民族大移動の跡か!?
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 舞鶴市と宮津市(その周辺含)には、同じ地名が多い。例えば…
隣町といっても同じ地名はせいぜい5つくらいしかないと思われるが、舞鶴と宮津は異常値である。23もある。タマタマだとは思えそうにもなく、ナゾである。 同じ地名が多数あることは、特別に関係が深い地か、歴史が似ていた、あるいはどちらかからどちらかへ移動した過去があったものか。 勘注系図の天香語山命の注文に、 …是に於て春秋に田を耕し、稲種を施し、恩頼は四方に遍く。即ち人民は豊なり。故に其地を名つけて田造と云う。爾に香語山命は然る后に、百八十軍神を率い退いて由良之水門に到る時に、父火明命に逢う。詔が有る。命は其神宝を奉斎し、以て国土造りを速修せんと欲す。其地を覓めて行き而て遂到当国余社郡久志備之浜に遂到る之時。御祖多岐津姫命に逢う。…
これによれば、天香語山命(≒天日槍)の一族は、田造(舞鶴市の西舞鶴中心地)から「百八十軍神を率い退いて」由良を経て、余社郡久志備之浜(宮津市の籠神社のあたり)へ移動した、という。 もしかすると、同地名の多いのは、その一部はこれを語るものかも知れない。 また藩政時代にも移動が伝えられている。 宮津城は京極高廣によって再建築されることになるが、多くを田辺城から移転させている。城の資材や藩士ばかりでなく、田辺の職人・町人を宮津へ移したといい、後世「田辺越し」「宮津越え」などの語が生れたゆえんという。 『丹後宮津記』に 宮津城古来宮津各有と謂も今の地にあらず、上宮津城跡有、其当時下宮津之内宮村八幡山にも城跡有、今之宮津城地は往昔田辺領にして平原民家のみ、寛永二乙丑年京極高広初而爰に城を築き城下屋敷を経営し町家之地割致して人を田辺より移らしむ、故に今に於て田辺越しの者として宮津開発之者と號新古之差別あり。
町人ばかりでなく町家も移したという。地名もあるいは移ったかも知れない。 音の玉手箱
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