丹後の地名プラス

そら知らなんだ

加佐郡は新羅郡
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -41-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
シリーズ


帰化人と渡来人
志楽と阿良須
真倉と十倉
笶原神社
九社神社と加佐(笠)
枯木浦と九景浦
女布
爾保崎
丹生
三宅
日子坐王と陸耳御笠
麻呂子親王の鬼退治と七仏薬師
源頼光と酒顛童子
元伊勢内宮と元伊勢外宮
丹後国神名帳(加佐郡編)
丹後国郷名帳
丹後国神名帳(与謝郡編)
丹後国の5郡
丹後国神名帳(丹波郡編)
丹後国神名帳(竹野郡編)
丹後国神名帳(熊野郡編)
天橋立伝説
浦島伝説
羽衣伝説
竹野媛と丹波大縣
日葉酢媛と朝廷別命
徐福伝説
シンデレラ伝説
安壽姫伝説
古代の土器製塩(若狭・丹後)
億計・弘計二王子伝説
飯豊青皇女・市辺押歯皇子伝説
冠島と沓島
幻の凡海郷
母なる由良川
由良川舟運
由良川の水害
由良川の村々と社
福知山20聯隊の最後①
福知山20聯隊の最後②
加佐郡は新羅郡
与謝郡は新羅郡
田邊・田造郷①
田邊・田造郷②







『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

丹後国加佐郡

加佐郡は丹後国5郡の1つで、最東部に位置している。だいたいの郡域は今の舞鶴市、福知山市大江町、宮津市由良の地にあたる。北は海、東は若狭国、南は丹波国、西は与謝郡である。大江山の鬼や由良の山椒太夫などで知られている。


郡名の文献上の初出は、『日本書紀』の天武天皇五年(西暦676)九月条に
丙戌(ひのえいぬのひ・二十一日)に、神官(かむつかさ)(まう)してして(まう)さく、「新嘗(にいなへ)の爲に國郡を(うらな)はしむ。齋忌(ゆき)〔齋忌、此をば踰既(ゆき)と云ふ。〕は尾張張國の山田郡。(すき)〔次、此をば須伎(すき)と云ふ。〕は丹波國(たにはのくに)訶紗郡(かさのこほり)(ならび)(うら)()へり」とまうす。

木簡が2点知られている。藤原宮出土木簡
丙申年七月旦波国加佐評□
□は椋かという、椋橋(倉梯)郷であろうか。
丹□国加佐郡白薬里大贄久己利魚腊一斗五升和銅二年四月
白薬里は志楽郷であろう、薬の草冠は間違って付けたものか。久己利魚腊はカワハギの干物という。
丙申年七月は持統10年7月、西暦696年という。
和銅2年は奈良時代直前で、西暦709年。

その後『続日本紀』和銅六年(西暦713)四月三日条に
丹波国から、加佐、与佐、丹波、竹野、熊野の五郡を割いて、始めて丹後国を設置した。

飛鳥時代にはすでに加佐郡はあった。この当時ならカサ(加佐・訶紗・笠)と言えば、ああそうした意味の歴史のある土地かと多くの人はだいたい理解できたのであろうが、それから長い歳月が過ぎて、今ではもちろん、奈良期くらいにもなるともう意味不明となったのではなかろうか。
カサは弥生~古墳時代の渡来地名であろう、当字の漢字なので日本語ではなかろうと思われる。この地名が意味した本来の意味を1500年ぶりに考え思い出してみようかと思う。

カサは何のこと。従来の説

ワタシはカサもヨサも新羅(含・加耶)のことと見ているが、そう明言した先人はない。(明言はしていないが、明言すればそうと言いたかった先人はある)
カサ、ヨサ(ヨザ)は当地だけでなく、あちこちにも見られる地名だが、当地では従来はカサの意味はだいたいは次のように考えられてきた。
『加佐郡誌』は、
名称の起源
本郡はカサコホリと言ひ、字は加佐郡を用ふるが、古はウケノコホリといひ、字は笠郡と書いたさうである。其の由来は丹後風土記に「ウケといふは、豊受大神(我が蚕桑五穀の神)が田造郷の笶原(ヤブ)山に留り居給ふて、此の地方の民其の恩恵を受けたによる」とあるに基づいてゐるものの様であ。其の笠の字を用ひた理由は、作物の成育に必要な雨などを受けたのになぞらへての事であらうかと思はれる。所が笠の字は、物の名としてはカサと訓むが為めに、後には其の起りを知らないで、専らカサと訓み、遂には文字までも全く旧のものを棄てて、伽佐、訶紗等を用ふる様になり、更に中古以後は、又今の字(加佐)を書く習ひとなってしまったのである。抑々此の字を用ゐ初めたのは、何時の頃からであるか全く不明であるが、和名類聚抄等に、此の字を用ゐてあるから見ると、可なり早くから用ひならはれてゐた事が明かである。
異説一、丹後旧事記によれば、カサは神座であって、豊受大神の座せし処であるから、斯く名付けたものであるといふ。
二、本郡は、雨量多く、殊に時雨など甚だよく来る故、雨を防ぐ具の大切な処といふ意で、笠と名付けたといふ。
また、志楽阿良須神社の条では、
古老傳へて日ふのに、「…此地方を日下村と言ひ亦神座府の名稱(加佐の語源といふ傳説がある)も此の地から出たのである。」と…
紺屋町の笶原神社に伝わる社殿再建の際の細川忠興の棟札には、
丹後州神座郡田邉城外西嶺有笑原神宮焉、…
とあり、加佐郡とは神座郡のことで、豊受大神を祀る神社があったことによるとの説を紹介している。

面白い話ではあるが、これは「丹後国風土記残欠」説を受けたものであろう。そこには
伽佐郡。伽佐郡は(モト)笠郡の字を用いる。(ヨン)宇気乃己保利(ウケノコホリ)と曰う。其宇気と称する所以は、往昔、豊宇気大神が田造郷の笶原(ヤブ)山に留り坐して、人民等が其恩頼を受けた、故に宇気と曰う也。笠は一に伽佐と訓む。よって今、世に謬って伽佐乃己保利と曰う也。
とある。ここからヤハラ(ヤブ)もまたソフル(新羅)の転訛と見られ、豊受大神も渡来神であったと理解され、丹後・丹波、そして日本の全体が理解できる。

郡誌が紹介する説が子供の説とするなら、何ともありがたいことにプロの異次元の高度な説もある。
金沢庄三郎博士の『日鮮同祖論』に、
丹後国加佐郡のことであるが、丹後国は和銅六年に丹波国の五郡を割いて始めて置かれた国であるから、天武天皇白鳳五年紀には丹波国訶紗郡と見え同国与謝郡も顕宗天皇紀に丹波国余社郡とある。この与謝の地は四年間天照大神の鎮座ましました処で(倭姫世紀)、天椅立は伊射奈芸大神が天に通ふため作り立てたまうものといふ古伝説(丹後国風土記)もあり、此辺は古代史上研究すべき値の多い地方である。天橋立は、嘉祥二年三月興福寺の大法師等の奉賀の長歌にも匏葛(ヒカカタノ)(アマ)()椅建(ハシダテ)践歩(フミアユ)()天降利(アモリ)(イマ)志志大八洲(オホヤシマ)と詠み、又釈日本紀にも兼方案之、天浮橋者天橋立是也といっているが、丹後国風土記には与謝郡郡家ノ東方ノ隅方ニ有速石里、此里之海ニ有長ク大ナル石前(イソノサキ)、長二千二百二十九丈、広サ或所ハ九丈以下、或所ハ十丈以上、二十丈以下、先ヲ名ケ天椅立、(シリ)ヲ名久志浜(シカ)云者ハ、国生大神伊射奈芸命、天ニ為通ヒ行ント而椅ヲ作リ(タマウ)、故云天椅立、神ノ御寝(ミネ)坐セル間ニ仆伏キ、(カレ)怪ミ久志備坐、故云久志備浜、此中間云久志、自此東ノ海ヲ云与謝海、西海云阿蘇海と見えて、二神の故事を語り伝へている。この由緒ある土地に、加佐郡・久志浜・与謝海・阿蘇海など、天孫降臨の筑紫にあると同型の地名を発見することは、偶然の暗合とは考へられない。
博士は言語学者で、満州語や朝鮮語、モンゴル語などに精通していて、加佐郡・久志浜・与謝海・阿蘇海などがソフル(新羅)のことだと見抜いているが、戦前のこの当時は、そうズバリと書いて発表できない、そんなことをすれば、思想警察が飛んできて、殺されかねない、出版禁止になりかねない。自由なくして、平和なくしては学術の進歩もありえない、歴史学の進歩もありえない。思想の不自由、表現の不自由がどうした時代を招来したかは思い返してもゾっとする。
もっとも自由で平和だからといっても必ずしも学術が進歩するというものでもなく、何十年何百年とナ~ンも進歩なく同じレベルを繰り返すだけの停滞後退することもある、しかしそれはその学内や社会がかかえる深刻な問題で、仮面のニセのだらけきった堕落と腐敗の、カッコつきの「自由」と「平和」と「学術」でしかないのかも知れない…
天皇さんの来歴を記紀から持ち出して、ヌラリクラリとかわしているように見える、聖典記紀は両刃の剱、国粋主義には具合悪い話も書かれていて、それに基づいて日鮮は元は同じ家族のようなもので、日本は兄として、当時の軍国主義に迎合していくような、迎合したフリをしているような説にもなった。しかしそれでも暴力侵略支配は正当化できない。
博士によって1000年、1500年の当地の歴史学の停滞と後退が、一気に革新され更新された、といった感じで、ワタシなどは目からウロコの大感動を受けたものだが、しかし時代が悪く、今はこんな書き方しかできませんが、真意の分かる人は分かって下さいよ、という書き方と思われ、たいていの人々にはチンブンカンプンかも…
朝鮮などを軍事的暴力的に植民地支配し富を収奪する当時の軍国日本では、満州や朝鮮は日本支配者層や多くの国民のルーツの一つだと考えてはゼッタイにならなかった。満人や鮮人やチャンコロ(全部差別語)は人間ではないクソでどうしょうもないクズ、世界で唯一の神国日本と世界一優秀な日本人は、あんなモンとは関係がいっさいなく、あんなものは丸太ん棒だから殺しても何も問題ないと、基本的にはそのように徹底して国民に教えなければならなかった。
今だにそう信じている、過去の亡霊的日本人もけっこう多数あるくらいだから、それはもう徹底した思想洗脳教育であった、あの戦争に先立って博士のような思想は弾圧し、日本人は天から降った神の子孫と全国民に信じ込ませた。『日鮮同祖論』がいう話などはとんでもない妄想として、マッサツしければなかったのであるが記紀や風土記を持ち出されるとそうすることもできず、どうしょうもなく、こうしてあいまいな形で残されたのであろう。
博士の説を紹介した人も、ホンマかいなと検証しようとした人もいまだにない。今も戦前のまま、というべきか、それなら笑っていてもいいが、あるいは今は新たな戦前時代なのであろうか。これならコワイハナシになってくる。

新原川との再会

もうとっくの昔に忘れてしまった遠い過去を思い出すには、何かのキッカケが必要になる。フトしたキッカケで忘れられた記憶がありありと思い出されることがある。
書籍などがない時代のことであるが、地名や神社名などに過去が残されていることがある。
カサとは、フルネームを再現すれば、カサハラ、もっと古くはカサプルといったのでなかろうか。これはカシハラやクシフルと同じで、そのフル(村)の部分が落ちたものである。カ、クき大きいといった意味の美称で、シやサはソフルのソである。ソフルは新羅を意味している。笠水神社はカサミズとかウケミズではなく、カサミと読むのが正解で、カサビ、カサビル、カサプルが元の社名と思われる、
加佐郡のカサという地名の元は、たいていは由良川筋と考えられているが、そうではなく、笠水神社のあたりこそがカサだと、ワタシは見てきた。
笠水とか九重神社、九社明神、上流の真倉や十倉、河口の吉原や笶原。これほどこの関連地名の集中する地は当地しかない。これらについては当シリーズですでに部分的に触れているのでそれらも参照。
こうした地名や神社名の示すところによれば、この旧真倉川の川筋こそがカサに違いなかろう、と見ていたのである。
さらに笠水神社の御手洗川の名が新原川、何とソフル川、あるいはシラ川ではないか。
ワタシはどこかで、そう書かれた地図を見かけたのであるが、それがどこだったのか、確かにそう書かれていたのか、もう20年ばかりも昔のことなので何ともわからなくなっていたのであった。


「西舞鶴駅」構内の↑案内地図私事になるが、ごく最近、両眼とも「白内障」の手術を受け、車の運転は禁止なので、電車で通うことにした。そんなことで駅にやってきたのは10年ぶり、あるいはそれ以上くらいであろうか。まだ細かい所は見づらいが、西舞鶴駅で地図をみつけた。高さ2メートル以上はあるケッコウ大きな地図である。「細川幽斎」展とか、そうした臨時展用のパネルのようである。
一番下に地図が描かれていて、その上に透明のアクリル板を重ね、江戸期とかの地図がそれに書いてある。どこまで確かかもわからぬ地図であるし、幽斎の時代でもなく、伊佐津川の瀬替などでずいぶんと変化している後の世のものである。そのアクリル板の表面に外の景色が写り込む。外が曇り暗くなるのを待ちながら見なければならない。

発車待ちの時間がタップリあるので、細かく見ていくと、見つけた。笠水神社近くに「新原川」がある。やはり記憶にまちがいはなかったようである。
これは笠水神社社前を流れる御手洗川の川の名である。人々はこの川の水でミソギをして身を浄め、それから神社に詣でたのである。

笠水神社の前に新原川がある。
国土地理院の地図を参照し、承認番号何々と書かれているので、地理院地図が原図なのであろうか。それではと思って地理院サイトで調べて見たがわからなかった。

新原は古代地名かどうかは何とも、他に資料がなく、確認できないが、この地に流れている川であるので、そうである可能性は高かろうと思われる。
シンハラ川と読むのか、シラ川と読むのか、何ともこうした漢字を当てた人はタダモノではなかろう。地元の人ではなかろう、中央の渡来人であろうか。国府があったのかも知れない、国府周辺の地元地名に漢字を当てていったのでなかろうか。
新原川に再会できたことで、これは何かの神意かもと感じて、取り上げてみようかと思ったのである。

笠水神社


国道27号の公文名陸橋の西側直下にあって、国道からは見えないので、舞鶴人でも知らない人が多かろうと思われる。詣られた人はちょっとなかろうと思われる。
左手は城屋の永福保育園の公文名園。右手は公文名公民館。
当社の参道を横切っている、その川が、川というかミゾというか、これが↑新原川である。
神社側から陸橋を見る↓


新原川は、国道や鉄道に並行していて、源流は真名井の「三合池」「五合池」のようである。道も何もないので、実際に歩いてはたどれないが地図などで確認する限りはそのようである、また下流市街地ではこの川は真名井川と呼ばれているので、たぶん真名井が水源なのであろう。上流側↑(右手の山が白雲山)
下流側↓

新原は従って、当地辺りの古地名ということでなかろうか。今は公文名、七日市など呼ぶが、それらは中世地名で、それより古くは新原と呼ばれていたのではなかろうか。シンハラとはソフル(新羅)のことであろう、シラでも新羅である。

『三国遺事』冒頭の新羅王暦に、
第一赫居世=姓は朴、卵から生れた。十三歳の甲子年に即位し、六十年間(国を)治めた。妃は娥伊英・娥英。国号は徐羅伐、また、徐伐、斯(盧)、鶏林ともいう。
日本では新羅(しらぎ)と呼んでいるが、本国では、徐羅伐(ソラボル)、また、徐伐(ホゾル)()())そして鶏林(ケイリン)とも呼ばれていたと記されている。ソフルこそが本名といえそうな記述である。
日本の地名でソフルと復元できる地名があれば、だいたいは新羅(加耶を含む)からの渡来人によって開発された地と見てまちがいはないと思われる。
←ちなみに日本の天皇さんの即位式に用いられる高御座(たかみくら)、これは卵であろう。卵とはダレもいわないが、見れば、そういうことかと理解できよう。

笠水神社の裏側(西側)にも川がある。

この川↑は女布(にょう)川と呼んでいるが、かつての真倉(まぐら)川である。この地点よりもう少し先(出合橋付近)で高野川と合流する。
真倉川は今は、山崎橋の所で東に向きを変えて、池内川と合流し、伊佐津川となるが、元々は、まっすぐに北流し、京田川や女布川と合流し、高野川と合流していたという。「伊佐津川の瀬替」と呼ばれる大工事が行われ、今のようになったのである。それは細川の時代とも京極の時代ともいわれ、江戸の初期のことであった。
それまでは、この川は真倉川であった。
上流の真倉とその分村の十倉(とくら)は本来はシンクラ、ジュウクラなどと読み、新座郡や叔羅川と同じで新羅のこと、おそらく真倉・十倉も志楽などと同じでシラと読んで新羅と同じ、と当シリーズでも取り上げている。→「真倉と十倉」など
九社の神事(九会神事)も元々はこの川の川原で行われていたものでなかろうか。
→「九社と加佐」など。九社はカサと同じで、クシフル・カシハラと同じ。
九社明神を祀る村々は元々はこのあたりから広がっていったものと推測できる。
そうしたことで、笠水神社は表も裏も新羅川が流れていたことになる。


入口に案内板がある。
笠水神社
一般には「かさみず」と呼ばれていますが丹後風土記には「宇介美都(うけみず)」の訓が振られています。又、真清水の湧くところで「真名井」の名もあります。昔は池内川、真倉川、高野川がこの辺りで合流し、すぐ近くまで海が迫っていたようです。
祭神も海に関係した笠水彦神と笠水姫神で、先史時代に丹後一円で勢力を誇った海浜族の海部直(あまべのあたい)の祖神と言われ古代から祀られていたようです。元亀三年(一五七二)写の神名帳にこの社の名があり、又、社の所蔵の鰐口には「天正六年(一五七八)三月十九日笠水大明神」と陽鋳されています。現社殿は棟札から天保八年(一八三七)に造営されたと推測されています。
明治二年廃藩置県の時、新行政区の藩名として「舞鶴」と共に、「笠水」も候補に挙がった程、藩の信仰が厚く、藩を代表する社であったことを示しています。
設置 城下町倶楽部

もしかしたら、舞鶴市でなく、笠水市、すなわち大新羅市になっていたかもしれないという歴史もある神社である。
境内には古い切り株などがなく、百年かそこらの昔に当地に移ってきたものでなかろうか。丹後国風土記残欠には、真名井(残欠は笠水と呼んでいる)の傍ら西側にあるとしている、そうならば元々は真名井のすぐ近くにあったと思われ、今の城南中学校かあたりの国道や鉄道の敷地にあったのであろうか。

「水」は、「ミ」と読むことがある。水無月(みなつき)水戸(みと)水門(みと・みなと)などと読まれる。
笠水の水もミと読み、カサミ、そのミはビの転訛で、元々はカサビル、カサフル、カサハラのこと。カシハラとかクシフルとかと同じ意味を持った社名と思われる。元々はカソフル神社、大新羅神社の意味であろう。

似た名の社があって、
加佐美神社は、美濃国各務郡の式内社で、今は岐阜県各務原市の蘇原(そはら)庄10か村の総鎮守社という。
蘇我氏とかは何も関係がなかろう、蘇の漢字に引っかけた付会説と思われる、蘇原は新原と同じくソフルの意味と思われ、カサミとはカサフルの意味と推測される。
いつだったか、この地の方々が尋ねてこられたので、笠水神社のあたりを案内したことがある。
「カサミズとかウケミズとか読んでいますが、本当は加佐美神社と同じカサミと読むのでしょう。新羅のことでしょうね」などいうと
「新羅ですか。シラギなんて名がポンポン出ますね。あれが白雲山ですか、シラギ山なんですね…」
と、ワタシなんぞよりスゴイ地名感覚のよう。

おおい町に佐分利(さぶり)川が流れている。北九州に背振(せぶり)山脈がある。これらの名もまたソフルの転訛と言われている。
サブリに美称の大きいの意味がある()が付いて、カサブリ、そのリが落ちてカサブ、母音転化してカサビ、BM転化でカサミとなっていったものか。
そのミも落ちたのがカサであろう。これは神武が即位した樫原(白梼原(かしはら))の名や天孫降臨の槵触(クシフル)・(久士布流)峰と同じで、ソフルでも、一段と格の高い聖地を特にそう呼んだ地名であろうか。
渡来一世、二世くらいなら、まことの意味が分かっているのだろうが、五世とかになり、ワレラのように何十世ともなれば、本来の意味がわからなくなり、言葉だけで伝わり、途中で音借の漢字に変換されるので、変化は激しくなり、いよいよヘンな言葉になり意味不明となっていったものか。

この笠水神社の周辺には古代の国衙や郡衙も置かれ、この地一帯の中心地であった。それでその地名をとって、加佐郡としたものであろう。
その意味はと問われれば、新羅のことです。としか答えようはない。

陸耳御笠との関係、海部氏との関係、笠百私印との関係の推測

笶原(おそらく本来はシハラ、シラと読み、新羅の意味)や吉原、伊佐津、折原、吉井、吉田、白杉なども次の「田辺・田造郷」で取り上げる予定。









 音の玉手箱
 精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石

   Libertango




(562) Astor Piazzolla - Libertango (1977) - YouTube
(562) KHATIA BUNIATISHVILI et GVANTSA BUNIATISHVILI .. Libertango .. Astor Piazzolla - YouTube
(589) Libertango - Astor Piazzolla (for piano four hands) - YouTube
(569) A. Piazzolla - Libertango by Tatyana's Guitar Quartet - YouTube
(589) André Rieu - Libertango - YouTube


リベルタ(自由)とかパクス(平和)とか、そうした高尚な理念とはほぼ無縁のような丹後に感じられる、ワタシの、その独断と偏見によれば、ということだが、そう見えるのだが…
抑圧からの解放、戦争を終わらせる、みずからが勝ち取ったとは言いがたいものなので、一応は存在はしているが、どうも自分の物とは意識しにくいのかも知れない。「自由か死か」と苦労して苦労して命かけた戦いで自らの手でつかんだものでない以上は、そのまことのネウチもわかるはずもない。その自由も平和も自分の手となり、足となり、精神となりきれていないのではなかろうか。リベルタ丹後を自分の身にもっともっと引き寄せ、みずからの血となし、肉となしたいものである。そのためにはもうチト苦労してもらうほかはないのかも…

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