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そら知らなんだ

大風呂南墳墓と赤坂今井墳墓
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -83-)


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少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上タイムリミット上言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

大風呂南墳墓


岩滝町の西側山裾の携帯電話の中継器のあるところ。右坂の登り口。弥生後期の台状墓が2基発掘された。草ボーボーで何もない足の踏み場もない、駐車スペースもないのでご注意を、中継基地と小さな案内板があるだけです、中継局を目がけて登って行けばすぐわかります。
現地の案内板に、
大風呂南墳墓群(一号墓・二号墓)
 大風呂南墳墓群は、今からおよそ千八百年前(弥生時代後期)に作られた、当時の丹後地方を代表する王の墓です。
 まず、阿蘇海を見下ろす眺望の良い丘陵を削り、そこに大規模な平坦面を確保しました。墳墓群には、ニ基の墳墓に大小合わせて十の埋葬施設が確認されています。一号墓の中心には、長さ七・三㍍、幅四・三㍍の大さな墓穴を深さ二・一㍍まで掘り込んでいます。その中には、長さ四・三㍍の大きな舟底状の木棺が納められていました。
 木棺内部には、朱が敷き詰められ、全国的も出土例の少ないガラス釧(腕輪)一点や、貝の腕輪の形を真似て作られた銅釧(腕輪)十三点、貝で作られた腕輪の一部のほか、ガラス製の勾玉十点、石製管玉二百七十八点の豊富な装飾品と、十一本の鉄剣や、四本の銑鏃(やじり)、鉄製のヤスなど多量の鉄製品が副葬されていました。その中でも、直径九・七㌢のガラス釧は、透明感を持つ淡いコバルトブルーの色調を呈しており、保存状鑑も良く、完形品として発見されたのは日本ではじめてです。また、弥生時代の墳墓からこれだけ大量の鉄剣が出土したのは全国的に見て例のないことです。
 鉄やガラスなど、当時としては貴重な品々を副葬品として持つ大風呂南墳墓群の被葬者は、日本海の海上交通を利用して九州や山陰、遠くは朝鮮半島や大陸と広範囲にわたる交易を掌握していた人物だったと考えられます。…平成十三年十一月  岩滝町文化財保護委員会 岩滝町教育委員

大風呂南墳墓といえば、これ↓

ガラス釧(外径9・7センチ、内径5・8センチ、厚さ1・8センチ)(↑ほぼ原寸大)
内径5・8センチではわたしの手には通らない、しかし今でもブレスレットのサイズとしては、小さいものはこれくらいである。この青に魅せられた人は数知れない。
カリガラスで、鉄によって着色されている。この当時の中国の江南地方からベトナムあたりにかけて多く見られるガラスという。そのあたり、特にベトナムあたりからの舶来品のようだと言われる。
何でも元があるもので、さらにイニシエをたどればインドの青だともいい、或いはペルシャンブルーだと、いやいやファラオの青かもと…

日本にも、というか中国にもというか、青面金剛仏があるが、こうした神の渡来であろうか、日本独自に生まれた仏ではなさそうである。
緑は翡翠で縄文時代から知られた色だし、緑色凝灰岩(グリーンタフ)の管玉もあるが、青はこの時代の新色であろう。新時代を告げるブルーの世界をしばし覗いてみよう。(弥生・古墳時代)

当墳墓から玉類(ガラス勾玉10点、石製管玉278点)が出土した。

大風呂南墳墓↓      三坂墳墓群↓      赤坂今井墳墓↓

十善の森古墳↑(福井県上中町)。左の玉↑はラピスラズリ(Lapis-lazuli)でなかろうか。ガラス玉(トンボ玉)と説明にはある、写真で見る限りのハナシではあるが天然のラピスラズリにしか見えない。実際にラピスラズリ原石を見た者でない限りはこうした「ガラス玉」は作れないだろうしネウチもわかるまいし製作する意味もなかろう。インド・パシフィックビーズと呼ばれる物の中には、この玉と似たものがある、しかし時代が500年ほど下る。
本当にガラス玉なら、その原料の供給元が知りたくなる、近場(中国朝鮮)ではありえないと思われ、おそらく海のルートで地中海世界とつながる青であろう。
ワタシも上中の博物館で展示されているものを写した、ガラス越しでピントがあっていなくて確認できないが、人が作った模様には見えない。同墳出土の黄金の冠→が展示されている博物館なので、本物のラピスラズリであったとしても何も不思議ではなく、もしかすると「ツタンカーメンの黄金のマスク」若狭版かも知れない。(黄金のというか、冠は金銅製である。百済の地で似た冠が出土する。玉はどうだろう)


アフガニスタン奥地の石で、ピラミッド当時からずっと後の合成顔料が発明されるまでは、ここでしか採れない青であった。ツタンカーメンレベルの者でしか手にすることはできなかった青である。青一色のものが高価。インドではラピスラズリは瑠璃(るり)(元は凡語)と呼ばれた。ラピスラズリの青は瑠璃色と呼ばれた。しだれ桜で有名な舞鶴市吉田の瑠璃寺、もともと仏教関係で使われて言葉である。東方瑠璃光薬師が本尊とか。
今ではタダのような値段だが、古くは金より高価であったという。酒顛童子の宮殿は瑠璃でできていたという、埴生の宿では、書(ふみ)読む窓も 我が窓 瑠璃の床も 羨まじ、と歌われる、金銀瑠璃は高価な宝物の代表格であった。
ウルトラマリンブルーとかネイビーブルーとか、紺色の濃い青、モーゼの十戒の石版はラピスラズリという、17世紀のフェルメールの青→もこの石という。


原料からガラスを作るには、原料の硅砂などを溶解しなければならないが、それには1300℃の高熱が必要になる。これは弥生の日本では無理な高温で、溶解してすでにガラス塊になったものを中国などから入手して(供給元は複数ありそう)、それを日本で熱加工したと見られている。今のガラス工房などでコップやビンを作る要領であろうか、500℃くらいでフニャフニャ状態になり、これを手早く正確に玉にする技術を持った技術者集団が丹後いたのだろうと見られている。もっとも原材料供給元と加工地と販売先をつなぐ海路物流集団がなければできない。そうした夢のような事業の主の墓と見られる。
鉄と同じで、鉄を一から作ることはできないが、すでに鉄塊になったものを、より低温で鍛造する技術は持っていた、と見られているのと軌を一にする。

日本という国は昔から同じような仕組みで生きてきた国のように思われる。海外から原材料を輸入して、それに国内技術で高付加価値をつけて、また海外に売る、未来もそうなのかも知れない。しかし技術などはすぐに追いつかれ追い越される、海外は広く優れた者は国内と比べものにならないほど一杯いるものである。さらにその利益は大金持ちだけのものとなり、分配されないという欠陥がある。稼げるのはわずかな幸運な時だけに限られる。
ワタシが持っているラピスラズリはこんな色→
本物かワタシは鑑定できない( 。-_-。)
プロでもむずかしい、とか。
ガラスで作るとすれば、ガラスには色がないので、この青に染める特別な顔料が必要、それが弥生の当時、あったとしてもどの地で入手にすることができたであろうか。


今は一帯は大きな木々があって、海は見渡せない。もし木々がなければ、横一文字の橋立が見える。
墳墓の規模
狭い痩せ尾根の上にしては墓壙が大きい。1号墓の中心に、長さ7・3㍍、幅4・3㍍の大さな墓穴を深さ2・1㍍まで掘り込んで、その中に、長さ4・3㍍の舟底状の木棺が納められていた。したがって墳丘も大きく、当時としては最大級。墳丘の周囲を取り巻いて三方を道路が通り、それが墳丘を削っていて墳丘規模を不明にしていた。
1号墓と隣接する2号墓を区切る巨大な溝(深さ2㍍、幅2・5-3㍍)が長さ約14㍍にわたって出土した、この溝をもとに、一号墓の大きさを弥生時代の台状墓としては最大級の縦約30㍍、横約25㍍、高さ2㍍と推定し「被葬者は、北近畿を支配するような強大な権力を持った人物」と見ている。


辰砂はHgS(硫化水銀)で、硫黄と水銀の化合物である。硫黄には同位体が25種もあるそうで、その含有率によって、その産地が特定できるという。
それによれば、この朱↑は、中国陝西省産という、長安があったあたりの省である。
ちなみに赤坂今井墳墓の朱は国内値で大和水銀か丹生水銀(伊勢水銀)、おそらく丹生水銀だと見られている。

銅釧(13点)


青銅でてきた貝輪が13点出土した。出土位置は、死者の頭付近に纏めて置かれていた。
弥生時代に北九州の有力者が、奄美大島や沖縄方面の珊瑚礁の海で採れた大型巻き貝で作った腕輪をつけて、その身分を表現したのが始まりで、弥生時代中期以降は銅でも作られるようになったらしい。
銅釧の鋳型が北九州で出土しているので、恐らくそこで作られたものと思われる。九州から関東まで70点くらい↑が出土、しかし京都府内で13点という発掘数は、佐賀県に次いで全国2番目に多いという。


玉は石だし、貝は貝塚時代からの、石器時代からの遺物のような物、新しい時代を切り開くというものでもないが、こんなダレも見向きもしない猫の子一匹通らない忘れられた山の中に、鉄、特に大量の鉄剣が眠っていた。
鉄剣があわせて14本も出土し、鉄鏃ほかの鉄製品もみつかった。
弥生墳墓からこれだけ大量の鉄剣が出土したのは全国的に見て例がないという。
同時期のヤマトなどではほとんど出土しないため、この時期の鉄器流通の主導的立場を担っていたのは丹後地域だったと見られている。
従来は、鉄の文化は北九州が中心とみなされてきた。ところが、最近は日本海沿岸地域での鉄器が脚光を浴びている。
「府民だより60」(ゆかりの地をたずねて)に寄せて、上田正昭氏は、
島根県安来市の弥生時代後期の塩津山遺跡群で鉄の鍛冶炉と鉄製品、鳥取県青谷町の青谷上寺地道跡から多彩な鉄製品270点余、弥生時代中期後半から後期にかけての鳥取県の大山町から淀江町におよぶ妻木晩田遣跡から鉄器200点以上などが出土した例をみてもわかりますように、日本海側の鉄の文化のありようが改めて問題になっています。
 『三国志』魏志東夷伝の弁辰の条には「国、鉄を出す韓・濊・倭皆従って之を取る。諸市買うに鉄を用う」と述べています。朝鮮半島南部では遅くとも紀元前二世紀から鉄生産が本格的に行われていたことが明らかになっていますが、金海の府院洞貝塚をはじめとする遺跡から、山陰系土器が数多くみつかっていることも注意をひきます。北海(日本海)ルートによる鉄文化の導入とその生産を考える際にも大風呂南墳墓群は重要です。日本海沿岸地域は渡来文化の表玄関の役割をはたしていました。

「三国志魏書弁辰伝」に、
〔第一弁辰伝〕弁辰もまた十二国である。〔その他にも〕また多くの小さな別邑(小国)があり、そこにはそれぞれ渠帥(首長)がいる。その勢力の大きな者を臣智(しんち)と名づけ、その次には険側(けんそく)があり、その次には樊濊があり、その次には殺奚(さつけい)があり、その次には邑借(ゆうしゃく)がある。
 巳柢国・不斯国・弁辰の弥離弥凍国・弁辰の接塗国・勤耆国・難弥離弥凍国・弁辰の古資弥凍国・弁辰の古淳是国・冉奚国・弁辰の半路国・弁〔辰の〕楽奴国・軍弥国・弁軍弥国(重複であろう)・弁辰の弥烏邪馬国・如湛国・弁辰の甘路国・戸路国・州鮮国・馬延国・弁辰の狗邪国・弁辰の走漕馬国・弁辰の安邪国・馬延国(重複であろう)・弁辰の涜慮国・斯慮国・優中国があり、弁辰と辰韓とを合わせて二十四国である。大国は四、五千家、小国は六、七百家で、総計して四、五万戸である。
 〔辰韓の〕十二国は辰王に臣属している。辰王は常に馬韓人を用いている。〔辰王は〕代々相継いでいるが、辰王は自分みずから〔の意志で〕王になることはできない。
  『魏略』では、つぎのように言っている。
  明らかに〔辰韓人は〕他の所から移り住んだ人たちである。それ故に馬韓のために〔辰韓が〕制御されているのである。
 〔弁辰の〕土地は肥沃で、五穀や稲を植え〔育てる〕のに適している。蚕を飼い桑を植えることを知っていて、縑布を作り、牛馬に乗る。嫁を娶る時の作法には、男女で区別があり、〔それぞれ異なる礼儀に従っている〕。大鳥の羽根を用いて死者を送るが、それは死者を〔天上に〕飛揚させたいからである。
  『魏略』は、つぎのように伝えている。
  〔弁辰の〕国々では、屋根を作るのに横に木を積み重ねて作っていて、あたかも牢獄のようである。
 〔弁辰の〕国々から鉄を産出する。韓〔族〕・濊〔族〕・倭〔族〕が、みな鉄を取っている。どの市場の売買でもみな鉄を用いていて、〔それは〕中国で銭を用いているのと同じである。そしてまた〔鉄を楽浪・帯方〕二郡にも供給している。
 〔弁辰の〕習俗は、歌舞し飲食することを喜ぶ。瑟(しつ)(大琴)があって、その形は筑(ちく)に似ている。この瑟を弾く、また音曲がある。子供が生まれると、石でもって子供の頭を圧す。〔それは〕頭を狭くしたいがためである。そのため今の辰韓人はみな狭い頭をしている。男女〔の習俗は〕ともに倭に近く、また〔男女ともに〕文身(入墨)している。〔戦闘では〕、歩戦が巧みで、〔用いている〕武器は馬韓と同じである。人々の礼儀では、往来を行く者が出会った場合、すすんで相手に路を譲る。
 〔第二弁辰伝〕弁辰は、辰韓と入り雑って生活している。また〔弁辰には〕城郭があり、衣服や住居などは辰韓と同じである。言語や法俗も共に似ている。鬼神を祭る仕方には、異なっているところがある。竈(かまど)をそなえているが、〔それは〕みな戸の西側につくっている。〔弁辰の〕涜盧国は倭と〔境界を〕接している。十二国にはそれぞれ王がいる。〔弁辰の〕人々の体格は大きく、衣服は清潔で、髪は長く伸ばしている。そしてまた広幅の細布を織っている。〔弁辰の〕規律は特に厳格である。

弁辰(べんしん)は加耶のこと、弁韓ともいう。辰韓は新羅である。馬韓は百済。
鉄素材は、こちらから入ってきたと見られている。
紙はおろか文字すらもない時代のことなので、鉄や玉の技術だけが伝わるということはありえない、人が来たのである。技術の渡来とは、そうした技術を身につけた人が集団で渡来してきたということである。

赤坂今井墳墓



峰山町から網野町へ続く府道17号網野峰山線のすぐ脇にある。海はまだ5㎞ほど先である。
上の墳墓とそれを置く平らな面からできていて、墓域全体は南北51m、東西45m、高さ3・5メートル。これほどのものは近畿地方でも同じ時期には例がないという。
下から見上げると威圧感がある。駐車スペースもないが小さな案内板が1つある。下の平坦面へ登る道はあるが、墳頂への道はない。急斜面で気をつけて登って下さい。上は埋め戻されて何もありませんが、大風呂南墳墓より少し後の卑弥呼の時代を空想して見て下され。
国指定史跡 赤坂今井墳墓
 赤坂今井墳墓は中郡盆地から福田川の河口へ通じる谷筋に面した丘陵の先端に造られた弥生時代後期末(2世紀末~3世紀初め)の大型方形墳丘墓です。16世紀ごろに山城が築かれたため一部削られていますが、造られた当時は東西36m、南北39m、高さ3.5mの長方形の墳丘と四方に巡る幅5-9mの平らな面からできており、墓域は南北51m、東西45mにわたる当時では日本有数の規模となります。墳丘築造に際しては、南北34m、東西22m、高さ9mにわたって丘陵を切断して墳丘や周辺の平らな面が造成され、より大きく見せるための工夫がなされています。
 中心的埋葬施設である第1埋葬は墳丘上面の奥よりに位置し、長さ14m、幅10.5mの規模です。中央上面からこぶし大の石約300個による集石と割られた土器群が出土し、さらに西側には南北に並ぶ一列の柱穴列が見つかっていることから、独特な祭祀を行う場があったと考えられています。
 第1埋葬を一部切り込んで造成された第4埋葬は、長さ7m、幅4.2mの規模です。舟底状木棺(長さ4.4m、幅1.3m)の棺内から頭飾り・耳飾り一式、鉄剣1点、ヤリガンナ1点が出土しました。頭飾りは、被葬者の頭の部分に管玉・勾玉が規則正しく三連に連なるもので、布などに編み込んでいたものと考えられます。使用された玉類は確認できたものだけでガラス勾玉と点、ガラス管玉57点、碧玉製管玉39点を数え、ガラス管玉の中には、古代中国で兵馬俑にも使用されていた顔料「漢青」(ハン=ブルー)の主成分であるケイ酸銅バリウムが含まれていました。
 赤坂今井壌書はその規模、立地、墓上での祭祀のあり方を知ることができる丹後を代表する大型墳丘量であり、丹後地域の弥生社会の発展を理解する上で大変重要なものです。京丹後市教育委員会


写真と図は方向が違う。道路で判断して下さい。図では府道は右側にある。
さすがに弥生時代で、埋葬施設は、墳頂部に6基、墳裾の平坦面に19基以上もあるという、保存保護のためか、予算不足のためか、一部発掘で、図にもそのすべてはない。中央の第1主体部は長軸14㍍、短軸10・5㍍、深さ2㍍以上で、弥生時代としては全国最大だが発掘されていない。首飾りなどが出土したのは第4主体部で、第一主体の奥様かと言われ、そうなら丹後の卑弥呼様か。ここにはまだまだまだまだ1800年も埋まったままで眠るオタカラがあるのかも…
『京丹後市の考古資料』
赤坂今井墳墓(あかさかいまいふんぼ)
所在地:峰山町赤坂小字ケビほか
立 地:竹野川流域と福田川統域の分水嶺付近にあたる谷筋を望む丘陵上
時 代:弥生時代後期末葉
調査年次:1998~2003年(府センター、峰山町教委)
現 状:完存(国指定史跡)
遺物保管:市教委
文 献:B097、B102、B105、B108、C130
遺構
 赤坂今井墳墓は、中郡盆地から網野市街地へ抜ける狭長な谷筋に向かい、東に突き出す細尾根の先端部分に立地する。府道改良に伴い1998、99年に発掘調査が実施され、当初想定していた中世山城に重複して大型の弥生墳墓の存在が明らかになった。その後、2000~03年にわたり内容、範囲確認調査を実施した。
 墳丘は、中世山城築造時に若干の改変を受けているが、築造時は東西36m、南北39m、高さ3.5mの方錐頭裁型の墳丘部および四方に5m~9mの平坦面を持つ構造である(巻頭図版10-1)。特に墳丘背後にあたる西側の平地面は幅9mと大きく、これらを含めた墓域は南北51m、東西45mにわたる。
 墳丘築造にあたっては、なだらかに伸びていた丘陵を西側平坦面の部分を上面最大幅22m、下面幅9m、高さ9mにわたり大きく切断し、その土を用いて墳丘や周辺の平坦面が達成されている。盛土は墳丘の体積の約1/3を占める。
 埋葬施設は、墳頂部に6基、墳裾の平坦面に19基以上存在する。墳頂部の埋葬施設はいずれも、成人木棺墓で、裾部の埋葬施殻は大小の木棺墓、土壙墓、土器棺墓からなる。山裾部は部分的な調査であるが、南東部分を除く四方に埋葬施設が検出されている。
 中心埋葬施設である第1埋葬は墳丘の中心点からやや奥よりの場所に尾根の直交方向(ほぼ南北方向)に設置され、墓壙長14m、幅10.5m、深さ2m以上を測る。墓壙の形態は隅丸長方形で、変則的な二段墓壙を呈する。下段は一部スロープ状になっており、棺の搬入に際しての機能的な役割を荷ったものと考えられる。
 墓壙上のほぼ中央部分、木棺直上にあたる部分からこぶし太の円礫約300点と破砕土器群が落込んだ状態で出土した。元々は埋土を埋め戻した後、一面に円礫が敷き詰められていたものが木棺の腐食に伴い落込んだものと判断されている。破砕土器群は45個体以上が確認されたが、すべて細片であり、大きく散乱している個体が目立つ。器種は壺、鉢、高杯、器台である。円礫の下部から出土したものはなく、円礫敷設後に既に破砕されたものを供献したものと考えられる。
 この他、陥没痕内から辰砂と見られる鉱物が1点出土した。墳丘裾南西側平坦面から出土した石杵と共に赤色顔料に関する資料として注目される。
 また、墓壙上西側には、南北方向に4m間隔で一列に並ぶ直径釣40cmの柱穴列が見つかっており、東側には径約2mの竪穴状土壙が検出されている。竪穴状遺構は第1埋葬に伴う遺構と評価するならば、墓壙前面が空間地になっていることを含めて特異な祭壇の存在が予想される。このほか、土壙内面下部が赤色化した円形の土壙を1基検出した。
 第1埋葬の北側を一部切り込む第4埋葬は、東西方向に主軸を持つ墓壙長7m、幅4.2m、深さ1.8mを測る変則的な二段墓壙である(巻頭図版10-2)。第1埋葬と同様に墓壙上に円磯が敷設され、破砕土器が供献されていた。第1埋葬と同様、陥没した状態であり、元々は平面的に置かれたものと考えられる。破砕土器の器種は壺・高杯・器台がある。
 木棺は舟底状木棺で全長4.4m、幅1.3mを測る。棺内から頭飾り、耳飾り一式、鉄剣1点、ヤリガンナが出土した。頭飾りは、被葬者の頭位に、ガラス製勾玉、ガラス製管玉、碧玉製管玉といった玉類が規則正しく三連に連なるもので(巻頭図版11-1)、有機物が検出されていることなどから、布などに編み込んだ構造のものが予想される。碧玉製管玉と勾玉からなる耳飾りと共に装着された状態で出土しており、使用された玉類は確認できたものでガラス勾玉22点、ガラス管玉57点、碧玉製管玉39点を数える。さらに、棺内中央部は厚く赤色顔料が敷き詰められており、厚い部分で1.5cmにもなる。また、このほか墓壙内から甕の破片が出土している。
遣物
 出土遺物は、玉類、鉄製品からなる副葬品と弥生土器および石製品がある。
 弥生土器は土器棺に使用された2点を除きすべて墓壙上もしくは墓壙内で供献されたものである。そのほとんどが完形に復元できない。他地域からの搬入品と見られるものもある(巻頭図版11-3)。



ガラスや碧玉製の玉類計211個を使った「頭飾り」と「耳飾り」↑
このような玉類を便った頭飾りの出土は国内や中国・朝鮮半島でも例がないという。
今でいうイヤリングになるものか、細い管玉をすだれのように組み合わせて先端に小さな勾玉を下げたものも確認された。頭飾りに付けられている勾玉は長さ1・5-4㌢、管玉は長さ2㌢。
棺の中からは鉄剣とヤリガンナも各1点出土。府埋文センターは「きらびやかな頭飾りに加え、武器類が少ないことから、第4主体部には、女性が葬られていた可能性が高い」と分析し、この女性は「第1主体部に埋葬されているとみられる王の配偶者ではないか」とする。
奈良文化財研究所は、頭飾りに使われていたガラス製の管玉から、古代中国の人工顔料「漢青(かんせい)」を検出した、と発表した。ブルーの管玉のブルーが漢青なのであろう。
研究者らは「古代の丹後半島が中国と直接交流していた可能性を示す資料で、当時の丹後の力をあらためて証明する発見だ」としている。奈文研によると、ガラス製管玉の青色部分をエックス線装置で調査した結果、青い物質は「ケイ酸銅バリウム」と判明した。この物質は中国で紀元前から紀元四世紀ごろにかけ人工合成された顔料で、鮮やかな青色から「漢青」と呼ばれている。秦の始皇帝の陵墓で発見された兵馬俑の着色などに用いられた貴重な顔料で、国内では、岡山県津山市の有本遺跡(弥生後期)の管玉から発見されたのに次いで二例目。ガラスに含まれる鉛の分析から、ガラス自体も中国産とみられる。管玉は中国の原料を使って中国で作られたことになる、という。
発掘調査をした府埋蔵文化財調査研究センターの石崎善久調査員は「出土した管玉・勾玉のなかには、北陸や九州製とみられるものもある。今回の分析で中国産も加わり、古代丹後が内外の流通ターミナルだったことが分かる」と話す。
漢青は中国独自開発のものとも、エジプトから伝わったものともいう。いずれにしても当時の日本にはない。
頭飾りのガラス玉といっても、あちこちから集められたもののようである。

朱は伊勢水銀という。
また山城や山陰、北陸そして関東との関係を思わせる土器が出土している。


白い焼物が「被籠状突帯壷(ひかごじょうとったいつぼ)」。簡単に被籠壺という。
こうした色、こうした形状の土器は、このあたりにはない。どこかほかの場所の土器だということがわかる。この壺は愛知県や東海あたりが本場で、関東あたりまで分布するという。ほかに山陰系、北陸系の土器も見られるそうである。
国内外の物産が集まった墳墓である。

この墳墓を築造した弥生集落が不明、たぶんこのあたりの岡の上に眠っていると思われる。






 音の玉手箱
 精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石

Un canto a la vida   A Song To Life  人生への歌


(103) UN CANTO A LA VIDA - Rosa Urquiza (Video - cover). - YouTube


困難に立ち向かい、新しい可能性を探求することを讃える。どんな時でも前向きに進む。それが人生。その美しさと希望を歌う、という。その逆の人にはむかないかも…

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放送の合間にこんな曲が流れます(予定)
みずいろの雨
水色のワルツ


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