村の年齢集団-小中学校
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 小中学校小中学校も古くからあったものではなく、明治の文明開化によって作れたものである。学校はどんな理念と目的を持って作られたものであろう。学校教育はプロの専門家が一杯の分野であり、実際に児童の教育が行われている現場であるので、横から口は挟まないが、当ページは、教育を受ける子供達が生まれ育った地域社会、地域コミュニティ側から、村人として育てる立場から学校教育をごく簡単にふれてみようとするものである。資料は主に『舞鶴市史』とWebによる。 明治期 廃藩置県(明治4年) 学制の頒布(明治5年) 第二百十四号
人々自ら其身を立て其産を治め其業を昌にして以て其生を遂るゆゑんのものは他なし身を脩め智を開き才芸を長ずるによるなり而て其身を脩め智を開き才芸を長ずるは学にあらざれば能はず是れ学校の設あるゆゑんにして日用常行言語書算を初め士官農商百工技芸及び法律政治天文医療等に至る迄凡人の営むところの事学あらざるはなし人能く其才のあるところに応じ勉励して之に従事ししかして後初て生を治め産を興し業を昌にするを得べしされば学問は身を立てるの財本ともいふべきものにして人たるもの誰か学ばずして可ならんや夫の道路に迷ひ飢餓に陥り家を破り身を喪の徒の如きは畢竟不学よりしてかかる過ちを生ずるなり従来学校の設ありてより年を歴ること久しといへども或は其道を得ざるよりして人其方向を誤り学問は士人以上の事とし農工商及び婦女子に至っては之を度外におき学問の何物たるを弁ぜず又士人以上の稀に学ぶものも動もすれば国家の為にすと唱へ身を立るの基たるを知ずして或は詞章記誦の末に趨り空理虚談の途に陥り其論高尚に似たりといへども之を身に行ひ事に施すこと能ざるもの少からず是すなはち沿襲の習弊にして文明普ねからず才芸の長ぜずして貧乏破産喪家の徒多きゆゑんなり是故に人たるものは学ばずんばあるべからず之を学ぶには宜しく其旨を誤るべからず之に依て今般文部省に於て学制を定め追々教則をも改正し布告に及ぶべきにつき自今以後一般の人民(華士族農工商及婦女子)必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す人の父兄たるもの宜しく此意を体認し其愛育の情を厚くし其子弟をして必ず学に従事せしめざるべからざるものなり高上の学に至ては其人の材能に任かすといへども幼童の子弟は男女の別なく小学に従事せしめざるものは其父兄の越度たるべき事 但従来沿襲の弊学問は士人以土の事とし国家の為にすと唱ふるを以て学費及び其衣食の用に至る迄多く官に依頼し之を給するに非ざれば学ざる事と思ひ一生を自棄するもの少からず是皆惑へるの甚しきもの也自 今以後此等の弊を改め一般の人民他事を抛ち自ら奮て必ず学に従事せしむべき様心得べき事 右之通被 仰出候条地方官ニ於テ辺隅小民ニ至ル迄不洩様便宜解釈ヲ加へ精細申諭文部省規則ニ随ヒ学問普及致候様方法ヲ設可施行事 明治五年壬申七月 太政官 明倫小学校開校(明治6年) 明治六年 倉梯校(倉梯小学校) 含章校(志楽小学校) 登尾校・大波校(朝来小学校) 明倫校(明倫小学校) 立敬舎(余内小学校) 横山校(池内小学校) 順正校(中筋小学校) 福井黌(福井小学校) 陽明校(高野小学校) 鸕溪校(岡田上小学校) 共立校・漆原校(岡田中小学校) 志高校(岡田下小学校) 中山校(八雲小学校) 神崎校(神崎小学校) 明治七年 与保呂校(与保呂小学校) 田井校(田井小学校) 平校(平小学校) 明治八年 原校(原小学校) 大丹生校(大丹生小学校) 静溪校(吉原小学校) 青井校(青井小学校) 久田美校(岡田下小学校) 八田校(八雲小学校) 明治九年 丸山校(丸山小学校) 余部校(中舞鶴小学校) 野原校(野原小学校) 教育令(明治十二年) 改正 再改正 自由民権運動 明治十四年(1881) 『舞鶴市史』 四月十四日の京都新報は舞鶴の民権運動の状況を次のように報じている。
又舞鶴の通信をみるに、当地は山陰の一佳港にして頗る繁盛なるも、いかんせん人民挙って進取活溌の気力に乏しく、或ひは一、二の民権を説くものあれば、之を忌んで殆んど視て土芥の如く侮りて、交際を絶つ等の弊害ありしが、さきに小室氏等の一行来って例の雄弁にて頗りに演説鼓舞されしより、一般大民は恰も夢の覚めたる如く、近頃に及びては甲処に自由を談じ、乙処に民権を唱へ、到るところヒヤヒヤの声を聞く。特に壮年輩は一の会を結び、名けて鶴鳴会と云ふ。専ら従来の弊風を去り、各自の智識を交換し、天聞の幸福を全うするを目的となし、約り宮津の天橋義塾其他有数の社会と気脈を通ぜんと、自今勉強中なりとか、僻邑と雖も斯くまで自由説を談ずるに至れるは、抑気運の然らしむるとはいえ、真に末頼もしき光景にぞある。 明治十四年末から十五年にかけて、眠っていたような「僻邑」で「人民挙って進取活発の気力に乏し」かった舞鶴が時代の流れに目覚めた様相をよく描いているが、その結果として、一つの組織「鶴鳴会」が出来たともいう。また、四月二十七日付けの同紙には 舞鶴にて立志会団結のことは曽て記載せしが、今其概則を聞くに、専ら智識を交換し、天禀の自由を拡張し、地方の改良を図るを目的となし、会員最も奮発せりと云ふ。 と報じており、当時舞鶴に鶴鳴会と立志会の二つの組織が結成されていたことがうかがえる。 このような動きは、丹後一帯はもとより丹波、但馬に大きなうねりとなって波及し、それがまた大阪に本拠を持つ立憲政党に活力を与えた。この結果、十月に発行の党員名簿には六四〇人の氏名が掲載されるほどになった。しかし、実践的な活動家がいなかったのか、舞鶴、加佐地方の人士の名は見当たらない。また、鶴鳴会と立志社のその後の活動は、一切報道されていない。 舞鶴という所は「山陰の一佳港にして頗る繁盛なるも、いかんせん人民挙って進取活溌の気力に乏しく、或ひは一、二の民権を説くものあれば、之を忌んで殆んど視て土芥の如く侮りて、交際を絶つ等の弊害ありし」と、当時の記者は書いている。 これが舞鶴の今も変わらぬ基本的な郷土文化、というか、カルチャーというか、性格というか、人間性というか、しかしそうした立派な言葉ではないもので、ビョーキとかヤマイとか呼んだ方がいいような、一種の精神風土病的なものであろうか。住みよい町にしょうとか、ひとの役に立とうとかいう気がまったくない、夢を希望を説く者はない。これは右も左も上も下も職業、分野に関係なく、いつの間にか、当地あたりのすべての人が侵されている古くからの頽廃勝手ビョーである。 市史もそう思ったものか古い資料を引いたものと思われる(昭和53発行)。古くからの日本文化の中心地に距離的には近い所だが、そうした日本トップの高く豊かな文化のハテの地の感がある。舞鶴は何と七色の夢と希望に輝くスバラシイ、ワクワクしてくる町ではないか、それは何でもないそこの住民の性格がクソすぎるからのようである。 進取活発の気力なく、チャレンジ精神がない、ダレがほかに例外的に進取の気概持つ者の一、二がやろうとすれば、廻りじゅうがこき下ろしてその足引っ張りをする、彼からも学ぼうとか協力しようなどとは一切しない、ほかにどんな手があるかと問うても代案はない、仮にそうした決まりになっても、ワシは関係ないよとばかりに絶対に前へは行かないで勝手に手を抜いてサボル。そうかお前やるか、立派なもんだ、それなら皆も力を貸して、何とか皆で世の中を良くしていこう、などという者はない。 こきおろしとひとの足引っ張りしかできない情けない人物はどこにでも腐るほどもいる、もうチイとらしい事ができんのか、といってもできたりはしない、それだけの者でしかない、そうした者がいても社会の片隅で大平の夢を眠っているには問題はないが、イザの場合、間違いで社会のリーダーとかになった場合は具合がわるい、ワル過ぎる。舞鶴にはこの手の人が多すぎる「いかんせん人民挙って」そういたことなのが特徴でなかろうかと思われる。有識者からなる選定委員会の決定、市会文教委員会の決定を覆して本会議では否決、この町はどうかしている。西市民プラザのことを言っているのだが、この会館はダレがやったとしても難しいだろう、最初の基本設計がなっていない、駐車場がないからダメだと言われていた。昔から新時代のリーダーの素質を持った人物がいないザコが好き勝手をさらすだけのマチだということである。その多くの負の遺産のツケの処理を抱えてもいて当然にも舞鶴は先へ進めず、さらにじり貧に陥る。 「けむたがってねえ」とかよその人が言うが、教えようとしても避けようとする、よの人や知識文化を煙たがり、気心のよく知れた者だけで顔つき合わせて相談して決める、外の世界には全員が尻を向けて、その仲間うちだけでガンバローなどと言っているイナカモノ。進歩する気がない。 時代は移る、10年もすれば大きく変わるが、そうした時の流れ、周囲の変化は見ない。それは舞鶴などの眠っている「僻邑」によく現れ、わかりやすいというだけのことで、日本人社会の基本的なビョーキかも知れない。眠っているだけで、目ざめることがないので、死んでいる、墓場のマチだということであるが、この亡者どもは足引っ張りだけはするので、ゾンビばかりのマチなのかも知れない。上しか見えてない、下を見る目のないヒラメゾンビのマチ。 今現在も驚くべき事件が発生しているが驚きもしない、ちょっと絶望的な社会に落ち込んできているようである。自分らが納めた税金が何度も迂回する形で違法に政治屋どもやその取り巻き官僚どものポケットに入っている。政治屋どもや官僚ども問題すぎるクソ連中で、わずかなゼニに目がくらみ善悪の判断すら失った、ほとんどの野党も程度の差くらいで同じ税金泥棒ムジナ的なところを隠し持ったまま、それを黙って見ているだけで、こんな連中に国政をゆだねている国民もまたごリッパなもので問題だらけ、同類同罪のクソと思われても仕方がなかろう。 クセになっていて感覚がマヒしているようだが、1円でも窃盗罪、1円でもだめ。裕福であるのにスーパーで万引きする人があるというが、1円でも万引きすれば警察である。1円でも決済が合わないければ、税金を集める資格はない。それとも何かああした烏賊様氏どもには百万円や千万円のはした金くらいは万引きしてもよいとかいう特権があるのか。米軍と同じように不逮捕特権をつけているのか。日本とはメチャクチャ大国なのか。正当に生きる力のすべて失い、ただ腐敗していくだけの死を待つだけの、寿命を迎えた国なのか。 何億とかのカネはまじめにやっとっても手に入りませんな、なんぞ悪い事でもせんと…とうわさされている。 そのカネは多くの国民が働いて泣く思いで納めた税金だぞ、コクゾク的詐欺師でないか、いかに日本だとはいえ政界におくような者でない、監獄がふさわしかろ。 「世界に誇る経済大国」を支える高品質で安価な製品を生産した日本モノヅクリ企業もアウト、30何年間も不正をしていたという。問題がたまたま出ているのは、内部告発のあった氷山の一角であろう、と見た方がいいようなことだという。儲かっている企業は長年にわたる不正がある、内部告発者がないだけ、なのかも知れない。 これが日本だ、これが私たちの日本社会のビョーキだ。30、40年昔くらいからビョーキは始まり蔓延し社会の衰退が見え始めた、このままでは我国将来はなかろう。日本人社会全体の堕落というか無気力舞鶴化して何の気概もなくなってしまったものか、今ようやく告発者が出始めた段階でなかろうか、次々と続くよう期待したい。 さあ文明開化の世の中だ。これからは学問だ文化だ、まずは小学校だ、百姓は本ども読まんでよいの考えを改めてベンキョーだ文化だといっても、どうすればいいのかわからない。明倫校をのぞけば何といっても当人らは学校へ行ったことがない、学校へ行ったことがない者ばかりが集まって、学校はどうあるべきかといくら知恵を絞っても、何もこれといった知恵は出てきそうにもない。 市内の図書館へすら生まれてこのかたった一度も足を運んだこともなく、本を読んだこともなく、本や知識を愛したこともない者どもが新しい図書館をどうあるべきだとか言うようなことであろうか、何といっても本を読まない役人さんと本を読まない議員さんと本を読まない図書館職員さんと皆超低レベルの読書人ばかりの中へ、さらに本を読まない市民も加わるとなるとオソロシイ話となってしまう。やめておけというのではない。新しい図書館は時代の要請である、図書館も刷新が求められる、周辺の図書館などを見学されて、「コンビニに毛が生えた程度のもんですネ」とか市民に言われる貧書状態を改革しなければならない、デシタルの時代とはいえ、まだまだアナログ世界に膨大な知識が眠っている、町づくり村づくりにこれを役立てない手はない。 かるく年百冊以上は読んでますよ、もう何十年も、とかの読書歴のある読書人に集まってもらいたいが、しかしそうしたレベルの読書人がいないのが舞鶴なので、鳥なき里のつまらぬ蝙蝠どもには、実際はどうにも甲斐性に過ぎたるもので、気長にやるより仕方がなく、すぐ避けたがるが、できるだけ外部の支援を得て、そこそこの知恵は出てくるまでは何年かの時間がかかろうかと思われる。 似たようなことに当時の村人農民たちも直面したと思われる。 図書館は市の税金で建てられるが、当時の小学校建設費などはその地の住民が負担しなければならなかった。公民館ひとつ建てるにも大変なことである、何十年とかかる。学校となれば、目ん玉が飛び出るほどの負担になり、払いようもない額となる。 オカミは「邑に不学の戸なく家に不学の人なきようはからえ」の一片の紙切れ通知だけ、カネも出さないで済むが、それを実地に行う村人は血と汗と涙を絞らなければならなかった。校舎などは建てられないので、寺院などに間借りなどをしながら、村人も時代の要請に沿うような形でじわじわと進歩していった。学校もない村に将来はなかろう、手前の子弟も教育できない村に未来はあろうはずもなかろう。学校造りは単に学校を作るというだけでなく、それは村人づくり、村づくりでもあった。自覚ある村人を自治体を自らの手でつくっていくことになったと思われる。子弟を教育する場だけでなく、教育する者も教育していった。 明治二十二年(1889)大日本帝国憲法制定 第一條 大日本帝󠄁國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス 第二條 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所󠄁ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス 第三條 天皇ハ神聖󠄁ニシテ侵󠄁スヘカラス 第四條 天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲󠄁法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ 第十一條 天皇ハ陸海󠄀軍ヲ統帥ス 地方制度-町村制施行 1888年(明治21年)4月25日にそれまでの郡区町村編制法に代え明治21年4月25日法律第1号の後半(前半は市制)として公布され、翌1889年(明治22年)4月以降町村の合併などの状況を踏まえて各地で順次施行された。1889年4月1日、市制・町村制が施行開始。 郡は古くからあるが、現在の京都府とか、市町村のだいたいの大枠は、この当時につくられた。 今に続く小・中学校はだいたいこの時期から作られたものになる。村は周辺が合併して大きくなり、財政が以前よりは少しは改善した。 新しくできた町村のメーン街道沿いの真ん中あたりの一等地に新しい役場と新しい学校が建てられた。今もこうした所にある小学校はこの当時のものである、たいてい隣に役場跡らしき建物跡がある。 さあこれからは勉強た、学問だ、文化を高めよう。農民といえど何も知らないでいいわけがない。子弟の教育機関であるとともに、村人たちの文化の殿堂としての機能があるものであった。子供には勉強せい、といって自分はパチンコしているでは、子もそれに見合った者になるだろう。人に言う前にまずは自分からであった。 小・中学校は現在もこの精神は残してはいる、たいていは忘れられて、子供を教育するだけの、上から教育方針のみに基づいて教育するだけのものと思われがちだか、親や村の後継者としても育てる教育であり、親自身も学習しようというもので、その参加が求められる。イヤだという人もあるというが、自分の子の教育である、それまでひとまかせはどうしたものであろうか。責任感のない子になりはしないか。 明治二十三年(1890)帝国議会 今のような立法機関ではなく、天皇を協賛する機関。 教育勅語(明治二十三年) 朕󠄂惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精󠄀華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父󠄁母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋󠄁友相信シ恭儉己レヲ持シ博󠄁愛衆󠄁ニ及󠄁ホシ學ヲ修メ業ヲ習󠄁ヒ以テ智能ヲ啓󠄁發シ德器󠄁ヲ成󠄁就シ進󠄁テ公󠄁益󠄁ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲󠄁ヲ重シ國法ニ遵󠄁ヒ一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ是ノ如キハ獨リ朕󠄂カ忠良ノ臣民タルノミナラス又󠄂以テ爾祖󠄁先ノ遺󠄁風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道󠄁ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵󠄁守スヘキ所󠄁之ヲ古今ニ通󠄁シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕󠄂爾臣民ト俱ニ拳󠄁拳󠄁服󠄁膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶󠄂幾フ 明󠄁治二十三年十月󠄁三十日 御名御璽 現代語に訳すと 朕がおもふに、我が御祖先の方々が国をお肇はじめになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にこゝにある。汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦むつび合い、朋友互に信義を以って交り、へりくだって気随気儘きずいきままの振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すやうにし、学問を修め業務を習つて知識才能を養ひ、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまに々々天地と共に窮りなき宝祚あまつひつぎの御栄をたすけ奉れ。かやうにすることは、たゝに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなほさず、汝らの祖先ののこした美風をはつきりあらはすことになる。
ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が共々にしたがひ守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違がなく、又我が国はもとより外国でとり用ひても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。 ホンマかいなの歴史のデッチアゲと美化、それに儒教的倫理を付け加えて説いたもののようである。どこといって立派なハナシはない空疎なネゴトのように思うが、いまもって賛美する者もある。 平和も郷土もない。環境や世界との調和共存もない、自分勝手な思い込みによる自己肥大観だけの中学生レベルの内容カラッポの作文が、上から教育方針として押しつけられた。 立派な方がお治めになっていらっしゃる世界一立派な国の臣民だから、そのお国のために文句いわず従う精神を持つよう教育しろということであろうか。 世界に輝ける誇りの祖国は、何億円とかクスネル政治屋のクズばかり、のようだが、それは今だけのことであったろうか… さっそく対外戦争が連続する。文句いわずに命令通りに死ぬ兵士になれ、ということであろう。 日清戦争(1894) 日露戦争(1904) 与謝野晶子1904 君死にたまふことなかれ 副題は“旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎きて” …親は刄をにぎらせて人を殺せと教へしや、人を殺して死ねよとて廿四までを育てしや…。 武器を持って人を殺せというのは、親の教えでも商家の教えでもない。天皇がそういうとも思われない。 と近代文学の金字塔的な名歌でなかろうか。お国の方針と親や家や職業産業や郷土社会の方針が違っている、そんなことで死なないでくれ。死んでも何のためにもならない。 日中戦争(昭和12・1937~) 第二次世界大戦(昭和16・1941~) 学校の軍事利用 『与保呂校百年誌』 ▼軍国主義下の小学校
輝ける祖国は、困っている人あれば、助けたりはせずに、さらに奪い殺し焼いて、自腹を肥やして行く。もう人間が崩れ負けていった。昭和十八年度卒業 土 本 義 己 上級生に引卒されて桑の本の皮むき、薬草取りに一生懸命になった。夏の夜きもだめしに、お化け役の先手をとって、ことなきを得たこと、戦争ごっこで山をかけずり廻った等々次から次にでてきます。 私達の小学校時代は、軍国主義一色。陸軍大将、東条英樹は男の子の最高のあこがれの的でありました。学校では月に一回ぐらい日の丸弁当の日というのがあって(弁当のおかずは梅干一つ、ふたをあけると日の丸の旗にそっくり)全校生徒が講堂に集って黙とうをして、戦地の兵土や両親に感謝をしたのち、会食をするのです。又五月二十日の海軍記念日には、日露戦争で日本艦隊がロシヤの艦隊に大勝した日本海海戦の話しを聞かされました。私が四年か五年の時、東出先生の日本海海戦、東郷連合艦隊司令長官の作戦の話しが一番印象に残っています。教育の中では、修身が最高の科目とされ、何時間かは校長先生に教えられました。いくら算数や国語がよくできても、修身が悪ければ駄目だといわれたものです。修身の中心は天皇に忠義をつくすということであったと思います。… こうして、どちらにも負けた。勝てるワケはない。 戦後 昭和憲法(昭和22・1947) 国民主権・基本的人権の尊重・平和主義の三つを基本原理としている。 教育基本法・学校教育法 6334制 過去の反省のうえに何を目指したか?憲法の精神のもとに幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。 これらは国や地方公共団体が目指す教育の基本方針であるが、教育はそうした機関だけが行うのではない。周囲の環境がその人に与える影響は大きい。狼少女の例。家庭教育や社会教育は、その環境の一環になる。 PTA、婦人会、青年団 孟母三遷 孟子の母が、わが子の教育に環境の悪い影響が及ぶのを避けるため、墓地のそばから市場のそばへ、さらに学校のそばへと三度住居を移した故事から。 しかし環境がいかに良くても、メダカの子はメダカ、クジラにはなれない。もって生まれた素質としいものもある。メダカはクジラにはなれないが、しかしクジラも元々の遠い祖先はメダカのようなものであったのであろう。メダカのようなものが、何百万年か何千万年をかけて何世代も何世代も進化したからクジラになったのであって、初めからクジラであったのではない。気力に乏しい足引っ張りクジラよりも進取活溌のクジラが多かったのかも知れない。 従ってすぐにはなれないが、何世代もかけて夢を持って進化すれば、ワレラももっといいものになれるかも知れない、もっとわるくなるかも知れない。夢であり希望であり投資であって、必ずしも目論見通りには行かないかも知れないし、予想以上の成果があがるかも知れない。メダカがクジラになるかも知れない… 音の玉手箱
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