元老協議にて定む)、福井の時代は佐野一作担任、同氏出張其他支障ある時は布川、雨森氏等交互に之に代られたり。 昼食後三時頃まで寺子屋に至り習字す、当時服部寛右衛門氏担任、しかし是れは前記とは異りしにや、盆、正月には報酬を呈す、本寺子屋へは本町子弟以外の寺内町児童も多数来り学べり。 と、入学の際の様子を記しているが、藩士子弟の藩校入学時について、先の藩校諸規定は次の通り定めている。 少年入学ノ節礼服着用 扇子筥ヲ以テ教師ハ相見ノ学問所掛り諸役員ヘハ回勤ス 文政年中相見ノ儀廃止シ平服ニテ回勤ス 藩学を支えた人びと … ![]() ![]() 『丹後宮津志』 宮津藩學問所
宮津藩の學問所は文化十五年二月の創立に係り始め禮譲館と稱し舊城馬場先口中橋東詰にあり、後ち文武館と改稱す今の宮津小學校の敷地即ち舊禮譲館跡なり、郡衙所蔵宮津藩學制沿革により次の一節を抄録す。 一、舊藩主松平宗發古今國家ノ盛衰ハ全ク人才ノ有無ニ係リ人才ノ有無ハ全ク文武ノ弛張ニ本キ候儀卜存シ爰ニ學校ヲ設立シ人才ヲ養成セント藩士澤邊淡右衛門ニ命シ學制ノ諸則取調致サセ候而シテ文政元戊寅年二月開佼仕候是ニ於テ春秋上丁聖像ヲ祭祀シ專ヲ聖教ヲ尊崇仕候或ハ學生長進ノ見込アル者ハ藩費ヲ以テ他國ニ遊學セシメ或ハ藩士二三男ニシテ學問勉励スル者ハ別家ヲ命シテ之ヲ奨勵スタ等ノ儀ニ御座候、其後松平宗秀ニ至リ先考ノ志ヲ繼キ先ツ學校ヲ建テ廣メ目見以下ノ入校ヲ許シ安政五年ニ至リ校内別ニ寄宿寮ヲ設置シ或ハ藩費他国ニ近學ノ人員ヲ増加シ或ハ臨校候而生徒ト共ニ經義ヲ講究致シ又ハ臨時城中居間ニ於テ學生ヲ召集シ講義講究仕候等奬勵仕候。 禮讓館學制によれば館内學舎と學寮の二階に分ち諸士の子弟八歳より入館を許し其十五歳に及ぶものは入寮を許す、授業は毎月二七の日は暮れ六ツ時より三八の日は七ツ時より四五及び九十の日は朝五ツ時より始めて晝九ツ乃至夜の五ツ時に終り毎月一六の日休業とす。而して課程は外舍生は小學、敬齊箴、童蒙訓、鞭策録、國史略、四書の素讀及び習字は草書、算術は八算見一を授け、内舎生は五経、靖獻遺言、近思録、十八史略、皇朝史略、日本政記、外史の素讀及び楷行書の習字異乗同除、同乗異除、差分等の算術を授け、上舍生は四書五経の讀誦。講義竝に史記、六国史、文章軌範、等の文章開平開立求積等の算術を授け、以上を修得せるものを逹枝培根の兩學寮に入れ既修學科の講釋及び歴史として大日本史、賢治通鑑、文章に唐宋八家文、作文に論語文序文、算術に點竄を課することゝとせり。館中演武場を設け剣術、鎗術、柔術、馬術、弓術、居相、習禮等を修業せしめ外に館外に於て砲術、醫術、游泳術等を稽古せしむることゝし、職員は學監、學頭、句讀師、武術師範、習字師、世話役その他上下無慮三四十名俸祿は年一石八斗乃至八石六斗四升、館内聖廟に孔子の聖像を安置し毎年二八月上丁釋奠祭を行ふ、藩主在城の年は必ず釋采に臨稜し毎月三八の日には臨校學生と共に聽講せらるゝを例とせり。弘化二年改宮津藩年中行事 曰 正月十八日 一 於禮譲館開講有之辰之刻罷出ル 但前々ハ案内有之候上罷出候得共只今ハ案内無之 一 開講罷出候面々一同 聖像に拝禮之事尤も麻上下着用 但開講相始候節長袴已上一同總教舍東西へ相分れ着座、御家老は北之方上に着座之事 二 月 一 毎年春二月秋八月兩度上丁之日を以 聖像御祭被仰出候ニ付御祭日御代拜之事 但半上下熨斗目着用之事 御在城中 殿様御参拝 御留守中に而も 若殿様御本丸御住居之節は 御参拝 一 右御祭日御参拝御代拝相濟候上長裃已上拝禮引續諸士御目見得已上竝畢生之向一同廓上下着用拝禮之事 但拝禮相濟候上ニ而神酒洗米頂戴之事 宮津藩學制沿革館規を掲げたり次の如し 條々 一、文武二道共ニ忠孝チ以テ基本卜可致者勿諭之義ニ有之候得共猶又心得違無之様修行可致事 一、禮儀遜譲ハ忠孝ノ外行ニ顯レ候筋ニ候得者坐立言語ニ心ヲ用ヰ可申事 一、學館ハ進徳養才ノ御場所ニ候得者雑談座興等屹度相愼可申事 一、諸藝術師範ノ指圖ニ隨ヒ謹愼ニ教ヲ受往々御用立候樣専一ニ心懸可申事 一、尊卑長幼ノ序ヲ正シ聊モ我慢ノ働有之間敷事 右之慷々堅ク相守可申事 文化十五年戊寅二月 慶應二丙寅八月更に學制を改更し明治二年文武館と改稱し依然文學と共に武術を講究せしも明治四年廢藩の爲めに一時門扉を閉やの止むなきに至れり。 三、寺小屋、私塾 以上は宮津藩士の子弟を教育する學校のことにて、而かも藩士にても最初は目見得以上の子弟に限られ、以下の子弟は未だ其の惠澤を受けず、後ち入學資格を擴張して藩士の子弟は皆授業を受くること丶なりしも、一般庶民即ち百姓町人には其の恩澤尚ほ未だ洽ねからず、茲に於てか庶民の子弟は最寄寺院に参集して簡易なる普通教育を受け、又は神官、醫師若くは藩士を師匠さして通學し、本業の傍らに於て日常生計に必要なる讀み書き算盤などを教授さられしものなり、教科書の多くは習字手本にいろは、名頭、町村名、國産、千字文などを用ひ、讀書に童子教、實語教、商賣往来、百姓往来などを用ひしも概ね素讀にて講釋をすること殆んどなく、算術は加減乘除を専ら教え開平開立の如きは正矩術正潔術など稱へて寧ろ高等算術の部類に入れ、讀書の四書五経などヽ共に専問の研究にあらざれば授けず、而かも之れ等の修學悉く一箇所にて修得し得るに限れず當時の僧侶及び藩士は算盤を手にするを賤しみし程なれば一科毎に師匠を替ゆるが如き不便往々ありしといふ。與謝郡衙に維新前後の寺小屋私塾を取調たるものあり就て宮津町及附近の教育状態を檢するに、習字を主として教授せしものに藩士安智の鈴木以一、吉原の茂原彦兵衛、讀書を主とせるものに藩士柳繩手の平田養一郎、村松空山、習字讀書を兼ねるものに藩士大久保の飯原精之助、吉原の雲出章介、波路の僧侶富田大闡和尚、森彭州和尚、算術を主とせるものに大久保の大石精義、魚屋町鈴木直徳などあり、生徒は女子少部分あるも大抵男子にて少なきは二三十名多きは百名以上に達するもあり、但し藩士の私塾寺小屋には町人百姓の子弟よりも寧ろ藩學に入るの資格なき士分以下の子弟を教養せしもの多ければ一般の町人又は地廻り近在の百姓の子弟は更に此の他に師を求めて教を受けたるは事實なり、然れども當時庶民の修學程度は文字は人名町村名を知り得るに足り算術は八算見一等普通相場の算勘を爲し得るを限度とし女子は裁縫の外は文字を授くるを厭ひし位なれば殆んど目に一丁字なく、男子にしても文字算勘を解し得ざるもの半數以上ありしといへば文化の程度推して知るべく、明治五年學制頒布により六年小學校開設せられて 寺小屋自ら頽れたり。 ![]() ![]() 『福知山・綾部の歴史』 厳しくも自由な風に吹かれて
『天田郡志資料』●福知山藩校・惇明館 富国強兵・領民善導に必要な人材の育成を目的とした藩校は、全国二七六藩中、二一九校に達したが、その八五㌫は江戸時代後期(一一七年間)の設立である。福知山藩でも、朽木家六代綱貞が古義学派の京都の儒者岩渓嵩台を招いて学術の振興につとめ、七代舗綱の代には藩校の具体的構想が練られ、「惇明」という校名まで選定されながら実現しなかった。八代昌綱の代、岩渓は福知山藩士となり、積極的に活動を開始し、一〇代綱方の代、文化六年(一八〇九)ついに内榎原門外稲荷町に学館が新築され「惇明館」と称した。 開校の中心人物であった岩渓が四年後に死去した後を実質的に引き受けたのは譜代の藩士近藤善蔵である。近藤は若くして京都の堀川塾で伊藤仁斎の流れを汲む伊藤氏の家学古義学を学び、一時江戸で佐藤一斎について朱子学も研究したが、終生古義学を離れず、文政一二年(一八二九)から明治三年(一八七〇)まで実に四〇年間一貫して惇明館の運営、学生の指導に当たった。 惇明館の充実に最も力を尽くしたといわれる一一代綱條が、佐藤一斎の愛弟子であった関係から、天保二年(一八三一)一斎の撰「惇明館記」が講堂に掲げられた。これを藩学の基本としたと見られがちだが、必ずしもそうでもなく、元治元年(一八六四)に招聰された「但馬聖人」こと陽明学の池田草庵が、慶応二年(一八六六)の藩校大拡張に際して「重修惇明館記」を掲げて新風を起こした。同年に始まった江戸留学生は、みな異色の浪人儒者田口江村に入門するなど誠に自由で、物事にとらわれぬ学風と言うべきである。惇明館では、藩士の子弟は八歳で入学し一五歳で卒業する七年制で、これを四書五経の素読を中心とする小学科二年、講義を中心とする大学科五年に分け、学年末の試験によって進級が許された。学資は無料であるが、学生は藩校学習の余暇に、それぞれの好みに応じて適当な師を求め、学術・武芸の錬磨に励んだという。学生数は、明治維新前は寄宿生二〇人・通学生一〇〇人、維新後は寄宿生二五人・通学生一三〇人。優秀な者を寄宿生にして特別教育を行なったようで、江戸留学生は寄宿生の中から選抜されている。学校職員は教職約二三人(素読方一三人、講師七人、習字方三人その他)で、維新後は二六人程度となった。他に事務方・学僕が在勤した。 慶応二年、校地を丸ノ内に移し、規模・施設を大拡張した後は、漢学・習字・礼法・兵学の他、おいおい算術・英語・遊泳などを加えた七科目を正科必修とし、弓・馬・剣・槍・砲術・柔術などの武芸も兼修させた。明治三年、庶民の子弟にも入学を許し、これに応募した者たちの中には後年、東京帝国大学において欧米倫理学の草分け的存在になった中島力造博士もいた。同四年一一月の廃藩置県に伴い、惇明館は六四年の歴史を閉じ、新設小学校に「惇明」の名を残した。少なくとも明治中期までの小学校の教育者は、惇明館の卒業生である士族に独占されていた。(根本惟明) 惇明尋常高等小学校 福知山川字内記 電話一○二番
附実践商業学校 仝 福知山幼稚園 (字岡ノ下) 電話五八八番 (沿革) 校名は書経の惇信明義、崇徳報功の句に依り福知山城主朽木氏八代舗侯の撰せられたもの詳細藩学史に載せてある明治維新学制の頒布さるゝや、丸ノ内なる藩学を開放して惇明小学校とす、これが本校の創始で明治六年である。当寺は男児女児を分ら女子部は丸ノ内旧家老古賀氏の邸で男子部と相封して居た。かくて明治十二年六月同所(今の内記二丁目から仝三丁目に亘る)に新校舎成る、後明治三十六年現在の地に移転したのである。 さて明治十九年惇明尋常小学校となり、仝四十一年四月高等小学科併置、惇明尋常高等小学絞と改称今日に至る。これより先三十八年福知山実業徒弟夜学校を、大正三年一月福知山町商業補習学校を設置したが昭和四年四月以上両校を合せて実践商業と改称した。仝六年四月福知山町立裁縫専修所附設。仝七年四月隣村曾我井村、本町へ併合に依り、校下甚しく拡大した。仝十五年七月町立青年訓練所を、昭和七年四月町立幼稚園を併置(幼稚園は昭和四年四月岡ノ下へ移転)昭和十年九月三十日前記訓練所、大正校附設実業補習学校、裁縫専修所を廃止し翌十月一日福知山実業青年学校を設置す。(昭和十年三月勅令第四十一号に依る) 只実践商業学校は各種学校として存置。 現校舎は明治三十六年、東校舎(元藩学址昔ハ稲荷町)は明治四十三年新築.西校舎二棟(旧十六軒町より袋町の一部)は大正十三年尚其他は昭和二年及四年の増築に係る。爾来本町の発展に件ひ逐年激増する児童を収容する余地なきを以て、昭和九年九月校下の一部を割いて昭和尋常小学校を新設したのである。 尚校史上特記しておくのは昭和四年四月十日大日本蚕糸共進会の当地に開催の際本校を其の海上に充てられ畏くも 閑院宮殿下の台臨を仰ぎ本校児童の合同体操並に福知山踊を台覧に供し奉り、其砌御手植の松を賜はりたることである。爾後本校は毎年この佳き日を光栄記念日として、荘厳な式を挙げ、当日の行事をそのまゝに行ひ永遠にこの光栄を記念することにしてある。… ![]() ![]() 『小浜市史』 藩校順造館
七代藩主忠用は、みずからも儒学に親しみ、後に述べるように「朱子社倉法」に基づき領内に社倉を建て、儒学の教えを政治の場で実践しようとした藩主であったが、藩士の教育にも意を払った。忠用は、はじめ仁斎学派の中村彦六を召し抱えたが、のち崎門学(きもんがく)派の有力な一派である京都の望楠軒若林強斎の門人であり強斎の死後望楠軒の講主であった小野鶴山を招いた。この招聘は、小浜藩士で同じ強斎門下の山口春水の推薦で実現し、藩校の開設へと繋がる出来事であった。なお春水には、若林強斎の言行を記した『雑話筆記』 『雑話続録』のほか兵法書である『孫子考』がある。 明和七年(一七七〇)小野鶴山が死去し、そのあとを受けて望楠軒の四代目の講主であった西依墨山(丹右衛門)が招聘された。そして、安永三年(一七七四)正月、西依墨山を教授として藩校「順造館」が大手橋を渡ったところに開校した。順造館の名は漢籍の「道に順って、士を造る」にちなんで名付けられたものである。小野鶴山ついで西依墨山と望楠軒の講主が小浜に招かれ、また多くの藩士が京都に学び、藩もさまざまな財政的援助を行ったこともあって、藩校順造館は崎門学派の一拠点となった。 開校の折の学則等は知られていないが、それから八年後の天明二年(一七八二)のものが残されている。それらから順造館の概要を窺っておこう。その第一は、藩の老中の名で出された「順造館惣壁書」と呼ばれた定であり、藩校内のことは教授が指揮すること、校内では礼儀を守ること、校内では「程朱之学」以外は異学として禁止することなどが定められた。第二は、順造館の教授の名で出された「規則」であり、藩校の大原則ともいうべきものであった。そこでは師弟朋友の交わりは信義をもってあたることが「第一義」とされ、「経伝」を学ぶにはその順序があるので勝手に先に進まず指揮を受けて学ぶよう求め、「経業」を学ぶに余力があれば、歴史、国典、武備を学ぶべきだとしている。 第三は、同じく順造館の教授の名で出された藩枚内での規則である。まず第一条には壁書の定と規則とを遵守すること、第二条には礼儀を重んじることを掲げている。第三条では、開校時刻を辰の刻(午前八時)、閉校時刻を未の刻(午後二時)、会読などで残る場合は未の刻より後までの在校を許すとし、第四条では熟生の日課は「司業」の指図を、小学生は「句読師」の指図に従うことを、第五条では、素読生は句読を受ける順に二の間で待ち順に句読を受けることを命じ、第六条では、素読生の内で校内で復読するものも在校を許すとしている。第七条では、句読の補助は句読師の指図で先輩の書生が勤めることを、第八条では、教える場で訓読の誤りを聞き付けたときには互いに正しあい聞き捨てにしないことを、第九条では、藩の書物を詳しく見たいものは「司典」に手形をもって願い出ることを定めている。最終条の第一〇条では、校内の万端は世話役である「監丞」の指図を受けるよう命じている。 第四は、「監丞」の出した校則ともいうべき定である。第一条では、入門ならびに開講・終講のときには礼服を着用すること、第二条では学問所への出入りは勝手口からすること、第三条では学問所を出るときにはまず先生の所へ行き一礼をし、ついで監丞にも会釈をし退出すること、第四条で講書・素読の喫煙を禁じ、休息時に溜の間の茶所で茶や喫煙すること、第五条で昼食は正午に茶所ですること、第六条で日々の授業にあたっては規則や定を守ること、もし違反するものがあるときには監丞がそれを糺すこと、第七条で講書が行われるときには素読・手習に出ている面々は北の縁つらに詰めること、第八条で退出に際し先を争ったり、履物を取り違えたり、騒がしくせず、行儀正しくすることが定められている。 順造館が開校したのに続いて、江戸の藩邸には下屋敷に講正館、上屋敷に信尚館、中屋敷に必観楼があいついで開校している。 明治になって文部省が各地の教育事情を調査したときの報告書によれば、順造館での教科書は、小学・四書・五経・近思録・靖献遺言・皇漢歴史がおもなもので、八歳から一五歳までを内舎生として素読を行い、一六歳以上を上舎生として歴史および経義の講習をさせた(『日本教育史資料』)。 順造館その後 教授は、西依墨山あと墨山の子孝鐸(三郎平)、孫の孝博(求三郎)と父子がその職に就いた。孝鐸の教授の時期にあたる享和二年(一八〇二)は、藩校順造館にとってなにかと事のあった年であった。その第一は、藩校の建物が建て替えられたことである。この時の棟札が現在も雲浜小学校に残されている。なお、順造館の門は、この時のものではなく天保五年(一八三四)に建てられたものである。 第二の出来事は、この建て替えのなった学門所で経書開講のあとの神書開講をめぐってのものであった。これより先、孝鐸と神道家の奥田十左衛門とのあいだで「神道儒道教導之筋」で食い違いがあり論議となったが、老中の小原操は両者には食い違いなしと裁定を下していた。そこで新しくなった学問所の開講にあたって経書に次いで神書の開講が意図された。孝鐸は、学問所では「経業」を第一とする定があることを申し立てそれに抗し神書の開講を阻止しようとするが、結局経書開講のあと神道に誓約しているものだけが学問所に出てきてそこで神書の開巻をし、その後は校内で差し支えのないときには神書の講談を認めるという妥協案を提起した。この結果どのようになったかは知ることは出来ないが、おそらく後の藩校での教授内容からすれば、神道の講談は一時的に認められたことはあっても結局は藩校から排除されたものと思われる(「鈴木重威文書」)。こうした問題が起こった背景には、このころ多くの藩校で漢学の他に国学が教えられるようになっていたことがあった。 ちょうどこの時期に教授の任にあたっていた三人から学問所の現状が訴えられている。そこでは、家中の子供たちのうちには一向に学問所に出席しないものが多くあり、また年長のものでも講書には出てきても熱心なものはなく、幼年のものは取り続くものはなく読書さえ済ますものがない状況であり、学問は読書・写文字ばかりを稽古する場所のようになっており、実学の筋が立たなくなっているので、家中ののものに年限を決めて学問所に出席するよう申し渡すことを求めている(「鈴木重威文書」)。 この折に申し渡しがあったか否かはわからないが、これに先立つ天明六年(一七八六)には「近来一六講書之筋出入至て少ク、如何之事ニ候、以来故障無之面々可被罷出候」と、学問所での講書への出席を促している。また、寛政九年(一七九七)にも「学問所出入並武芸之儀ニ付、去年御発駕前に被仰出候趣も有之候所、一六之講日二は其後出入も相増尤之事ニ候、其余講日も有之儀、尚又出席も有之様ニと存候」と学問所への出席を求めている(『酒井家編年史料稿本』)。このように藩士やその子供たちの学問所への出席は、小浜藩に限ったことではないが、かならずしもかんばしいものではなかった。 孝鐸のあと順造館の教授にはその子の孝博がなったが、孝博は学術修業のため京都に滞在すること多く、順 造館での教育は稲葉良助や中堂彦蔵らが主導していた。孝博は、小浜不在の問も順造館教授の役を解かれることはなかったが、彼の死後しばらくは教授が不在であったようである。文久二年(一八六二)になって京都の儒者であった大沢敬邁(雅五郎)が登用され教授となった(「由緒書」)。明治維新後のことであるが、大沢はそのころ多くの藩校での改革と動きを受けて、これまでの漢学専修の運営を改変し、習字・算数・洋学を取り入れ、また学寮を建てて教学に勤めた(『日本教育史資料』)。 私塾と寺子屋 「拾椎雑話」は、寛永・正保のころはわずかに「腰抜西堂」とよばれた高成寺の敬之和尚が、藩士の子供や医者の家のものに漢字の素読を授け、西津の通り町の薬種屋清兵衛が子供に文字の読みようを少々教えただけで、小浜で物書く人も少なく無筆のものが多く、まして書物を読むことのできるものはなおさら少なかったと当時の状況を記している。しかし、寛永十七年(一六四〇)の小浜の家職調には子供に文字を教えることを専業とする「手習子取二人」がみられることは、いまだその数は少ないとはいえ、小浜での庶民教育が早く始まっていたことを示すものである。なお、天和三年(一六八三)の小浜の家職調には「手習于取五人」がみられ、庶民教育の拡大を窺うことができる。 ついで「拾椎雑話」は、二代藩主の忠直が町人たちに講書を聞かせるために藩の儒者の一人である橋本才兵衛に命じ、妙玄寺で講書を行わせそこに町人が出席したことを契機に、武士はもちろん町家でも学文の道が広まり、さらに三代藩主の忠隆の好学もあって、「下々まても四書五経は素読致す」ようになり、元禄・宝永(一六八八~一七一〇)のころには、町に宝井卜元・堀口玄棟・片岡三楽・伊東春琳・桑村丈之進・木戸源之丞などの好学の者が多くでるようになったとしている。こうした状況のもとで輩出した学者の一人に松浦庄蔵がいる。松浦庄蔵は塗師三太夫の子として生まれ、五歳より片岡三楽を師として書を学び、その学才の勝れたことを藩主忠隆に認められ召し抱えられ、江戸では林家に学び、のち将軍綱吉に召し出され幕府の儒官の一人となった(「拾椎雑話」『寛政重修諸家譜』)。 表52は、明治初年に調査された小浜市域の私塾の、表53は同じく寺子屋の一覧である。私塾のうちには寺子屋と区別のつきがたいものも含まれているが、出典の『日本教育史資料』に従っておく。私塾は一二あるが、このうち上根来・中ノ畑・下根来の三つの私塾は、その学科や他の寺子屋の様子からして私塾というよりは寺子屋とみなすべきものである。とすれば、私塾は九、生徒数一六〇人を擁する三省堂を筆頭に六つが小浜に、三つが西津にあり、その生徒数は総数七八八人、うち小浜が四七九人、西津が三〇九人である。男女の比率は男子五五八人、女子二三〇大で男が七一パーセントを占め、小浜における男子の比率は六二パーセント、西津のそれは八四パーセントと小浜のほうがその率は低く、また男女の比率も接近しており小浜において女子教育がかなり進展していたことが分かる。 寺子屋は、上根来・中ノ畑・下根来の三つの私塾をも加えると、市域内にあった寺子屋の数は二三となり、その普及を窺わせる。生徒の総数は六四四人、うち男が五九〇人で全体の九二パーセントを占め、さらに女子の生徒のいるのは城下に近い西津の湊・上竹原・府中の寺子屋だけで、他のすべての寺子屋の生徒は男子であることからも、農村部での女子数育はほとんど発達していなかった。 塾主は、小浜では平民すなわち町人が多数を占め、西津ではすべて卒(足軽)・同心身分のものである。寺子屋の習字師は府中と田島の医者を除いてすべて僧であり、市域の寺子屋がまさに寺院を核に展開していたことを窺わせる。 江戸期の庶民教育江戸時代の庶民の教育は、一般に家庭生活および社会生活の中で行なわれた。当時は、徒弟奉公や女中奉公などの奉公生活、また若者組などの集団生活が広く行なわれ、その中での教育も重要な意味をもっていた。また社会教育施設としての教諭所も発達し、心学講舎や二宮尊徳の報徳教なども庶民教育の上に大きな役割を果たした。 江戸時代中期以後は寺子屋が発達し、庶民の子どもの教育機関としてしだいに一般化して、重要な位置を占めることとなった。寺子屋は、近代の学校教育との関連からも特に注目すべきものである。 寺子屋は、庶民の子どもが読み・書きの初歩を学ぶ簡易な学校であり、江戸時代の庶民生活を基盤として成立した私設の教育機関である。寺子屋の起源は、中世末期にまで遡り、それは、中世における寺院教育を母体として発生したものと見ることができる。「寺子屋」といい、「寺子」という呼称もここから発生したものといえる。寺子屋は江戸時代中期以後しだいに発達し、幕末には江戸や大阪の町々はもとより、地方の小都市、さらに農山漁村にまで多数設けられ、全国に広く普及した。明治五年に学制が発布され、その後短期間に全国に小学校を開設することができたことは、江戸時代における寺子屋の普及に負うところがきわめて大きいといえる。 寺子屋の教師は師匠(手習師匠)と呼ばれ、生徒を寺子といった。寺子屋の師匠の多くは同時に寺子屋の経営者でもあった。その身分について全国的に見れば平民が最も多く、武士・僧侶がこれに次ぎ、そのほか神官・医者などが経営する寺子屋もあった。 寺子屋は高尚な学問を授けるものではなく、庶民の日常生活に必要な実用的・初歩的な教育を行なう施設であった。寺子屋の学習の大部分は「手習」であり、それに読物が加わった。江戸時代の町人の生活と密接な関連をもつ「算用」すなわちそろばんは、多くは家の生活の中で、または「そろばん塾」で学んだ。しかし幕末になると読・書・算の三教科をあわせ授ける寺子屋も多くなり、この点でも学制以後の小学校に近づいている。寺子屋の手習は、まず「いろは」・数字などから始め、十干・十二支・方角・町名・村名・名頭(ながしら)・国尽(くにづくし)などを学んだ。初めは師匠が書いて与えた「手本」を見ながら書き習ったが、初歩の手習が終わると、次には「往来物」などを学んだ。 江戸時代には町人の経済生活と関連して、計算すなわちそろばんの教育が手習とともに重要な位置を占めていた。そのための教科書としてつくられたのが「塵劫記」(じんこうぎ)である。塵劫記は江戸時代の初期につくられたそろばん書(珠算教科書)であるが、その後「何々塵劫記」と題した多数のそろばん書がつくられ、塵劫記といえば珠算教科書を意味するほどになっている。 女子の教育 江戸時代の社会は武家社会の主従関係に基礎をおいていたが、さらにこれが家庭内にも及び、親子の関係、夫婦の関係も主従の関係と同様に見なされていた。そのため女子の教育は、このような人間関係を基礎とし、男子の教育と全く区別して考えられていた。この点では庶民の場合にも武家とほぼ同様であった。江戸時代には、女子は男子のように学問による高い教養は必要がないものと考えられ、女子は女子としての心得を学び、独自の教養をつむべきものとされた。女子の教育は主として家庭内で行なわれ、家庭の外でなされる教育も、お屋敷奉公や女中奉公を通じて行儀作法などを学ぶことが重視され、学校教育のような組織的な教育の必要は認められなかった。上流の女子は手習や読書を学び、さらに古典文学や諸芸能を学ぶ者もあったが、それは一部の女子であり、一般には近世封建社会における家庭の中の女子として、また妻としての教養が重んぜられた。 郷校(郷学) 従来郷学あるいは郷校と総称されているものの中には大別して二種のものがある。その一つは藩校の延長あるいは小規模の藩校ともいうべきもので、藩主が藩内の要地に設け、あるいは家老・重臣などが領地に藩校にならって設けたものである。この種の郷学は武家を対象としている点でも、また教育の内容から見ても藩校と同類のものである。 他の一つは、主として領内の庶民を教育する目的で藩主や代官によって設立されたものである。この種の郷校は庶民教育機関としては寺子屋と同類のものであるが、幕府や藩主の保護・監督をうけていた点で寺子屋と区別される。また、郷校には武士のほかに庶民の入学をも認める両者の中間的なものもあった。郷校の中には、岡山藩主池田光政によって設立された手習所を統合した閑谷(しずたに)学校(閑谷黌)などがあり、この郷校は、創立も古く規模も宏大で特に著名である。 私塾 江戸時代の教育機関として藩校・寺子屋などとともに注目すべきものは「私塾」である。私塾は一般に教師の私宅に教場を設け、学問や芸能を門弟に授ける教育施設であった。私塾は本来古代・中世の秘伝思想の流れを受けて、師弟の緊密な人間関係に基づき、特定の学派や流派の奥義を伝授することを目的として設けられたものである。しかし、近世においては、時代の推移とともにしだいに公開的性格をもち、近代の学校へと発展する条件をそなえるに至っている。 幕末の私塾には、漢学塾・習字塾・算学塾(そろばん塾)・国学塾・洋学塾などがあり、またこれらを合わせ授けるものもあって、各種の私塾が発達している。幕府は漢学、特に儒学を教学の中心とし、学問を奨励したので、多数の儒学者があらわれ、儒学を主とする漢学塾が江戸時代を通じて隆盛であった。有名な儒学者の開設した塾には多くの門弟が集まり、すぐれた人材を輩出して歴史上にその名をとどめている。古くは陽明学派の中江藤樹の「藤樹書院」、古学派の伊藤仁斎の「古義堂」(堀川塾)、また江戸時代後期には広瀬淡窓の「威宜園」、幕末には吉田松陰の「松下村塾」などがあり、それぞれの特色によって広く知られているが、そのほか幕末には全国各地に多数の漢学塾が設けられていた。漢学塾は明治維新後は衰微したが、その内容をなす儒学思想は、近代日本の教育思想および教育内容の中に強い伝統をもって継承されている。 (ネット上のデータなどによる) ![]() 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