丹後の地名プラス

そら知らなんだ

丹後の古墳-舞鶴の古墳①
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -75-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
シリーズ


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九社神社と加佐(笠)
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丹後国神名帳(熊野郡編)
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日葉酢媛と朝廷別命
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飯豊青皇女・市辺押歯皇子伝説
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由良川舟運
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由良川の村々と社
福知山20聯隊の最後①
福知山20聯隊の最後②
加佐郡は新羅郡
与謝郡は新羅郡
田邊・田造郷①
田邊・田造郷②
拝師(速石)郷(丹後国与謝郡)①
拝師(速石)郷(丹後国与謝郡)②
民族大移動の跡か!?
鳥取①
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幻の倭文
伊吹①
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息長①
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丹後のオニ伝説①
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大蛇伝説①
大蛇伝説②
火祭①
火祭②
福知山二十聯隊の最後③レイテ戦と二十聯隊の全滅
福知山聯隊の最後④インパール作戦と15師団
伝承郷土芸能①
伝承郷土芸能②
伝承郷土芸能③
伝承郷土芸能④
伝承郷土芸能⑤
伝承郷土芸能⑥
産屋
子供組
村の年齢集団-小中学校
村の年齢集団-青年団
舞鶴の古墳①
舞鶴の古墳②
日本海側の古墳
蛭子山古墳
網野銚子山古墳
神明山古墳







少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上、生物の寿命上、言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。


丹後の古墳
『令和3年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数(古墳・横穴)』(文化庁調べ)
(現存と消滅を合算した数)
総数:159,953
1位)兵庫県:18,707
2位)鳥取県:13,505
3位)京都府:13,103
4位)千葉県:12,772
5位)岡山県:11,880
6位)広島県:11,334
7位)福岡県:10,759
8位)奈良県:9,663
9位)三重県:7,128
10位)岐阜県:5,218


丹後丹波の古墳   (上の集計と数が違うがデーターの年代が違う。だいたいの傾向を見る)



京都府は古墳が多いが、その大部分(8割超)は丹後(丹波)にある。(和銅6年(713)に分国されたもので、それ以前は丹後と丹波は1国で丹波国といった)



舞鶴も丹後ではあるが、だいたい無視されている↑。
もともと古墳が少ないということもあるが、市民も感心なく研究なく、ナキに等しいくらいに活発でないことにもよるのであろうか。進取の気概も温故の心根もなく、師となる者もいないんとちゃうんかい、これでは将来も暗い町だな、ムリして取り上げ書いてみてもシャーナイな、と見なされるのであろうか。

舞鶴の古墳①

舞鶴、加佐郡は丹後国に属するが、網野銚子山古墳のような丹後らしい、山なのか古墳なのかわからないほどの雄大な前方後円墳は1基もない。
それでも古墳がないことはなく、
『舞鶴市史』
古墳の総数は、七三か所、二四二基。このうち墳丘の完存は、一〇八基、半壊は八四基、全壊は一六基で、全壊のうち痕跡もなく消滅したもの六基を数える。現在も採石工事、墓地・宅地造成などの開発によってなお破壊が進んでいる。立地からみると、丘陵腹一〇八基、丘陵端二一基、丘陵稜五一基、丘陵頂一四基、丘陵裾三基、山腹四〇基、平地五基となっている。
その中でも、注目すべき古墳を拾ってみると

切山古墳(境谷切山丸山)
←境谷から発掘された、6枚の板状の石によって組み合わされいる組合式石棺。府北部で最古の組合式石棺。舞鶴を含め、丹後地方の古墳成立の意味を考える上で欠くことのできない極めて高い歴史的資料性を持っている、とされている。
古墳期舞鶴には不似合いなリッパすぎるような古墳である。

広報まいづる97.3.1
ふるさとの文化財と伝承
第3回切山古墳
府北部で最古級の組合式石棺
被葬者は女性か

 昭和二十六年、伊佐津川沿いの境谷地区での土取り作業中、石棺が見つかりました。調査の結果、六枚の板状の石を組み合わせた組合式石棺で、四世紀中ごろ(古墳時代前期)に築造された京都府北部では最古級の古墳と判明。付近一帯の通称名”切山(きりやま)”から”切山古墳”と名付けられました。
 古墳の被葬者は、どのような人物だったのでしょうか。
【″伊勢の津″と呼ばれた海】
 発見された場所は、調査後に地形が改変されたため、今では古墳そのものは残っていませんが、西市街地を一望できる小高い丘の上です。
 築造当時、現在の西市街地付近は、これまでの調査などから海が深く入り込んでいたことが明らかになっています。
 西地域は伊勢信仰を表す真名井や天香山(愛宕山)などの地名や、古い神社祭祀が残っていることから、”伊佐津″は西地域の海をさす古語”伊勢津”が後年なまったものではないか、といわれています。
【朱塗りの棺】
 石棺に使われた石材は、凝灰岩を加工した丹後半島産のものであるほか、棺内の全面には、長(おさ)(権力者)を示す朱が塗られていました。石棺の中からは頭がい骨の一部のほか、鉄剣、鉄鏃、銅鏃などの副葬品も発見されました。
 また、後にこの頭がい骨を見た医療関係者から、被葬者は女性といううわさがささやかれてさました。
【海と西地区一帯を支配】
 古墳築造当時の地形や出土品などから考えると、被葬者は古代丹波の中心であった今の丹後地方の支配者の一人とみられます。しかも、四世紀の中ごろという時代からみて、支配者は女性であった可能性もあり、眼下に見下ろす海とその周辺一帯を祈りによって治めていたのではないか、とも思われます。舞鶴にも、邪馬台国の卑弥呼のような女王がいたのかもしれません。 

『中筋のむかしと今』
…平成四年、市役所の別館建設工事で郷土資料館と石棺の再移転が決まったのを契機に、もう一度この石棺について詳しく調べることになり、京都府北部の地質の第一人者、京都大学理学部名誉教授で府文化財審議委員や財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター理事を務められていた中沢圭二先生によって石棺の石材鑑定がおこなわれました。
 その結果、石材は舞鶴市内では産出しないもので、宮津市江尻から伊根町にかけての海岸線や福井県高浜町の内浦湾の海岸にみられる「流紋岩質の凝灰岩(火山灰が流れて堆積したものこ製であること、堆積の年代は、新生代第三紀中新世前期から中期(約二千年万年前~千五百万年前)であること、石材の表面にゴカイのような生物がはいまわった「生痕」が見うけられることから、海岸近くの浅い海底で堆積したらしいこと、海岸から切り出す際には地層にそって切り出されたことなどがわかりました。
 つぎに、石棺の形式や京都大学の考古学教室に保管されている出土品について、府立丹後郷士資料館の細川康晴技師(現府文化財保護課技師)に鑑定を依頼しました。
 石棺は、丁寧に面取りした六枚の石材で構成される「組合せ式石棺」です。組合せの方法は、まず、底板石を置いて小口となる短側板石を外側に立てます。つぎに二枚の長側板石で短側板石を左右からはさむように立て、その上に大きな蓋板石を置くと石棺が完成します。
 この形式の石棺は、大王の石棺といわれる畿内の長持ち形石棺の影響を受けたものとみられ、青龍三年鏡などの中国鏡が納められていた弥栄町の大田南五号墳や岩滝丸山古墳の石棺とともに京都府北部最古形式の組合せ式石棺に位置付けられるものです。
 切山古墳の年代については、墳丘が自然の丘陵を楕円形に整形したもので埴輪や葺き石などがみられないこと、石棺を納めるための穴が巨大なこと、石棺を覆う粘土の上からみつかった土師器壷の形状、棺内の鉄鏃セットの形状、欠けた銅鏃を副葬する点などから、古墳時代前期中頃(西暦三二五年~三五○年前後)であることが明らかになり、舞鶴市の歴史を考える上できわめて貴重であるとして、平成四年十二月、舞鶴市指定文化財(考古資料)に指定されました。
古墳の被葬者
 古代の伊佐津は、西舞鶴湾の海が奥深く入り込んだ入江港であったとみられ、港を見下ろす丘陵頂部に切山古墳が築かれたのです。古墳の被葬者は、丹後地方の勢力や畿内の勢力とも関係をもち、西舞鶴平野一帯で勢力を誇っていた人物と考えられます。 [吉岡博之]

『舞鶴市史』
切山古墳  字境谷小字切山
 昭和二十六年八月、伊佐津川右岸の台地で土取り作業中崖面に石室が出たとの通報をうけた舞鶴市当局からの連絡により、府教育委員会が九月に調査を行った。調査時すでに相当破壊されていたので、完全な調査はできなかったという。その後、土取り作業は続行され、今日では丘陵もろとも完全に破壊され消滅したが、調査結果は、「日本考古学年報」(四号)、「京都府文化財調査報告」(第二二冊)に記されている。これによればこの古墳は、五世紀初頭に築造された竪穴式石室をもつ円墳とされ、現在までに確認される舞鶴市の古墳中、最古のもので、当市のみならず、丹後地方全般の古墳時代を解明する上で極めて重要なものである。以下その報告に基づき記す。
 切山古墳の位置は伊佐津川右岸、現在の日之出化学工業㈱舞鶴工場南方に当たる洪積台地上に立地する。この台地は周辺の耕地よりの比高一八メートル、眼下に西舞鶴地域の沖積平野を一望する好適の位置である。調査時すでに丘陵の北側と西側が削りとりれ、その崖面の先端-南西方-に石室が現れていた。しかし、この台地は作業時の前は、川岸近くまで延びていたので、古墳はこの台地上の平面に築かれていたことになる。台地の上面は平らで、いも畑となり、封土などの痕跡は認められなかった。
 主体部(土壙)  石棺の安置された土壙は、北東から南西に長い隅丸の矩形をなし、上口は横四・六メートル、縱は西側が一部破壙されて明らかではないが、東側では土壙の東端から石棺蓋の東端まで二・五㍍あり、西側もほぼ同じ間隔であったとすれば、石棺の長さを加えて九㍍余となる。土壙の周壁は約五〇度の傾斜で下方にすぼまる。深さ一・五㍍。周囲に段をのこし、中央部は石棺のはいる範囲だけ、もう一段掘り下げ、その深さは三〇~四〇センチメートルあった(写真56・図61)。
 石棺  組合せ式で壁石四枚、蓋石(天井石)一枚、床石一枚、いずれも凝灰岩の一枚石である。厚さはおよそ一五せんち仲μ舒で粗削りのままであるが、内面は四壁・床面と・床面とも平らによく磨かれ、壁面の上面も磨いた上、面取りがされている。長側石の両端に縦の切り込みを作り、短側石をはめこんでいる。側石の下方約三分の一を内壙に埋め、内部に床石をはめる。長側石の外側に、内壙壁との間に礫をつめ、短側石の外方は板石と土をあててとめている。側石はところどころ割れ目があり、側石四隅は板石で外側から補強する。北西長壁は折れた破片の一つを南西短壁の外方に立てかけてあるし、北西長壁の東端もひび割れしており、板石二枚をあてがい、南東長壁でも欠けた部分に別の薄板石をさしこんですき間をふさいでいる。蓋石も中央でひびわれしているし、側石上面と蓋石との接着部には粘土のめばりがしてあった。
 石室の内法は、長辺一・九㍍、短辺西南端で六五センチメートル、東北端で五五センチメートルあった。床は傾斜していて西南方がわずかに高く、深さは西南端で六〇センチメートル、東北端で五〇センチメートルあった。蓋石上面から土壙の上口まで約一㍍。石棺内は全面に朱をぬっており、石棺の上部は軽く全体をおおう程度に、粗質の粗土をかぶせていた(写真57・図62) 
 出土遺物  調査前にとりみだされていたが、工事監督者の説明によると、人間の頭蓋骨片が石棺内の西寄りにあったというから、南西部に頭部がおかれていたと考えられる。頭蓋骨内も朱彩されていた。
 副葬品は鉄剣二、鉄板状利器一が東南長壁にそい尖端を足の方にむけておかれ、鉄鏃・銅鏃は北東隅にあった。このほか棺外北側、蓋石の高さの所に土師壺の破片が散乱していたが、付近の状況からみて、蓋石粘土の上に置かれたものと考えられる。
 鉄剣は太身と細身が一本ずつあり、一は全長三四センチメートル、刃幅中央で三・四センチメートル、茎は短かく四センチメートルぐらいで、目釘孔は一個、全面さびがひどく、鉄の柄身の木質がゆ着して麻のような布が二重に重なって着いていた。他は全長三六・六センチメートル、刃幅二・四センチメートル、茎は一〇・二センチメートル、目釘孔二個、これも麻布で巻いたあとがある(図63)。
 鉄鏃は五個あり、長方形の体に直刃をつけた形のものが三、小型で定角式のもの一、柳葉型のものが一つある。銅鏃は基部を欠くが先端がよく尖がり、細身のするどいもので、現存長二・五センチメートル、幅一センチメートルである。出土時は数個あったが失われ、一個だけ残ったという。
 鉄板状利器は長方形の板状の一端が折れているが現存長一四・五センチメートルに、幅三・八センチメートル、断面扁菱形の両刃をなすのは剣のようであるが、尖端が直でありわずかながら面取りがある。面には麻布が付着しているところもある。
 その外、鉄鉈(なた)・棒状鉄片各一が出土した。鉄鉈は刃先と木板の一部が残る。刃先は長さ二・二センチメートル、中央部が縦にくぼんで匙状を呈し背端は背側にそる。柄は扁平な茎身を木板でかぶせたもので、その上に布片が着いている。棒状鉄片は長さ四・三センチメートル、鉈の末端ではないかと考えられる。
 土師壺、破片を整理すると、口頸部二個とその底部片一個と考えられる。黄褐色軟質で、口径二五センチメートル、垂直の口縁は幅五センチメートルである。

切山古墳だけからは、これだけの情報しか引き出せそうもないが、面白いことに、同型の石棺が丹後からあと2個見つかっている。同時代(青龍三年(235)よりX年後。卑弥呼同時代か50年くらい後か。「卑弥呼の鏡」そのものか、あるいは少し古い)の、中国(魏など)と何かしらの関係を持つ豪族で、お互いに何かの繋がりがあるもの同士と思われる。

岩滝丸山古墳(岩滝丸山)
ブルーのガラス釧が出土した大風呂南1号墓がある尾根の裾にあった。鬼坂という三重側に通じる古い街道が通る。前面は阿蘇海。

案内板
与謝野町指定文化財(考古資料)
岩滝丸山古墳の石棺
指定日 平成20年3月12日
 岩滝丸山古墳は、岩滝小学校の北東にある丸山墓地の丘陵上にあった直径30メートル程度の円墳とされています。
 本墳は、1946年に耕作中に発見され、石棺と銅鏡・銅のヤジリ・太刀などの副葬品が出土しました。1966年には道路工事に先立ち発掘調査がなされ、調査後に石棺は移築されました。
 本墳は、丁寧に造られた石棺や銅鏡などの副葬品から推測して、今から約1650年前(古墳時代前期後半)の阿蘇海北岸地域の豪族の墓であったと考えられています。平成20年3月 与謝野町教育委員会

『岩滝町誌』
丸山の石棺
籠神社誌に
 去歳板列神社の附近に古墳の跡を発見し其の基より発掘せし古刀及土器破片数個は頗る古雅なるものにて裏面に波紋の跡ありて鼠色を帯べり之より推すに年代は千四、五百年以上のものと認めたり従って古墳は県主一族の墳墓ならん… (与謝郡誌P一〇六〇)
 鬼坂峠に至る道を称名寺から約六〇〇メートル程登ると路沿いに小高い丘がある。ここが通称丸山と呼ばれている所で、昭和二十一年七月地主である岩滝の小室武夫が同地を開墾中、地下約〇、四五メートルの所から石棺を発見し、立命館大学から林屋、藤岡両教授を招いて調査を依頼し、その後更に京都大学考古学教室樋口隆康教授により現地踏査がなされた。その結果、次のようなことが明らかになった。
一、形式 造り山でなく自然の山を利用したものである。
一、時代 応神(二七〇~三一〇)仁徳(三一三~三九九)帝の頃と推定される。
一、出土品 (イ)石棺 縦約一、八メートル(六尺)横約〇、六〇メートル(二尺)深さ約〇、六〇メートル(二尺)の石の厚み約〇、六メートル(二寸)御影石の箱組合式内部には朱詰の人骨があった。
(ロ)古鏡 三角縁画文帯四孔神獣鏡(舶載鏡)と称する中国六朝時代の作(石棺にはさまれ破損していた。)
(ハ)環頭太刀(鉄剣)一振
(ニ)銅鏃 十六個
出土品中、人骨は高岡医学博士に、太刀、銅鏃等は府中妙立寺にそれぞれ納めた。附近に更に一個の石棺があるといわれているが未発掘である。

『宮津市史・通史編上』
岩滝町岩滝の大風呂南1号墓の所在する尾根の先端、阿蘇海の向こうに天橋立を望む標高四○メートルの位置に、直径三○メートル・高さ四メートルを測る岩滝丸山古墳があった。昭和二十一年、開墾中に偶然石棺が発見され、神人車馬画像鏡。銅鏃一六、素環頭鉄刀が掘り出された。石棺は、大田南5号墳、舞鶴市切山古墳に類似する凝灰岩製の精緻な箱形石棺である。時期については、土器や埴輪がなく決めがたいが前期後半としておきたい。

『謎の鏡』
岩滝丸山古墳出土鏡
このように、丹後においては由緒正しく、かつ古い鏡としまして、次に私が挙げたいのは、岩滝町丸山古墳から出土しました「画像鏡」があります。この「画像鏡」も、非常に質がよく、鋳上がりのいい鏡であります。
 この鏡の内区の図文はまず馬車であり、その反対側に動物がおり、その隣合わせのところには人物の群像二組があります。四乳によって分類された区割内に配置されています。
 そのうちの馬車ですが、普通の馬車は一頭か二頭の馬で曳きますが、これは三頭立ての馬車であります。馬が三頭というのは、そのうちの二頭で馬車を引き、一頭は添え馬を意味しています。これは、驂馬といいまして、途中で交代する予備の馬です。車体には傘形の屋根のある輿が付いています。当時の貴族たちが使った馬車だと思います。馬の首の上のところには、鳥の文様が描いてあります。
 馬車と対向の位置にあるもう一つの動物については、よくわかりませんが、双角のある鬼の面のような顔が正面にあって、体をくれらしています。このような形は、普通なら龍と思われますが、その下半身がひっくり返っているような形は、北方のスキタイの動物文様などによく出てまいります。あるいは、その方面と関係があるのかもしれません。その龍に向かい合うような形で、人間の顔と手をしているが、胴体は龍と同じ形をした小さい像が顔を向けて、同じように体をくねらせています。
 群像になっております二組の人物像を見ますと、車馬の前の区画にある方では、真ん中の大きな人物は結髪をした婦人で、まっすぐ立って、長い衣を着て、広い袖の中で両手をあわせております。その両側には二人の女官がおり、手には扇のようなものを抱えています。対向の群像を見ますと、真ん中の人物は三山冠をかぶり、七三のポーズで正面向きになって、少し右を向いております。そして、両手は長袖の中ですが、前の方に上げているようなポーズであります。衣の裾は、下の後ろの方へ垂れ下がっております。その右側には長袖を翻して、踊っている舞姫が描かれています。左側には、扇を持った侍女が立っています。その中心になる二人の人物を比較してみますと、三山冠の方が男であり、結髪をしている方が女の像となると思われます。他の似たような画像鏡を見ますと、ここに「東王父」「西王母」という銘文が書かれている例もあります。そういうことから、この二つの群像は、東王父と西王母を表わしたものと判断できるわけであります。
 このように、中心になる図柄があり、その主文帯の外側には一幅の狭い銘帯があります。その銘文は「田世作竟四□□ 多□□□□民息 胡虜珍滅天下復 風雨時節五穀熟 長保二親」という七字句のものであります。このような銘文は、よく画像鏡に出てまいります。
 さらに、その外区には尻尾が唐草風になった四匹の動物の文様帯があります。さらに、縁のところは少し高くなって、盛り上がっております。画像鏡には、平縁のものと少し盛り上がっているものとがあって、盛り上がっているものは、三角縁神獣鏡の特色であります。画像鏡は、そのような三角縁神獣鏡に近い断面を持った鏡に発展してまいります。
 後漢時代には画像石と言って、山東省や陜西省・四川省あたりで墓室やその前の祠堂の中に、石に彫って、当時の歴史上の人物や神仙、葬られた人の生前の様子などの絵を描いたものがありますが、画像鏡は、それと非常によく似た図様を表現している鏡であります。したがいまして、そこに描かれているのは、具体的な人物や動物が多いのです。鏡は単なる化粧道具ではなく、真実の姿をはっきり映し出すという特色から、一種の悪魔除けや、化物退治、病気の治療というように、昔から心霊的・呪術的機能を持っています。そういう一種の神器でありますから、そこに描かれている図柄も、神仙思想という、中国の当時の人たちにとり、非常に信仰的な支えとなった思想が表現されています。
 この図柄は、中国的なものであり、鋳上がりも非常によく、中国で作られたものであると言っていいと思います。それが丹後国から出土していることは、たいへん興味のあることと言えます。

記銘のある神人車馬画像鏡が注目。
画像鏡は中国で後漢から三国時代にかけてつくられたものという。主文様の図像は神仙思想にもとづいた神人、龍虎、車馬、狩猟などを主題とするそうで、青龍三年の時代か、あるいは古いかも。誠の中国鏡のようである。


大田南古墳群5号墳(峰山町矢田*弥栄町和田野)

3世紀後半の方墳。
3古墳はほぼ同時代に営まれたものと思われるが、その時代はその地元や研究者によって少し異なっている。峰山弥栄では3世紀後半としている。卑弥呼よりわずかに後の時代である。
切山古墳は丸山という地名の所にあったので円墳であろうか。岩滝丸山古墳の名のように円墳であろう。大田南は方墳である。
方墳といっても長方形で、長さ18.8m×幅12.3mの墳丘に埋葬施設が4基あった。
第1主体が中心埋葬施設で、検出面で長さ4.6m×幅3.2m、上段までの深さは0.92m。二段墓壙の下段に凝灰岩製の組合式石棺があった。石棺の内寸は、長さ1.77m×北東幅0.69m・南西幅0.51m。蓋石は2枚からなり、継ぎ目は粘土で目張りがされていた。ほかの主体部には出土品がなかった。

大田南古墳群のある尾根は「王家の丘」と呼ばれる
「王家」といっても、この時代だから、卑弥呼に毛が生えたくらいの、丹後王国の「王家のタマゴ」の丘であろうか。タマゴといえでも思わずコーフンしてしまう、コーフンの丘である。

現地の案内板には、
【大田南古墳群】
大田南古墳脾は、大小の円墳・方墳からなる総数25墓の古墳群である。平成2年以降合計12基の古墳の調査を終了しその結果、この古墳は竹野川流域における古墳時代前期の、有力者の墓域てあることが明らかとなっている。
 丹後地方と中国大陸・朝鮮半島との交流が検証できる遺跡として、貴重な成果も数多くあげられている。
 しかし中世に、古墳群上に山城・矢田城が築かれた際、いくつかの古墳が削平、改変を受けたものと思われる。

2号墳
22mX18mほどの方墳で、埋葬施設に舟形の木棺をもっていた。主な副葬品として、棺内から銅鏡1面(画文帯環状乳神獣鏡)、棺外から鉄剣が一振り出土している。被葬者の頭付近(鏡の周辺)には朱の痕跡が認められた。
 出土した鏡は中国後漢時代(2世紀後半)に華南地方て製作されたと考えられるもので、鈕に龍の文様をもつことが大きな特色である。同様の鏡は、中国・朝鮮半島て出土例が知られている以外は国内で初めての出土てあり、現在京都府の指定文化財とされている。
4号墳
 26m×16mほどの方墳であり、長大な組合せ式木棺の頭部と推定される側の棺外に、大型の壺がおかれていた。
5号墳
 18.8mX12.3mの方墳で、組合せ式石棺を埋葬施設としていた。棺内から出土した副葬品には、紀年銘鏡としては、日本最古となる方格規矩四神鏡や、幾重にも布に巻かれていた鉄刀などがみられた。この銅鏡は絹織物にくるまれておりおそらくは木箱に収められた状態で棺内に副葬されたと考えられる。 銅鏡の銘文中に刻まれた年号は、中国・魏の年号「青龍三年」(西暦235年)である。これは 魏志倭人伝に、卑弥呼が魏に使節を送ったと伝えられている、景初三年(西暦239年)の4年前に当たるものであり大変注目を受けた。なお、現在この鏡は国の重要文化財に指定されている。
6号墳
 径約30mの円墳である。墳頭部に掘られていた墓壙は、縦9.6m・横6.5m・深さ2.5mという巨大な規模をもっていた。埋葬施設は、小石を丁寧に敷きつめ、ベンガラや朱をほどこした礫床を持つ、大きな組合せ式木棺である。木棺の内部にもベンガラが塗られていたと考えられる。副葬品として石釧が2点出土したほか、刀子やヤリガンナなどの鉄製品も多数出土している。

切山古墳出土の石棺に似た石棺をもった五号墳より出土した方格規矩四神鏡
面径 174mm「青龍三年顔氏作竟、成文章左龍右虎、辟不詳玄武順陰陽、八子九孫治中央、壽如金石宜侯王(内区に「十二支銘」)」の銘がある。←
誠の中国鏡、魏鏡かは、諸説ある。

2号墳からは、直径14.5㎝の「画文帯環状乳神獣鏡」の出土。
被葬者の頭部右側付近で大きく二つに砕けた状態で出土した。故意に割ったものでなく、埋葬後土圧によって砕けたものと判断されている、鏡は布で包まれて鏡背面を被葬者の顔に向けてほぼ直立して状態で副葬されていた。
2世紀後半か3世紀前半の後漢時代四川製作と見られるという。鈕(真ん中の握り)に龍文があるほかに類例がないという鏡である。一般に神獣鏡は権威ある宝物と見られているそうで、耶馬台国の公孫氏経由による一元的な入手を想定されているという。これも卑弥呼の鏡だともされ、注目の鏡である。しかし誠に四川製作鏡なら、四川は蜀だから魏皇帝が卑弥呼に贈るとは考えられなく、卑弥呼の鏡ではないことになり、卑弥呼の鏡も邪馬台国もナゾのまま残されてしまう。

舞鶴の古墳からは1面の鏡も出土していない、まして中国鏡など高級な文化財とはエンがない、古墳期を通じて辺鄙なイナカであったものか。(古墳以外からの出土はあるが、小形の仿製鏡である)
しかし石棺が同型なので、格下ながらも、中国・朝鮮などの高い文化圏と何かの繋がりがなくもなかったと推定しておきたい。

『京都新聞』(2003.9.12)
古の言伝-54-
大田南5号墳*丹後王国論に一石
 千八百年近い眠りから覚めた青龍三(二三五)年紀年銘鏡-。「卑弥呼の鏡の一枚ではないか?」といわれ、邪馬台国論争や丹後王国論に大きな一石を投じた発見となった。「予感はあったんですが、まさかこれほどのものが出るとは思っていませんでした」。
 一九九四年一月二十八日。当時、峰山町のスタッフと一緒に発掘を担当した弥栄町教委の横嶋勝則係長(三九)は、積もる雪の中で見つかった緑鮮やかな鏡を掘り当てた興奮を、今でも忘れないという。
 竹野川を一望する丘陵頂上(標高八二メートル)での調査は、中世(戦国時代初期)の山城の発掘が目的だったが、間もなく大田南5号墳(古墳時代前期=四世紀後半)の存在を確認。中国・魏の年号の青龍三年の銘文が刻まれた鏡は、中央部にある石棺被葬者の頭の上部から完形で出土した。
 鏡は直径十七・四センチで、周りに青龍や白虎などの四神、鳥獣などが描かれた方格規矩四神鏡。紀年鏡としては国内最古という。注目されたのは、卑弥呼が邪馬台国の女王になっていた時期と同じで、魏志倭人伝に、景初三(二三九)年に卑弥呼が魏に使者を送り、「銅鏡百枚を賜る」との記述があることとの関連だった。
 以来、「卑弥呼の鏡の一つだ」「丹後独自の日本海ルートで入手したのでは」など、邪馬台国の所在が大和か北九州かという邪馬台国論争や、丹後には独立した王権があったとする丹後王国論など、考古学会に新たな論争を巻き起こした。
 「いずれにしても丹後にこれだけの貴重な鏡を持つ強大な勢力が存在したことは間違いない」。横嶋係長は古代丹後の繁栄を確信する。一枚の鏡は今、何を丹後に問いかけているのだろうか。(峰山通信部後藤光男)


この丹後出土の「青龍三年鏡」と同笵(同じ鋳型で作られた)と見られる鏡があと2面知られている。一面は関東だが、その出土地が不明という。
あと一面は大阪府高槻市の安満宮山古墳から出土した。

Webなどによると、
高槻市の公園墓地内にある古墳で、安満山古墳群(6世紀後半から7世紀の大規模な群集墳)の中の一つの古墳だったが墓地開発の時に他の古墳は破壊されてしまった。墳形は長方形で、規模は東西18メートル、南北21メートルと推定されている。埋葬施設はコウヤマキ製の割竹形木棺直葬。墓地を拡張するために事前に行った発掘調査によって青龍三年の紀年鏡などの副葬品が出土している。青龍三年の紀年鏡の発見により3世紀後半の築造とされている。
出土品は、青銅鏡5面(魏の年号「青龍三年(235年)」銘鏡・三角縁神獣鏡をふくむ)ガラス小玉1600個余り鉄製品(鉄刀・鉄斧)。
鏡に玉、劔だから、三種の神器が揃っている。これは王墓でなかろうか。

当墳の西側4、5㎞のところに今城塚古墳がある。
安満のヒボコさんではなかろうか。






京都新聞97.8.2
*青龍三年銘の鏡出土*三角縁神獣鏡も2枚*高槻の安満宮山古墳*
 高槻市安満御所の町の丘陵中腹にある小古墳で、中国・魏の年号の青龍三(二三五)年の銘が入った「方格規矩(ほうかくきく)四神鏡」と、三角縁神獣鏡二枚など青銅鏡五枚が出土し、同市教委は一日、同古墳を「安満宮山古墳」として発表した。
  (3面に関連記事)
 青龍三年は卑弥呼の遺魏使の四年前で、同鏡は魏製との見方が有力。京都府の大田南5号壙(四世紀後半)に次ぎ二枚目だが、三角縁鏡と一緒の出土は初めて。
 市教委は「鏡は近接した時期に製造されており、古墳の主が五枚を独自に中国から入手したとは考えにくい。邪馬台国が、外交にかかわった配下の高官に与えた」とみており、邪馬台国畿内説に大きな弾みとなりそうだ。
 青龍三年鏡は、この鏡を持つと出世し長生きするという吉祥句など三十九文字入り。大田南5号墳の鏡と文様・文字は全く同じで、鈕(ちゅう=取っ手)の穴の方向だけが異なり、鋳型は違うが原型は同じ「同型鏡」で、鏡が大量生産されたと分かる。
 青龍三年は蜀の諸葛孔明が病死した翌年で、魏の安泰が確定した記念すべき年。日本出土の年号鏡では最古。
 三角縁鏡は「吾作(ごさく)四神四獣鏡」と「獣文帯四神四獣鏡」。前者は三角縁鏡の中でも最古の形式で、後者も初期の形式。
 三角縁鏡は、卑弥呼が魏からもらった「銅鏡百枚」に当たるという魏鏡説と、反対する日本製説とで論争がある。
魏の外交政策示す
 奈良県立橿原考古学研究所の樋口隆康所長の話
 鏡の様式や組み合わせから、五面とも魏鏡とみておかしくない。青龍三(二三五)年から正始元(二四〇)年までの魏の年号鏡は日本に集中する。青龍二年には蜀の諸葛孔明が死に、呉は朝鮮半島などを押さえた公孫氏と結び、魏を挟み撃ちする計略を進めていた。魏は倭国と結び公孫氏を挟み撃ちにする「遠交近攻」の計略を立てていたのでは。

*邪馬台国の霧は晴れず*高槻で青龍三年銘鏡の出土*魏か日本か、製造地論争*水軍のドン・技能で仕えた官僚の姿浮かぶ*
卑弥呼時代と即断できない
 同志社大の森浩一教授(考古学)の話
 今回の鏡は、卑弥呼の時代に魏から入手した品物と即断できない。今回のは見ていないが、同型鏡である京都・大田南5号墳の青龍三年鏡は、銅質や鋳上がりが悪く、中国鏡とは思えない。また、斜縁二神二獣鏡などほかの二枚の鏡との組み合わせからみても、卑弥呼の時代にまでさかのぼれるのか疑問だ。墓も鏡も非常に興味深くはあるが、最初から問題を卑弥呼の関係だけで解こうとしては危険だろう。
魏の年号鏡を強く意識か
 近藤喬一山口大教授(考古学)の話
 篤くような発見だ。墳形が不明ながら、かなり高い場所を選んで墓穴を深く掘り、東まくらに遺体を安置し、木棺を直接葬っている。いずれの要素も異例。副葬の鏡は、青龍三年の年号鏡を三角縁神獣鏡でサンドイッチ状に重ね、墓を造った人か被葬者が、魏からもらった年号鏡だと強く意識した様子がうかがわれる。卑弥呼が魏に送った使いの一人が入手した鏡とともに眠った墓という説も否定できない。
 
 邪馬台国時代の中国・魏の年号の青龍三年銘の方格規矩鏡。丹後半島に次ぐ二枚目が今度は畿内で、しかも三角縁神獣鏡と一緒に出た。
 三角縁鏡は邪馬台国論争に絡み、魏鏡か日本鏡かで議論沸騰の鏡で、今回の発見でその論争に新たな展開が期待される。しかし今のところ、青龍三年鏡についても魏か日本かという、三角縁鏡と同様の議論が展開されており、邪馬台国にかかる霧を鏡で晴らすのは難しいようだ。
 三年前に京都・大田南5号墳で出土した青龍三年鏡と今回の鏡はうり二つで、ひもを通す鈕(ちゅう)の穴の位置だけが違う。
 それぞれの鋳型は違うが、鋳型の原型は同じ鏡。とすると鋳型は多数あっておかしくない。とすれば、兄弟鏡がまだ何十枚かあるはずだ。
 三角縁鏡を、魏が卑弥呼に下賜するため二三九-二四〇年に大量生産した鏡だとする立場からは、魏がそれ以前から鏡の量産態勢を確立していた証拠と受け取る。
 京都大人文科学研究所の岡村秀典助教授は、魏の領土だった中国北部には、今回の鏡と同様に、文様の配薗や鈕穴の向きが後漢鏡と異なる方格規矩鏡が分布する点を挙げ、遣使以前に卑弥呼が、朝鮮半島勢力を仲介して入手し配下に配った魏鏡とする。
 一方、邪馬台国九州説で三角縁鏡を日本製とする宮崎公立大の奥野正男教授は「中国では同型鏡を大量に造る例は確認されていない」と指摘する。日本では島根・加茂岩倉遺跡の銅鐸のように、弥生時代から大量の兄弟製品を造る風習があった。
「魏の都があった洛陽の鏡の鈕穴は半円形ばかりだが、青龍三年鏡のは四角」として日本に入っていた鏡を原型にして兄弟鏡を大量生産したとの見方で、鏡論争は終息の気配を見せない。

 「荒くれ者の海の男たちを束ね、その能力を邪馬台国に買われて、魏との往来に大活躍した水運のドン」-。安満宮山古墳(高槻市)の一風変わった埋葬法と銘文入りの五枚の鏡は、卑弥呼ら“有名人”以外で、邪馬台国を支え活動した人物を生き生きと再現してくれる。
 当時、大阪平野の奥深くまで潟状の大阪湾が広がっていた。この古墳は、北東の岸辺から淀川をややさかのぼった地点の丘陵上に位置する。
 瀬戸内海から淀川、木津川を経て大和へ。保津川、由良川を北上すれば日本海だ。大和に邪馬台国があったとすれば、水運・物流のかなめの地に当たる。現在の地名「安満」は「海人(あま)」と関係する、と古書にもある。
 同古墳を発掘調査した高槻市立埋蔵文化財センターの森田克行次長は、こうした立地条件から被葬者を「邪馬台国に従ったク二の長ではなく、技能で仕えたいわば官僚。外交に直接かかわり、その功績で鏡をもらった」と見る。
 龍谷大の勝部明生教授は「銘文のある鏡ばかりで、恐らく被葬者は漢字が読め、国際的な知識を持っていた人物だった」と想像する。
 二六〇年前後に彼が死亡し、個人的に授かった数々の“勲章”を一緒に埋めた。古墳が風変わりなのは、まだそのころ、古墳の定型が決まっていなかったから-。これが森田次長の描く図式だ。
 海産物の集散や航海に従事する荒くれどもを、力と頭で心服させた切れ者。卑弥呼の遺魏使では、船団長の大任を負っていたかもしれない。


京都新聞(97.8.8)
*高槻・安満宮山古墳、特異な埋葬法*古代朝鮮(2-3世紀伽耶地方)の墓と類似*邪馬台国に尽力の商人?*滋賀県立大・菅谷教授の研究で判明*
 青竜三年銘の方格規矩鏡や三角縁神獣鏡などが出土した高槻市の「安満宮山古墳」の特異な埋葬法が、古代朝鮮南部・伽耶(かや)地方の二-三世紀の墓とよく似ていることが、滋賀県立大の菅谷文則教授(考古学)の研究で七日までに分かった。同教授は古墳の年代を三世紀中ごろとし、被葬者を「邪馬台国と古代中国・魏を結ぶ貿易に尽力した伽耶の航海商人」と推定している。鏡の出土を邪馬台国畿内説の証拠とする見方の一方、古墳の築造年代が不明とする反対意見もあっただけに、波紋を広げそうだ。
 同古墳は、石室を設けずに木棺を直接埋葬している上、墓穴をほぼ垂直に一・五㍍以上も掘り込むという特殊な手法。鏡も、これまでのように壁にずらりと立て並べる方法とは違い、頭付近に積み重ねて置いていた。
 菅谷教授によると、木棺や墓穴の手法は、良洞里遺跡など二-三世紀の伽耶地方にある墓と似ており、同地方には鉄器を重ねて副葬する風習もあるという。
 同古墳を調査した高槻市立埋蔵文化財センターは、墓穴などの特殊さを、定型化以前の古い形態と解釈していた。
 同教授は、青竜三年鏡や三角縁鏡を日本鏡とする見解だが、伽耶の商人がこの地に移住したのは、大和の邪馬台国の後ろ盾があったからとみており、結果的に三角縁鏡=魏鏡派と同じ畿内説となる。
「邪馬台国の貿易を仲介し、その富で入手した鏡を成功のあかしとして、故郷の伽耶風の墓に一緒に入れさせたのではないか」としている。


(参考)
『魏志倭人伝』の記事

  景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻
  太守劉夏遣吏将送詣京都 其年十二月 詔書報倭女王曰

  制詔 親魏倭王卑彌呼 帶方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米 次使都市牛利
  奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到
  汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝
  今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人 勉為孝順
  汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞
  今 以難升米為率善中郎将 牛利為率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還
  今 以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 倩絳五十匹 紺青五十匹 荅汝所獻貢直
  又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口
  銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利
  還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

  正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王
  并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 荅謝詔恩

  其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
  上獻生口倭錦絳靑縑緜衣帛布丹木拊短弓矢
  掖邪狗等壱拝率善中郎将印綬
  其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授










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