丹後の地名プラス

そら知らなんだ

億計天皇(意祇=24仁賢天皇)と
弘計天皇(袁祇=23顕宗天皇)
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -31-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
シリーズ


帰化人と渡来人
志楽と阿良須
真倉と十倉
笶原神社
九社神社と加佐(笠)
枯木浦と九景浦
女布
爾保崎
丹生
三宅
日子坐王と陸耳御笠
麻呂子親王の鬼退治と七仏薬師
源頼光と酒顛童子
元伊勢内宮と元伊勢外宮
丹後国神名帳(加佐郡編)
丹後国郷名帳
丹後国神名帳(与謝郡編)
丹後国の5郡
丹後国神名帳(丹波郡編)
丹後国神名帳(竹野郡編)
丹後国神名帳(熊野郡編)
天橋立伝説
浦島伝説
羽衣伝説
竹野媛と丹波大縣
日葉酢媛と朝廷別命
徐福伝説
シンデレラ伝説
安壽姫伝説
古代の土器製塩(若狭・丹後)
億計・弘計二王子伝説
飯豊青皇女・市辺押歯皇子伝説
冠島と沓島
幻の凡海郷
母なる由良川
由良川舟運
由良川の水害
由良川の村々と社
福知山20聯隊の最後①
福知山20聯隊の最後②
加佐郡は新羅郡
与謝郡は新羅郡
田邊・田造郷①
田邊・田造郷②







『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

二王は餘社郡に逃がれる


『日本書紀』によれば、20代安康天皇3年に同天皇が暗殺され、その後に二王の父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の21雄略天皇)に殺された。子の億計王(後の24仁賢)は弟の弘計王(後の23顕宗天皇)と共に逃亡して身を隠した。まず丹波国餘社郡に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変えて丹波小子(たにはのわらは)と称した。縮見屯倉首に雇われて牛馬の飼育に携わっていたが、22清寧天皇2年に、弟王が宴の席で王族の身分を明かした。清寧天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わし、翌年に二王を宮中に迎え入れた。4月に億計王が皇太子となった。
同5年に清寧天皇が崩じたときに皇位を弟王と譲り合い、その間は飯豊青皇女が執政したという。『古事記』では、二王が身分を明かして宮中に戻ったのは清寧天皇の崩御後、飯豊王の執政中のことであるとする。翌年、弟王が即位(顕宗天皇)したが、在位3年(『古事記』では8年)で崩御した。これを受けて、億計王が仁賢天皇元年1月に即位した。


このあたりの系図は史料によって若干異なる、

『日本書紀』
弘計(をけ)天皇  23代顕宗(けんぞう)天皇
穴穗(あなほ)天皇(20代安康天皇)の三年の十月に、天皇の父 市邊押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)及び帳内(とねり)佐伯部仲子(さへきべのなかちこ)蚊屋野(かやの)にして、大泊瀬(おほはつせ)天皇(21代雄略天皇)の爲に殺されぬ。因りて同じ穴に埋む。是に、(弘計)天皇と億計(おけ)王(24仁賢天皇))と、父射られぬと(きこ)しめして、恐れ()ぢて、皆逃亡()げて自ら(かく)れます。帳内日下部連使主(くさかべのむらじおみ)〔使主は、日下部連の名なり。使主、此をば於瀰(おみ)と云ふ。〕と吾田彦(あたひこ)〔吾田彦は、使主の子なり。〕と、(ひそか)に天皇と億計王とを(ゐてまつ)りて、(わざはひ)丹波國(たにはのくに)余社郡(よざのこほり)()る。使主、遂に名字()を改めて、田疾来(たとく)()ふ。尚(ころ)さるることを(おそ)りて、(ここ)より播磨の縮見山(しじみのやま)石室(いはや)(のが)()りて、自ら(わな)(みう)せぬ。天皇、尚使主の()にけむ所を(しろ)しめさず。(いろね)億計王を(すす)めまして、播磨國の赤石郡(あかしのこほり)(いでま)して、(とも)(みな)を改めて丹波小子(たにはのわらは)(のたま)ふ。()きて縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)(つか)ふ。〔縮見屯倉首は、忍海部造細目(おしぬみべのみやつこほそめ)なり。〕吾田彦、(ここ)に至るまで、離れまつらずして、固く執臣禮(したがひつかへまつ)る。…

『日本書紀』
億計(おけ)天皇  24代仁賢(にんけん)天皇
…穴穗天皇の(かむあがり)りますに(いた)りて、難を丹波國の余社郡に()りたまふ。白髮(しらか)天皇(22代清寧(せいねい)天皇)の元年の冬十一月に、播磨國司山部連小楯(くにのみこともちやまべのをだて)(みやこ)(まう)でて迎を求む。白髪天皇、()ぎて小楯を(つかは)して、(しるし)を持ちて、左右(もとこ)舎人(とねり)()て、赤石に至りて迎へ奉る。…

書紀は一時丹波国余社郡に逃れたと伝えるが、『古事記』や『播磨国風土記』には、そうした話はない。
『古事記』
淡海(あふみ)佐佐紀(ささき)の山君の祖、名は韓帒(からぶくろ)白ししく、「淡海の久多(くた)〔此の二字は音を以ゐよ〕綿(わた)蚊屋野(かやの)は、(さは)猪鹿(しし)在り。其の立てる足は荻原(すすきはら)の如く、指畢(ささ)げたる角は枯樹(かれき)の如し。」とまをしき。此の時市邊之忍齒(いちのべのおしはの)王を相率(あひゐ)て、淡海に幸行()でまして、其の野に到りませば、各(こと)假宮(かりみや)を作りて宿りましき。爾に明くる(あした)、未だ日出でざりし時、忍齒王、(なぐ)しき心以ちて、御馬に乘りし(まにま)に、大長谷王の假宮の(かたへ)に到り立たして、其の大長谷王子の御伴人(みともびと)に詔りたまひしく、「未だ寤め坐さざるか。早く白すべし。夜は既に()けぬ。獦庭(かりには)()でますべし。」とのりたまひて、乃ち馬を進めて出で行きたまひき。爾に其の大長谷王の御所(みもと)(さもら)人等(ひとども)白ししく、「宇多弖(うたて)物云ふ王子(みこ)ぞ。〔宇多弖の三字は音を以ゐよ。〕故、慎みしみたまふべし。亦御身を堅めたまふべし。」とまをしき。即ち(みそ)の中に(よろひ)()し、弓矢を取り()かして、馬に乘りて出で行きたまひて、倐忽(たちまち)の間に、馬より往き(なら)びて、矢を拔きて其の忍齒王を射落して、乃ち亦其の身を切りて、馬?(木+宿)(うまぶね)に入れて土と等しく埋みたまひき。
是に市邊王の王子等(みこたち)意祁(おけの)王、袁祁(をけの)王、〔二柱〕此の亂れを聞きて逃げ去りたまひき。故、山代の苅羽井(かりばゐ)に到りて、御粮食(みかれひを)す時、面黥(まさ)ける老人(おきな)來て、其の粮を奪ひき。爾に其の二はしらの王言(みこのり)りたまひしく、「粮は()しまず。然れども()誰人(たれ)ぞ。」とのりたまへば、答へて曰ひしく、「()は山代の猪甘(ゐかひ)ぞ。」といひき。故、玖須婆(くすば)の河を逃げ渡りて、針間(はりまの)國に至り、其の國人(くにびと)、名は志自牟(しじむ)の家に入りて、身を隠したまひて、馬甘牛甘(うまかひうしかひ)(つか)はえたまひき。

『播磨國風土記』
美嚢(みなぎ)(こほり)
志深(しじみ)の里〔土は中の中なり。〕志深と號くる所以は、伊射報和気命、此の井に御食したまひし時、信深の貝、御飯の筥の縁に遊び上りき。その時、勅りたまひしく、「此の貝は、阿波の國の和那散に、我が食しし貝なる哉」とのりたまひき。故、志深の里と號く。
於奚(おけ)袁奚(をけ)天皇等(すめらみことたち)の此の(くに)(いま)しし所以(ゆゑ)は、()が父、市邊(いちべ)天皇命(すめらみこと)近江(あふみ)の國の摧綿野(くだわたの)に殺されましし時、日下部連意美(くさかべのむらじおみ)()て、逃れ來て、()の村の石室(いはむろ)に隱りましき。(しか)(のち)意美(おみ)(みづか)ら重き罪なるを知りて、乘れる馬等(うま)は、其の(たづな)を切り斷ちて()ひ放ち、亦、持てる物、桉等(くらども)は、(ことごと)に燒き()てて、(やが)(わなな)き死にき。(ここ)に、二人のみ子(たち)彼此(ここかしこ)に隱り、東西に迷ひ、(すなは)ち、志深の村の(おびと)伊等尾(いとみ)の家に(つか)はれたまひき。伊等尾が新室(にひむろ)(うたげ)()りて、二たりのみ子等に(ひとも)さしめ、()りて、詠辭(ながめごと)を擧げしめき。(ここ)に、兄弟各相譲り、(すなは)ち弟立ちて(なが)めたまひき。其の(ことば)にいへらく、
 たらちし 吉備の(まがね)の 狹鏨(さぐは)持ち
 田打つ()す 手()て子等
 吾は()ひせむ。
又、詠めたまひき。其の辭にいへらく、
 淡海(あふみ)は 水(たま)る國
 (やまと)は  青垣
 青垣の 山投(やまと)()しし
 市邊(いちべ)天皇(すめらみこと)が 御足末(みあなすゑ) 奴僕(やつこ)らま。
とながめたまひき。(すなは)ち、諸人等、皆(かしこ)みて走り出でき。爾に、針間(はりま)の國の山門(やまと)(つかさ)(つかは)されし山部連少楯(やまべのむらじをたて)、相聞き相見て、語りて云ひしく、「此のみ子の爲に、()が母、手白髪命(たしらがのみこと)(ひる)(ものを)さず、夜は(いね)ず、あるは生き、あるは死にて、泣き戀ひませるみ子等なり」といひき。()りて、參上(まゐのぼ)りて、(まお)すこと右の(くだり)の如し。(すなは)ち、(よろこ)(かなし)み泣きて、少楯を(かへ)()りて、召し上げたまひき。()りて、相見相語ひ戀ひたまひき。此より以後(のち)更還(またかへ)(くだ)りて、宮を此の(くに)に造りて、()ましき。(かれ)、高野の宮・少野の宮・川村の宮・池野の宮あり。又、屯倉(みやけ)を造りし處を、即ち、御宅の村と(なづ)け、倉を造りし處を、御倉尾(みくらお)と號く。
加茂郡玉野村条にも説話がある。

加佐に逃れていたと伝えるのは『丹後国風土記残欠』である。
『丹後風土記残欠』
大内郷。大内と号くる所以は、往昔、穴穂天皇(20安康)の御宇、市辺王子等億計王と弘計王此国に来ます。丹波国造稲種命等安宮を潜かに作り、以て奉仕した。故に其旧地を崇め以て大内と号つくる也。然る後に亦、与佐郡真鈴宮に移し奉る。(以下三行虫食)
大内郷は、今の余内(あまうち)や池内あたりを言う、安宮の遺称地名が上安(うえやす)という。与社郡真鈴宮は宮津市須津(すづ)の須津彦姫神社と言う。
上安と須津は何か縁がありそう。上安には鈴木神社がある。
岡野允氏の「神社旧辞録」に、
式内高田神社 祭神 建田背命 (祭 旧七月六日) 同市字上安
往古より大内八ケ庄の宮と唱える。旧地は上安(杭ケ坪)上安久(田中田)倉谷(杭ケ坪)三村の合接する所に位し三村の氏神であったと云はれるが徳川中期伊佐津川決壊の節殿社流失により取敢ず上安のミセ谷に遷座したが、其後上安仲イサキに社殿新建立なり現在に到った。
宮知里は伊佐津川鉄橋約百米東方でいまは鉄道敷になっている。上安・上安久境界野道を南行し鉄道に当る所
祭神建田背命は尾張海部の長で天火明命六世の孫に当り、神服連海部直丹波国造但馬国造等の祖とある。
武と建は同義で旧代武神の称。田背タセは長谷ハセ・古瀬コセ・見瀬ミセ等大和地方の地名で大和葛木郡尾張地方で出生地の名を負はれた尊名と睹らる。丹後地方に来られてからの本地は丹後諸旧記も語るとおり、現熊野郡久美浜町字海士で同祭神を祀る式内矢田神社や付近に宮殿跡と伝承ある所も在る。本地も古代海辺との証もあり、高田神社旧地も古代貝殻等出土や地名遺称等で海辺と睹られる。
なお現在建田背神と併座の鈴木神社は天細女命でこれは上安生へぬきの地主神で素は小字宮谷に鎮座したが新社造営の節高田神社に併座された。天細女命は人口に膾炙する天照岩戸隠れの節の花形役者であったが、続いて天孫降臨の下りでは神格一変し怪神猿田彦将軍と堂々外交接渉して懐柔した男勝りの女神である。斎部の猿女君の祖とある。鈴木の語源は略す。
スズキとすると、須津を思い浮かべる、須津来あるいは須津()であったかも知れない。須津彦神社は宇良神社と同じ日下部氏系の神社と思われ、上安は日下部氏の地であったものか。
式内社の高田神社は、タカタとかタコと呼ばれる。おおい町本郷に高田城跡があるが、海部氏系図の「若狭木津高向宮」のあたり、船岡製塩遺跡のあたりで、ここから移動してきた、タカ、カグの名を持つ若狭海人系+天日槍系金属系の神社であろうか。

高田神社↑。「安康天皇ノ御宇億計王弘計王此國ニ忍ビ給ヒシ時御崇敬アリシト傳」との案内板があるが、禿げていてほとんど読めない。


須津彦・姫神社↑
宇良神社と同じように北向きの社殿である。(社殿正面が日影になっている)
「安康天皇(第二十代・在位四五三~四五六年)の御代 雄略天皇(第二十一代・在位四五六~四七九年)に父・市辺押磐皇子(履中天皇の子)を殺された弘計の命(後の第二十三代顕宗天皇・在位四八五~四八七年)は 兄・億計の命(後の第二十四代仁賢天皇・在位四八八~四九八年)と共に与謝郡のこの地に難を避けられました 二皇子は 身を隠された御所之内の地に假宮を造営され、是を 眞鈴宮と名付けられて住まわれました。この時 祖父の去来穂別天皇と祖母の久呂比売命の御霊を王谷(大谷・東宮ヶ谷)の地に鎮め祀られた と伝えられています。
 当神社の境内には 摂社として弘計の命は西之荒神(大西大神) 億計の命は東之荒神(奥山大神)として祀られています」の案内板がある。

『与謝郡誌』
二王子御潜在趾 安康天皇の朝丙申天皇崩し給ふや其の十二月履仲天皇の皇子市辺押磐尊雄略天皇の爲めに蚊屋野に害せられ給ふや其の臣日下部使臣億計弘計二皇孫を奉じて與謝郡に難を避け給ひ、更に播州赤石郡縮見の屯倉に遁れ給ひしとて、與謝村字與謝小字峠の上王子宮は億計尊小字北の下王子宮は弘計尊御潜在の地なりといふ。尤も之れには異説多く丹後旧事記、丹後細見録、丹哥府志、日本書記通釈等の諸書には三重谷に在りし三重長者五十日真黒人の家に御潜匿の趣を載せ、丹波直見谷の天神社の記録には與謝郡温江村大虫神社の社家なりとし、丹後考には須津村の宮ヶ谷真鈴の宮なりとし養老村字岩ヶ鼻日吉神社々記には外垣の木積神社なりとし、府中村郷土誌及び麓神社の明細帳には同村字難波野の麓神社は其の遺趾にて祭神又二王子を祀るとなし、其他本庄村の浦島にも栗田村の久理陀神牡にも伝説あり、尚ほ加佐都大内郷にも皇子御潜在の爲めに大内の名起れりと爲す、之等の真偽は容易に断ずべからざれども今は伝説の存することのみを掲ぐるに止めんとす。

『加佐郡誌』
億計弘計二王。安康天皇の即位二年丙甲冬十二月に億計弘計の二王が難を避けられて只今の舞鶴町字大内に安宮を造って潜居せられたので大内の名称がこれから始まったと云ふことである。又、丸八江村の和江神社では両王が酒饌を供へて開運を祈願せられてから後、村民は代々その徳をうけついで毎年十一月五日に大小二桶をお供へして祭礼を行ふ慣例があると云ふことである。
和江神社↓。和江からは布目文瓦が出土している。この奥から山越で与謝郡の方へ通じている。


『郷土と美術』(昭15.2)
丹後、丹波ところどころ  四方 源太郎
(六) 億計王と弘計王の御潜居
 まづ熊田葦城氏の研究を發表する
 「與謝は丹後の國にあり。天橋立なる府中村字難波野と稱する所に一小祠あり。麓神社といふ。二王即ち顯宗、仁賢兩天皇の靈を祭る。これぞ二王の宮地なりといひ傳ふ。又麓神社の北嶺に御母「荑姫(はえひめ)」の御墓ありといふ」
   ○
 市邊抑磐皇子の妃荑姫、御子億計、弘計の二王と共に市邊の宮に在はす。圖らずも皇子の凶變をきゝて驚き悲み絶え入るばかりに嘆かせ給ふ。
 「此處に在しては危し。」
と侍臣、日下部使主、禍の御身に及ばんことを虞れ、其の子吾田彦(あたひこ)と輿に御母子を奉じて艱をさく。時に億計王御年六歳、弘計王五歳、山代の苅羽井(かばゐ)(樺井)に至りて御(かれい)を進む。一老人あり(かほ)(いれずみ)せるは正しく刑餘の身、つかつかと歩み寄りて、矢庭に御粮を奪ひ取る。二王は
 「何者ぞ名乘れ。」
と咎め給へば、老人はさも憎さ氣に
 「山城の猪甘(ゐかひ)よ。」
と言捨てこ立去る。わづかに宮を出で給へば此の危難あり。前途のことを思召し給へば、其の心細さ如何ばかりぞ、使主父子、急ぎ御母子を抉け奉り玖須婆(くすば)(今の河内の樟葉)の渡場を越えて、丹波に入る。今は三界に家なし。何處にか御身を託し參らすべき。使主
 「南丹波は京に近し、北こそ身を置くに安けれ」
とて、大川より御舟に乗せ參らせて與謝へと向ふ。風忽ち起り、波俄に荒む。漕げども漕げども御舟進ます、揺られ揺られて箕よりも輕し。檣は折れぬ。楫は碎けぬ御舟は見る見る岸に打上げられぬ。郷民遠近より集ひ来り、尊き御方と聞きて敬ひ尊ぶこと大方ならす。假殿を小高き丘の上に作りて此處に置き奉る。山郷は冬早し十月の始より、雪積り海凍りて塞気骨をさすばかり、宮居深く御在せし身の争でか堪えさせ給はんや、御母荑姫、不圖御病気に惱ませ給ひ、日を経る儘、次第に重り行きて其の月の中旬、終に此の世を去らせ給ふ。今云ふ肺炎にやあらん。禍を避けて又禍に遭ひ、難を兔れて又難に罹り給ふ。御身の運こそ幸薄けれ、使臣父子首を鳩めて謀る。
 「此處に在しては、二王の御命も危からん。播磨の方に移らんこそよけれ」
と十一月二十日、二王を護りて播磨へと向ふ。風は雲を捲ひて荒み、雪は野を掩うて白し。使主千辛萬苦を冒して漸く播磨の縮見に逹す。
   ○
二王の丹波、丹後に於ける御経過地は日下部の部曲なるぺけれど、今地方に傳説として殘れるは、加佐郡八雲村字和江、舞鶴市字大内、何鹿郡奥上林村字睦寄の草壁區であって、御足どりをたづねることが出来るこれ等の傳説地に殘る風俗、習慣はまた別に記述することゝする。

『宮津市史』
オケ・ヲケ伝承
 『日本書紀』顕宗天皇即位前紀に、市辺押磐皇子の二子、弘計皇子(ヲケ、のちの顕宗天皇)、億計皇子(オケ、のちの仁賢天皇)は、市辺押磐皇子謀殺の難を「丹波国余社郡」に逃げ、そののち与謝からさらに播磨の明石方面に逃亡して、そこで身分を明かしたこととなっており、日下部と与謝の地が深くかかおっていることは、前項でみたとおりである。またこの伝承は、神や皇子等が各地を漂泊して苦労を経験するという貴種流離譚の一種でもある。
 ここで注目されるのは、市内難波野の麓神社に「飯遣福(いいやりふく)」の行事が残されていることである。この飯遣福(居在福ともいう)の行事は、毎年旧暦十一月朔日に氏子が大きな赤飯のおにぎりを神社に供えたのち氏子に分配する神事である。この行事は、地元の口伝では弘計・億計皇子が与謝がら播磨へ発つとき、地元の人々が赤飯のおにぎりを捧げ、道中の無事を祈ったことに始まり、のちに二王が皇統を継いだ後、社殿を造営して神事としてこの行事を続けているという(『難波野郷土誌』)。この行事の起源は不明であるが、難波野において、オケ・ヲケ伝承が深く浸透していることに留意しておきたい。
なお、市内須津の須津彦神社もオケ・ヲケ二王が難をさけた場所であるとの伝承がある。
麓神社(宮津市難波野)↓

難波野も地名からして古い所で、弥生の貼石墓が出土している、弥生の王がいたのかも、難波何々とかの名のある古代王は以外と当地の人かも…。裏山には千体仏があり、その奥は天香具山である。まだ遺跡が埋もれていそうな所である。

『伊根町誌』
筒川牛
牛馬信仰

 筒川の流域一帯は古来より銘牛の主産地として、「筒川牛」「丹後牛」の名で知られている。この地方にいつ頃から牛が飼われていたかは明らかではないが、「日本書紀」巻第十四の安康天皇三年(四五六)十月の条に、十七代履中天皇の皇子市辺押磐皇子が、皇位継承をめぐり大泊瀬(後の二十一代雄略天皇)に近江の来田綿の蚊屋野において猪鹿狩にことよせて射殺され、側近も共にみな殺された事件があった。この変のあと市辺押磐の二皇子である億計王(後の二十四代仁賢天皇)・弘計王(後の二十三代顕宗天皇)は側近の日下部使主とその子吾田彦に奉じられて、一時「丹波国余社郡」に難をさけ、二皇子は「牛甘」をして身の安全を図ったと伝えられ、この地方には当時既に牛が飼われていたことが知られる。そしてこの地の宇良神社は、後世豊漁の神として、また縁結び、長寿、養蚕の神として崇拝されると共に、牛馬の守護神としても深く信仰され、牛馬の成長を祈る種々の風習も行われている。

『丹後路の史跡めぐり』
(日置)この丘陵に古墳があるが、億計、弘計二皇子の母夷姫の墓とも、また家来日下部使臣の墓ともいわれている。


三重長者五十日真黒人(いかがまくろひと)

「三重」は大宮町の三重谷一帯のこと、この地は元々は余社郡に属していたといわれる。五十日は今は五十河と書く。
『丹哥府志』
【三重長者五十日真黒人】
億計、弘計の二皇孫父を市辺押磐といふ、市辺押磐は履中天皇の皇子なり、安康天皇の崩ずるに及で雄略帝市辺押磐を殺し立つて天子となる、是時に当て市辺押磐の臣日下部使臣億計、弘計の二皇孫を奉じ、丹波余社に遁れ五十日真黒人の家に匿る、清寧天皇の御宇に播磨国司来目小楯其よしを以聞す、よって億計弘計の二皇孫初て都へ帰る、於是五十日真黒人を以て三重の長者とす。
愚按ずるに、日下部使臣は水の江浦島の人也、二皇孫皆五十日真黒人の家を居とするにあらず、蓋分れて両家におるなり、事は浦島条下に審なり。

『加佐郡誌』
三重長者五十日真黒人。同上(雄略帝の御代) 帝の時、市辺押磐皇子が寄せられ給ふたので、皇子の帳内日下部使主及び其子吾田彦は、皇子の二子億計王、弘計王を奉じて、丹波の与謝郡に逃れ、五十日真黒人の家に隠れたのであったが、猶難を恐れて播磨に入り、使主は縮見山に石室に自刃し、二王は名を改められて丹波小子といはれ、吾田彦と共に縮見屯倉の首忍海部細目の家に僕となられた。所が清寧天皇の御代、丁度播磨国司伊与来目部小楯が新嘗の供物を徴しようとして、赤石郡に来合せ、細目の家に宴をしたので、遂に二王子である事が分り、小楯は二王子を奉じて摂津に帰へった。そして此の事を天皇に奏上したので、天皇は大いに御喜びになり、早速使を御遣はしになって御迎へせられ、先ず億計王を立てて皇太子とし、弘計王を皇子とせられたのである。此の億計王、弘計王の潜行については、本郡に御出でになった事は、一も正確な史料に見出す事を得ないが、其の本郡に大内といふ地名のあるのは、億計、弘計二王子が暫く此の地を御忍びになり、仮りの宮を造って地方民が奉仕したから、起ったのであると伝へられている。

『丹後旧事記』
三重長五十日真黒人。歴史伝に曰く白髪武広国押雅日本根子尊(清寧天皇)治天下御世旦波與佐三重長名は五十日真黒人謂垂仁天皇第四の妃薊瓊入媛御子五十足彦尊の苗裔也と日本紀、旧事記、古事記、紹運録等の諸集に曰く市辺尊(履中天皇)殺雄略八阪八釣二王子も殺依弘計尊(顕宗天皇)億計尊(仁賢天皇)丹波余社に飄零而五十日真黒人の家に隠也、斯事朝廷へ聞え播磨国司山部小楯詣迎奉白髪天皇爲皇太子、日本旧事記億計天皇の記に曰く諱は大脚更名大爲字島即弘計天皇同母兄也天皇幼而聡明才敏多識壮而仁恵謙恕温慈穴穂天皇及崩給於旦波国余社郡避白髪天皇元年冬十一月播磨国司(明石)山部連小楯詣求迎白髪天皇聞召上られ尋遺亦小楯節持左右舎人到赤石奉迎二年夏四月遂億計尊立爲皇太子旧書に二柱の尊與佐五十日牛飼業仕給ひ歌聞て小楯太子成事を知て奉供明石。

『中郡誌稿』
(実地聞書)字五十河谷の奥に三重長者五十日真黒人の邸趾と伝ふる地あり村落より二十町程奥にして石垣を築き十坪ほど三段になり居ると云其周囲に殿様薮といふ竹薮もありと言伝ふ(真黒人の事は三重久住等参照)
(延利村長岡田総右衛門氏談話)古来三重の荘五十河の里と称し三重以北は皆五十河の岡の宮の氏子にて部落の人民は皆同社に参詣し帰りて延利にて相撲をとり行きしものなり云々
(丹哥府志)五十日足彦尊 垂仁天皇御宇に丹波道主命の五女召されて皆皇妃となる五十日足彦尊は其第四妃薊瓊入姫の子なり道主命の孫に当り五十日村より貢を奉る
 按、五十日足彦尊書紀には見えず古事記に據れるなり又記紀共に薊瓊入姫の姉なる渟葉田瓊入姫の子膽香足姫命あり彦姫二命の御名五十河に因む歟前に三重の条に日下部族の此地方に蔓衍したるを説きたり同族は彦坐王の裔にして丹波道主命と同系なり我古代に於て開化天皇の裔三丹地方に盤據したる形迹を察すべし

播磨国の志染

今の兵庫県三木市志染だが、当地とオケヲケとは何か関係がありそうである。
『播磨国風土記』
美嚢(みなぎ)の郡
志深(しじみ)の里 土は中の中なり。志深と號くる所以は、伊射報和気(いざほわけ)命、此の井に御食したまひし時、信深(しじみ)の貝、御飯の筥の縁に遊び上りき。その時、勅りたまひしく、「此の貝は、阿波の國の和那散(わなさ)に、我が食しし貝なる哉」とのりたまひき。故、志深の里と號く。
於奚(おけ)袁奚(をけ)の天皇等の此の土に坐しし所以は、汝が父、市邊の天皇命、近江の國の摧綿野に殺されましし時、日下部連意美を率て、逃れ來て、惟の村の石室に隱りましき。…
伊射報和気(いざほわけ)命とは、大兄去来穂別尊(17代履中(りちゅう)天皇)のことで、オケヲケの祖父になり、祖父と有縁の地に避難したようである。与謝の須津彦神社も須津彦とは履中天皇のことといわれる。
そこは阿波國の和那散とも関係がありそうである。和那散は丹後磯砂山羽衣伝説の和奈佐(わなさ)老夫婦と同じ名である。阿波と志染と丹後磯砂山との間には何か関係がありそうだと見られる。
志染のあたりは今も播州刃物の産地である。農業用の鍬鎌とか山仕事の斧や鉈などを持って舞鶴あたりへも行商に来ていた、今も来られているのかも知れないが、さらに背景に鉄と繋がりがありそうに見える。

(注)
オケとヲケの発音
ローマ字で書けばokeとwokeである。今の日本語はア行のオもワ行のヲも同じようにオと発音し、woの音は忘れ去られているが、少なくとも奈良時代には両者には区別があったものと思われる。ケは同じが漢字だが、オとヲは表記する漢字が違っていて、発音上の違いがあったものと思われる。








 音の玉手箱
 精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石


Коробейники  コロベニキ:コロブチカ:行商人



Надежда Кадышева и ансамбль "Золотое кольцо" - Коробейники - YouTube
【ロシア語】コロブチカ (Коробейники) (日本語字幕) - YouTube

ガッコなどのフォークダンス曲としてなじみ。ロシア民謡とされるが、元々はウクライナあたりのコサック民謡という。日本に入ってくると、どうしても元々あった大事なスピッリットやカホリが、ごっそり抜けてしまう、アルコールの抜けた酒、ニコチンのないタバコ、しおれた花、輝きを失った宝石、アナログコピーだからどうしてもひどく劣化する。ガッコで習ったもの、フツー国内で知られているものと、本物はまったく違うものである。歴史と文化が違うからマネができない。
曲名は日本では普通はコロブチカと呼ばれているが、коробушка(コロブシカ)は小箱のことで、それに商品を入れ首に掛けて販売して歩く行商人をкоробейники(コロベニキ)と呼ぶようである。コロベニキが正確な曲名であろうか。
歌詞の最初の部分
Ой(オイ), полна(パルナ), полна моя(マヤ) коробушка (コロブシカ)
お-、一杯だ、一杯だ、私の箱は
このмоя коробушкаから曲名となったものか。
そのあとはかなりエロっぽい歌詞になる。

 Dance compilation
コサック・ダンスで、兵士(と呼ぶものか、日本で言えばサムライのような階級)を鍛えるための軍事鍛錬体操が元という、忍者のようでマネできそうにもないもの。男の子たちの踊りが特にカッコいい。元々はサムライ特権を持った男たちだけの踊りであったのだろうが、後に徹底してジェンダー平等となったものか。
Русский Сувенир - Коробейники - YouTube
Премьера!!! Коробейники -Черноморочка - YouTube

「コサックの踊り」、ロシア民族舞踊アンサンブル「クバン・コサック・フリーダム」 - YouTube
(106) 「コサックのレズギンカ」、舞踊アンサンブル「クバン・コサック・フリーダム」/"Cossacks Lezginka ", dance ensemble "Kuban Cossack Self-Will" - YouTube
(175) The Queen is enjoying the Russian Cossack Dance Group's stunning performance - YouTube

フォークダンスのつどい - YouTube


 Where Have All The Flowers Gone
ベトナム戦争時代の反戦歌だが、コサックの子守唄に源流があるといわれる。
(152) Where Have All The Flowers Gone (Pete Seeger Tribute) - Joan Baez - 1994 Kennedy Center Honors - YouTube
(152) Piano for Peace – Where Have All The Flowers Gone – Peace Medley by Thomas Krüger - YouTube
(152) カタリーナ・ヴィット/花はどこへ行った - YouTube
(152) 花はどこへ行った(カバー) / Where have all the flowers gone? - YouTube

 Казачья колыбельная песня
(152) 【ロシア語】コサックの子守唄 (Казачья колыбельная песня) (日本語字幕) - YouTube
(152) 懐かしい歌 徳重発表 コサックの子守歌 - YouTube

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