丹後の地名プラス

そら知らなんだ

帰化人と渡来人
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -1-)


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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

現行の歴史教科書



四天王寺ワッソ↑(主催者のHPより)
耽羅(たんら)は今の済州島のこと、そこからのやってきた人々ということであろうか。高乙那、良乙那は彼の地の最初の神人とされ、日本から来た娘を迎えて、国作りをしたと伝わる。
多遅摩毛理(たじまもり)は但馬の人で天日槍(あめのひぼこ)のヤシャゴ(玄孫)。彼の孫に神功皇后(じんぐうこうごう)、ひ孫が応神天皇。この但馬系の子孫を天日槍族と呼ぶが、それは狭い意味の用法であり、広くはこの時代に各地に渡来した人々をヒボコ族と呼んでいる。

天日槍はそのノボリの前に立つ赤い服のオッサン。白い服はそのヨメはんという阿加留流比賣(あかるひめ)。彼女を祀る比売許曾(ひめこそ)神社も大阪にある。
もう10年も前からのイベントで、市民レベルでももう当たり前の歴史認識になっている。どこかのマチあたりではなぜかいまだに極端に嫌い、違う違うとする人も多い。これに限らないがその知識文化のひどい遅れは名物ものであろう。まじめにベンキョーして全世界から冷笑されないようにしたいもの…


《中一の歴史教科書に学ぶ古代史》
私の息子、孫のような息子がいるが、彼が青葉中で学んだ10年前の教科書である。(日本文教出版 「中学社会 歴史的分野」 平成17検定済 平成23年発行)

地域に残る渡来人の足跡 一大阪府を例にー
わたしたちの地域に百済寺跡史跡公園や百済王神社があります。これらは、奈良時代に百済敬福が建立したものとされ、敬福の先祖は、7世紀に渡来した百済の王と伝えられています。わたしたちは、地域の渡来人の足跡をさらに知りたくなり、図書館などを利用して調べてみました。


地図や辞書・遺跡から調べる
 大阪府の地名辞典を見ると、朝鮮半島つ古い国名を用いた百済郷・百済村などの説明が書かれていました。次に、地図を見てみることにしました。すると、現在の地図でも、日本最大の貨物駅といわれる百済駅や、百済橋、百済がなまったといわれる杭全(くまた)神社などを見つけることができました。また、古い地図では、新羅池という池や、今の心斎橋が新羅橋となっているものもありました。

やってみよう
みなさんの地域に渡来人の足跡は残っていませんか。
調べる視点・対象
○遺跡・文化遺産 ○伝統芸能 ○寺社 ○伝承 ○地名 など
調べる方法
○史跡公園や寺社のパンフレット ○博物館 ○地名辞典 など

と、親切に書かれている、しかしどこかのマチあたりでは、こうしたものを調べ尽くしても何も渡来人の足跡などは書かれてはいない。その程度の知識文化しかないマチなのである。観光に来て下さいなどと勇敢なことをいっても、これくらいの知識レベルの人々がやって来るのだが、案内ガイドができるのだろうか。

心斎橋は新羅橋
出版社が大阪にあるので、大阪は詳しいよう。エラそうに言うワタシも心斎橋が新羅橋とはよく知らなかった、心斎という町人が私財をはたいて架けた橋の記憶が強い。昔、読みあさった書を開いてみると、
『大阪における朝鮮文化』
和光寺内の阿弥陀池が「難波の堀江」の跡ではなくて、おそらく新羅洲にあった志羅池の遺跡ではないだろうかと思われるのである。そして北中島と南中島を結ぶ新羅橋は、長堀(現、長堀通)にかかっている心斎橋に比定されよう。

『日本の中の朝鮮文化』
私は、四六判の本書をだした以後、一九七五年八月に出た前記『大阪府の歴史散歩』(上)の「船場の町名」としたところに、こうあるのをみて「おや」と思ったものだった。
   町名には伏見町・平野町・安土町・備後町のように地名・国名に由来するもの、呉服町・瓦町・唐物町・博労町など封建都市を特徴づけた職掌にもとづくものがある。堀久太郎館跡とも百済町の転訛ともいわれる久太郎町、筒井順慶の館に山来する順慶町、安曇寺の転訛ともいわれる安堂町などもある。平野の豪商末吉孫左衛門の名は末吉橋にのこっている。心斎橋の名は岡田心斎・大塚心斎の架橋とも、新羅の転訛ともいわれる。
 百済の久太郎町はおいて、有名ないまの心斎橋が「新羅の転訛ともいわれる」とはどういうことか、と思ったわけだったのである。なぜなら、岡田心斎などからその橋名がきたというならわかるが、新羅が心斎となったとは、ちょっと考えられなかったからである。 
 ところがよくしたものというか、何というか、ちょうどそのころ、大阪のある読者から、ー○九八年の承徳二年にできた「大阪古地図(芝川氏旧蔵)」と、一七五六年の宝暦六年にできた「浪速往古図(大阪府立図書館蔵)」というのの写真コピーが送られてきたが、つづいてまた高槻のある読者からは、一五七六年の天正四年につくられた「織田信長軍、石山本願寺軍攻撃配置図(奥出所蔵)」とした大阪のそれが送られてきた。
 まったくありがたいことだったが、便宜上、前二者を「承徳図」「宝暦図」とし、後者を「天正図」とするが、その「天正図」をみると、何と、いまの心斎橋にあたるそれがちゃんと「新羅橋」となっているはないか。私はこんどは、「へえー」と目をみはったものだったが、しかもそれだけではなかった。
「天正図」にはほかにも「新羅崎」「志良ヶ崎」というところがあり、それが「承徳図」になると「新羅池」「新羅洌」、また「新羅洌」と三ヵ所にまでわたってある。そしてもちろん「百済郡」「百済川」「百済里」「百済洌」などもあるばかりか、「宝暦図」には「久太良(クタラ)」「安良(アラ)」(安羅)というのも出ていて、これにはとくにふりがなまでついている。これでみると、久太郎町というのも堀久太郎とは関係なく、やはり百済の転訛したものとみるよりほかないようである。


『地名の古代史・近畿篇』
金達寿「さっき久太郎町の話が出ましたけれども、古い地図などには久太良とあって、これは百済が訛って久太郎になった。ついでに言いますと、これは大阪府歴史散歩編集委員会編の『大阪府の歴史散歩』に書かれていることですが、東京の銀座ともいうべき心斎橋は、新羅橋の訛ったものだとある。大阪の古い地図をみると、なるほど心斎橋のあるそこは新羅橋となっています。」


渡来人が古代日本をつくった
教科書の「日本の古代国家の形成」という章には
中国や朝鮮の人々が一族でまとまって日本に移り住むことも増えました。これらの人々を渡来人といいます。渡来人は、日本の各地に住んで、土木・建築、馬具や金属加工,高級な絹織物、高温で焼いた質のかたい土器(須恵器)をつくる技術や、漢字・儒教・仏教などを伝え、日本の技術や文化に大きな影響をあたえました。

教科書だから、あまり明確には書かないが、日本の国家を作ったのは彼らと言いたげな扱いになっている。渡来人は私たちの住んでいる村々を作り、食糧を作り産業を作り、文化知識を作り、私たち日本人なるものを作り、その国の神々を作り、クニグニ(伊都国、奴国、大和の国とか丹波の国とかの地方国家)を作り、最終的には日本の中央国家も作ったのであろう。こうしたことができる能力のある者は当時の日本には渡来人しかいなかった。

帰化人と渡来人
古い話をするが、私が中学生の頃(もう60年も前)は「渡来人」という言葉はなく、同じ人達を「帰化人」と呼んでいた。歴史学者などもみな帰化人と呼んでいた(あるいはカッコをつけて「帰化人」)。これを渡来人と呼ぶようになったのは、一般的には私が30歳になった頃であろう。教科書もそのころに渡来人と呼ぶようになったと言われる。
 日本には大昔から大和民族(ニッポン人)という世界一優れた人々が住んでいて、天皇さんという太陽の子が統治されていた世界に類例のない神国であった、その徳を慕い文化の遅れた外国からやってきた人々を帰化人と呼ぶ。これが帰化人史観というもののだいたいのとらえ方であった。別に何か証拠(古文書や遺跡)があるハナシではなく、歴史学が科学として発達していなかった時代の、そうであったらなあ、という空想というか願望みたいなもの、はっきりと言えばウソ、ネゴトであるが、戦後もかなりの間はそのままであった。戦争で多くの研究者を失ったのであろうか、立ち直るのに20年ばかりかかったのであろうか。

やがて『帰化人』(上田正昭・昭40)や『帰化人』(関晃・昭41)なども現れて、問い直しが始まる。歴史好きの一般市民も加わった古代史の大きな変革が始まる。
古代の帰化人は、われわれの祖先だということ、日本の古代社会を形成したのは主に彼ら帰化人の力だったということ、この二つの事実が、とくに本書でははっきりさせたかったことである。古代史における彼らの重要性は非常に大きいが、従来、国学者流の偏狭な態度や、国粋主義の独善的な史観のため、その活躍がことさらに軽く見られる傾向が強かった。また、そうでない場合でも、正当な史料批判を経ないで、記紀などの記載をそのままに、彼らの歴史を構成するのが普通だった。さらに最近では、史料批判の上に立って彼らの活躍をできるだけ跡づけることを省略し、理論などによって直ちに古代社会の形成を考えることが多くなった。(関晃)

渡来人が日本へ持ち込んだ文化は、当時の日本社会の文化と比べれば圧倒的に高度な水準のものであったし、彼らの数もまた多かった、チョロチョロと来たくらいではたいした影響はないが実は大波で、質量ともに当時の日本社会を完全に:ケタ違いに圧倒したのである。彼らによって古代日本は作られていった。

「帰化」という言葉は、今も日本国籍を得ることの意味に使われているが、かなり死語的な言葉で、たいていは「移住」とか言っている。古代の概念としては王の徳に従い、その規範に入った者の意味である。日本国もなく国王もなかった時代に、はたしてそうしたことがあるだろうか。
日本書紀は帰化という言葉をよく使っているが、それはのちに政治的に潤色した表現であろう、古事記や各地の風土記はたいてい渡来(渡り来る)と書いていて、これが本来の呼び方でないかという。そうしたことで今は渡来人と呼ばれるようになっている。

しかしどこかの60年停滞のマチあたりでは、目も向けられていないためか、大昔のままの考えが大部分ようで、これと言った教科書水準に合ったようなものがない(ゼロではないが)。
日本人の一部にはいまだに「帰化人」を特殊視したり、あるいは極端に差別されていたかのように考えたりしている人々がある。しかし、そのような見方は不当な認識にもとづくものであり、民族的差別を合理化する結果になる。こういう考えは、古代の支配者層がいだいていた蕃国の観念や近代日本の為政者らがつくりだした民族的偏見にわざわいされているものである。本書をひもといてくださるならそのような認識が、いかに誤ったものであるかが、より深く理解されるものと思っている。(上田正昭)
帰化人から渡来人へと言葉が変わった、というだけではなく、そこには歴史認識の転換がある。歴史観の大きな変革が進んだのである。歴史観は世界観とつながる大きな自己認識の根幹部分になり、人生観とつながり、無視したり テキトーに済ませばよいといったものではない。ここを考え違えると人生が狂うほどのものである。知らずに何かすればするほどにますますマンガになって行く。

無視しているというよりも、気が付かないということだと思うが、まさかそうした者ばかりではないが、中には気づく市民もあったが、影響が強かったとは言えない。全体にノンキというか、歴史学も科学だから、絶えず発展するものだということを知らないのか、昔からのことだが、自分らだけで集まって、顔をつきあわせ外には尻を向けている井の中のカエルばかりのマチのようではある。ワレラが暮らす小さな井戸を中心に世界が回っているのではない、少しは外を見て、教科書も見て、古い自らを改めないとマチの未来はなかろう。

敦賀駅前の都怒我阿羅斯等の像。敦賀ライオンズクラブが結成20周年を記念して建てたという。40年の前のことという。

伝説による都怒我阿羅斯等

日本書記の巻第六の項に「一に曰く崇神天皇の世に
(ぬか)に角有ひたる人 一の船に乗りて越国の筍飯浦(けひのうら)に泊れり (かれ)其處(そこ)をなずけて角鹿(つぬが)と曰ふ…。」の記事がみえている。
任那(みまな)国の王子 都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)はひたいに大きな角のようなものがあったとか 又 異人を浜辺にみた人々が恐れてその偉大さをたたえて口にしたものとか あるいは王子の正装の冠とか武装して上陸したのであれば 冑ではなかろうか…。など古代人によせる後人の思いはさまざまである。
この都怒我阿羅斯等の像を有識者各位の説を参考にして、敦賀ライオンズクラブが建立した。
都怒我阿羅斯等の額には角があったことから
角額(つのぬか)と呼び、これが縮まって角鹿(つのが)となり、その後 元明天皇の和銅6年に敦賀(つるが)という字に改められたという。

小浜神宮寺の由来書

日本語では解けそうにもない地名は渡来語でないかと見ている。ワレラはその子孫だとしている。

ひぼこホール(出石文化会館)

天日槍の本貫地で、こうした名の500名ばかり収容できるホールがある。老朽化で取り壊しとかいうが…、もう何十年の昔からすでに、これくらいのことはやっている。


ナニハとタニハ
前出の教科書
大阪府に渡来人の足跡が多いのは、難波津といわれ、高句麗・百済・新羅の使節をむかえる外交館舎が設けられるなど、大阪が早くから朝鮮半島との交流の窓口となっていたからだそうです。
それはそうだが、国の外交館舎ができるずっと以前から、瀬戸内海航路を来た人々の上陸点であったからである。
日本海航路を来るとそこにはタニハがあった。私たちが住んでいる所であるが、ここもまた古い重要な上陸点であった。ここにも渡来人の足跡が残されているのであろうが、その研究はなされてはいない。しかし足跡がないと考えるのはおかしい。
渡来人といってもその歴史は長く、弥生時代から平安時代の最初の頃まで続く、千年を越える歴史がある。北九州へまずは上陸してくるが、その後はさらに東のナニハ、タニハへ上陸してくる。
タニハはその中でも初期の頃の古い時代の渡来が多いニハであったようである。だからちょっとわかりにくいし文献もない。地名や社名にかろうじて残るくらいである。
秦氏や漢氏という渡来人の雄たちの時代、5世紀以降くらいになると、皆ナニハに行ってしまったようで、タニハは忘れられていく。
秦氏漢氏以前の渡来人は一括して天日槍と呼ばれている。新羅伽耶あたりから渡来してきた人々であるが、彼らは阿羅斯等(アラシト)阿利叱智(アリシチ)と名乗っていて、このアラ・アリを追えば何か見つかるかも知れない。arは輝くもの、あるいは卵の原義である。
さらに新羅のシラ・シロ、加耶のカヤ、カラ、新羅の別名であるソフル、こうした地名、社名も追ってみたい。まずはそうした所から取り組んでみよう。

新羅はシラギと日本では呼んでいるが、それは日本だけのことで、その漢字の通りにシンラ、シラ、或いはシロが国号であった。
『日韓古地名の研究』(金沢庄三郎)
梁書に魏時曰、新盧、宋時曰新羅、或曰斯羅とあり、三國史記卷四に新羅智證麻立干四年、冬十月群臣の上言に、始祖創業已來國名未定、或稱斯羅、或稱斯盧、或稱新羅臣等以爲、新者徳業日新羅者網羅四方之義、則其爲國號宜矣とあるのを見れば、彼國で昔からシラと稱してゐたことも、亦明かな事實である。然らばシラキのキは何であらうか。三國遺事卷一新羅建國の條に、國號徐羅伐とある徐羅は即ちシラに相當する稱號であって、其上に別に伐の字が添ってゐるのであるが、この伐(por)は前にも逑べた如ぐ、國語村(ふれ)と一致する語であるから、徐羅伐は卯ち新羅村(しらふれ)の義となる。されば、村(ふれ)と同義の城(キ)を加へて新羅城(しらき)といったこと、其昔必ずしもなかったとは限らない。要するに、國名其物はシラで、キは城邑の義の別語であることは殆んど疑なしと考へる。








音の玉手箱 精神に翼をあたえ、想像力に高揚を授ける、音の宝石


 Beethoven Virus:貝多芬病毒:ベートーベン・ウイルス



今年もコロナウィルスとの戦いになりそう。戦争だから勝つとは何も決まってはいない、相手は得体の知れない、目に見えない強敵、何十億年の進化を経て生まれたヤッカイなもの、猿知恵で甘く見て油断すれば大変な敗北になろう、兜の緒を今一度締めてかかろう。

(24) Nightcore - Beethoven Virus - YouTube
いい曲もウィルスのようにどんどん拡散し、止めることがむつかしいといったほどの意味とか。
(24) Beethoven Virus - Diana Boncheva (original player) - YouTube
今年最初の放送にはもってこいの曲かと思ったがFM局のアーカイブになかったため、ここで紹介。。
オリジナルはベートーベンのピアノソナタ「悲愴」第三楽章、それをブルガリアの人がアレンジしたものという。いろいろバージョンがある。
(24) ベートーベン悲愴第三楽章 [Beethoven Piano Sonata No.8 3rd. ] - YouTube
同名の韓国テレビドラマ『ベートーベン・ウィルス-愛と情熱のシンフォニー-』もこの曲名から取られているという。

さすがに貝多芬様で、音楽の格が違う、圧倒される。今は悲愴な状況であっても、必ず勝ち抜くぞの強い信念が感じられる。
Für Elise原曲もよく歌われたのを思い出す、ずいぶん昔のことになったが…
(24) ♪情熱の花~♪キッスは目にして / サウンド・トラベル - YouTube

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