丹後の地名プラス

そら知らなんだ

伝統的郷土芸能④
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -68-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
シリーズ


帰化人と渡来人
志楽と阿良須
真倉と十倉
笶原神社
九社神社と加佐(笠)
枯木浦と九景浦
女布
爾保崎
丹生
三宅
日子坐王と陸耳御笠
麻呂子親王の鬼退治と七仏薬師
源頼光と酒顛童子
元伊勢内宮と元伊勢外宮
丹後国神名帳(加佐郡編)
丹後国郷名帳
丹後国神名帳(与謝郡編)
丹後国の5郡
丹後国神名帳(丹波郡編)
丹後国神名帳(竹野郡編)
丹後国神名帳(熊野郡編)
天橋立伝説
浦島伝説
羽衣伝説
竹野媛と丹波大縣
日葉酢媛と朝廷別命
徐福伝説
シンデレラ伝説
安壽姫伝説
古代の土器製塩(若狭・丹後)
億計・弘計二王子伝説
飯豊青皇女・市辺押歯皇子伝説
冠島と沓島
幻の凡海郷
母なる由良川
由良川舟運
由良川の水害
由良川の村々と社
福知山20聯隊の最後①
福知山20聯隊の最後②
加佐郡は新羅郡
与謝郡は新羅郡
田邊・田造郷①
田邊・田造郷②
拝師(速石)郷(丹後国与謝郡)①
拝師(速石)郷(丹後国与謝郡)②
民族大移動の跡か!?
鳥取①
鳥取②
幻の倭文
伊吹①
伊吹②
息長①
息長②
奥丹後大震災①
奥丹後大震災②
丹後のオニ伝説①
丹後のオニ伝説②
大蛇伝説①
大蛇伝説②
火祭①
火祭②
福知山二十聯隊の最後③レイテ戦と二十聯隊の全滅
福知山聯隊の最後④インパール作戦と15師団
伝承郷土芸能①
伝承郷土芸能②
伝承郷土芸能③
伝承郷土芸能④
伝承郷土芸能⑤
伝承郷土芸能⑥
産屋
子供組
村の年齢集団-小中学校
村の年齢集団-青年団
舞鶴の古墳①
舞鶴の古墳②
日本海側の古墳
蛭子山古墳
網野銚子山古墳
神明山古墳
丹後の弥生期-日吉ヶ丘遺跡 他
扇谷遺跡、途中ヶ丘遺跡
大風呂南墳墓と赤坂今井墳墓
奈具岡遺跡
函石浜遺跡
平遺跡







少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上、生物の寿命上、言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

田遊び

綾部八幡神社の御田植祭(4/8)
田遊びは、その年の稲の豊作を予祝する神事芸能とされる。多くは正月に、社寺の境内などで田打ちから収穫に至る一連の農作業を模擬的に演じ、地方により、御田 (おんだ) ・御田祭り・御田植え祭りなどとも呼ばれる。






『丹波志』
八幡宮     綾部井倉村
…往古ヨリ四月三日八幡ノ神前ニテ田植ノ祭礼 植田十二通 スキクワマクワ 牛神主巫女装束有 苗代ヨリ植付迄ノ諸礼言バノ諸礼多シ 正面神主半左ヱ門二ノ宮伝左ヱ門神主 田植畢テ鳥居外石塔ヨリ囃シ八幡ノ宝前ニ参ル
 但シ其囃シウタハ此所ノ沙門福カ出来夕リ ケニモソウヨノマヨケニモメデタイナ トウタヒ囃シ立納ムト云
神宮寺村ニ神主四方半左ヱ門 綾部地頭始ヨリ代々六代目 株内三軒百姓也 巫女ハ井倉ノ内宮社(ミヤシロ)ニ有 元ハ若州ヨリ呼テ置 二株四軒アリ井倉巫女ト云 …綾部郷惣社ナリ

福井県大飯郡高浜町・佐伎治神社の「お田植え」



(籠神社の古代赤米御田植神事)

(『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』より)

久美浜町市野々・天満神社の菖蒲田植え



田楽(でんがく)のいくつか


『京都の田楽調査報告』(府教委)
田楽は古代末期から中世にかけてひろく行われた芸能である。中世には猿楽とならび芸能文化の主流をかたちづくったものである。しかしそれは、能を飛躍させた猿楽におされてしだいに衰退し、中世末期には歴史の表舞台からその姿を消してしまう。ひとときは猿楽をしのぎ、能の形成にも大きな役割をはたした田楽はこうして過去のものとなったが、田楽が全く失われたわけではなかった。それは民俗にとどまり、民俗芸能としてその命脈を伝えていたのである。
 民俗芸能として伝承される田楽は、いま知られるかぎり、全国でなお六○余カ所に達している。田楽躍の名残りをとどめるもの、近代に廃絶に帰したものをふくめればその数はさらにふえるであろう。それらは田楽がいかにひろく流布したかをしめすとともに、中世に人々の心をとらえた田楽の姿をいまに伝えるのである。
 いうまでもなく田楽は無形の文化財である。無形の文化財は人の身体を介して表現され、表現されると同時に消える宿命をおびている。したがってひとたび伝承が絶えると、それはまるごと失われてしまうわけて、とくに芸態といったものの把握はまったく困難にならざるをえないのてある。そのような失われた過去を現在に息づかせるのが民俗芸能である。民俗芸能を評して〃生きた化石〃ともいわれるのはその意味であり、またそこに、民俗芸能が文化財としてもつかけがえのなし価値も見いだされるのである。
田楽は田植にかかわる〃楽〃を直接の母胎として発展した芸能である。
 ひろく農耕にさいし歌舞を奏することは古くからのならわしとされるが、一○世紀のころから、田植を囃す楽として田楽がその姿をあらわした。『栄華物語』(巻第十九)には、治安三年(一○二三)五月に行われたという秣田の田植のさまが描かれ、そのなかに、
 又田楽といひて、怪しきやうなる鼓腰に結ひつけて笛吹き、ささらといふ物突き、さまざまの舞して、あやしの男ども歌うたひ、心地よげに誇りて十人ばかりゆく。
とみえ、田に行きついては、田楽を奏し挿秧作業を囃したとある。この田植は藤原道長が経営させた大がかりなもので、揃いの衣裳もあでやかな早乙女をはじめ、田人や昼飯持、あるいはわざとしどけない支度の田主や嫗も出る華やかな集団田植であり、田楽はその一パートにすぎなかった。それでも田楽は、すでに「十人ばかり」の編成で、  笛鼓(腰鼓) ササラをもって構成する一団の芸能となっていたのであり、内容的にもととのえられつつあったとみられよう。平安貴族による田植の遊興化とその流行が、こうした動きを大きくうながしたのであった。この田植じたいも、そのような遊興の田植にほかならないが、そこで田植がいちだんと風流的色彩をおびたことも忘れてはならないところである。
 田囃子としての田楽はこうして、遊興の田植を舞台にしだいに発展し、条件によっては、田植から離れても自立しうるような形態をもつにいたった。同時代の「今昔物語」(巻第二十八)には〃堂供養の楽〃に用いられる田楽が描かれていたが、その田楽は、
  笛鼓(腰鼓) ササラ 高拍子 (えぶり)
といった楽器をもつ、一○余人の「田楽ノ奴原」が囃しつつ行進し、立ちどまっては踊り奏でるものであった。高拍子という楽器の実態は定かでないけれども、朳は代ならしの農具であり、それが持ち出されたところに、この田楽がやはり田植にかかわるものであったことを示している。これは、近江国矢馳の郡司が堂供養に際して催した田楽とされる。それが書き留められたのは、堂供養の導師に招かれた叡山西塔の僧教円が、たまたま、楽(舞楽)があれば功徳が増すがともらしたのを、楽とはすなわち田楽と郡司が理解したとりちがえのおかしさによる。たんなる説話といってしまえばそれまでだが、楽といえば田楽のほかには思いうかべぬ田舎人の大らかさのうちに、地方にふかく根づく田楽のさまがよくしのばれる。そして、それとともにその田楽が笛、腰鼓、ササラを基本構成とする平安京の田楽とあい通じるものであったことが知られるのである。しかしここでいっそう大切なことは、この田楽が〃堂供養の楽〃として用いられていることであった。つまりそれは、田植という時、田という場所から切り離されても、一つの〃楽〃となって田楽が通用することを意味するのである。やがて京洛を席巻する風流田楽はまさにそうした田楽であり、そのなかで、田楽は諸寺社の祭礼と結び、田囃子から飛躍してゆくのである。
 教円は自分をおしつつむように囃したてる田楽衆をみて、「今日ハ此ノ郷ノ御霊会ニヤ有ラム」といぶかっている。平安京における御霊会には、このころこうした田楽がつきものであったことを物語る。そのもっとも著しいものが永長の大田楽にほかならない。
 永長元年(一〇九六)の夏、平安京の街に満ちあふれた田楽流行を、世に永長の大田楽という。大江匡房は『洛陽田楽記』にその狂態を述べ、藤原宗忠は『中右記』に日を逐ってその様相を記している。それは民間におこりついに公卿殿上人をもまき込んで、「一城の人、みな狂へるが如し。けだし霊狐の所為なり」と評されるに至ったが、御霊信仰に胚胎する宗教的狂熱というほかにないものであった。『中右記』七月一三日条によれば、「去五月より近日に及び、天下貴賤、毎日田楽を作す。或は石清水・賀茂に参り、或は松尾・祇園に参る」とあり、 『古事談』には「日々夜々、在々所々、諸院、諸宮、大殿、関白、蔵人所巳下、郷々村々の田楽、或は貴所に召され、或は神社に参詣す」とみえる。人々は「鼓笛」の声も高らかに京洛を練り歩いたのであり、そこには近郊の村々をもふくむ平安京の住人がひろくとらえられていたのであった。
 このような田楽の狂態は、もとよりこれが初めではない。二年前の寛治八年(一〇九四)五月にも、小納言源家俊が青侍一〇余人をひきいて田楽をつくり京中を横行し「百鬼夜行」と噂されている(小右記)。このとき彼らは「あるいは裸形を以って、あるいは烏帽子を放ちて」という異装の風流をみせてもいる。これは永長度にも「或は裸形、腰に紅衣を巻き、或は放髻、頂に田笠を載す」とあり、狂態の一表現であったが、それとともに、錦繍を裁って衣服とし金銀をもってそれを飾るといった華麗なる装いがいま一つある。この華麗奇抜な行粧、すなわち風流がこれら田楽の大きな特色であり、それは風流田楽といってよいのである。
 ほんらい農村にあって田植に付随した田囃子としての田楽は、ここに風流田楽となって自立する。その芸態は、集団により時によってまちまちであり、斉一されたものではあるまい。しかし、田園の面影を色濃く宿すものであったことも事実である。
  『洛陽田楽記』は、田楽に、
 高足 一足 腰鼓 振鼓 銅鈸子 編木(びんささら)
があり、「殖女・舂女」の類も出たといい、『中右記』(七月一二日条)は田主こそ田楽の花だといった意味のことを述べている。舂女は昼飯持にあたるであろうが、早乙女といい田主といい、その風姿はそのままかの秣田の田植に重なるであろう。田から街頭に立ち現われた田囃子が、風流田楽の主体をなしたことがそこに認められるのである。このことは、何であれ身近な楽舞が風流として噴き出したということを意味する。村々において身近なものが田囃子であり、都人にあってはそれに加えて都市的な散楽(猿楽)その他の巷間芸であった。高足・一足はすなわち散楽雑芸であり、ビンザサラはその系統の楽器であったし、 「陵王」や「抜頭」等の舞楽もそこには登場したのである。“大田楽”はかくして農村的な田囃子と都市的な楽舞をつきまぜる舞台であったといえよう。
 村々の風流田楽については具体的な記述を欠く。しかし、都市的な散楽雑芸をふくむものとして、殿上人等の風流田楽が知られる。さきの田主につづけて諸役をあげる『中右記』によれば、その構成は、田主一のほか、
 笛二 懸鼓九 小鼓七 銅鈸子三 ササラ八
 一足二(懸鼓兼役) 二足二(ササラ兼役)
とみえるのである。ビンザサラを「佐々良」と書く例は後代にもあり、『洛陽田楽記』にてらしてここにいうササラはビンザサラ(編木)である可能性が高いが、ともあれここには、田園の田囃子と都市の散楽雑芸が結あい、新しい田楽への展望をひらきつつあったことが示されるのである。それをになうのはいうまでもなく田楽法師であり、それはすでに活動をはじめていたと想定される。
 寛治八年(一〇九四)八月、京極寺の祭礼に田楽・獅子が出、鼓笛の喧騒に雑人が群がったとみえる(小右記)。これは田楽法師の所演とみてよかろうが、「田楽法師」が史料にあらわれるのは大治四年(一一二九)にくだる。
 風流田楽は永長の後も、祇園御霊会をめぐり嘉承元年(一一〇六)、大治二(一一二七)~四年というふうに流行をくり返したが、それらと並行しながら風流の田植が盛行した。耕作興・田種興・種田興などとよばれたものである。それは田植の季節に集中し、遊興のための田植もあったとみられるけれども、その多くはそうした田植を模演するものであった。いうならそれは芸能化された田植なのである。田楽法師はそこにまず姿をあらわしたのであった。
  『長秋記』によると、大治四年五月、八条殿に「種田事」があり、「田楽者」と「田楽法師」がそれにかかわった。田楽者は、笛・懸鼓・ササラ・指(机?)をもち唱歌して早乙女を囃す一団であり、田楽法師はそれとは別に当色を着したI〇余人が群舞するものであったという。田楽者のそれを「種田楽」と書き分けているところからみて、田楽法師の楽舞を「田楽」として区別しはじめたことを示すとともに、その「田楽」が新しい楽舞として形をととのえてきたことをうかがわせるのである。
 田囃子としての田楽はこうして、風流田楽に転じ、それはさらに田楽法師の専業芸(以下職田楽という)となったのである。風流の田植はそのような職田楽を育てる主要な舞台にほかならなかったのであり、風流田楽が拓いた祭礼芸能への進出とあいまって、田楽座の形成を導くのである。
 田楽座の形成については、林屋辰三郎氏の『中世芸能史の研究』にすぐれた論究があり、詳述は省略するが、…


紫宸殿田楽(上野条・御勝八幡神社)


中央の二人が持つ薄い太鼓はシテテンと呼ばれる。ほかの者がもっているはビンザサラという。


からす田楽(樫原の川上神社)


野中の田楽(弥栄町野中・大宮神社)


船木の踊子(弥栄町奈具神社)

左の小さい子が持っているのがササラ

黒部の踊子(弥栄町深田部神社)



ヒヤソ踊り(綾部市高倉神社)


河辺八幡神社の田楽系とされる神事(太鼓の厚み、モドキ、面や装束、違いがあり、若狭から伝わった王の舞ではないかも、別系統の風流田楽系かも…)

(『心のふるさと丹後Ⅰ』より)

若狭三方郡宇波西神社の王の舞(王を取りにくる者もいるため、警護が厳重)

河辺八幡 風流田楽踊り?


綾部市島万神社


綾部市於与岐八幡神社


田楽といっても、今ではだいたいは似てはいるが、郷土ごとにお互いに異なり、何が田楽なのかわかりにくい。
:現在にまで伝承されている田楽とは(過去にあった田楽)、広義には稲作に関する芸能の総称として用いられ、狭義には田楽躍(おどり)を本芸とする職業芸能者が演じる芸能をいい、また田植の囃しや田楽躍に用いる太鼓を称する場合もある。
以下、辞書によれば、
広義の田楽は、(1)田植を囃す楽、(2)職業芸能者である田楽法師による芸能、(3)風流(ふりゆう)田楽の三つに分けてとらえられるが、日本の民俗芸能分類の用語としての田楽には、予祝の田遊(たあそび)やその派生芸能を含めることが多い。
[田植を囃す楽]  稲作の諸工程のうち、田植に囃しや歌を奏するのは日本固有の儀礼ではなく、広く照葉樹林文化圏の特色であったらしい。『類聚国史』貞観8年(866)閏3月1日条の清和天皇行幸の記事に〈覧耕田、農夫田婦雑楽皆作〉とあるのや、『栄華物語』御裳着(みもぎ)巻に1023年(治安3)5月のこととして見える情景がそれである。藤原道長が土御門殿で大宮藤原彰子のために催したこのおりの田植では、〈でむがく〉と呼ぶ腰太鼓、鼓、笛、すりささらなどで囃し、田植歌がうたわれている。また田主(たあるじ)と称する翁(おきな)が、破れ大傘をさし、斑(まだら)化粧をした女とかまけ技(わざ)を見せている。都近くではすでにこのころには田植行事が観賞の対象とされ、芸能化しているが、もともとは信仰を背景とした民俗行事であったはずである。『長秋記』大治4年(1129)5月10日条に記される田植では、田主を専門の猿楽芸能者である弘延(こうえん)がつとめたのをはじめ、苗を植える早乙女が20人、それに懸鼓、佐々良(ささら)、笛などの囃し方を田楽者と呼んで、その華やかなようすを記しているが、別に職業芸能者の田楽法師の一団も参加しており、貴族御覧の田植が一段と芸能化していたことが知られる。このようなにぎやかな田植行事は、その後神社の神田などを植える神事として各地に伝承されるが、その代表的なものが大阪市住吉大社の御田植神事(現在6月14日)で、近世まで専業の猿楽者・田楽者が参勤して、田の畦(あぜ)を舞台に芸能を演じていた。一方、一般の田植でも民俗信仰行事として田植を囃すことは各地に伝えられた。とくに中国地方の山間部や、四国の一部では近年まで盛んに行われ、囃子田(はやしだ)、田植囃子、花田植などの名で知られる。現在も広島県西部や島根県の山間部では民俗芸能として伝承されている。
[田楽法師による芸能]  社寺の祭礼などに、田楽躍を中心に奉納芸能を演じた芸能者集団は、法師形をしていたことから、田楽法師の名で呼ばれた。びんざさら(編木)・腰太鼓を打ちつつ躍る者各4、5人を中心に、花笠で飾った笛役、鼓、銅乳子(どびようし)などの奏者を加えた十数名が一座を成す。ささら、太鼓、鼓、笛などの構成楽器が田植を囃す楽と一見同じに見えるところから、(2)を(1)の芸能化したものという見解がなされたが、実態は別種の芸能で、びんざさらが数十枚の木片を並べて上部をひもで固定し、両手で打ち合わせて独自の音を出すのに対し、ささらは鋸歯状の刻み目を入れた棒(ささらこ)を、竹の先をはけ状に割ったささら竹でこすって音を出す。太鼓も締太鼓であることは共通するが、田植の太鼓は胴が厚く、田楽躍のものは胴が薄い独自の形態をもつ。芸態も別種で、田楽躍が躍り手が楽器を奏しつつ互いに位置を替え、軽快に動く変化の面白さを主眼とした大陸系のシンメトリックな動きを特色とするのに対し、田植を囃す楽は歌謡をともない、一種の伴奏楽で動きも少ない。両者の発生は別系統と思われる。なお田楽躍には高足(たかあし)、刀玉(かたなだま)、弄丸(ろうがん)など習練を必要とする大陸伝来の散楽(さんがく)系曲技が加わるのも特色である。この専業者による田楽が文献に見える最初は、文書に疑問はあるが922年(延喜22)の〈和泉国大鳥大明神五社流記帳〉(《平安遺文》)で、十烈(とおつら)や細男(せいのお)とともに祭礼芸能として記されている。また『日本紀略』長保元年(999)4月10日条には、京都松尾社の祭礼に山崎の津人による田楽が恒例として演じられ、このとき大がかりな喧嘩のあったことが記されている。淀川河原の山崎津(やまさきのつ)は、芸能者などの集まる散所(さんじよ)の一つといわれ、この田楽は専業芸能者の所演であったと思われる。当時、祭礼奉仕の職業芸能者は座を結成して社寺への勤仕権を確保するのが通例であったが、田楽においても同様で、平安時代末期には複数の田楽座が結成されていた。本(ほん)座を称した京都白河(川)田楽、新(しん)座を称した奈良田楽や弥座などの名が史料に散見するが、ほかにも群小の座があったに違いない。京都の梢園御霊会(ごりようえ)、宇治の離宮祭(宇治神社)、奈良春日若宮御祭(おんまつり)をはじめ、延暦寺、園城寺、東大寺など大社寺の祭礼にはかならず田楽座が出勤している。田楽の座衆が法師形をなしていた初見は、前述の『長秋記』の田植御覧の記事で〈田楽法師等十余人〉とある。
 田楽躍の芸態は、まず演者の一人一人が担当楽器を持って中央に進み、独演してみせる《中門口(ちゆうもんぐち)》にはじまり、続いて全員の惣田楽に移る。惣田楽は動きの変化により多くの曲目があったらしく、弘長2年(1262)4月1日付の〈陸奥中尊毛越両寺座主下知状写〉(『鎌倉遺文』)には、《道行》《三曲》《三草》《三多衆利》《鳥飢》《獅子飢》《三足遍》《一足双》《具郎舞》《密越沢》《越身頻》《竹林堂》《大舞》《小舞》《順之輪》《清地》《六方四角舞》《浮深楽》《万物気神楽》《感応楽》《延命楽》の21曲の曲名を挙げている。また現在伝承されている田楽躍のうち、最も古形が残ると思われる和歌山県那智勝浦町那智大社の那智田楽躍では、《乱声》《鋸歯》《八拍子》《遶道》《二拍子》《三拍子》《本座駒引》《新座駒引》《拍板の舞》《太鼓起こす》《撥下(ばちさげ)》《肩組む》《タラリ行道》《入り組む》《本座水車》《新座水車》《本座鹿子躍》《面の現像》《新座鹿子躍》《大足》《打居皆集会》《シテテンの舞》を伝える。とくに最後の《シテテンの舞》は鼓役の童児2人による演技で、鼓役に子どもを当て、それを四天子(してんじ)、シッテイなどと呼ぶ例は多い。田楽衆が大社寺の祭礼に出勤する場合、その費用を負担する頭(とう)役を差定(さじよう)する制度があり、奈良春日若宮の御祭などでは中世前期から盛大に行われていた。とくに祭礼前に必要な諸道具をさげ渡す行事を装束賜(しようぞくたばり)と称し、『大乗院寺社雑事記』などに詳しい記録が残る。
 田楽座の本芸とされた田楽躍や曲技の間にも、見物の笑いを誘う芸が演じられたようであるが、鎌倉時代中期以降、猿楽衆(猿楽)が能を演じて人気を得ると、田楽の座でも猿楽の能を演じた。これが田楽能と呼ばれて発展し、南北朝から室町期にかけて猿楽者と芸を競った。田楽能の名人として一忠(いつちゆう)、喜阿弥(きあみ)、増阿弥(ぞうあみ)などの名が知られるが、室町中期以降は大和猿楽の隆盛に押されて衰微した。田楽能の芸態的特色は不明な点が多い。
[風流田楽]  平安時代後期、貴族御覧の田植行事や職業的な田楽芸能者が世に迎えられると、都の貴賤がその姿をまねて練り歩くことが爆発的に流行した。当時の政情不安や、末法思想などの社会不安を背景に、1096年(永長1)を頂点として短期間流行した特殊な芸能現象である。そのようすは『中右記』や『古事談』『《洛陽田楽記』に詳しく、永長の大田楽の名でも呼ばれる。芸能者は殿上人(てんじようびと)をはじめ下級の青侍などにいたるまで、高足・一足・腰鼓・振鼓・銅乳子・編木・殖女・舂女『洛陽田楽記』)、懸鼓・小鼓・銅拍子・左々良(ささら)・笛・田主・一足・二足(『中右記』)などの姿が見える。これは田植を囃す一団と職業田楽者の姿を合わせたもので、職業田楽者も加わった田植御覧のおりの華やかさを、そのまま模倣して都大路を練り歩いたわけである。この現象はさして長くは続かず、やがて政情の安定とともに消えるが、後にも梢園御霊会などには、しろうとの田楽が参加することがあった。
[現状]  職業田楽の座は近世末期まで春日若宮の御祭に出勤して残存したほか、地方の祭礼に伝承された所も多い。前述の那智大社や春日の御祭をはじめ、岩手県平泉町毛越寺、秋田県鹿角市小豆沢大日堂(大日堂舞楽)、東京都浅草神社、長野県阿南町新野(にいの)伊豆神社(雪祭)、愛知県南設楽(みなみしたら)郡鳳来(ほうらい)町鳳来寺(鳳来寺田楽)、同北設楽郡設楽町高勝寺観音堂(田峯の田楽)、京都府福知山市御勝(みかつ)八幡宮、同弥栄町八坂神社、島根県隠岐西ノ島町美田八幡社などにいずれも形態の整った田楽躍を残すほか、全国には60余ヵ所に田楽躍が残存する。なお、静岡県水窪(みさくぼ)町西浦(にしうれ)の観音堂には田楽の名で総称される一種の修正会(しゆしようえ)が伝えられるが、この行事には田遊や田楽躍のほかに独特の芸態を残す能が〈はね能〉の名で伝承されている。

折口信夫『国文学の発生』
賎民の文學
一 海語部藝術の風化
最新しく宮廷に入った海語部の物語は、諸氏・諸国の物語をとり容れて、此を集成した。其は種類も多様で、安曇や海部に關係のない詞章も多かったことは明らかである。此語部の物語は、在来の物に比べると、曲節も、内容も副演出も遙かに進歩してゐて、藝術意識も出て来て居たらしく思はれる。朝妻ノ手人龍麻呂が雜戸を兔ぜられて、天語ノ連の姓を賜はった(続紀養老三年)のは、其藝を採用する爲であって、部曲制度の巌重な時代ではあったが、官命で轉職させて、相應した姓を與へたのである。
海部の民は、此列島國に渡来して以来、幾代とも知れぬ移居流離の生活の後、或者はやっと定住した。さうした流民團は、海部傳来の信仰を宣傳する事を本位とする者が出来て来た。海人部の上流子弟で、神祗官に召された者が、海部駈使丁であり、其が卜部にもなった事は、既に逑べた。
さうして、護詞(イハヒゴト)をほかひすることほぎの演技と、發想上の習慣とを強調して、當代の嗜好を迎へて行った。
卜部のする護詞は、平安期では祭文(サイモン)と言ひ、其表出のすべてをことほぎと稱へ替へた。そして、寺々の守護神・羅刹神の来臨する日の祭文は、後期王朝末から現れた。陰陽道の日本への渡来は古い事で、支那の方士よりも、寧、佛家の行法を藉りて居る部分が多い。宮廷の陰陽道は漢風に近くても、民間のものは、其よりも古く這入って来て、國民信仰の中に沁みついて居た。だから、神學的(?)にも、或は方式の上にも、佛家及び其系統に近づいた呪禁(ジュゴン)師の影響が沁みこんでゐる。貴僧で同時に、陰陽・呪禁に逹した者もあった。第一、佛・道二教の境界は、奈良の盛時にすら明らかでなかったのである。斎部の護詞に替った「卜部祭文」は、儒家の祭文とは別系統であって、佛家の祭文をなぞった痕が明らかである。而して、謹嚴なるべき寺々の學曹の手になる佛前の祭文にまで影響して行った。はじめは佛家の名目を學びながら、後には-名も實も-却って寺固有の祭文様式を變化させた。祭文の名は、陰陽寮と神祇官とに行はれた名である。
寺々の奴隷、或は其階級から昇った候人流の法師或は、下級の大衆なども、寺の爲のことほぎを行ふのに、宮廷の卜部に近い方式をとった。此は寺奴の中には、多くの亡命神人を含んで居たからである。さうでなくとも、家長の爲によごと・いはひ詞をまをす古来の風を寺にも移して、地主神・羅刹神に扮した異風行列で、寺の中に練り込んだのである。
室町の頃になると、藝奴と言ふべき曲舞・田樂・猿楽の徒は、大抵、寺と社と兩方を主と仰ぎ、或は數个寺・兩三社に仕へて、ことほぎを寺にも社にも行うた。更に在家の名流の保護者の家々にも行ふ様になった。平安末百年には、かうした者が完全に演藝化し、職業化して行った。
其初めに出来たのは、多く法師陰陽師の姿になって了うた唱門師(ショモジン)(寺の賎奴の聲聞身の宛て字)の徒を中心とした千秋萬歳(センズマンザイ)であった。其ことほぎを輕く見て、演藝を重く見た方の者を曲舞(クセマイ)と言ふ。寺の雅楽を、ことほぎの身ぶり・神楽のふりごとに交へて碎いたもので、正舞に對する曲舞(キヨクブ)の訓讀である。
男の曲舞では、室町に興った「幸若舞」なる一流が最榮えた。此も、叡山の寺奴の喝食の徒の出であるらしい。だから、千秋萬歳同様の演技を棄てなかった。江戸になって、幸若には、昔から舞はなかったと稱して、歌舞妓に傾いた女舞から、自ら遮断しようとした。女舞は、女曲舞とも、女幸若とも言うた。江戸の吉原町に隔離せられて住み、後には舞及び幸若詞曲に件ふ劇的舞踊を棄てゝ、太夫と稱する遊女になった。江戸の女歌舞妓の初めの人々が此である。地方の社・寺に仕へて居た者は、男を神事舞太夫、女を曲舞太夫、或は舞々(マヒマヒ)と稱して、男は神人、女房は歌舞妓狂言を専門としたのが多い。
此は、唱門師が、陰陽師となるか、修験となるかの外は、神人の形を採らねばならなくなった爲である。桃井幸若丸を元祖と稱する新曲舞も、前述の通り、やはり干秋萬歳の一流であったのだ。猿楽師になると、社寺何れを本主とするか訣らない程だ。が、此奴の色彩の濃い者で、神楽の定型を藝の基礎として居る。而も、雅楽を傳承した楽戸の末でもあった。其が、時勢に件うて、雅樂を棄てゝ、雜楽・曲舞を演じたのだ。何にしても「曲舞」の寺出自なるに封して、多くは社及び神宮寺を仰いだ一流である様である。其先輩の田楽は、明らかに、呪師(ノロンジ)の後で、呪師の占ひに絡んだ奇術や、演藝に、外来の散楽を採り込んで、神社以前から傳っだ民間の舞踊・演藝・道具・様式を多くとり込んでゐる。此は、恐らく、法師・陰陽師の別派で、元は神奴であったものであらう。さうして演藝期問も、他の者の正月・歳暮なのに封して、五月田植ゑの際に-或は正月農事始めにも-行うた「田舞(タマヒ)」の後である。此「田舞」は、散楽と演藝種目も似て居る處から、段々近よって行ったと見る方がよい。やはり、田畠のことほぎで、假装行列を條件として居る。曲舞の叙事詩を、傳来の狂言の側から採り込んで、猿楽の前型となったわけである。此外、種々の藝人皆、寺奴・社奴出自でないものはない。其藝人としての表藝には、王朝末から鎌倉へかけても、まだことほぎを立てゝゐた。即、唱門師の陰陽師配下についたわけである。此等が悉く卜部系統の者、海語部の後とは言はれないが、戸籍整理や、賦役・課税を避けたりして、寺奴となったほかひゞとの系統を襲ぐものとだけは言はれる。そして又、ほかひゞとには、卜部となった者もあり、ならない者もあったらうし、生活様式を學んだ爲に、同じ系統と看做された者もあらうが、海部や、山の神人(山人・山姥など、鬼神化して考へられた)の多がった事は事實である。
ほかひ人の一方の大きな部分は、其呪法と演藝とで、諸國に乞食の旅をする時、頭に戴いた靈笥(タマケ)に神靈を容れて歩いたらしい。其靈笥は、ほかひ(行器)-外居・ほかゐなど書くのは、平安中期からの誤り-と言はれて、一般の人の族行具となる程、彼等は流民生活を続けて居た。手に提げ、擔ぎ、或は其に腰うちがけて、祝福するのがほかひゞとの表藝であった。
二 くぐつの民
莎草(ハマスゲ)で編んだ嚢を持つたからの名だと言ふくゞつの民は、實は平安朝の學者の物好きな合理觀から、今におき、大陸・半島或は欧洲に亙る流民と一つ種族の様に見られて居る。が、私は、此ほかひゞとの中に、澤山のくゞつも交って居ることゝ思ふ。くゞつの名に、宛て字せられる傀儡子の生活と、何處迄も不思議に合うてゐる。彼等は人形を呪言の受けて即、わきとしたらしい。志賀ノ島の海部の祭りに出る者は固より、海部の本主となった八幡神のわき神も、常に偶人である。室町になって、淡路・西ノ宮の間から、突然に「人形舞」が現れて来た様に見える。が、其長い間を、海部の子孫の流民の藝能の間に潜んで来たものと見るべきである。人形は精靈の代表者であり、或は穢惡の負擔者であるから、此を平気に弄ぶまでには、長い時日を要したわけである。









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水だ 水だ 水だ うれしい!
あなたがたは喜びをもって 救いの井戸から水をくむ の旧約聖書から採られた歌詞だそう。
マイム マイム マイム マイム
ヘィ マイム ベッサッソン

マイム マイム マイム マイム
ヘィ マイム ベッサッソン
(マイムは水、ベッサッソンは喜んで、喜びをもって、喜びのうちに、といった意味とか)


ところで、水道毒物等混入罪及び同致死罪
刑法第146条 水道により公衆に供給する飲料の浄水又はその水源に毒物その他人の健康を害すべき物を混入した者は、2年以上の有期懲役に処する。よって人を死亡させた者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。

海に流せば魚が汚染されるだけではとどまらない。トリチウムは普通の水と化学的性質は変わらず、普通の海水になっているが、セシウムなどと違って、それはやがて水蒸気となって蒸発し、雨となって水源に降ってくる。放射性トリチウム入りの水道水となる、水道水だけではなく、地下に沁み込み井戸水も泉の水も、地球のすべての水がやがては汚染される。(もうすでに汚染されているが、さらにさらに汚染される)
そうしたことをすれば刑法146条により、死刑であろう。死刑は世界では停止されているので、無期の懲役がよろしかろか…
日本人は多くは海辺の民であるし、水稲の民であり、水を穢したり、その流れを壊すようなことは大罪であった。天つ罪にあたり畔放(あはなち) 溝埋(みぞうめ) 樋放(ひはなち)などの記述がある。「放射能放ち」はないが、もちろん死罪であろう。たかが電気を起こすためである、こんな危険な物質をばらまかなくとも電気は作れる。 アメリカ親分さんにガーガー言われるから、やめたくともやめられない悲しき情けなき属国事情なのだろうが、危険と知りながらIAEA茶番でゴマし、さも安全かのように大ウソをいい一国の政府ともあろうものが世に放つ、こうした事態が避けられなくのが原発である。原発のわかりきった不可避の現在と将来である。トリチウム水を普通の水を分けることはほぼムリ、取り除けないこもないかも知れないが莫大なゼニがかかる、原発とはこうしたものである、安いというのは、こうした後始末部分を計算に入れないで安いとしているだけのことである。
原発の安全神話と安価神話はダレの目からも崩れ去り、原発は幕を閉じた。.
人の70%は水であるし、水なくしては生きてはいけないものである。その水を汚すなどは知恵と誇りある人間がなすることでなかろ。やめておこう。と。
本当ならそうであるはずのものであった、我が子孫たちよ許せ

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