丹後の地名プラス

そら知らなんだ

玉砕の島②
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -88-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
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息長①
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大蛇伝説①
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火祭①
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福知山二十聯隊の最後③レイテ戦と二十聯隊の全滅
福知山聯隊の最後④インパール作戦と15師団
伝承郷土芸能①
伝承郷土芸能②
伝承郷土芸能③
伝承郷土芸能④
伝承郷土芸能⑤
伝承郷土芸能⑥
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玉砕の島①
玉砕の島②
仏教伝来①
仏教伝来②





少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上タイムリミット上言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

連合国ノルマンディー上陸

連合国のノルマンディー上陸は、1944(S19)6月6日。
秋の日の ヴィオロンの ためいきの
英国BBCのフランス語放送が6月1日から3日間、フランスのレジスタンス全グループ宛てて暗号放送した。
「連合軍の上陸近し。準備して待機せよ」の意味があった。
その何日か後に、ヴェルレーヌの次の章
身にしみて ひたぶるに うら悲し
が放送された。

この詩文が発信されれば、その深夜から数えて48時間後に連合軍の侵攻が開始される、という意味で、具体的には、6月6日午前0時より24時間以内に上陸作戦が行われる、ことを知らせるものであった。
うわっー、いよいよだ、待ったぞ。とレジスタンス側は沸き立ったことだろう、レジスタンスは皆偽名で、同志はお互いを何も知らない、もし誰か捕まった時のお互いの安全のためである。一体全体で何人の犠牲があり、それは本名は誰と、しかとはわからない。死んでもほったらかしでまず埋めてはもらえない。手柄を立てても勲章をくれたりもしない。それを承知で加わった人達であった。Ciao bella Ciao bella Ciao Ciao Ciao 死んでもその死が恋人に伝わることもない、花を手向けてもらったりすることはない。悲愴な覚悟の誠の祖国愛、民主主義者であろうか。正規軍だけでなく、フランス、イタリア、ソ連などの対ナチ地下運動がよく知られている。
ドイツ軍も、この暗号は知ってはいたが、どこへ上陸して来るかがわからない。次はミッドウェーに間違いなしとはいかなかった。

ドイツ軍の主力は、東部戦線に貼り付けられていた。1941年のソ連侵攻以来、ドイツの陸上戦力はほとんどが東部戦線に向けられていて、ソ連一国がドイツと戦っていたようにものであった。スターリンは、英米に対してフランスに第二戦線を築くことを再三要請していた。東部戦線の死者はすでに双方で3000万に登っていたと言われる。
これでようやく一息つけると思ったことであろう。その返礼か、14ヶ月後に満州に戦線を開く。キタネー国だ、日ソ中立条約を破りやがって、とか日本では言うが、二国間よりも多国間条約が強い、二国間はあってないようなものでしかない。結んだばかりであるのにその3ヶ月後に日本は関特演を行っている。演習と名を借りた進攻作戦の第一段階である。日本は進攻したかったのだが、相手は手強い、ノモンハン(S14)でコテンパにやられている、仕方なく南ヘ向かったのである。それは正解で、対日用の40万の精兵を、冬期には日本は来ないと見てモスクワ戦やスターリングラード戦へ移動させることで、ドイツの虎の子大兵団に勝利しているのだから、大戦の趨勢のムキを変えてしまうほどの世界一の陸軍がシベリアに待ち構えていたのであった。
また、ダマシ討ちは、そもそもが日本のお家芸である、真珠湾、旅順港などきりがないほどで、奇襲と呼ぶか謀略と呼ぶか、平和向けて誠実に努力すべきだし、戦争になったとしてもルールがあって、それは尊重しなければらない、などとする紳士淑女の皆様ではない、何をしても勝ったらよく手段は問わない、キタネー作戦の本家本元で、そうしたことをすれば勝つだろうが、しばらくだけであろう…
1機も落としていないのに9機撃墜とか、口先だけの大ウソを平気でいい、それは何も卑怯な事でも非難されるような恥ずべき事でもない、と考えるのが日本の伝統的思考である。
世界の動きはみな繋がっていて、全世界をよく見て、どんな小さなことであってもたえず情報を集める、そうしたコツコツの努力なしで勝手な思い込みしかないようなことでは大局を見間違えてしまうことになる。
英国を進発した英軍、米軍を主力とする連合国軍の兵員が、作戦初日だけで約15万人、パリまでの作戦全体で200万人が英仏海峡を渡ってノルマンディー海岸とコタンタン半島東岸に上陸した。現在に至るも歴史上最大の上陸作戦である。

サイパン・テニアンの玉砕


玉砕の島といえば、まず上げられるが、北マリアナ諸島のサイパン・テニアンは、日本の玄関である、テキはいよいよ玄関に入ってきた。ここを取られると長距離爆撃機の射程内となり、本土が空襲を受ける。

サイパン・テニアンには、郷土の部隊もいて、全員が玉砕している。
福知山歩兵135聯隊であるが、『福知山聯隊史』に1ページ足らずだが記載がある。
第六章 歩兵第百三十五聯隊
 支那事変勃発以来、約五ヶ年の歳月を経て、長期戦の様相を呈し、米英を主体とする西欧諸国は、蒋政権と結託して、対日経済封鎖の挙に出て、わが外交交渉も望みを失い、武力衝突は必至の事態となった。
 その情勢に対處する為、昭和十六年十月一日軍備改変を令せられ、福知山歩兵営に歩兵第百三十五聯隊誕生、歩兵第二十聯隊から基幹要員を充当し、十月五日宮中に於て初代聯隊長松山宗右エ門大佐に軍旗を親授せられ、旗手片山亨少尉奉持して帰福、編成は完結した。
 聯隊は豊橋の第六十三歩兵団(団長は太田米雄少尉)に属し、軍司令部は大阪にあり、軍司令官は後宮大将だった。
 第百三十五聯隊編成と同時に、第二十聯隊は南方に充用さるゝこととなり、新鋭の予後備役が多数召集され、歩兵営は充満を予想せせられる為、第百三十五聯隊は一時工兵営に起居、夜暗を利して二十聯隊が出動した翌日、歩兵営に移り、爾来約二ヶ年、同地に於て教育訓練を受け、昭和十八年五月十四日軍令陸甲第四十五号により、第四十三師団(名古屋)に編合せられ、同年七日五日名古屋歩兵第六聯隊補充隊跡に移転した。この時、福知山から転出したのは、軍旗以下約二〇〇名だった。転出後の福知山歩兵営は中部軍教育隊となった。
 その後の第百三十五聯隊は昭和十九年五月十九日サイパン島に上陸し、陣地構築に専念、同年六月二十三日以後、戦車を先頭にした敵の猛攻を受け、陣地を死守したが、やがて弾薬、食糧尽きた將兵は、草根木皮をかじって力戦したが、遂に力尽きて三千人の將兵は玉砕した。
 当聯隊は通称「譽一一九三四部隊」と称し、上級部隊は第四十三師団、師団長は斉藤義次、最終聯隊長は鈴木栄助大佐。
 サイパン島における戦闘状況は、玉砕の為詳知し難いが、防衛庁の公刊戦史より引用すると概ね次の如くである。
 当聯隊は五月二十四日歩兵第十八聯隊からサイパン島北地区の防備を引継ぎ、軍命令により、五月二十九日第一大隊(和泉文三大尉)をテニアンに転用し、歩兵第五十聯隊長の指揮下に入れた。
 六月十五日、米軍はサイパン島に上陸開始、陸海空による猛烈なる物量作戦を展開、わが守備隊たる歩兵第十八、第百三十五、第百三十六聯隊は七月五日、合同司令部で軍旗を奉焼、七月七日突撃を敢行、一般邦人をも含め全員二〇〇〇名玉砕した。
 五月三十一日テニアンに到着した第百三十五聯隊第一大隊は、七月二十四目上陸を開始した米軍に対し、第五十聯隊と共に攻撃を開始し、死傷続出和田大隊長は戦死、陣地を後退、八月二日第五十聯隊長の指揮を以て、最後の突撃を敢行、聯隊長は戦死、八月三日を以て守備隊の組織的戦闘は終了。
 テニアンの戦は九日間で終り、日本軍の戦死は五〇〇〇名以上、残り約四〇〇〇名が、爾后の遊撃戦に、あるいは戦意を失って洞窟をさまよう事となった。
二十聯隊の留守部隊である、招集されるのは、もうずいぶん年季の入った大昔の兵隊ばかりで、みな年寄りであった。
『歩兵第百三十五聯隊の想い出』に、
ある隊付士官候補生の回想
 春たけなわ、桜も散り果てようとする折り柄、連隊に出動命令が下った。連日、さまざまな人たちが応召して兵営は充満した。会社勤め、学校の先生、商家の主、農家の大黒柱、医師等々。四十才越えた人、青白く痩せた一見不健康そうな招集兵には心が痛んだ。
二十聯隊のカタキをとってやる、と40越えたトシヨリや病人がタケヤリかついで空元気だして出て行った、しかしすぐに二十聯隊同様に全滅してしまう。一人も帰ってはこなかった。(当時はたぶん、45才までに兵役が延長されている)
Wikipediaによらば、
「サイパン防衛の主力であった第43師団は、日本内地ではもっぱら名古屋の防空と工業地域の防衛訓練に注力してきた部隊で、地上戦闘の訓練は未熟のいわゆる“弱兵師団”であった。サイパンへの進出命令が出て、出発するまでの1か月間に泥縄式の島嶼防衛訓練を繰り返し、形ばかりの“精鋭師団”となってサイパンに送られたが、師団主力がサイパンに到着したのはアメリカ軍上陸のわずか1か月前の5月20日であり、補給が滞ってただでさえ少ないセメントや鋼材などの資材にも乏しく、多くの将兵たちはやることもなく、ずっと「腕組みをして突っ立ている」という有様であった。結果的には日本軍の防衛準備は少なくとも100日は遅延しており、師団長の斎藤は「海軍の護衛力も貧弱で、サイパンの持久戦は覚束ない」と嘆じ、遅かれ早かれ玉砕の運命に終わることを予感していたが、前線の悲観的な見通しとは裏腹に、軍中央の強気な姿勢は変わらず、大本営の報道部長は東條の楽観的な見通しに準じて「敵のサイパン来寇は無謀の大冒険」であるとか「自ら墓穴を掘る以外の何物でもない」という報道を行い国民の安堵を促している」とある。まあシロウトの守備兵に「敵がサイパンに来たら思うつぼだ」(東条首相)、米軍サイパン上陸の報を受けると陸軍参謀などはニコニコ顔であったとか、実情を知らず危機感ゼロで、次はトラック,かパラオに来ると見ていた、サイパンには来ない、もし来ても神風が吹くと信じているに違いないアホばかりの軍中枢といったところ。
四十三師団の1万6200がサイパンに上陸したのは5月20日。米軍が上陸してくる25日前であった。応援や物資を送ろうにも米潜水艦に途中で沈められた、何とか陸軍2万8500と海軍1万5200が、ほぼ裸同然の丸腰にタケヤリか素手で、守備についた。
6月15日朝から西岸から米軍が上陸してくる。7月7日のバンザイ突撃、9日までに日本軍はほぼ全滅した。実力から言えば、予想外によく戦ったといえる。
『南の島の悲劇』(石上正夫編)には、
日米両軍の戦力をくらべると、四万三五八二名の日本軍に対して米上陸軍は七万一〇三四名で、海軍も含めると一六万七〇〇〇名の大軍団である。
 七・五サンチ砲から一五サンチ砲以上の砲の数は、日本軍一〇八門、米軍七八二門、速射砲二四対二ー○、バズーカ砲○対二一〇、迫撃砲八四対二九七、砲の総数は二六〇門対二四一七門、戦車四九両対一五〇両である。軍艦島に現存する破壊された四〇サンチ砲には「明治参拾五年 呉海軍工廠」と刻まれている。
 明治三八年製造の三八歩兵銃を持った日本兵一人と、最新式自動小銃・カービン銃を持った一〇名の米兵が戦っているような状況であった。敵襲の心配もなく、頑丈このうえもない防空壕つきの参謀部にいる参謀たちは、こうした状況をまったく理解しようとせず、傲然と暴言をはいていたのである。
 父や母や妻や子の住む祖国を守る思いで戦没した守備隊の将兵四万余名、民間人約一万名の痛恨の思いのためにも、大本営の参謀の暴言を取り消し、日米両軍の戦力の差があまりにも大きかったことを読み取る力のなかった大本営参謀部に動かしがたい敗因があったことを明記したい。
6月19日マリアナ沖海戦
6月19~20日マリアナ諸島沖の空母機動部隊同士の戦いで、日本の連合艦隊は壊滅的敗北となった。日本海軍は空母3隻(内2隻は正規)と搭載機の大部分を失った。基地航空隊(近くの島々にあった海軍基地)も壊滅し、損失航空機は空母航空隊と合計で450機以上に上った。機動部隊を支援する給油艦2隻と潜水艦多数も失われ、損傷艦も数多かった。対するアメリカ軍の艦艇損害はわずかで、航空機の損失も130機程度だった。
ミッドウェーの敗戦以来、2年をかけて総力あげ必死で再建に努めて、ようやく再建できたと思ったばかりの最新鋭機動部隊がまた再び全滅してしまう。

7月18日東条内閣総辞職
口ほどになく無様な負けばかり、負け戦なら山のサルでもする、口先の半分でも勝ってみんかい。大ウソで勝った勝ったと発表していても、これだけ負けが続けばもう隠しようもない。軍事政権は負け初めると、もう終わりである。勝ってナンボのもので、負けると屁のネウチもない。エラそうに言っているが、たいしたモンでない、軍法会議で銃殺か、それとも腹切るか。誰も日本では責任を問うものはないが、そうしたことでしぶしぶ内閣総辞職となった。

サクラ、サクラ

テニアン玉砕
テニアンは、サイパンの南8㎞にある、似たくらいの面積の島である。
第43師団第135連隊第1大隊950名ほか約8,500。米軍は上陸戦の海兵隊だけでも2個師団54,000。
サイパンで予想をはるかに越える大損害を受けた米軍は、テニアンを慎重に攻めた。上陸前にサイパンは5日間の砲爆撃を加えたが、テニアンでは43日間も徹底的に砲爆撃を加えている。ナパーム弾も初めて使い、サイパン南端に156門の重砲を据えて、海峡ごしに3万発もテニアンに撃ち込んだ。(成生岬から冠島を砲撃するよりも近い距離である)
7月24日、テニアン島に上陸した米軍が島を完全に制圧するまでに9日間。この間、米軍の戦死者は389人で、太平洋の上陸作戦中、最も少ない損害だったという。制圧後は、サイパン、グアムとともにB29による日本本土爆撃の巨大基地となり、テニアンには特に原爆投下部隊がおかれた。

グアム玉砕
グアム島はもともとアメリカの領土であった。
7月21日の朝、1月にわたる砲爆撃のあと、5万5千の米軍が上陸する。
『玉砕戦全史』
…残された邦人男子は、老人を除き軍属としてすでに戦闘に参加、多くは戦死していた。悲惨だったのは、サイパンと同じように憲兵隊に避難誘導されていた婦女子たちであった。軍隊自身が敗走の中にあっては、しょせん女性と子供は邪魔者扱いだったのだ。
 戦車第九連隊の中隊長付伝令兵だった水田一一さんは、伝令の途中、その婦女子を引率中の憲兵隊に出会う。
 「そこのリーダーと知り合いだったんで、憲兵隊が引き連れていた三百人くらいの女や子供を誘導することになった。ところが高原山(サンタローサ山。グアム島北部のジーゴ付近)の方だったと思うけど、すごい断崖のところでやね、まだ戦うことのできる男は残して、憲兵隊は女や子供たちに飛び降り自殺をさせた。飛び降りることもできん人間が三十人ほど残ったんだけど、憲兵はその人たちの手を数珠つなぎにして、その真ん中に手榴弾を投げたんです。みじめだったなあ。手榴弾がたくさんあれば、まだ楽だったかもしれないけど、少ししかなくてねえ、すぐに死にきれん人は見ておれなかったです」
 また、某憲兵少尉から「赤ん坊が泣くと敵にわかる、子供は海に投げ捨てろ」といわれたものの、さすが自らの手ではできず、軍医に「薬で赤ん坊を殺してください」と集団で申し出た毋親たちもあった。歩兵第三十八連隊第三大隊付の軍医中尉だった吉田重紀さんも、毋親たちに頼まれた軍医の一人だった。もちろん吉田さんは薬もやらなければ、要望も受け入れなかった。のちに吉田さんは米軍の収容所に入ったのだが、そのとき「もしあの憲兵少尉がきたら、戦犯として米軍に突き出してやろうと思っていた」という。だが、最後まで収容所に少尉の姿は見られなかった。
 グアム島の戦いは終わった。だが、日本軍将兵の「玉砕」を何年何月と記すべきか、私にはわからない。多くの戦史と慣例にならい、最高指揮官の死をもって“玉砕の日”とするならば、それは昭和十九年八月十一日ということになる。この日、小畑英良第三十一軍司令官をはじめ、軍団と第二十九師団本部の主な指揮官たちが北部の又木山(マタグアク山)で自決しているからである。
 だが兵隊たちはまだジャングルをさまよい、飢餓と戦いながら日本の勝利を信じつつ生きていた。戦後二十七年目に救出された横井庄一元伍長は別として、敗残兵の“主力”が米軍に正式投降したのは終戦一ヵ月後の昭和二十年九月十五日だった。
 記録によれば、グアム島の日本軍総兵力は一万九千六百二十七名。死者一万八千三百七十六名、捕虜(戦後の収容者も含む)千二百五十名と横井庄一元伍長。

ペリリュー玉砕





1944年(昭和19年)9月15日~11月27日
ペリリューはパラオ諸島の南に位置する、飛行場があり、フィリピンの脇腹、フィリピン攻略上は米軍としては、どうしても取っておかねばらない島であった。
米軍は万全すぎるほどの布陣でのぞみ、4日で攻略する予定であったが、2ヶ月半も要することになった。関東軍の最精鋭・第14師団の現役兵が、半年前から陣地をつくり守備していたということもあるが、島嶼戦の作戦も大きく変えて米第1海兵の常勝無敵師団に大損害を与え勝ったといっていい。
従来は、上陸兵が無防備になる水際で陣地を築いて迎え撃ち、それを突破して上陸してくる敵には夜間の切り込みやバンザイ追撃をかけていた。水際陣地は弱いもので事前の砲爆撃で吹き飛ばされていまう、弾5発を持ってバンザイ突撃しても何も戦果のない無益なだけのもの、日本の玉砕者が増えるだけ。玉砕とかカッコつけてる時か、負け通しでないか。大本営発表ですら「玉砕」の文字が消えた。
ペリリューは珊瑚礁の島ではあるが、丘や山がある。ここに穴を掘ってたて籠もる作戦に切り替えている。水際もやるが消耗品のようなもので、主力は後方にあった。
一般に日本軍は守備はヘタ、ススメ、ススメ、ツッコメしか頭にない。攻撃は強いが守るという思想はないようなことであったが、この島の守備は別次元ものであった。
しかし物量差は比較にもならない、兵力は上陸軍だけでも、1対5である。これだけも大差があるといかな名将とてどうにもならない。敵将も激賞した見事な戦いをする守備兵であったが、有名な「サクラ、サクラ、サクラ」の最後の電報は24日であった。受信した者は大声で泣いただろう、生き残ったわずかはS22までゲリラ戦を続けた。

アンガウル玉砕
アンガウルはペリリューの南にある。パラオ諸島の最南端になる。飛行場はなかったので、こんな島に米軍は来まいとみていたが、米軍はこの島に飛行場を作る予定をしていた。1個大隊の日本軍が2万を超える米師団に対し、33日間の驚異の抵抗戦を挑み、全員が玉砕した。
2万1千名を超える米第81歩兵師団が9月17日上陸してきた。支援艦砲群は戦艦1、重巡2、軽巡2、5隻以上の駆逐艦と、延べ1600機の航空機。
日本守備隊は歩兵第59連隊第1大隊を主力とした、総兵力1200名。支援の艦船も航空機は1隻1機もない。兵器は、野砲と迫撃砲がそれぞれ4門。守備隊だから小銃を持っているだけくらいの警察に毛が生えた戦力しかない。数をみても、実に18対1の絶望戦である。無益なバンザイ突撃などはせずに、小兵を出して敵のスキをつく。支援物資があるはずもなく、空腹と疲労で銃を持つ力すらなくなる中で戦い続けた。アホな作戦さえやらなければ結構強い兵であったのかも知れない。

連合軍フィリピン上陸 10月20日
レイテ沖海戦 10月23日

S20年
ヤルタ会談 ドイツ降伏も近いと想定された2月4日~11日。連合国の戦後処理構想に関する首脳会談。参加者はイギリス首相チャーチル、アメリカ大統領ルーズベルト、ソ連首相スターリン。ソ連の対日参戦に関する協定を秘密協定として裁決した。

硫黄島玉砕

硫黄島は日本である。東京都小笠原村にある。島内にはいまだ無数の不発弾と玉砕した2万余の遺骨がほったらかし状態という。やる気がないのが一番ではあるが、不発弾だらけで立ち入れないということもある。
それそれそれそれそれ観光だ観光だバンザイバンザイ、どこかの脳天のイカレた町あたりの連中なら言い出しそうなところになるが、海軍の島にはこうした悲しい戦争の歴史がある。観光もいいが、80年ばかり昔の過去を忘れ遺骨もほったらかしたままでの観光などは本当の観光でない。
過去を忘れるようなヌケタ者が、町の未来など築けるはずもないことである。
米軍のこの後の上陸作戦は沖縄を残すのみとなった。沖縄はまだしも当時の島内での悲惨状態が語り継がれる、しかし硫黄島は語り継ぐ島民が存在しない。(全島民千名ばかりは父島へ強制疎開となり、徴用で居残りの何十名を覗く、その後は廃村となったまま)。
今は全島が自衛隊基地で自衛隊以外は立入禁止となっている(元島民・遺族などしか上陸できない)。砂の1粒たりとも持ち帰ってはならないとされているとか。砂といっても遺骨かも知れない、それを勝手に持ち出すようなことはできない、とか。それくらい遺骨累々の島だとか…
硫黄しかないような島をなぜ米軍は欲しかったのかといえば、本土爆撃機B29の中継基地を確保することであった。サイパンから硫黄島まで1400キロ、硫黄島から東京まで1250キロ、故障がちのB29にとっては、硫黄島基地の存在は死活問題だったという。
守備兵力約2万に対して、米軍は800の艦船で島を取り囲み総員25万にもなった。3日間の準備砲爆撃のあと、S20年2月19日上陸を開始し、5日で終える予定になっていた。日本軍としては守備は固めた方である。新兵器のロケット砲(噴進砲)である、四式二〇糎噴進砲(弾体重量83.7 kg・最大射程2,500m)と四式四〇糎噴進砲(弾体重量509.6 kg・最大射程4,000m)である。ろ弾と呼ばれたロケット砲であった。20㎝は上陸船艇へ向けて発射され、命中すると一瞬に吹き飛んだという。40㎝は兵器というかお祭りの花火打ち上げ器のような感じで、巨大迫撃砲か、兵が集まっているとその真ん中へ落ちたのであろうか。弾は何発あったかわからないが、その弾の数よりも何波も何波も押し寄せてくる敵の上陸船艇の方が多かったとか、もしもっともっとあれば、ソ連のカチューシャ砲ほどもあれば、戦局は変えられたかも…、
かんばっていれば連合艦隊が助けに来てくれると大将は信じていたとか、しかしそれはすでにレイテ沖で壊滅状態であった。(2/21八丈島を飛び立った彗星爆撃機など20機ばかりが体当たり攻撃を米空母などに行った、連合艦隊の出動といえばこれだけであった)
全体に軍はちょっと時代遅れのようで、新兵器などはご無用で御座るだったのかも…(現在も日本社会の一般的な観念か、いやわれらは最高でござる、世界一でござる、最新式などはご無用で御座候、とかいって、何十年も遅れた三八銃とノギ大将しかない、日露戦争でストップしている神話の国のまま)
日本軍は水際よりも地下トンネルを掘って戦った、砲爆撃に耐えるには地下10メートル以上の深さが必要であった、しかし硫黄島は火山島で、地下は熱い、生卵がゆで卵になり、芋は焼き芋になり、飯も炊けるほどとか、そこに縦横にトンネル網を掘り抜いた。自分の命づななので真剣になって掘ったのであろう。

摺鉢山は溶岩ドームのよう。こんな戦場↑であった。日本兵がいない、姿がない、陣地もない、弾丸だけは来る、どこなんだ、どこにいる、2万の日本兵は地下にいた。。
硫黄島は米軍にノルマンディーより多数の犠牲を強いた。日本守備隊の数を上回る死傷者を出した、こんな島はない、あまりにあまりに強兵で米兵も米国民もむせび泣いた。
←硫黄島の星条旗。ピュリツァー賞受賞の有名な写真は、ようやく占拠した摺鉢山山頂に立てられた時のもの。
最高のシャッターチャンスをものにしすぎているのでヤラセだとかとも言うがよくわからない。写真に写った3人は、こののちこの島で戦死、2人は帰ってきたが、米国全国の報告会などに引張り蛸となり、愛国者・誠の勇者と有名になり過ぎてアル中になって死んでしまったという。硫黄島の恐ろしい呪いまで写してしまった写真である。
米兵でも生きては帰れない。ノリタンノリタンの呪いかけられた島、島だけでない、戦場そのものに呪いがかかったままである。戦争はまだ終わってなく、弔いもまだ終わっていない。
戦争が続いているのだから、呪いはまだとけていない、後世のつまらぬ者が戦争をええかげんに考えるとこうしたタタリのようなことに巻き込まれる、かも…
どうすれば、呪いがとけるか、それはもうおわかりだろう。
両国市民がまじめに戦い、まじめに死んだ、後世の者は、世界平和をめざしドまじめにとりくむのが基本的なスジでなければなるまい。
戦いは1月つづいた、捕虜になった者以外の全員が玉砕した。

遺骨啾啾・むせび泣く万骨

厚生労働省のHP↓


戦死者は消耗品で丸太同然の人でないもの、牛か馬か、にしか思ってはいない。これが日本支配者のクソどもの本心と見るのが正解でなかろうかと思われるようなことである。






 音の玉手箱
 精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石

L'italiano


(59) L'italiano - Karolina Protsenko & Daniele Vitale | Violin and Sax Cover - YouTube
(59) "L'ITALIANO" ciao Toto Cutugno... Night Street Performance | Saxophone Cover Daniele Vitale - YouTube
(59) Andre Rieu - L'italiano (Lasciatemi cantare) - YouTube
Toto Cutugno – L’italiano Italian and English (lyrics) (youtube.com)
竹山京李「イタリアーノ(L'Italiano)」 (youtube.com)
L`Italiano - Raffaele Papadia (Bielorussia) (youtube.com)

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