丹後の古墳②-蛭子山古墳
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 丹後には墳丘の長さが一〇〇メートルを越えるような巨大前方後円墳が6基ある。 峰山町・湧田山古墳一〇〇メートル 網野町・網野銚子山古墳は一九八メートル 丹後町・神明山古墳は一九〇メートル 与謝野町・蛭子山古墳は一四五メートル 弥栄町・黒部銚子山古墳は一〇五メートル 与謝野町・白米山古墳は九〇メートル 合計六基の大型前方後円墳があいついで築造されている。このなかでも、網野銚子山古墳と神明山古墳の二基は、墳長がほぼ二〇〇メートルの巨大な前方後円墳。 蛭子山一号墳(与謝野町明石)資料は『加悦町史』やネットなど (案内板) 蛭子山古墳
蛭子山一号墳は全長一四五㍍(復元長一七〇㍍)、後円部径一〇〇㍍高さ一六㍍、前方部幅六二㍍、高さ一一㍍の大型前方後円墳です。 墳丘は三段に築かれ、各段に埴輪列、墳丘には葺石が確認されています。 古墳は一九二九、八四、九〇年に調査が実施され、後円部中央から三基の埋葬施設、二ヶ所の方形埴輪列が発見されました。三基の埋葬施設はいずれも南北を主軸とし、平行してつくられています。中央の第一主体部は巨大な墓壙内に砂利を厚く敷きつめ、その上に花崗岩製の舟形石棺を安置していたようです。棺内はすでに荒らされていましたが、中国製の内行花文鏡・鉄製大刀などが検出され、棺外からは鉄製武器類が多数発見されました。埴輪列は墓域を埋めた後、溝を掘って樹立されており三三本の埴輪が出土しています。東側の第二主体部は全長四・六㍍の竪穴式石室で、第一主体部同様に石室を埋めた後、一六本の埴輪を立てならべています。第三主体部は一部が確認されただけですが、埴輪列などはないようです。また、舟形石棺は加悦谷産の花崗岩を使用しているので、石棺もこの地で製作されたものとみられます。 古墳は出土した遺物などより、古墳時代前期、四世紀中頃(今から一六五〇年ほど前)に築造されたと考えられています。 蛭子山一号墳はその規模・内容などからして、古墳時代前期後半頃の丹後地域を代表する首長墓とみられるもので、古代の丹後の成り立ちを考える上でも貴重な歴史的文化遺産といえるでしょう。 蛭子山古墳は、渋谷向山古墳(伝景行天皇陵)(天理市。300メートル)や佐紀陵山古墳(伝日葉酢媛陵)(奈良市。210メートル)と、相似形という。 蛭子山1号墳の前方部↑(細く低い) 柄鏡式前方後円墳(手鏡式前方後円墳)と呼ばれる型で、古い古墳とわかる。 前方後円墳の形態は時期によって特徴が変化して、古墳の編年的研究に重要な役割を果たす。 前期は丘陵上や台地の縁辺部に立地するものが多く、高い後円部の前面に低くて細い前方部が付くのが特徴で、一部は〈柄鏡式古墳〉と呼ばれる。 (ただし最古の一群には(箸墓古墳)、前方部が狭いくびれ部から撥(ばち)形に大きく開く例の多いことが指摘されている。) 「柄鏡式古墳」とは、前方後円墳の中でも前方部が細く、くびれ部幅と前方部幅が変わらない形状の古墳を指す。前方部の高さは後円部よりもかなり低いのが特徴。 地震もたまにはよい効用もあるようで、昭和2年3月7日の丹後大地震で、蛭子山一号墳の後円部中央付近に地割れが生じ、その中に埴輪列が発見された。 (山田断層の南方約4~5㎞に当墳がある) 地震により後円部墳頂にあった蛭子神社社殿が倒壊したため、昭和4年に社殿再建工事が実施されたところ、埴輪が多数出土するとともに、舟形石棺が発見された。 一号墳は北西に前方部を向けた全長一四五㍍の前方後円墳。後円部の直径約一〇〇㍍、同高さ約一六㍍、前方部幅約六二㍍、同高さ約一一㍍。後円部は墳丘主軸に直交する方向に向かって長い楕円形を呈する。墳丘は三段に築成し、斜面には川原石により葺石を葺いている。 埋葬施設 埋葬施設は後円部中央に三基確認されている。舟形石棺を直葬した第一主体部を中央に、その東に竪穴式石槨(第二主体部)、第一主体部の西側に内容不明の第三主体部がそれぞれ配置されている。また、第一主体部と第二主体部上にはそれぞれに方形埴輪列が確認されている。 第一主体部は、墳丘築造後に墓壙(南北五・五㍍、東西八・七㍍・深さ一・一㍍主軸N二六度E)を掘削し、その底面に礫を敷いた後に花崗岩製の舟形石棺を直葬したものである。石棺は全長三・一㍍、幅一・一㍍をはかる。蓋石の各短辺には突起を二つずつ、身の各短辺には突起を一つずつ配される。棺内には石枕を造り付け、棺の内外にはベンガラを塗布している。石棺の主軸は墳丘主軸から北へ約七三度振っており、被葬者の頭位は南向となる。墓壙埋土上層中からは、小型丸底壷・甕・高杯等が出土している。墓壙を埋め戻した後に、南北六㍍、東西五・五㍍にわたり据付用の溝を掘り、方形埴輪列を配置している。埴輪は底部一段目が遺存するものが大半で詳細を知りがたいが、三三本分が検出され、当初は四五本程度の樹立が推定されている。出土した埴輪の大半は丹後型円筒埴輪と朝顔形埴輪からなる。また、埴輪列コーナー部内側四ヶ所にはそれぞれに家形埴輪が配置されていたようである。という。 刳抜式舟形石棺(京都府内)
外表施設 埴輪 墳丘周囲の各平坦面には円筒埴輪列がめぐっている。円筒埴輪列は、墳頂部では心々間距離〇・五㍍と密であるが、二段目テラスではその間隔が約三・二㍍とより広くなるようである。さらに二号墳側の墳丘裾部には、木柱を打ち込んだと思われるピットが確認されている。 墳頂部の埴輪列は後円部平坦面の周囲に直径二八㍍の円形に配列され、前方部との接続箇所では後円部斜面を経由して前方部の長辺両側につながっていき、前方部上面を矩形にめぐっている。これら埴輪列に用いられた埴輪は丹後型円筒埴輪が主体であり、それに加えて朝顔形埴輪がある。前者五本に対して後者一本程度の割合で配置されている。 朝顔形埴輪は、四突帯五段構成品で、復元高約一・二㍍、底径約三八㌢をはかる大型品である。スカシは、二・三段目に半円形を、四段目に三角形もしくは鍵形を、各段に四孔穿孔する配置が基本であるが、壺の肩部にあたる五段目に三角形スカシを穿孔するものもある。また、壺の頸部には突帯がめぐらない点が特徴である。外面調整はタテハケ調整を、内面調整はナデ調整をそれぞれ基調とする。外面には黒斑が確認できる。 一方、丹後型円筒埴輪は完形に復元しえた個体を参考にすると、頂部は朝顔形埴輪の頸部以上を取り去ったごとき形態を呈する三突帯四段構成品で、器高約七〇㌢をはかる。成形や調整等の諸特徴は朝顔形埴輪とほぼ同様であるが、スカシは二段目に半円形を、三段目に三角形をそれぞれ各段四孔配置している。破片資料ではあるが、巴形スカシも少数ながら確認できた。 ただし、全形をうかがえるものが一個体のみであり、本例をもって一号墳の丹後型円筒埴輪の典型とするには不安が残り、朝顔形埴輪と同段数構成の四突帯五段構成品が主体である可能性は否定できない。 形象埴輪 いずれも後円部墳頂部の方形埴輪列中に含まれるものである。短甲形埴輪は、第二主体部を囲む方形埴輪列中から出土した。器高一・五㍍、底径四八㌢をはかる大型品でる。埴輪は四突帯五段構成の円筒部の上に短甲・草摺部がつくられている。円筒部は、三段目の突帯間隔が他段に比して長い。スカシは、二段目に半円形スカシを、三段目に下弦三日月形スカシを、四段目には三角形スカシを、各段四孔穿孔している。さらに、三・四段目外面には複雑な文様を線刻している。短甲部の破片は前胴部分に遺存が集中しており、全形を知りがたいが、草摺部との境界付近に横方向に突帯をめぐらし、さらに両脇部分に縦方向の突帯を貼付している。外面には黒斑が確認できる。 家形埴輪については、破片数は多いものの、全形をうかがえるまでに復元しえた個体がなく、詳細は判然としない。そのなかでも、底部と思われる破片についてみると、底端部から第一条突帯までの間隔が長いものがあり、通有の家形埴輪の底部とは異なった印象を受ける。また、網代を表現した屋根部に相当する破片もある。 第三主体部周辺から出土した鶏形土製品である。裏面に抉りがあり、木柱上に取り付けられた可能性がある。 二号墳では、墳頂部で倒壊したような状況で出土した朝顔形埴輪がある。朝顔形埴輪は、器高一・二六㍍、推定底径三五㌢をはかる大型品である。底部を欠失するが、おそらく四突帯五段構成品に復元するのが妥当であろう。壺部の口縁部が通有のものに比して直線的に立ち上がり、寸胴気味な印象を受ける。頸部には突帯がめぐらない点が一号墳例と其通する。スカシは、推定二段目に巴形スカシを、三段目に逆三角形を、四段目に正三角形をそれぞれ各段に四孔穿孔する。外面調整はタテハケ調整を基調とし、内面調整はナデ調整による。外面には黒斑が確認できる。 以上から。蛭子山一号墳は、埴輪・副葬品等の特徴から、古墳時代前期後半頃に築造時期を求められる。二号墳は一号墳の中段テラスの上に位置しており、一号墳に後出すると思われるが、採集された埴輪が一号墳と同時期に属するとみられることから、近しい時期に相次いで造営されたものと判断できるという。 一号墳の全長一四五㍍という規模は、当該期の丹後地域において最大規模を誇るものである。さらに、三段築成・葺石・埴輪列(方形埴輪列)を完備する点において、それ以前の首長墓とは明確に一線を画する。しかし、その一方で、樹立された埴輪は、近畿中央部とは異なった形態を示す丹後型円筒埴輪であり、被葬者が埋葬されたのは在地色の強い花崗岩製の舟形石棺である点は、一号墳の第一主体部の被葬者が丹後地域に根付いた在地勢力層であったことを示している、とされる。 円筒埴輪の編年 全国の円筒埴輪には共通の規格性や時代性が見られる。円筒埴輪が出土すれば、その古墳の築造時代がほぼ決定できる。 丹後型円筒埴輪 円筒埴輪の上に帽子(キャップ)のような覆いのようなものが被せてあるように、すぼまっているものを「丹後型円筒埴輪」と呼んでいる。 『丹後の弥生王墓と巨大古墳』 現在、丹後全体で約五千基の古墳が確認されており、その中で埴輪を持つ古墳はわずかに三四基で、率にして〇・七%にすぎない。
このような傾向は隣接する但馬や丹波北部においても変わりなく、丹後を中心とする近畿北部ではごく一部の古墳だけが埴輪をもつといえよう。 丹後型円筒埴輪の形とその分布 現在では丹後地域の一〇基の古墳からその出土例が報告されている。 その形は基本的に器台形土器の上に壺形土器をのせ、その壺形土器の口縁部を意識的に取り外したような形をしている。実際、丹後型円筒埴輪という名称が定着する前には、無頸壺型埴輪と呼ばれていた時期もあった。したがって、丹後型円筒埴輪と認定するには、丸く円弧を描く口縁部端部の破片が出ないかぎり、このタイプの埴輪と認定できないわけで、発掘調査を経ていない採取資料だけでは危険性を伴う。したがって、丹後型円筒埴輪と認定するには、破片などの量的な数がないとわかりないのが実情である。 現在、このタイプの埴輪を確実に出土した古墳は、丹後において福田川流域の網野銚子山古墳・小銚子古墳、竹野川流域の神明山古墳、野田川流域の蛭子山一号墳・作山一~三号墳、温江百合三号墳、鴫谷東三号墳、阿蘇海沿岸の法王寺古墳のわずか一〇基に過ぎない。 丹後型円筒埴輪を出土する古墳は古墳時代前期中頃から中期中頃にかけての古墳に限られている。 そのほか、丹後以外の地域で確実に丹後型円筒埴輪と認定できるのは、京都市伏見区の伏見稲荷大社の近くにある稲荷命婦谷遺跡出土の埴輪棺、それと滋賀県大津市の苗鹿遺跡出土の埴輪棺の二基が確実に丹後型円筒埴輪とみられる。ともに、埴輪棺として検出されたが、本来どの古墳に樹立されていたかは不明である。このように、形は類似するものの果たしてそれが丹後といかなる関係の下に製作されたのかは今後の課題である。 さらに、鳥取県東部の因幡では、丹後型円筒埴輪とよく似た形の円筒埴輪があり、器台形土器の上に大型の壺形土器を乗せたものを形どったとみられている。この埴輪を出土する古墳は鳥取市の六部山三・四五号墳、里仁三二・三三号墳で類例が知られており、いずれも川西宏幸氏のⅡ期の埴輪である。しかし、それ以後、因幡ではこのタイプの埴輪は製作されることなく、普通の円筒埴輪と朝顔形埴輪が作り続けされていく。また、鳥取県西部の伯耆において、馬ノ山四号墳(一〇〇メートル)、北山古墳(一一〇メートル)、殿山古墳(一一〇メートル)でこのような埴輪は作られていない。このことから山陰東部では最も東にあたる因幡で丹後型円筒埴輪によく似た地域色の強い埴輪が一時期製作されていたといえる。 このように、丹後型円筒埴輪は丹後の中でもその中心と目される竹野川・福田川流域と野田川流域の核となる古墳に限定して製作された埴輪と考えられる。 丹後では丹後型と呼んでいるが、因幡では因幡型円筒埴輪と呼ばれる。因幡の方が壺だ、という形状を強く残していて、アチラがより古いように思われる。 アチラでは 「因幡と丹後の埴輪一日本海を通したつながりー 因幡(鳥取東部)と丹後(京都北部)には、上部がドーム形に丸くなる円筒埴輪が見つかっています。それらは、因幡では「因幡型円筒埴輪」、丹後では「丹後型円筒埴輪」とよばれています。これらの埴輪は、円筒埴輪の上に壺を載せた形を表しています。 「因幡型」や「丹後型」円筒埴輪は、他の地域では見られない独特の形態をしているため、因幡と丹後との間には、社会的・文化的に深い関係があったことがわかります。ただし、因幡と丹後に挟まれた但馬では、これらの埴輪は見つかっておらず、庄幡や丹後とは社会的なつながりが異なっていた可能性があります。」 としている。 もう一つ綾部市の菖蒲塚古墳の丹後型円筒埴輪があるが、これについては何も資料がない。 これは↓隣の作山2号墳の埴輪列(復元)。埋葬施設は未調査。 『前方後円墳とちりめん街道』 一つは、地方の前期古墳としてはまだまれな段築や円筒埴輪列や葺石など、墳丘の外表施設を完備していた事実である。いま一つは、内方外円の二重区画をもっていたことである。天円地方の観念を表象したこの区画は、畿内中枢の有力な前方後円墳以外では、丹後に二例、吉備に二例、伊賀に一例ほどみられるだけである。こうした様相は、加悦谷の大型前方後円墳を造営した首長が、前方後円墳国家を運営した大和政権に重視されていたことを明示している。
そうだとすれば、これらを築造した首長が中央から派遣されたのか、あるいは地方に拠点をおいていたのか、といった問いがつぎに出される。『日本書紀』崇神条には、将軍として丹波道主命が丹波に派遣された記事もみられるから、派遣将軍説もあながち荒唐無稽ではない。しかし、この問題にたいする解答もやはり前方後円墳のなかにしかない。 蛭子山古墳には地方の古墳にしては早い時期に、円筒埴輪列が墳丘テラスや墳頂部に樹立されていた、と述べてきた。ところが、それは畿内中枢の円筒埴輪とはいささか形状を異にしていて、上方がすぼまった口縁部をもつ丹後型円筒埴輪とよばれるものであった。これが第一点である。この朝顔形埴輪の変形版とでもいうべき丹後型円筒埴輪は、佐藤晃一氏によればほとんどが丹後にしかなくて、そのなかでも大型前方後円墳や大型円墳にかぎられている。したがって、そこに丹後地域の首長たちの政治的な結合意識と、その自律性のメッセージをよみとることが可能になってくる。もっとも遠望すれば、ふつうの円筒埴輪とさほど変わりはしないのだから、畿内様式前方後円墳の枠内を逸脱したというわけではない。 第二点、蛭子山古墳の埋葬施設が舟形石棺だという事実である。この時期、それまで主流であった割竹形木棺が、辟邪の強化を目論んで製作された長持形石棺にそろそろ変貌を遂げるか、というところにさしかかっていた。蛭子山古墳を営造した首長はいち早くそうした流行に乗ったともいえそうだが、興味をひくのはそれが花崗岩という硬い石材を綺麗に加工して製作されていたことである。 花崗岩使用の例としては、四世紀中ごろの蛭子山古墳は群を抜いて早い。おなじころの例は、隣接した作山一号墳の箱形石棺や、最古の長持形石棺に属した大阪府松岳山古墳などにしかなくて、その後は、六世紀末ごろの寺院建築にともなう礎石加工の技術として伝来するまで、およそ二〇〇年間ほどの空白期間が存在する。いっぽう、このころ花崗岩を綺麗に仕上げた構造物は、朝鮮三国では百済や新羅、あるいは伽耶にはなくて、広開土王(好太王)墓の可能性も否定できない将軍塚古墳など、高句麗の横穴式石室や墳丘が該当するだけである。 共存していた弥生伝統の方墳と大型前方後円墳 白米山古墳のすぐ西側の丘陵尾根には、一辺一七メートルの方墳一基と三基の台状墓、計四基の小古墳が群をなしている。方墳の一号墳は自然地形を整形しただけで人工の盛土はいっさいなく、段築も葺石も円筒埴輪もない、ただの土饅頭であった。そして、墓壙を掘って割竹形本棺を安置しただけの埋葬施設のなかには、鉄斧が一点副葬されていただけだった。二号墳は尾根筋の高いほうを削平して、木棺を埋めるだけの平坦面をつくっただけのもので、通例は墳墓にふくめているが厳密には墳丘をもった墓とは言い難いものである。副葬品はいっさいなかった。墓壙から鼓形器台の破片が一点出土したが、それから判断すれば白米山古墳とほぼ同時期の所産と推定できそうだ。 こうした構造をもった墳墓は、丹後地域一帯で弥生時代後期にひんばんにつくられている。ごく少数の方形墳丘をもったものと、多数の明瞭な墳丘をもたない台状墓がいっしょになって一個の墳墓群を形成するのが通常であるが、まれには方形墳墓だけが単独で築造されることもある。ひとまず方形墳墓を首長墓、台状墓を首長をささえた有力家族層の墳墓とみなしておくと、それらの延長上に位置づけられる白米山西一号墳は首長墓、二・三・四号墳は有力家族の墓ということになる。 弥生時代後期の丹後地域では、各地の中小河川流域に形づくられていた農耕共同体―水田稲作をつうじて形づくられた首長と農民層からなる、いわば運命共同体とでもよぶべき地域団体―の首長たちが、〈もの・人・情報のネットワーク〉の維持を目的にして政治的な連合体を結成していた。そして、その構成員であることを相互に確認するために、おなじ形態の方形墳墓を造営していた、というのがそうした事実の歴史的背景である。 前に述べたように、蛭子山古墳の二段目に重なって小型の方墳が築造されていた。こちらは調査が実施されていないので内容はまったくわからないが、白米山古墳とおなじ状況とみなしてさほど誤りはないと思われる。白米山古墳に先行した大型前方後円墳の湧田山古墳(京丹後市峰山町)も、おなじように方墳を随伴していた。これらでも、三世紀中ごろ)95(丹後地域にはこのほかにも墳丘の長さが一〇〇メートルの京丹後市峰山町・湧田山古墳、一九八メートルの同市網野町・網野銚子山古墳、一九〇メートルの同市丹後町・神明山古墳、一〇五メートルの同市弥栄町・黒部銚子山古墳があって、合計六基もの大型前方後円墳があいついで築造されている。このなかでも、網野銚子山古墳と神明山古墳の二基は、墳長がほぼ二〇〇メートルとじつに巨大な前方後円墳で、前期古墳としては畿内のほかの地域では傑出した大きさを誇っている。 ほぼ完璧な古墳だが、あとは周濠。 参考 日吉ヶ丘遺跡 作山古墳群 白米山古墳 法王寺古墳 等 音の玉手箱
Zigeunerweisen (encore) |
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