飯豊青皇女伝説
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 飯豊青皇女オケヲケの姉さんか妹さん(書紀)、あるいは叔母さん(古事記)に当たる人。『古事記』 (22清寧)天皇の御年、壹佰貳拾肆歳。〔已巳の年の八月九日に崩りましき。〕御陵は河内の多治比の高鸇に在り。御子、白髪大倭根子命、伊波禮の甕栗宮に坐しまして、天の下治らしめしき。此の天皇、皇后無く、亦御子も無かりき。故、御名代として白髪部を定めたまひき。故、天皇崩りましし後、天の下治らしめすべき王無かりき。是に日繼知らす王を問ふに、市邊忍齒別王の妹、忍海郎女、亦の名は飯豐王、葛城の忍海の高木の角刺宮に坐しましき。
『日本書紀』 市邊押磐皇子、蟻臣の女荑媛を娶す。遂に三の男・二の女を生めり。…
其の四を飯豊女王と曰す。亦の名は、忍海部女王。…一本に、飯豊女王を以て、億計王の上に列叙でたり。蟻臣は、葦田宿禰の子なり。 (白髪天皇=22清寧)五年の春正月に、白髪天皇崩りましぬ。
是の月に、皇太子億計王と(弘計)天皇と、位を譲りたまふ。久にして處たまはず。是に由りて、天皇の姉飯豊青皇女、忍海角刺宮に、臨朝秉政したまふ。自ら忍海飯豊青尊と稱りたまふ。富世の詞人、歌して曰はく、 倭邊に 見が欲しものは 忍海の この高城なる 角刺の宮 冬十一月に、飯豊青尊。崩りましぬ。葛城埴口丘陵に葬りまつる。 いろいろ呼び名があって、 22代清寧天皇と23代顕宗天皇との間に空白期間があり、その間の執政者だったと伝えられ、天皇に即位されていたなら、日本史上最初の女帝であったことになり、飯豊天皇(『扶桑略記』『水鏡』)と呼ぶ書もある。彼女の宮の「 『書紀』によれば、執政期間は短くわずか10ヵ月余りとなっている、清寧天皇5年11月に崩(「崩」と表記し、天皇扱いにしている)。清寧・顕宗などの実在を否定する説からは、執政期間はもっと長く数年に及ぶとの推定もある。 青海神社福井県大飯郡高浜町青郷の大飯郡式内社・青海神社の本殿のまうしろには「青皇女の禊池」がある。禊池 人皇第十七代履中天皇の御息女青海皇女(別名飯豊天皇)が青海の首の御祖神である青海神社御祭神椎根津彦命を御拝礼される時、青葉山を仰ぎ見つつこの池で禊(潔斎)をされたと伝えられています。毎年七月一日の池替神事に際し御祓を受けた人に限りこの池に入る事を許されて、年に一度の清掃を行う慣例になっております。青海神社。 案内はこれだけだが、同社には「案内栞」もあったようで、(Web上の青海神社より) 鎮座地伝承 飯豊青皇女(第十七代履中天皇の皇女。水鏡には第二十四代飯豊天皇と記載) は忍海皇女とも申し上げ、海部を御統治になり、青郷の海部(丹後地方を中心に海部があった)も、皇女の私民であり、その御名代の御料地であったと、旧事本紀並びに帝王系図に書かれております。 皇女が御名代わりとまで、御慈しみになった青の地に、その青の人々(青海の首)の御先祖の椎根津彦命をお祀りになったと伝えられていることは、無理のないことであると思われます。 しかも、その境内に禊(みそぎ)をなされた地があったと伝えられ、現在、御本殿後方の川岸に近い所の窪みの池がそれであると言い伝えられています。 古き書物には、昔の阿袁(あお)郷、現在の青郷、内浦、丹後の大浦一帯の総鎮守の宮であり、若狭・丹後の海の漁場守護神であったと当地を伝えております。又、舞鶴市の森の弥加宜(みかげ)神社(大森さん)、余保呂の神社、当社の三社は兄弟神さんだと言われ、当社も大森さんと言われております。 与保呂は私の父の里で、私は今も与保呂に住んでいる、何か縁のある所なのかも知れない。 飯豊や飯富は、大和国十市郡 青もオウと読むことがある、東京都青梅市はオウメと読む。オウは黄だろうが、当時「青」といってもどんな色なのかがわからない、今でも緑を青とも言うが、黒馬や白馬を「青馬」と呼んでいて、オイオイと頭を抱える。蒼ざめた馬に乗る者は死、このアオは血の気の失せた白だろうか。オウの発音に蒼・青の漢字を当てた場合もあるのだろう、一度漢字が当てられると、次はその漢字からアオと呼ばれるようになっていき、後世の者には何が何だかわからなくなっていく。古い地名は青と書いてあるから元々からアオだったとは限らない。一応当地の青をオウと読めば、飯豊青皇女とはオフのオウ皇女となり、古代の大氏族・多氏と深くかかわる皇女だろうと思われる。青皇女と多氏がどうつながるのかよくわからないのだが、多氏のバックアップが強かったのでなかろうか。多氏は皇別氏族、天皇家の親藩氏族である。オケヲケにしてもオの音を持っているし、亦名をオケは大石尊とオオが付く。加佐郡大内郷、凡海郷とか大浦とかオが付く所も、どこか関係あるのかも知れない。 当社の鎮座地は若狭国大飯郡で、式内社・大飯神社もある。天長2年7月10日に、遠敷郡の一部を割いて当郡が成立した。「和名抄」刊本郡部は「於保伊太」、「延喜式」神名帳は「オホヒ」「ヲホヒタ」と訓じている。大飯も何か多氏と関係するのでなかろうか。小子神社もあり、これは支族であろうか。大飯はオオイだろう、オホイタはおかしい何かの間違いと多くは見ている。しかし何もそうとは限るまい。多氏の有力支族に 若狭や丹後の海人は、だいたいは日子坐王系で和邇氏系かとみられるが、大飯郡加佐郡与謝郡あたりには多氏系海人が入っているように見える。 『日本書紀』神功皇后五年条 葛城襲津彦…新羅に
後代の史料には忍海手人の称もみえる。高宮は襲津彦の館がある所で葛城氏の根拠地。佐糜は鉄を意味するものであろう。忍海漢人・手人はもと葛城氏支配下の金工集団であったと考えられ、その管掌者が忍海氏であろうか。多氏は先端金属生産技術と結びついて、大氏族となったものか。俘人は怪しいハナシで、漢人自身のハナシによれば、坂上系図に、姓氏録の文章が引用されている。「大鷦鷯天皇(仁徳)に御世に、(本郷の人民が)落を挙げて随い来れり。今の高向村主・西波多村主・平方村主・石村村主・飽波村主・危寸村主・長野村主・俾加村主・茅沼山村主・高宮村主・大石村主・飛鳥村主・西大友村主・長田村主・錦部村主・田村村主・忍海村主・佐味村主・桑原村主・白鳥村主・額田村主・牟佐村主・甲賀村主・鞍作村主・播磨村主・漢人村主・今来村主・石寸村主・金作村主・尾張吹角村主等これそれ後なり。時に阿智王、奏して今来郡を建つ。後に改めて高市郡と号す。しかるに人衆巨多にして居地隘狭なり。更に諸国に分置す。摂津・参河・近江・播磨・阿波等の漢人村主これなり。」 四邑どころのハナシではなく、十のうち九で、漢人で溢れているようなことである。襲津彦自身も「ソの彦」というのだから、漢人ではなかろうか。 その葛城氏を外戚に持つ河内王朝であり、巨大な陵墓群も彼らあってのことであろうか。市辺押磐皇子は、下の顕宗紀にあるように狹狭城山君が乳母。オケヲケや忍海飯豊青皇女などは、乳母が多氏であり、その扶養氏族名を名乗ったのでものあろうか。 市辺押磐皇子履中天皇の皇子でオケヲケの父。母は黒比売(須津彦神社にも祀られる)。市辺は地名で、京都府城陽市に市野辺がある、あるいは大和国山辺郡に、式内社の石上市神社(天理市)があり、その辺りを領していたものか。市辺忍歯別王、市辺之押歯王、市辺王、磐坂市辺押羽皇子、市辺押磐皇子、磐坂皇子とも、播磨風土記には市辺天皇命ともある。おほし歯で、この王の歯が美しいの意と言うが、多氏と関係する名かも知れない、磐は金属と関係するものか。安康天皇・雄略天皇とは従兄弟に当たる。皇位継承者として、安康に押され有力視されていたが、雄略天皇に恨まれ近江久多綿の蚊屋野で殺された。天皇即位説もある。オケが顕宗天皇として即位し、父の骨を探し求めたところ、近江国の老婆が骨を埋めた所を教えてくれた。民を使って蚊屋野の東山に御陵をつくって、埋葬したという。 この時、皇子と仲子の遺骨が頭骨を除いて区別出来なかったため、相似せた2つの陵を造ったとされる。 (顕宗紀) 二月の戊戌の朔壬寅に、詔して曰はく、「先王、
是の月に、 滋賀県東近江市 「市辺押磐皇子の陵墓」 「市辺押磐皇子の陵墓」 両墳とも市辺押磐皇子の陵墓とするには、築造年代が合わないようである。狹狭城山君一族の後世の古墳であろうか。狹狭城山君氏は後の武家・近江佐々木氏の源流ともいう。 挙原の皇子塚福井県大飯郡おおい町名田庄村挙原は揚水発電のダム建設予定地となり、廃村になった。その後、揚水ダム計画は中止となっている。 人家のある虫鹿野から久田川沿いの県道をクネクネとさかのぼる、直線距離にすれば、3㎞くらいだろうか、実際はその倍はある、対向車があれば避けられない細い道である。このままどんどんさかのぼって東の山稜を越えれば、滋賀県高島郡朽木村であるが、路があるのかは不明。 もうまったくの廃村で猫の子もいない。塚はどこにあるのか、写真で言えば、道路の右手の山中のようだが、案内なくしてはたどりつけそうにもない。 本居宣長は、古事記傳第四十三卷に 近江の久多の蚊屋野はこの地(挙原)のことにて市邊押盤王の御陵なりと云々 伴信友は、萱野考に 市邉押盤王の亊を述べその歌に『そのかみを思へはかなしひさかきの茂る萱野の奥のおくつき』と云々 とあるという。 実際はどうなのかわからないが、オケヲケの父が眠るという塚と伝わる。 より詳しくは「皇子塚」 『新わかさ探訪』(写真も) 挙原の皇子塚 若狭のふれあい第49号掲載(昭和63年1月9日発行)
山深い廃村に眠る 三ツ峰の皇子さま おおい町名田庄でも最も山奥に位置し、今は廃村となった集落に、履中天皇(5世紀前半、大和朝廷の天皇)の皇子市辺押磐皇子の墓と伝えられる皇子塚があります。 名田庄中心部の久坂地区から東へ向かい、南川の支流久田川沿いの道を10㎞ほどさかのぼったところに、挙原集落跡があります。昭和20年代まで4軒の家がありましたが、次々と離村し、最後までただ一軒で10年間とどよっていた中元三蔵さんの家も、昭和48年に下流の挙野地区に移り、廃屋は雪でつぶれて、今では人が暮らした形跡もはとんどありません。 皇子塚は、この挙原集落跡の西側、一段高い丘陵地(左右の谷を外濠とした前方後円の陵墓)にあります。林立する巨木に守られるように長方形の石積みがあり、その中央に「空風火水地」の文字を刻んだ小さな石柱が立ち、石積みの斜め後ろには祠がまつられています。 日本書紀によると、5世紀後半、市辺押磬皇子が大泊瀬皇手(専制君主として伝えられる、のちの雄略天皇)から狩に誘われ、「久田綿の蚊屋野」で謀殺されます。その死から約30年後、押磐皇子の子顕宗天皇が父の御骨を探し出して陵をつくったとされています。 この「久田綿の蚊屋野」は、「久田のあたりの萱が生い茂る所」というような解釈がされていますが、それが久田川の挙原で、皇子塚がその陵なのかどうか、史実として確定しているわけではありません。残念ながら皇子塚の由来は定かではなく、発掘調査も未実施です。 一方、滋賀県東近江市にあるものが、市辺押磐皇子陵として宮内庁の指定を受けているほか、いくつかの説があり、江戸後期の国学者本居宣長や伴信友をはじめ、古くからさまざまな考証がなされてきましたが、いまだ市辺押磐皇子の墳墓を確定するには至っていないようです。 挙原の人々は、皇手塚を大切に守り続け、毎年2回、皇子塚講を開いて石塔の前に餅を供え、「みつむね(三ッ峰)の皇子さま」と唱えてお参りしてきました。これは、近江から三国岳(三ッ峰)を越えてきた皇子を、そう呼んだのだと解釈することができます。中元家では、「ご先祖さまのように思っておまつりしてきた」といい、また昔、塚の石をいじって祟りを受けた者があると伝え、手供にも手を触れさせないようにしてきました。 市辺押磐皇子かどうかは未確定ですが、永い年月を大切に守り継がれてきた皇子塚の主は、人家の絶えた山あいで、森の緑に包まれて、おだやに眠り続けています。 音の玉手箱
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