少年易レ老学難レ成、一寸光陰不レ可レ軽
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい
友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上、生物の寿命上、言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。
扇踊り(神崎の湊十二社)
踊りはあるが、笹が見あたらない。これも笹囃子か、と疑問に思われるかも。しかし東西屋の口上に、
東西、東西、南北とも静まり候、今日、日柄、吉例をもって、湊十二社大明神様へ、
笹ばやしの踊り、ひと踊り奉り候 みなみな様 ごゆるりとご見物 なされ候 なされ候
とあり、「笹ばやしの踊り」であることがわかる。何曲かある(今は2曲)
扇踊りの後は、相撲があったというが、今はない。振りものは伝わらない。
シンボチ(新発意)の口上に、
さぁて姫子たち姫子たち
神楽踊りでござるぞや
神楽踊りの音頭をだしゃしゃれ
太鼓はひょうし 踊りはかしら
中にてシンボチ 合わせ申し候
さあて姫子たち 姫子たち
室町踊りでござるぞや
室町踊りの音頭をだしゃしゃれ
…
今の祭礼は女性は加わらない(太鼓打ちに女子が見えるが、元々は男子のみであったのが、少子化のため打ち手が不足し、女子も加えている)。しかし新発意の口上には「姫子たち」とある。今の踊り手は氏子の役員たち、男子ばかりであるが、どうやら「姫子たち」が踊り手だったのでないかと推測される。その「姫子たち」とは何者であろうか。
阿良須神社祭礼の笹囃しにも、
しんぼちの口上
「これこれ姫子達今度は○○○の踊りで御座るぞよ、皆しっぽりと踊らっしゃれ、○○踊り○○踊。中腰。此のしんぼちは太鼓の頭、ずでいどうとしょもん申そう。」
上漆原の白髭神社の祭礼
シンポチが立ち上り、 「東西東西 これ姫子達、露の踊りの音頭を出さっしやれ……」と唱える。
今は丹後では志楽地区の祭礼しか女性が見られない、装束から巫女舞の系統であろうかと推測される。
卑弥呼や竹野姫、日葉酢媛など、古くは女性が宗教行事のなかで大きな役割を担っていたのではないかと思われる。たふんシャーマニズム系の巫女であったであろうか。しかし現在ではその姿が見られない。たいてい男子独占の場であり、何か長い歴史のなかで変化したものであろう。
この「姫子たち」女性群は「巫女舞」ではないかとか「風流踊り」でないかと言われる。
新発意は、仏教の用語である。新たに発心して仏門にはいった者、あるいは仏門にはいってまもない者のことで、神崎のような長老ではなく、元々は若者か子供、坊さんというよりは、その雑用係である。
お寺の人であろう者が、なぜ神社で音頭取り・指揮進行役をになっているのか。
神仏習合時代が明治まで続いていて、神も仏も一緒くたであった、その名残であろうか。
神楽とは、一般に神社で神を祭って奏する舞楽をいう。民間を「さとかぐら」、宮中を「みかぐら」と区別することがある。
神楽の祖神=天宇受売命(天鈿女命)
『古事記』
天宇受売命、天の香山の天の日影(コケ)を手次に繁けて、天の眞拆(葛)をカヅラと爲て、天の香山の小竹葉を手草に結て〔小竹を訓みてササと云ふ〕天の岩屋戸にウ氣〔此の二字は音を以ゐよ〕伏せて踏み登杼呂許志〔此の五字は音を以ゐよ〕神懸り爲て、胸乳を掛き出で裳緒を番登に忍し垂れき。爾に高天の原動みて、八百萬の神共に咲ひき。
神楽の舞い手や囃子手は、今はたいてい郷土の氏子たちによって担われている。自分の産土を愛する人々であるが、初めからそうであったのではないようである。日本の芸能はダレによって担われてきたかを探っていこう。
太刀振りと笹踊り(蒲江)
神崎の一つ川上の集落になる蒲江の山王神社と愛宕神社にも、笹ばやしが伝わる。
振物
笹囃し
そのほか丹後の伝承地(笹囃しと太刀振り)いくつか
籠神社の葵祭
大宮売神社祭礼
女の子もいるよう
木積神社(弓木)り祭礼
大命神社(石川)の祭礼
太刀振りは、お互いに似ていて、比較的新しく伝播(たぶん二次かN次か)した演目であろうか。
笹囃しは、各地ごとに特徴ある演目となっていて、同じ笹囃しはない、しかしみな「笹囃し」と呼ばれている。古くから長い期間を伝わってきて、地域ごとに変化していったたものであろう、郷土芸能と呼ばれる所以である。
新発意が持つ笹は神の寄り付く依代(憑代)で、笹を、あるいはそれを持つ人を神と見たようである。シャーマンのはるかな後裔にあたろうか。
笹踊りに歌われる歌の歌詞は、宗教性はあまりなく、近世のものと思われる。笹囃しの過去は風流小歌踊といわれるが、それは歌の話である。笹踊りはもっと古く田楽などに起源がありそうである。本来の装束はもっともっと派手な贅を尽くした人目を引く、異界の異形の物を彷彿させるものであったであろう。この世界には飛び抜けて芸達者で神が乗り移ったかに見える力量とスター級の大人気があった者もいたかも、下手の横好きも多かったであろう、芸を競いあい磨いたのであろう。
笹ばやしと太刀振をセッ卜芸とするのが通例となっているが、その太刀は近世の物とは思えない、弁慶がもっている薙刀のような、僧兵の武器に見える。
風流踊りをステージ化したものが歌舞伎だという。
音の玉手箱
精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石
Polish Folk Song - Czerwone Jagody: Red Berries
(289) 'Czerwone jagody' - wszystkie Panie na tej sali mają urodę,werwę
i chęć do dalszej zabawy! - YouTube
(289) CZERWONE JAGODY - Folk Music/ Agnieszka Flis, skrzypce. - YouTube
(289) Czerwone Jagody w wykonaniu Małych Słowianek - YouTube
(289) Kapela Pana Jacka - "Czerwone Jagody" - YouTube
(289) Czerwone jagody - Kapela Ludowa z Czudca - YouTube
(289) WIESŁAWA DUDKOWIAK - CZERWONE JAGODY - YouTube
Red Berries とは 娘さんたちを言ったものか トラディショナルな民俗文化や自然環境を歌ったものか。その価値に気付かず人間に守る気がないと、やがては失われしまうもののようである。ふるさとの自然や伝統や文化はアイデンティティの重要な構成要素であり、一度失うと復元はもう不可能になる、いくら泣いても帰らない、いくら泣いてもあとの祭である。失ってもその交換に得るものはない。腑が抜けたような繰り人形となっていくだけであろう。
海に流せばいい、ビンボー自治体へ押しつけとけ、何ともメチャクチャではないか。原子力利用の破綻そのもの、こうなることは最初からわかりきったことであった、無責任にもほどがあろう。まともな法治国家のテイをなさないではないか。国家とはこれほど信用できないものなのか、原発国家に未来はないことを示したものでないか。
有害ゴミは、こっそり海に流せばいい、「薄めて」流せば安全なゴミだとIAEAとかがお墨付きを付けてくれる。皆さんも有害ゴミを捨てる場合は、こうしたアホな茶番に見倣おうではないか、薄めて海に流せば文句なし、海は所有者のないゴミ捨て場である、文句言う方がおかしいと盗人猛々しく開き直ろう。(よい子のみなさんはマネしないで下さい。廃棄物の処理及び清掃に関する法律第16条では「何人も、みだりに廃棄物を捨ててはならない。」と規定され、不法投棄は法律により禁止されている。また、同法第25条では、個人の不法投棄に対して5年以下の懲役もしくは1,000万円以下の罰金またはその両方が科せられること、同法第32条では法人の不法投棄に対して3億円以下の罰金刑が科せられることが規定されており、不法投棄の行為者には厳しい罰則が科せられる。)
「30年ばかり流す」というが、うそであろう。廃炉、すなわちデブリを全部取り除く時期の見通しは立っていない。「中間」といっているが、永遠貯蔵となるであろう。安全といっているが、これもウソである。安全な放射能などはない。仮に大人には「安全」程度の被爆量であっても、幼児や胎児にはどうなのかわからない。人体実験できないから確実な科学的データは存在しない。水に毒を入れる、などは極悪人の大悪行ではないか、何ぼ何でもこれだけはやめねばならない。人々が喜びをもって救いの井戸から水をくむことができなくなる。関東大震災の時には「朝鮮人が井戸に毒を入れた」のデマがひろがり、多くの朝鮮人やそれと間違われた日本人も、警察や軍隊、住民自警団などによって虐殺された歴史がある。海に毒をいれたらどうなるかは予想がつくというものである。
β線はDNAを切り裂く、生命体の根本を破壊する、病気、病気とかいったレベルのものでないが、それがある日発病して癌となっても、「フクシマとの因果関係が立証できない」と責任はとってくれない、医学もお手上げで治療法はなく、死を待つだけの身となる。
有害物質は環境へ出さないという基本を厳密に守る以外には手がない。国がその基本破りの手本となってはどうにもなるまい。
『資本論』にあったような、ありとあらゆる毛穴という毛穴から血と汚物を垂れ流しながら生まれ、拡大増殖し、そして死ぬときも特にそうである。何とも汚らしい物が資本の本質なのか、マルクスが言ったとおりかも知れない。
日本のどこの自治体もみなそうだろうが、財政難とか超難問だらけを押しつけられている、その「解決策」として死の灰を受け入れるのか、まことの解決となるのか。
関連情報
放送の合間にこんな曲が流れます(予定)
「君たちキウイパパイアマンゴーだね」
「想い出の九十九里浜」
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