鳥取①
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 丹後の鳥取丹後国竹野郡鳥取郷 今の京都府京丹後市弥栄町鳥取がその遺称。 鳥取は古い氏族で、 藤原宮跡出土木簡に「旦波国竹野評鳥取里大贄布奈」とある。 「木簡庫」 平城宮跡出土木簡に「丹後国竹野郡鳥取郷鳥[ 」(平城宮跡出土木簡2-2205)、 「木簡庫」 また正倉院古裂の銘文に「丹後国竹野郡鳥取郷深田里戸車部鯨調絁壹匹 長六丈 天平十一年十月」とある。当地には「 「X線分析によるデータ-正倉院」105P. しかし、その鳥取氏は「鳥を取る」氏族だろうか?その漢字名のとおりに古くは白鳥を取る氏族と考えられてきたのだが、鳥も取ったのかも知れないが、(白鳥(鵠・鴻ノ鳥)は彼らの尊崇する神だから取ったりはしないと思われる、仮に取っても何も価値がないようにも思われる)、それだけではないように考えられるのである。絁を織っていたのは確かだが、金属と関わりがありそうに見られている。丹後で鉄を作ったという文献史料記録は何もないが、ここにはとんでもない製鉄遺跡がある。 鳥取の遠處製鉄遺跡 茗荷谷という小さな谷の一番奥にある鍜冶工房跡↑ その推定復元図↑ 谷の北側にある炭を作った窯の跡↑ 案内板に 京都府指定文化財・遠處遺跡群鍛冶工房跡
この時代のこうした一貫した「製鉄コンビナート」は、大和にはなく、大和側の文献史料にもまったくその存在が見られない、となると大和とは独立した「丹後王国」があったのではないかと、見る向きもある。(河内や近江にはある)この谷からは、製鉄炉・鍛冶炉・炭窯・須恵器窯・竪穴式住居・掘立建物跡などが検出されており、5世紀末頃から13世紀頃まて長期間にわたり利用されています。 古墳時代後期(6世紀後半)と思われる鍛冶も確認されていますが、奈良時代後半(8世紀後半)においては原料(砂鉄)-製鉄-精練-鍛練-製品までの一貫した生産体制てあったことが明かとなっています。鉄生産の各工程を知ることのてきる遺跡は非常にめずらしいものてす。 鍛冶炉付近からは、小割にした刀や研ぎ減りした刀子なども出土しており、使用された鉄製品を再溶解し、新たな鉄器を作っていたことも考えられます。この谷での鉄製産は、一時最盛期をむかえたようで丘陵斜面にまて鍛冶炉を築いており、その鍛冶炉の壁は修復してまで使用されていました。 鍛冶炉を取り囲むようにかなり大きな柱穴があり、丘陵裾部のわずかな平地には密集して数棟の工房が立っていたと考えられます。 また、生産の場か生活の場てもあったようで、工房建物周辺の平坦地には多くの建物が検出され当時使用された土器・木器・石器・金属器や食べた物などが多量に出土しています。 京丹後市教育委員会 鉄と鳥取との関係。 門脇禎二氏はこのシンポジウムj(1990)で述べられている。 じつは先般NHKの鳥取放送局から『古代、鳥取氏の謎』というのを西日本向けに放送いたした時です。遠所のすぐ近く、この弥栄町にも鳥取というところがございます。ところが、「鳥取部」を研究なさっている帝塚山短期大学の山本昭先生がいらっしやいまして、その先生、あるいは民族学者の谷川健一先生、そういう人の考えの中に、「鳥取部」というけれども、これはたしかに白鳥を追っかけてつかまえる、そして養う……、こういうんだけれども、じつはそのもう一つ前の役目は最初から鳥だけではないのであって、どうも金属を、すぐれた金属生屋あるいは製鉄技術をさがす、そういう役目を持っていた人々ではなかろうか。当然それを発見できる技術ですね、それが「鳥取部」とされた人びとではなかったか、ということです。そういうことを知ると、なる程、鳥取という地名なり、「鳥取部」の人々がいたところの近くにははとんど製鉄遺跡がある。こういう事実がある。その中で、私はこの遠所遺跡の存在を知ったわけであります。
鳥取氏はその祖を 早尾神社(弥栄町吉沢)…祭神は宇賀能魂神となっている。境内に小金神社があり、金山彦神を祀る。各地の早尾神社は天湯河板挙を祀っており、当社も元々はそうでなかったかと見られる。当社は竹野郡鳥取郷の中心であったのでなかろうか。 早尾神社(丹後町間人)…祭神は倉稲魂神 早尾神社(網野神社の境内社)…祭神は天湯河板挙命 早尾神社(網野町掛津)…祭神は天湯川板挙命 早尾神社(網野町小浜の八幡神社の境内社)…祭神は天湯川板挙神 早尾神社(網野町浅茂川の日吉神社の境内社)…祭神は天湯河板挙命 早尾神社(網野町島溝川の春日神社の境内社)…祭神は天湯川板挙命 早尾神社(網野町郷大宇賀神社の合祀社)祭神は天湯川板挙命 早尾神社(久美浜町湊宮)…祭神は素盞鳴命、猿田彦命 早尾神社(久美浜町栃谷・山木神社の境内社)…祭神は猿田彦命 久久比神社(豊岡市下ノ宮)…祭神は天湯河桁挙命 中島神社(豊岡市森尾)…相殿に天湯川田奈命 和奈見神社(八鹿町下網場)…祭神は天湯河桁命 鳥取城(久美浜町浦明) 京都府京丹後市弥栄町鳥取にも鳥取城跡があるが、同名の城が久美浜町にもある。 『熊野郡誌』 鳥取城は字浦明に在り。一色家部下諸将の一人にして天正年間落城せり。
当地の小字に、鳥取、鳥取坂がある。鳥取城址。大字浦明小字鳥取に在り、通称城といひ、長良より日光寺峠に達する間道の右側丘陵にして、数段の階段を有し、山上は平坦にして一反歩に余り、眺望絶佳にして内外の海を下瞰し多数の松茸を産す、されば近来茸狩の遊覧客多し。山上には一面土塀を有し城砦の俤を語る。城主は栗田内膳正にして、一色家部下諸将の一人なりしが、天正年代細川氏の臣松井康之の為に落城せるものの如し。 「丹後鳥取城」 浦明は、「日本書紀」雄略天皇23年条に「丹波国浦掛水門」とみえる地に比定する説がある。雄略紀の最後、雄略天皇が亡くなってからの話であるが、 是の時に、征新羅将軍吉備臣尾代、行きて吉備国に至り、家を過きる。後に率ゐたる
船人、 道に闘ふや 尾代の子 母にこそ 聞えずあらめ 国には 聞えてな といふ。 浦掛水門を浦明あるいは掛津とする説がある。 「裟婆水門」は、岩波の古典文学大系本の注には、「備後国沼隈郡佐波村・山波村。今、広島県松永市の一部の海岸か。向島との間の尾道水道の東側。周防の娑婆では吉備から遠すぎる。」とある。 この「蝦夷」はどうした者たちなのか、同書の注には、「蝦夷は大化前代、佐伯部に編成され、天皇の親衛軍を形成したらしい。類史、大同元年平月条には夷俘を防人にしたことが見えるが、海外派遣の例はない。」とある。 佐伯は大伴氏の支族ともいわれる軍事の集団であろうが、蝦夷とあるので、兵士の出自はそこであろうか。それがなぜ丹後へ逃げてきたのであろう。たまたま当地へ逃げてきたものか、あるいは何かアテがあってのことであろうか。あるいは仲間がいたのであろうか。 各地の鳥取鳥取②へ 音の玉手箱
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