丹後の地名プラス

そら知らなんだ

麻呂子親王の鬼退治伝説と
七仏薬師信仰
(そら知らなんだ ふるさと丹後-12-)


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そら知らなんだ
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丹後国神名帳(与謝郡編)
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。


丹後の鬼退治伝説2:麻呂子(まろこ)親王の鬼退治伝説、七仏薬師信仰


麻呂子親王伝説の関連地は、丹後・丹波にまたがり、先人の研究によれば、その数は70か所に及ぶといわれる。当地一帯はマロコ伝説だらけである。

寺社の縁起書


歴史書に記録されたものはなく、残されているものは、いずれも薬師仏奉祀の寺社の縁起として麻呂子親王の鬼退治伝説がのべられている。それぞれの縁起によって多少内容が異なるが、大筋はほぼ一致しており、これらが当地方に伝播する以前に、何かどこかに一つのオリジナルがあったのではないかとも見られている。
仏教文化が地方へ広がっていく最初の時代の伝説であろう。当地方の宗教改革がすすむ背景と当地方社会事情の間に何か衝突があったものかと思われる。

最も古いと見られている「清園寺縁起絵巻」
←『大江町誌』より
大江町河守にある寺院。
絵巻が3幅伝わる。作風からだいたい南北朝期か室町期(14世紀末)に描かれたものといわれる。


清園寺薬師観音堂↑
絵巻には文字はない。後に書かれた(江戸期)古縁起、略縁起と呼ばれる文書が伝わる。
何が書かれているかは、
清園寺
この絵巻から麻呂子親王による鬼退治伝説や七仏薬師信仰は、南北朝時代までには成立していたと見られている。
丹後の諸寺院に伝わる仏像類はだいたい平安後期のものと、それよりも古い8、9世紀の作風の仏像があり、あるいはその時代までさかのぼる伝承なのかも知れない。



その次が「等楽寺縁起」(室町後期・16世紀)と見られている。

「絵本着色等楽寺縁起」部分↑(『京丹後市の伝承・方言』より)

これら以降は、だいたい江戸期に成立した縁起になる。
舞鶴は多禰寺


『医王山多祢寺』(パンフ)
開創
 多禰寺は、密教嗣続の霊場で、第二十一代用明天皇の即位二年(五八七)、王子麻呂子親王(または金麻呂親王ともいう)が開創した寺であります。
 与謝郡三上ヶ岳に住む英胡、軽足、土熊の三鬼がこの地方の庶民を苦しめました。天皇はこれらの賊を退治し、人民を救済しようと鬼退治の将軍に諸宮の中から麻呂子親王を選ばれました。親王は、天性雄健で厚く仏教を尊崇していました。親王は、鬼賊の誅伐は容易でないと考え、出発にあたり仏陀神明の妙力を得る為、七仏薬師の法を宮中で修め、小金体の薬師像一躯を鋳て護身仏として身につけました。また、伊勢神宮に詣でて神徳の加護を祈りました。七仏薬師とは、第一に善名称吉祥王如来、第二に宝月智厳光音自在王如来、第三に金色宝光妙行成就如来、第四に無量景勝吉祥如来、第五に法海雷音如来、第六に法海時慧遊戯神通如来、第七に薬師瑠璃光如来であります。
 これより丹後の国に赴く途中、不意に白犬が現れて親王に宝鏡を献上することがありました。親王はこれは開運の祥瑞であろうと喜ばれました。ようやく黄坡、雙坡、小頚、綴方の四人の従者とともに鬼の巌窟にたどりつき、激戦の末、英胡、軽足の二鬼を退治し、逃げる土熊を追って竹野郡の巌窟に至りましたが見失ってしまいました。この時、さきの宝鏡を松の枝に掛けたところ、土熊の姿が歴然と鏡に映ったので、ついにこれも退治することが出来ました。
 その後、宝鏡を三上ヶ岳の麓に納めて、大虫明神と号しました。
 鬼退治が終わってから、親王は、神徳の擁護に報いるため、天照皇大神宮の宝殿を竹野郡に営み、これを齋大明神と言い、その傍らに親王の宮殿を造営しました。また、仏徳の加護に報いるため、丹後の七ヶ所に寺を建て七仏薬師像を安置しました。七仏薬師の寺というのは、加悦荘施薬寺、河守荘清園寺、竹野郡元興寺、同郡神宮寺、溝谷荘等楽寺、宿野荘成願寺、白久荘多禰寺の諸寺であります。
 七仏薬師の本尊薬師如来は多禰寺に安置されましたが、その丈は三尺五寸(一一五・五センチ)、その胎内に一寸(三・三センチ)の護身仏を納めています。
 造寺刻仏は、ともに麻呂子親王によってなされました。本堂は五間四方で南方を向き、前には弁天池がありました。
 長い廊下は虹のようで、廻拝殿は旭日を映して美しく、二層の楼鐘は月にひびき、東西の両塔は雲にそびえ建っていました。求聞寺堂があって、国家安全を祈る勅願所として、香煙が山中にたなびいたといわれます。


『舞鶴市誌』
丹後の七仏薬師信仰
丹後国には八、九世紀から一〇世紀にかけて、伝説と史実のあいだ、いろいろな説話が、それぞれかたちをがえて伝承されているが、それらのなかで多袮寺の縁起は宝永七年(一七一〇)田辺桂林寺の一七世、華梁霊重が上梓した「田辺府志」 (巻二)のなかの丹後七仏薬師の伝承を同一八世香邦叶蓮が享保二年(一七一七)二月漢文に書き改め清書したものである。この伝承は飛鳥時代、用明天皇の皇子で聖徳太子の異母弟麻呂子親王にまつわる鬼賊退治の説話で、時代的には多少錯誤はみられるものの九、一〇世紀にまでさかのぼる薬師信仰が丹後地域に浸透密着した。由縁を記したもので要約すると次のように述べられている。
 丹後国加佐郡白久荘医王山多袮寺は密教の霊場で用明天皇二年、王子麻呂子(また金麻呂親王という)が創立した寺である。親王は与謝郡河守荘三上山(鬼城)に住む英胡・軽足・土熊の三鬼が庶民を害したので、それを征伐する将軍に選ばれた。親王は葛城直磐村の広子の所生で天性雄健でとくに仏教を尊崇していた。それで鬼退治の出発に当って仏陀神明の妙力を頼むため七仏薬師の法を宮闕で修め小金体の薬師像一躯を鋳て護身仏とし、また伊勢神宮に詣り神徳の加護を祈った。丹後国に赴く途中不意に白犬が現われ親王に宝鏡を献上することがあり、これは祥瑞であると悦ばれた親王はようやく従者の黄披・隻披・小頚・綴方とともに鬼窟にたどりつき、首尾よく英胡・軽足は殺したが土熊は逃走して竹野郡の岩窟に逃げ込んだためついに見失ってしまった。このときさきの宝鏡を松の枝にかけたため土熊の姿がこれに歴然とうつり、そのため、これを退治することができた。その後宝鏡を三上山の麓に納めて大虫明神と号した。或説によると、この鏡は伊勢鏡宮の所変であったという。
 鬼退治が終ってから神徳の擁護に報しるため天照皇太神宮の宝殿を竹野郡に営み、その傍に宮殿を造営した。これを斎大明神という。また仏徳の加護に報いるため、丹後国の七か所に、七仏薬師を安置した(「丹後の七仏薬師像」)。
 縁記の大要は大体以上の様で、このあと七仏薬師を奉安したのは丹後国の、(一)加悦荘 施薬寺(現与謝郡加悦町滝)、(二)河守荘 清園寺(現加佐郡大江町河守)、(三)竹野郡 元興寺(現竹野郡丹後町願興寺)、(四)竹野郡 神宮寺(現竹野郡丹後町是安)、(五)溝谷荘 等楽寺(現竹野郡弥栄町等楽寺)、(六)宿野荘 成願寺(現宮津市小田宿野)、(七)白久荘 多袮寺(現舞鶴市多袮寺)、であると記している。
 この七か寺の名称は他史料には、あるいは日光寺(現中郡大宮町)円頓寺(現熊野郡久美浜町)如来院(現加佐郡大江町)福壽寺(現与謝郡野田川町)などとなっていて一定していない。なお、縁記にある大虫神社は農作物に被害を与える害虫を神の仕業と考え、これを祭神として麻呂子親王ゆかりの神像を祀ったという加悦町温江の式内大虫神社で、斎大明神は同じ麻呂子伝承をのこす丹後町字宮に所在の式内竹野神社にあたる。
 このほか「多袮寺縁起」には往昔、境域に東西両塔・二重鐘楼・求聞寺堂・二王門・熊野権現を勧請した鎮守や、寂静院・吉祥院・西蔵院を長寺とする八か寺などがあり山麓には伝教大師自刻の不動明王を本尊とした浄土寺があったと記している。延暦元年(七八二)五月に住僧奇世上人が薬師の神呪により桓武天皇の御脳を癒した。このため帝力の余裕を得て旧観に復したので奇世上人が中興となったという。爾後永正十一年(一五一四)十一月三日不意に来冦した逆党の賊兵のため山中の什宝が略奪され、この時古記録が失われて今では、本堂・僧房・庫裡・仁王門と二、三の古区をのこすのみと結んでいる。
 この縁記は、はじめに日々庶民に暴虐をつくす三上山の鬼賊を退治するという前提があり、この山が大江山に連なる河守荘となっているため麻呂子親王と源頼光が混同され伝えられている例も多い。しかし、その内容は前者は七仏薬師法による仏力の加護を根底にして、伊勢太神宮の所変にかかおる皇恩の浸透が丹後の大虫・斎両明神にまで及んで、退治のあとは修法の本義に基づき、七か寺に七薬師を分置したと伝えており、後者は鬼賊退治後ただちに都に凱旋して、あとに何も残さないという一過性のもので異質なものとなっている。多くの土民に仇をなす鬼が朝命によって退治され、その恩寵の余波が七仏薬師となって各地に定着し、これを通じて九、一〇世紀のいわゆる皇威が各地に伸張してゆく状況を示唆する物語であるだけに、この仏教説話は古代の丹後を語る場合重要な意味をもつものと思われる。
 薬師信仰の本願は普通・病苦・災禍を除き、心身の安楽を得るためのものとされ、中国随代から唐代にかけて成立した「薬師如来本願経」や、「薬師瑠璃光本願功徳経」が達磨や玄弉によって訳出され、順次我が国に渡来し修法の基本となっていたという。これに対して分身七仏薬師の造像をすすめる「薬師瑠璃光七仏本願功徳経」は唐の義浄が新らしく訳出したもので、これが渡来してからは前後の二修法が行われたとされている。
 こうしたなかで、これにかがわる初見は「天武紀」朱鳥三年(六八八)五月条の、癸亥(二十四日)から天皇の病篤く、ために川原寺に於て薬師経(薬師本願経)を説かせ、また宮中で安居させたという記事である。 「類聚国史」に出示する記事のうちで、大同四年(八〇九)秋七月乙已(一日)と同五年(八一〇)已卯(十一日)の平城天皇不予に対する修法は前者の「薬師本願経」で行われ、嘉祥元年(八四八)三月丁酉(十九日)の仁明天皇不予に関わる修法は、後者の「薬師瑠璃光七仏本願功徳経」で行われ「丁酉。於二清涼殿一修二七仏薬師一画二七仏像一。懸二御簾前一」とある。このあと台密系寺院で多く修法される「七仏薬師法」は、鎌倉時代初期に成立した「覚禅鈔」によると、天暦十年(九五六)良源によって比叡山で行われたのが最初であったという(「八、九世紀の七仏薬師像」中野玄三)。
 こうした一連の薬師信仰の史料を通じて多袮寺の縁記を見る場合、麻呂子親王と七仏薬師法渡来の時代的なへだたりから、その背景となっているものは天台系ではない八世紀か、またそれ以前の薬師法を考えなければならない。これらは後世の改宗を考慮に入れなければならないが、現在の丹後七仏薬師由縁の寺院には天台宗寺院が一が寺もないことからも、丹後の七仏薬師信仰は奈良時代前期にはすでに伝えられていた疫病を鎮める、ための御霊信仰的なものであったといえる。
 丹後の大江山連峰につらなる三上山の鬼を退治するため、まず小金銅の薬師像を鋳造して入部し、ようやく目的を達して七か寺、二社に足跡をのこした麻呂子皇子の伝承は仏教と固有信仰との習合を物語り、こうした体験を経て、都の仏教文化がはじめて丹後一円に広く浸透していったと考えられる。



一覧(『京丹後市の伝承・方言』より)
『七仏薬師如来霊場扁額』
多禰寺蔵 弘化2年(1845)
『丹後国竹野郡等楽寺縁起』
等楽寺蔵 江戸時代後期
『薬師如来縁起之写』
施薬寺蔵 明治10年
施薬寺(加悦町) 施薬寺(加悦町) 施薬寺(加悦町)
清園寺(大江町) 清園寺(大江町) 清園寺(大江町)
元興寺(丹後町) 元興寺(丹後町) 願興寺(丹後町)
新宮寺(丹後町) 成願寺(宮津市) 新宮寺(丹後町)
等楽寺(弥栄町) 等楽寺(弥栄町) 等楽寺(弥栄町)
日光寺(大宮町) 神宮寺(丹後町) 日光寺(大宮町)
多禰寺(舞鶴市) 多禰寺(舞鶴市) 多禰寺(舞鶴市)
このほかにも七仏薬師の寺と称する寺院は多い。
成願寺(丹後町)、円頓寺(久美浜町)、仏性寺如来院(大江町)、長安寺(福知山市)、下野条公民館(福知山市)、無量寺(福知山市)、福寿寺(野田川町)、清園寺(市島町)などが知られているが、まだまだある…


七仏薬師信仰


麻呂子親王の時代に七仏薬師信仰はあったのか。
聖徳太子は、574~622の人であり、麻呂子はその弟だから、だいたいこの時代の人である。

「仏教公伝」は、『日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとされている。現在では『上宮聖徳法王帝説』の「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」や『元興寺伽藍縁起』の「天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月」を根拠に、538年(戊午年、宣化天皇3年)に仏教が伝えられたと考える人が多い。教科書ではゴミヤと習った。

その後、日本国内では仏教受入をめぐり大混乱が発生したという。
欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に問うた時、物部尾輿と中臣鎌子らは仏教に反対した。一方、蘇我稲目は、西国では皆が仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようかとして、仏教に帰依したいと言ったので、天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸を寺として仏像を拝んだ。その後、疫病が流行ると、尾輿らは、外国から来た神(仏)を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだとして、寺を焼き仏像を難波の堀江に捨てた。
その後、仏教受入を巡る争いは物部守屋と蘇我馬子の代にまで持ち越され、用明天皇の後継者を巡る争いで物部守屋が滅亡されるまで続いた。この戦いでは聖徳太子が馬子側に参戦していた。聖徳太子は四天王に願をかけて戦に勝てるように祈り、その通りになった事から摂津国に四天王寺を建立した。馬子も諸天王・大神王たちに願をかけ、戦勝の暁には、諸天王・大神王のために寺塔を建てて三宝を広めることを誓った。このため、馬子は法興寺(飛鳥寺、元興寺)を建立した。聖徳太子は『法華経』・『維摩経』・『勝鬘経』の三つの経の解説書(『三経義疏』)を書き、『十七条憲法』の第二条に、「篤く三宝を敬へ 三寶とは佛(ほとけ) 法(のり)僧(ほうし)なり」と書くなど、仏教の導入に積極的な役割を果たした。この後、仏教は国家鎮護の道具となり、皇室自ら寺を建てるようになった。天武天皇は大官大寺(大安寺)を建て、持統天皇は薬師寺を建てた。このような動きは聖武天皇の時に頂点に達した。百済からは仏教と寺院建築のために瓦などの建築技術が伝わった。最初に採用されたのは飛鳥寺であり、7世紀ごろまでは仏教寺院のみに用いられていた。

薬師信仰は、『日本書紀』
朱鳥元年686(五月)二四日、(天武)天皇の病気が重体になった。それで川原寺で、薬師経を講説した。宮中で安居した。
まで見られない。
それもそのはず、そもそも、
薬師如来が説かれている経典は、永徽元年(650)の玄奘(げんじょう)訳『薬師瑠璃光如来本願功徳経』(薬師経)(一仏経)と、景竜元年(707年)の義浄(ぎじょう)訳『薬師瑠璃光七佛本願功徳経』(七仏薬師経)がある。
このほかに建武~永昌年間(317~322年)の帛尸梨蜜多羅訳、大明元年(457年)の慧簡訳、大業11年(615年)の達磨笈多(だるまぎょうた)訳が知られているが、仏教公伝以前に経典が伝わっていて、それを理解していたとは考えにくい。
七仏薬師信仰は、どんなに早くとも707年以前にはありえない、麻呂子親王が伝承の寺社に七仏薬師像を奉安したとは考えられないのである。

聖武天皇は、天平9年(737)に国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と『大般若経』を写す詔、天平12年(740年)には『法華経』10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出している。
天平13年(741)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出された。その内容は、各国に七重塔を建て、『金光明最勝王経(金光明経)』と『妙法蓮華経(法華経)』を写経すること、自らも金字の『金光明最勝王経』を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた。

当地方に仏教が入るのは、これ以降と見られ、8世紀中頃から9世紀、丹後国分寺は薬師如来を本尊としていて、それが広まったと見られている。
実際の歴史はそうしたことであったものを、それを聖徳太子時代までさかのぼらせて説話化したものと思われる。

麻呂子親王の鬼退治伝説は、仏教受入をめぐる朝廷・蘇我氏と物部氏の戦いの時期に、大和や河内だけでなく当地周辺でも戦いがあったものかも知れない。
丹後国与謝郡物部郷 式内社・物部神社
加佐郡、竹野郡、熊野郡にも物部神社があった(室尾山観音寺「神名帳」)
丹波国何鹿郡物部郷
このあたりに、あるいはオニがいたのかも…

『加悦町誌』
麻呂子親王と勢籏家 与謝、山河に観音堂があって、そのそばに勢籏家という、麻呂子親王の鬼退治に供御した家があり、この家に名槍(刀剣も)があって、これがたたるといわれた。
 そこで元伊勢の神主がこれを借受け、親王の墓碑(石の祠)を祭るため、先祖講を開いた。これを斉(いつき)講と称している。


六兵衛屋敷 麻呂子親王の膳部の役になった家で、明治の頃落ちぶれ、男の子は無く、女の子が石川村へ嫁入りされたという。屋敷跡は与謝段の坂で、古銭が埋まっているといわれるがその後田地となる。
 この屋敷に庭石の良いのがあり、村人が金剛寺へ持参した。ところで、当時の住持は毎夜夢に、石が〝六兵衛屋敷に帰りたい〝と泣くので、これを帰した。そして宅地に埋めた。
 なお、屋敷には、御所桜の立派なものがあり、与謝小学校の校庭に移植、親しまれていたが、現在の小学校改築の際伐採された。


土蜘蛛退治 大江山に土くもという山賊が住み、この地域を荒していた。土ぐもとは、穴の中に住み、しばしば朝廷の命に服さない未開の民であった。
 用明天皇第二王子、麻呂子親王は、この山賊を退治するため丹後へ征討に向った。親王は、温江から大江山に登り、途中「サガネ」で休憩、その時カブトをとり、ある岩に置く、その後この岩を〝カブト岩〝と称し、現にその地名が残っている。その「サガネ」から「横百合」という土地を経て、休み石のある場所に着いた時、首に鏡を掛けた犬が現われて、山賊の住む巌窟に案内をした。
 こうして土蜘蛛は滅ぼされ、大江山がもとの姿になった。犬の現われた場所を〝犬つく〝といっている。


鳴滝不動 滝の鳴滝さんは、大江山の鬼が岩や土砂を投げおろしては橋をこわし、洪水をおこしたので、麻呂子親王はここに不動尊を祭って戦勝を祈願し、鬼の誅罰に向ったと伝えられる。.


麻呂子親王とは誰か


用明紀に、
葛城直磐村が女広子、一男一女を生めり。男をば麻呂子皇子と曰す。当麻公の先祖である
とあり、麻呂子皇子は用明天皇の皇子で、聖徳太子の異母弟に当たることがわかる。麻呂子についての記事は記紀を通じてこれだけしかない。
伝承では、金丸親王、椀子・金室・金麿・丸子・神守(かなもり)・竹野守・鞠子など多くの異なった表記や異称で現れる。マロはマラだろうから、麻呂子とは男の子という一般的な名前かと思われる。
(かね)*という名でも知られるので、金属と関わる名であり、その資源の奪い合いの面もありそうに思われる。綾部市あたりでは、親王の子孫・金里宰相という。

相撲の当麻蹶速の伝説で知られる。大和国葛下郡当麻郷の辺りの豪族に当麻氏がある。この当麻公氏は壬申の乱に功あって、のちに真人の姓を賜る。
『新撰姓氏録抄』に、
右京皇別。当麻真人。 用明皇子麿古王之後也。日本紀合。
とある。この当麻氏の氏寺が当麻寺である。
大きくは葛城氏の一派であろうから、但馬の日矛氏や尾張氏なども関係はあろうが、なぜ丹後丹波に彼の伝承があるのか、いったいどう繋がるのか、ここが不明なのだが、天橋立で行われていた迎講(むかえこう)が関係するのでないかの説がある。
『京丹後市の伝承・方言』
高橋昌明は、この伝承の成立について當麻寺(奈良県葛城市)の勧進聖(かんじんひじり)の存在を指摘している(『酒呑童子の誕生-もうひとつの日本文化』)。當麻寺は麻呂子親王創建を伝え、この寺を氏寺とする当麻氏は麻呂子親王を祖としている。そして當麻寺と丹後との共通点として天橋立て行なわれていた迎講の存在を指摘し、勧進聖たちによって形成され、流布したとしている。


天橋立で行われていた迎講の絵(『京丹後市の伝承・方言』より)↑

迎講(むかえこう)
浄土信仰を背景に、念仏行者の臨終に際して阿弥陀如来が諸仏とともに極楽より来迎する、その迎えに来るさまを演ずる法会で、丹後では普甲寺や天橋立で演じられたという。
5月14日に行われる奈良の當麻寺の練供養は中将姫往生の光景をかたどったものといわれ、観音、勢至、普賢の三菩薩を含む二十五菩薩が、本堂より来迎橋を渡って娑婆堂の中将姫の像を迎えにいくそうである。

丹後の迎講は『今昔物語』にある。
『舞鶴市誌』
今昔物語
加佐郡の西南にある普甲峠は与謝郡に属しているが、郡界に近い境域に古刹普甲寺の遺跡がある。この寺院は鎌倉時代の仏教説話集「沙石集」に丹後国普甲寺の上人迎講の事跡として出示するが、これは平安時代成立した「今昔物語集」に成相寺とともに見られる寺で我が国最初の迎講会を行った寺として広く知られている。
次の「今昔物語」の記事は丹後の国の聖人が極楽往生を切望するあまり、年毎の大晦日に弟子を阿弥陀仏の使者に仕立て、これを聖衆の来迎に模していたが、この行いがやがて国守の知るところとなってその知遇を得、迎講会を創始するが、みずからその式場で仮装聖衆の来迎を得て極楽往生を遂げたという話である。

  始丹後国迎講聖人往生語第二十三
 今 昔、丹後ノ国ニ聖人有ケリ。極楽ニ往生セムト願フ人、世ニ多カリト云ヘドモ、此ノ聖人ハ強ニナム願ヒケル。
 十二月晦日ニ成テ、「今日ノ内ニ必ズ来レ」ト云フ消息ヲ書テ、一人ノ童子ニ預ケテ教ヘテ云ク、「暁ニ我が未ダ後夜起セザラム程ニ、汝ヂ此ノ消息ヲ持来テ、此房ノ戸ヲ叩ケ。我レ、『誰ソ、此ノ戸叩クハ』ト問ハバ、汝ヂ、『極楽世界ヨリ阿弥陀仏ノ御使也。此ノ御文奉ラム』卜云ヒ置テ、我レハ寝ヌ。暁ニ成テ、童子云ヒ含タル事ナレバ、柴ノ戸ヲ叩ク。聖人儲ケタル言ナレバ、「誰ソ、此ノ戸ヲ叩クハ」ト問フニ、「極楽ノ阿弥陀仏ノ御使也。此御文奉ラム」ト云ヘバ、聖人泣々ク丸ビ出テ、「何事ニ御坐ツルゾ」ト問テ、敬テ文ヲ取テ見テ、臥シ丸ビ涙ヲ流シテ泣ケリ。如此ク観ジテ、毎年ノ事トシテ年積ニケレバ、使ト為ル童子モ習ヒテ、吉ク馴テソ此ノ事ヲシケル。
 而ル間、其ノ国ノ守トシテ、大江清定ト云フ、此人聖人ヲ貴ビテ帰依スル程ニ、聖人守ノ国ニ有ル間、館ニ行テ、守ニ値テ云ク、「此ノ国ニ迎講ト云フ事ヲナム始メムト思給フルヲ、己ガ力一ツニテハ難叶クナム侍ル。然レバ、此ノ事、力ヲ令加給ヒナムヤ」卜。守、「糸安キ事也」卜云テ、国ノ可然キ者共ヲ催シテ、京ヨリ舞人楽人ナムド呼ビ下シテ、心ニ入レテ令行メケレバ、聖人極テ喜テ、「此ノ迎講ノ時ニ、我レ、『極楽ノ迎ヲ得ルソ』卜思ハムニ、命終ラバヤ」ト守ニ云ヒケレバ、守、「必ズシモヤ」卜思テ有ケルニ、既迎講ノ日二成テ、儀式共微妙ニシテ古事始マルニ、聖人ハ香炉ニ火ヲ焼テ娑婆ニ居タリ。仏ハ慚ク寄リ来リ給フニ、観音ハ紫金ノ台ヲ捧ゲ、勢至ハ蓋ヲ差、楽天ノ菩薩ハ一ノ鶏婁ヲ前トシテ微妙ノ音楽ヲ唱ヘテ、仏二随テ来ル。
 其間、聖人涙ヲ流シテ念ジ入タリ、卜見ユル程ニ、観音紫金台ヲ差寄セ給タルニ、不動ネバ、「貴シト思ヒ入タルナメリ」卜見ル程ニ、聖人気絶テ失ニケリ。音楽ノ音ニ交レテ、聖人絶入タリト云フ事ヲモ不知ザリケリ。仏既ニ返リ給ナムト為二、「聖人云事モヤ有ル」卜、時替マデ待ツニ、物モ不云ズ、不動ネバ、怪ビテ、弟子寄テ引キ動カスニ、すくミタリケレバ、其時ニソ人知テ、皆、「聖人往生シニケリ」ト云テ、見ののしリ泣キ貴ビケル。
 実ニ、日来聊ニ煩フ事モ無クテ、仏ヲ見奉テ、「被迎レ奉ルソ」卜思ヒ入テ失ナムハ、疑無キ往生也トソ讃メ貴ケル。況日来此ノ時二命終ラムト願ヒケルニ、違フ事無シ。
 実二竒異二貴キ事ナルハ。此語リ伝ヘタルトヤ。

 このような阿弥陀仏の来迎を演じる法会は比叡山で修業した天台僧・源信(恵心僧都)がはじめて華台院で行ない、次いでその弟子である丹後与佐郡出身の寛印供奉が、これを天橋立で演じ、その後このことを一般に「丹後迎講」といいならわされたものであるが、この普甲寺の聖人が、或は寛印供奉であったかも知れないといわれている。

橋のたもとの柳の木の下に幽霊がでたとか、京の一条戻橋(もどりばし)渡辺綱(わたなべのつな)が鬼女に出会ったとか、橋はこの世にあるものだが、あの世につながる空間で、橋の付近は異界のモノが出現しやすいと見られていたようである。
天橋立も橋だから、この世とあの世の間にかかる橋と見倣わされていたものであろう。橋立を渡ったその先に、あの世が、極楽浄土が、神々の国が、常世国が、異界が、魔界が、龍宮が、鬼の岩窟が、…そうしたものがあると信じられてきたものであろうか。天橋立もそうした異界との境界にあると見られていて、異界のモノはこの橋に出現しやすいとされていたのであろう。。





音の玉手箱 精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石


 Olé Guapa


(176) 【タンゴ Tango】オレ グァッパ Ole Guapa/マランド楽団 MALANDO/レコード/高音質 - YouTube
(195) Olè guapa Orch Danny Malando - YouTube

丹後「俺、河童」。丹後の河童の歌にしては、何とも美しい曲である。こうも美しいとクダラヌ日々の生活が本気でイヤになってくる。
本当の意味は、「Olé」は掛け声、ガンバレとか言った意味。「Guapa」は美女(little pretty girl)のことだそう。「カンバレ、ベッピンちゃん」といった意味で、何をカンバルのかと言えば、タンゴの踊りである。「かんばって踊れ、別嬪ちゃん」といった意味だそう。


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