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そら知らなんだ

米騒動②-舞鶴(8/13)
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -108-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
シリーズ


帰化人と渡来人
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真倉と十倉
笶原神社
九社神社と加佐(笠)
枯木浦と九景浦
女布
爾保崎
丹生
三宅
日子坐王と陸耳御笠
麻呂子親王の鬼退治と七仏薬師
源頼光と酒顛童子
元伊勢内宮と元伊勢外宮
丹後国神名帳(加佐郡編)
丹後国郷名帳
丹後国神名帳(与謝郡編)
丹後国の5郡
丹後国神名帳(丹波郡編)
丹後国神名帳(竹野郡編)
丹後国神名帳(熊野郡編)
天橋立伝説
浦島伝説
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竹野媛と丹波大縣
日葉酢媛と朝廷別命
徐福伝説
シンデレラ伝説
安壽姫伝説
古代の土器製塩(若狭・丹後)
億計・弘計二王子伝説
飯豊青皇女・市辺押歯皇子伝説
冠島と沓島
幻の凡海郷
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由良川舟運
由良川の水害
由良川の村々と社
福知山20聯隊の最後①
福知山20聯隊の最後②
加佐郡は新羅郡
与謝郡は新羅郡
田邊・田造郷①
田邊・田造郷②
拝師(速石)郷(丹後国与謝郡)①
拝師(速石)郷(丹後国与謝郡)②
民族大移動の跡か!?
鳥取①
鳥取②
幻の倭文
伊吹①
伊吹②
息長①
息長②
奥丹後大震災①
奥丹後大震災②
丹後のオニ伝説①
丹後のオニ伝説②
大蛇伝説①
大蛇伝説②
火祭①
火祭②
福知山二十聯隊の最後③レイテ戦と二十聯隊の全滅
福知山聯隊の最後④インパール作戦と15師団
伝承郷土芸能①
伝承郷土芸能②
伝承郷土芸能③
伝承郷土芸能④
伝承郷土芸能⑤
伝承郷土芸能⑥
産屋
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村の年齢集団-青年団
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舞鶴の古墳②
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丹後の弥生期-日吉ヶ丘遺跡 他
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大風呂南墳墓と赤坂今井墳墓
奈具岡遺跡
函石浜遺跡
平遺跡
玉砕の島①
玉砕の島②
仏教伝来①
仏教伝来②
国分寺創建①
国分寺創建②
幻の古代寺院
丹後の古代寺院①
智恩寺と普甲寺
多禰寺と七仏薬師伝説
天橋立の誕生
古代丹後の港=丹後王国王都
天橋義塾
藩校
黒曜石
サヌカイト
杉田玄白
梅田雲浜
和泉式部・小式部内侍
与謝野晶子・与謝野鉄幹
米騒動①
米騒動②





少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上タイムリミット上言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。


舞鶴の米騒動-1918/8/13


左側の駐車場↑       余部下の本通り↑(空襲延焼対策で通りが広げられたため当時とは様子が少し違う)

舞鎮の山↓                   ここに↓酒保があった


海軍酒保のあった場所(今は駐車場)。鎮守府や長官官舎(東郷邸)のすぐ下である。帝国海軍の心臓で発生した。
夜の8時頃に発生している、みな昼間は働いているので、仕事が終わってから、皆が集まりだした。
舞鶴工廠職工さんの日当80銭、米1升50銭にも高騰していた。みな重労働で1日1升メシを喰ったとかいう、「1升50銭だと、アホぬかせ。どうやって暮らせというのだ、おエライさんよ」。酒保は少し安かったようだが、それでも35銭だという。コメの値は青天井の高騰、今は35銭でも明日は50銭、1円となろう、米1升がワシら1日の日当より高い。ナメくさって、コメが不作だったわけではなかろ、世の中狂ってくさる。
労組はないし政党もないし参政権もない、職工の道は黙って餓え死にか、怒りにまかせて行動するか。特には作戦はみな持ってはいない、とにかく集まり始めた。あとはなりゆきまかせ、さてどうなっていくか。
舞鶴の近代化と賛美するばかり何十億円とかかけてリサイクルを進めるとか、だが、そのスンバラシイ近代化は、職工さんが喰えなくなり暴動を引き起こしていた。
何物にも表と裏がある、10円玉にすら表裏がある。アホほどゼニをかけるなら、輝く表面だけしか見ずに、中二でもあるまいし、裏面もよ~くよ~く見ておくべきであろうに。わが町市民の衰退はこうした面にも見える。子供のように海軍ファンタジー幻想に酔い痴れるだけでいいのか。
これまでの近代化遺産バンザイが取り上げるたこともない歴史である。

しかし事件の資料としては、まず当の職工さんたちは何も残すわけがない、違法行為になりそうで、のちの証拠になるかも、からである、官憲が残したものに頼ることになるが、これもそうはまるっきり信用はできない、今の捏造事件をみてもわかる通り、全くの無実の者が殺人犯、死刑とされてしまうこともある、当時ならなおさらである。テレビもラジオもない、新聞だけであるが、はじめから無計画な事件だから、どこまで伝えられるか…

『大阪毎日新聞号外』(大7/8/14)↓


舞鶴
重砲兵隊出動
群衆巡査隊と衝突して派出所を破壊して暴行す

京都府下加佐郡餘部町にては十三日朝来不穏の状態あり夜に入ると共に益々険悪となりて所轄新舞鶴署にては巡査の非常招集をなし警戒しつゝありしに午後八時頃三百名の一隊現れ之に数百の群衆雷同し先づ日町警部補派出所に殺到し巡査隊と衝突し遂に同派出所を破壊したる上各所にて狂暴を逞うし警官の手にては鎮圧する能はざるより遂に重砲兵の一部出動を見るに至れり群衆は今尚騒擾を続けつゝあり(午後十一時舞鶴来電)


水兵出動
警官抜剣して禦ぐ
全市米屋悉く襲はる
群衆棍棒を揮って警官数名を傷つく

呉市にては両三日前より不穏の形勢あり警察署にて厳戒中十三日夜に入り約八百名宛二隊の群衆は東西に分れて行動し午後八時東に向ひたるものは中通り六丁目岡野白米店を破壊せるを手初めに十数軒の米屋をメチャメチャに破壊し西に向ひたるものは河原石原山外数軒の米屋をを破壊し警察の手に及ばざるより安河内知事の要求にて呉海軍より岡野大尉の指揮せる約百名の武装海兵出動し鎮撫に向へるも効なく引続き武装海兵を繰出しつゝあり而して市内約三百戸の米店は多少の被害なきものなく電車も運転不能に陥り警官中には棍棒に殴打されしもの数名ありされど警官の抜剣水兵の銃剣防禦により狂暴の群衆も放火するには至ざりしが尚睨み合ひの體なり(午後十一時来電)

まだまだ新聞報道されているが、関係が深そうなところだけである。
これらの報道が最後か。8/14、時の寺内内閣は米騒動に関する一切の新聞報道を禁止した。

あとは事件から50年も経て、書かれたものである。影響はたいへんに幅が広いので、その全てはとりあげることはない、今後の課題であろう。

舞鶴。大正7年8月13日を取り上げたものには、
『舞鶴地方史研究』(69.5)
舞鶴の米騒動について 藤田欽也
一、 はしがき
 昨年は米騒動がおこってから丁度50年をむかえた。このときにあたり、今までに分っている範囲で舞鶴の米騒動について記しておこう。今後は生存者がすぐなくなりつつあることを考えれば、米騒動50年を機会に今のところほとんどおこなわれていない生存者からのききとり調査を積極的におしすすめる必要があろう。
二、 原因
 第一次世界大戦による物価の騰貴は労働者の実質賃金を低下させ、民衆の生活を悪化させた。とくに米価の暴騰は著しく、1918年(大正7年)3月に1升20銭であった米価は、7月にはいると40銭、8月のはじめには50銭をこえるところもでてきた。舞鶴においてもほぼ同様、米価の騰貴がみられ、当時舞鶴海軍工廠で働いていた労働者約6000人のうち、加佐郡余部町(現舞鶴市余部)に住むところの約3000人は、主に同町にあった海軍工廠の酒保で米を買っていたが米価暴騰のために、予約注文していた米すら手に入らない状態になっていた。このため海軍工廠で働いていた労働者の間には不満が増大していった。1升50銭という米価は日給に直して平均80銭の海軍工廠の労働者にとってたえられないものになっていた。
 米価暴騰の根本原因は、大戦中の資本主義発展による都市人口の増大にともなう米の需要増加に対し、半封建的な寄生地主制のもとでの米の生産が追いつけないところにあった。それに加えて、大商人や一部大資本家のシベリア出兵をみこした米の買占めが、ますます米価の騰貴に拍車をかけたのである。米価暴騰で深刻な生活難におちいった民衆の不満が一挙に爆発したのか米騒動である。
三、 経過
 1918年(大正7年)7月22日、富山県の魚津町で沖仲仕などをして家計を助けていた漁村の婦人が、米の県外積出しに反対して運動をおこし、警察によって解散させられたのが全国の米騒動のはじまりである。8月2日、寺内内閣はシベリア出兵を宣言したが翌3日には同じく富山県の中新川郡西水橋町で漁村の婦人約300人か、資産家や、米商人の家にさしかけ、米の県外移出禁止と廉売を要求し、6日には滑川町にも波及して町当局に時価より5銭安の35銭で米の廉売をやらせた。7月23日から8月8日までの、騒動が富山県内にとどまっていた時期を、米騒動の第一段階とよんでいる。
 8月10日ごろから米騒動は大都市にも波及し、特に13日ごろからは地方の中小都市へもひろがった。この8月10日から8月15日までが米騒動の第二段階で、この時期に民衆の蜂起がもっとも集中しておこっている。8月10日には名古屋で市民大会が開かれ、2万人の市民が公園に集まり、そこで米価引下げを要求する労働者や学生の演説があり、京都でも同日夜、柳原の被差引部落民がまづ立上り、民衆は米商人の店におしかけて表戸をこわし、警官の斡旋で1升につき5銭の値下げを承認させ、その後各所の米屋へおしかけて「白米一升三○銭で売ります」という貼り紙を出させた。11日には大阪で約3000人の民衆か集って市民大会が開かれ、聴衆の多くはその後街頭にでて米商人のところにおしかけて、米の廉売を要求した。12日には神戸で数万の群衆がデモ行進をおこなった。外米指定商鈴木商店の元本宅が焼かれ、「神戸新聞」の三層楼も焼打ちにあった。このためここに軍隊の出動をみて、多数の検挙者を出して鎮圧された。こうして米騒動は移出とりやめや安売りの要求運動から打ちこわしへとすすんでいった。13日になると、米騒動は首都東京にも波及して、日比谷公園で市民大会が開かれ、集った群衆から騒動がおこった。13日までに福島・豊橋・岐阜・大津・富山・高岡・金沢・福井・和歌山・堺・尼崎・姫路・岡山・尾道・呉・広島・鳥取・高松・丸亀・高知をどの地方都市でもおこり、14日には浜松・岡崎・奈良・福山、15日には仙台・若松・横浜・横須賀・甲府・津・松山・門司、16日には下関・小倉、17日には新潟・長岡・長野、そうして20日ごろには佐世保・熊本などの各都市に波及している。

 さて舞鶴の場合には、第二段階にはいって地方の中小都市にも波及していった8月13日におこっている。発端は、海軍工廠の労働者およそ1000人か同日午後8時ごろ、2時間の残業を終えて工廠の西門を出ると、工廠で働く人夫の斡旋団体である「一心会」の幹事が、近くの同町警部補派出所の前で、「米屋の決議で、明日から米が1升35銭になりました。」と伝えたことからはじまった。それをきいて多くの人が集まり、そのなかには「35銭は高い。30銭以下が適当である」と演説する人もでてきて、騒々しく在り、その数も工廠の労働者だけでなく、町民も加わっておよそ3000人の集団とたった。
 当時派出所は工廠の酒保の西およそ100mのところにあったが、その前の広場に集った群衆はふたたび酒保のところへ戻って、酒保の人に米の廉売を要求した。おしかけた群衆のなかには、投石するもの、電燈をこわすもの、屋内に入って家財を投出すものもあって、ついに店のものに白米1升を20銭で廉売させる貼紙を出させた。京都市の場合でも1升を30銭にさせたのに比べれば、それよりまだ10銭も安いのは注目に値いしよう。
 その後、群衆ば二手にわかれ、一隊は北上して長浜の米などか納めてある酒保倉庫に向い、別の一隊は南下して余部町内の米屋へおしかけた。北上した群衆は途中で、海軍の衛兵50余名によって阻止されてしまった。群衆のなかには腹を立てて投石するものもあったが、それに対して衛兵らは銃に剣をつけて群衆に向ってきたので、群衆は口々にそれを避難した。とくに先頭にたっていた人のなかには「何故国民の軍隊が国民を突くのか。衛兵司令官の回答を待つ。」とするどく詰問するものもあったという。全国的にみると、米騒動の鎮圧に軍隊が出動した地域は107市町村におよび、出動人員は57000人をこえると推定されている。なかには沖の山炭鉱のあった宇部市のように、8月17日坑夫や貧民など数千人が炭鉱主の邸宅をこわし18日にはいると、出動した軍隊によって、坑夫13人が射殺されたところもあった。
 一方南下した別の一隊は、上一丁目の米屋へおしかけた。そのときには、そこの主人一家は酒保での事件をきいて、前もって隣家に難をさけていたが、群衆の左かには店に投石したり、店先の雨戸をこわしたり、丁度到着したばかりの1貨車分130俵の米の一部をもち出して、道にばらまくものもいた。彼らはさらに4軒の米屋におしかけたが、それらの店では、先手をうって「一升二○銭なり」の貼紙を店先にだしていたので、打ちこわしをまぬがれた。その後上一丁目の米屋でも、「明日より白米一升二○銭なり」の貼紙をだしたところ、夜中の12時頃早くも、この安い米を買おうとして100余名がおしよせた。そうして、そのなかの数人は「米を売れ。売らなければ、8円(米1升20銭として1俵分)をおいて米俵を持ち帰ればいいだろう。皆さん、1俵づつ持っていこう。」とくり返し大声でいった。その声におされて、店員の1人が「明朝6時から売り出す」旨の貼紙をだしたか、工廠の労働者たちは「私たち職工は午前5時に工廠へ出勤しなければなうないから、6時まで待っておれない。」といって納得しなかった。「近所の綿屋に米屋の主人がいるので、そこへおしかけろ。」といっているとき、およそ40名ほどの兵士がやってきて、群衆を制止した。群衆の怒りをおさえる意味もあってか、兵士の方も売ることをすすめたので、その米屋も売出しをはじめ、白米80俵と糯米7・8俵を1俵8円で売り払った。そのため、他の米屋でも同様に、同夜米を売り渡した。その後も2日ほど不穏な状態が続いたので、衛兵の町内見廻りが継続されたという。
 余部町の米騒動の知らせは、隣りの新舞鶴町にも伝わり、それを聞いた群衆およそ1000人は同日午後2時過ぎ、同町の米商人T方におしよせ、投石したり、格子戸をこわしたりして米の廉売を強要した。そこの米屋な初め1升35五銭の貼り札をだしたが、群衆はそれに承知せず、結局余部町と同様1升20銭で売ることになった。ところが群衆のなかには「売る石数を知らせろ。」といって投石するものもあったので、店の方ではあるだけの白米を売ろうとして5俵ほど売ったところへ、巡査部長がやってきて、「200俵を1人3升づつ売るから解散せよ。」といった。しかし群集は「警察で売ることを保証しなければ、解散しない。」とか、「1軒に3升か、1人に3升か。」といって、なかなか解散しなかった。その後署長の鎮撫演説でやっとおさまったが、ときに午前2時ごろであった。なおこの米屋だけでも200俵の白米が売られたという。
 しかし、米の廉売の恩恵にあづからなかった一般の町民は、「かえって高い米を食べなければならぬ。」といって反対し、米屋に米価の引下げを迫ったので、新舞鶴町の米屋10軒は逆に怒り、1000俵の米を大阪に移出、販売しようとして、27日貨車に積込もうとしているところを町民にみつかって大騒ぎと怠り、町長や署長の仲裁で、一時それをとりやめたが、その後も不穏な空気が続いたという。
 全国的には16日以後、米騒動は第三段階に入り、騒動は地方の町村や山口県、北九州の炭鉱地帯にひろが った。町村の騒動は小作農や貧農が中心となって、大地主や高利貸を対象にしておこっている。炭鉱での闘争は、山口・福岡・佐賀・熊本4県の10余カ所でおこり、9月6日には北海道空知の沼見炭鉱にもひろがり、9月12日の三池炭鉱の騒動を最後にして、米騒動は終りをつげた。
四 性格
 米騒動のおこった地域は1道3府37県にまたがり、ほぼ全国の4分の3におよび、38市、153町、177村で、合計368市町村に達している。参加人員も100万人をこえたといわれている。検事処分をうけたものは8253人、そのうち起訴されたものは7776人であった。懲役刑に処せられたものは2645人、そのなかには無期のものが7人もあり、和歌山県の未解放部落民2人が死刑の判決をうけた。舞鶴では私服の警官がひそかに白墨やインクで主な活動分子の背中にしるしをつけてまわり、翌日早朝の工廠の出勤時に門のところに待機して、その目印をたよりにして一斉に検挙した。そしてそれらの検挙者から他の参加者の氏名をききだして、総数100余名を検挙したのであった。有罪となった人びとの中には、米の買い出しにきていただけのものもあったという。
 米議動の性格についてみてみると、全国的には蜂起の主力は、労働者・農民・漁民・職人・小商人などひろく民衆各層にむよんでいたが、舞鶴の場合には、海軍工廠の労働者が群衆のなかで蜂起の主力になっている点が特長的である。ただし、その場合にも職場で蜂起したのでなく、夜工廠から出たあと、その地域の住民として参加したのであった。また全国的にもそうであるが、舞鶴ても米騒動は行動を計画し、指導する組織もなかったので自然発生的な性格をもっていた。そのため一揆的で持続性がなかった。
 すでに1915年(大正4年)4月、友愛会(労資協調主義を立前としていた)の京都支部が舞鶴の海軍工廠の労働者によってつくられ、2年後の1917年(大正6年)の初めには1200名をこえていた。しかし友愛会が労働組合としての性格をもってくるにつれて、工廠当局は第二組合的な工友会をつくって友愛会の切崩しをおこなったため、脱退者が続出し、友愛会京都支部は大打撃をうけて、会員も200人ほどに減ってしまった。米騒動のあと、友愛会京都支部幹事のO氏が米騒動の指揮者(もっともO氏は指揮者ではなかったが)として起訴されたために、友愛会京都支部ばつふれてしまった。
五、意義
 当時の寺内内閣が、8月14四日米騒動に関する記事をさしとめたことから、諸新聞は一斉に寺内内閣を批判し、内閣総辞職をせまった。こういうなかで寺内内閣も9月21日、ついに総辞職においこまれた。 米騒動はその後の労働運動や農民運動の発展のため大きな刺激となり、労働者は自分たちの権利と自由を守る労働組合をつくり、より組織的な大衆行動をおこなうにいたるのである。
 大正から昭和にかけての舞鶴における歴史遺産をほりおこす仕事は全国的にみても大変遅れていると思う。今後の成果を期待して筆をおく。

『舞鶴地方史研究』(69.11)
◇ 資科 ◇ 中舞鶴の米騒動について   (瀬戸美秋 記)

 本誌第九号で“舞鶴の米騒動について”藤田欽也氏より、その原因、経過、意義等を明らかにしていただいたが、その後中舞鶴地区の年輪会(現老人クラブの前身)が数年前中公民館長の肝入りで郷土誌談義を録音していることが解り、その中で中地区での米騒動の件が語られているので、これを集約整理し、資料として収録することにした。
           
○神成与七氏(明治二十五年生 当時海軍軍人)
 米騒動の前日は、中舞鶴でも町の人々が米の値段か毎日のように上るので不安は募る一方、いつ米騒動か起るかわからないので心配だと語っていたが、下二丁目の下士卒集会所でも海兵団から電話で今晩あたり米騒動があるかも知れぬから厳重警戒をするよう連絡があり、様子をさぐってみると今夕工廠の職工が退場する頃決行するということがわかり、海軍では―早くも一ケ小隊を長浜海軍倉庫に派遣待機させていた。
 いよいよ時は迫り、みるみる中に下一丁目の酒保前は、ヤジと暴徒で黒山となり、児童公園の方から一心会と書いたちょうちんをつけた一団がワーッというかん声を上げて酒保目指して集まり、折から工廠の退場時とあって職工たちと共に一層気勢を上げ、酒保に入った暴徒は、二階に上って電燈を消し、消したと思ったら大事なものからドンドン下にたたき落し、米は外に引っぱり出し俵を片っぱしから嫌で切り、道に明けてしまい、酒保はまたたくまに破壊ざれ全滅の状態になり、続いて吉岡という米屋にも押掛け米俵を切り、これも同様、道にぶちまけてしまった。
 これに乗じてかれらは「こんどは長浜だ」と怒声を上げ、煽動するものを早くもみた。石油缶をたたいて長浜の坂を一目散に下ってきた。この時長浜では、海軍が一筒小隊を二隊に分け、全隊員着剣というものものしさで第一線は神社前の両方に、第二線は米倉庫前にそれぞれ配置してあった。この下ってきた暴徒の一団をみて、小隊長は大声で解散を命じたか、かえっていきりたった群衆は、制止も聞かず投石、投木等ますます反抗し、「ヤレーヤレー」と連呼するので、たまりかねた小隊長は、やむなく『突撃に-』の最後の手段をとったので、ついに暴徒は、命からがら四散した。あの際溝に、或は田圃に落ちる者もあり、悲惨を目に会って解散した。あの時もし海軍か出動しなかったら長浜米倉庫も酒保同様全滅したであろう。

○永井大蔵氏(明治十九年生 当時海軍工廠職工)
 なお騒動当時、退場してくる職工に入り混じって警察官か私服で警戒していたか、手に白墨を持って群衆の中に入り、共に「ワッショイワッショイ」と奇声を上げたようなふりをして職工の服の背中とか脇に何かわからないい文字を書いてその本人の後日の証拠にするつもりであったと思う。
 現場でつかまえられて、中派出所の留置場に入れられたものもあるが、その場所へ刑事が、つかまったふりをして中に入り、「あんたどんなことをした」「わたしはこうこうした……」「そうかえらいことやったなあ-、うまいことやったなあ-、おれもやってここへ入れられたんだ」というようにして、その人のやったことを、その人の口からはかしてつかまった者もあり、翌朝私は何知らぬ顔をして工廠に出勤したら、来ていない者が何人もあって、その人はどうかというと、背中に文字を書かれたものだからして、門の入口で「おい、ちょっとこい」といって引っぱられ背中の文字を目当てに拘引した。その当時伍長であった私は、ある船の上甲板に引っぱり出され、いろいろ質問されたが、私は参加してをい。私の知った人でも長い間監獄に入れられた人もあり、なかなかその当時の悲惨な状態は申し切れない程であった。

註、なお右収録には、武田直平氏(明治二十四年生、当時海軍工廠退職)の聞取りも参考にした。

『中舞鶴校百年誌』
大正時代
 大正デモクラシーと呼ばれた時代である。大正3年に勃発した第一次世界大戦に日本も参戦(日独戦争)し青島を攻略した。この参戦により一部に大正成金を生み出したが、好景気会社は別として一般大衆は物価騰貴にあえぎ官公吏や教員なども「中流の名をもってよばれる貧民階級」「洋服細民」というよび名が生れるほど窮乏にあえいだのである。
 その一例として大正7年2月「東京朝日新聞」に小学校教員が訴える投書を紹介しよう。
 「自分は月俸20円の小学校教員である。家族は自分等夫婦のほか親一人、子供二人の5人ぐらし。米は平均一人前3合として日に1升5合、一ケ月4斗5升は要る。1升24銭として月11円25銭、野菜、味噌、しょう油、マキで3円、冬期は炭が20貫目要るとすると10貫目3円として6円、石油が2升、1升30銭として60銭。すなわち必要欠くべからざる生活品だけでもすでに20円85銭になる。しかも互助会といって40銭を天引かれ、新聞雑誌代といって30銭を引かれ、茶話会といっては20銭を引かれるので、実際手にはいる金は18円余。これでどうしてくらしてゆけようか。しかたがないから米を少しでも減らすために麦を半分以上まぜ、日に一度は粥なり雑炊を食っている。炭が高いから家内中湯にはいらぬことすでに月余。いっぱいの酒、一片の肉はおろか、一個の焼イモを買う余裕もない。いわんや一枚の着物を求むることをや。お正月がきても餅もロクロク食えず子供に晴着一枚着せることもできぬ」
 同年3月宮城県下の駐在巡査佐川芳之助(45)は家族6人とも枕をならべて自殺した。物価騰貴で食えないためであった。
 急騰を始めた米価が投機商人による米の買占めと、大地主や米商人の売り惜しみを引き起している最中の大正7年7月、寺内内閣がシベリア出兵を発表するや、まるで火に油を注ぐように一升50銭になったときその怒りが爆発した。

米騒動
 歴史上の大事件の多くは、はじめはごくさりげない顔で登場するものだ。大正7年(1918)の夏、日本海沿いの漁師町の魚津で口火が切られた米騒動もその例外でなく、この事件はまたたく間に全国に拡がり各所で焼打ちとか流血の惨事を招く大事件となったのである。(世界文化社・日本歴史シリーズより)
 当地としても舞鶴海軍工廠に多数の工員が安い賃金で働いていたので、生活に困りこの騒動に巻きこまれていったのは、やむにやまれぬ成行であった。何分日給が一円未満(写真66)で米一升50銭になったら暮せるわけがない。これらの子弟の大部分は安い外米(南京米・写真67)を食べた記憶を思い起すに違いない。.

米騒動
 米騒動は大正時代の大事件のひとつであり、当時の学童たちにも忘れることのないショックを刻みつけた暴動であったので今少しく舞鶴よみうり(昭和50年11月1日付)に掲載された「舞鶴今は昔」からその一部を転載してみることにする。
 大正7年8月13日午後8時30分ゴロヨリ米価暴騰ノ為メ海軍職工約三千人、新舞鶴町、余部町(大正8年中舞鶴町と改称)ニテ騒擾ヲナシ、海軍酒保中江出張所其他五、六ノ米殻商ヲ襲ヒ、店舗ヲ破壊シ、且ツ金二十銭ニテ白米ノ強買ヲシタルモノ約二百俵ニシテ騒擾ニヨル全体ノ損害約七千六百円……
 舞鶴東署(当時は新舞鶴署)に残る米騒動の記録はこう書き出している。全国で一道三府三十二県に及んだ米騒動は大正時代の最も大きな社会的事件であった。舞鶴での米騒動を警察の記録や、当時の目撃者の話から再現してみよう。
 8月には大都市では一升五十銭となり、10日は京都、名古屋などで群衆が米屋を襲い大阪、神戸へひろがっていった。
 舞鶴でも8月4、5日ごろから白米一升四十銭を越え始めた。海軍工廠の工員や雑役、沖仲土、左官、手伝いなどで組織している「一心会」の会員たちは、海軍酒保(共済組合売店)で市価より安い米が買えていたが、暴騰のため市価との差が縮まり13日、一升三十五銭で売ることが発表された。
 当時同工廠の工員の平均日給は八十銭(全国平均男子九十二銭、女子四十八銭)だった。「三十五銭なんて高い米が買えるか。安く売らせよう。」の声が高まった。同日夕、四時間の残業を終えた工員約千人が軍港西門を出て余部下通一丁目の海軍酒保中江出張所(現矢野食堂)をとり囲んだ。(写真70)
 筋向いの自宅から目撃していた布川清さん(大正15年高卒・63才)は当時の記憶を次のように語られている。
 「小学校へあがる前の年、数え年七つの時ですが今もその情景をはっきり憶えています。始まった時はまだ明るさが残っていました。西門の方から出てきた黒っぽい服装の工員さんたちが酒保をとりかこみ、ワイワイいっているうちに人数はこの広い十二間道路いっぱいになりました。だれかが石を投げたのをきっかけに、ガラス窓はたちまち全部割られワーとかん声をあげて酒保へなだれこんでいきました。そして米俵をかつぎ出し道路にぶちまけました。おかみさんたちがバケツを持ってこの米を拾っていました。
 そのうち西門の方から海軍の兵隊が着剣した銃をかまえながら何個分隊かに分かれて出動してきました。中舞鶴の憲兵隊(現警部補派出所)から騎馬の憲兵も出て鎮圧にかかりました。群衆は二手に分かれ、一隊は長浜にある酒保の米倉庫を襲おうとしたのですが、着剣した兵隊にはばまれ倉庫は無事だったとのことです。一隊は上通りの米屋を襲ったときいています。とにかく恐ろしくて足がガクガクしてふるえがとまりませんでした。警察では群衆の中に私服刑事をまぎれこませ、あばれている者の背中に片っぱしからチョークで印をつけ、その場でつかまえた他、翌朝出勤時に工廠の門で待ちかまえ、服に印のついている者を片っぱしから警察に引っ張って調べたということも聞いてます。」
 群衆は米を強奪したものもあるが、大部分は「一升二十銭」で廉売させるのが目的。海軍酒保が襲われたとの情報が伝わると、同夜群衆が押しかけた六軒の米屋ではつぎつぎ「十四日から一升二十銭で売ります」の貼り紙をした。新舞鶴町の米屋では午前零時を過ぎたとたん「十四日になったぞ。さあ売り始めろ」と深夜から安売りを強制させられた。一人当り三~五升が多いが、中には俵ごと安価で買っていくものもあり、警察ではその後俵ごと買った八十八人を調べたうえ米屋に還付させている。
 暴動には群衆心理はつきもの、襲われたのは米屋だけでなく近所の靴屋、飲食店、酒店、青物商、理髪店なども投石でこわされている。この騒動で余部町十四軒、新舞鶴町十四軒の米屋は店を閉めてしまった。同署で調べたところ、全町民の約半数が将来の生活に不安を抱き、差し当り救済を必要とするもの百二十戸、約六百 人と推定。米屋の篤志家と交渉して一升三十五銭で売るよう承諾させたり、生活困窮者には町役場から内地米一升二十銭、外米十五銭で配給する対策(十六日から)なども決め「謹ミテ新余両町民ニ告グ」のチラシ五千枚を配ったりした。
 不穏な空気は数日続いたが十八日には薄らぎ、秩序も回復したので厳戒体制を解いた。この間八十人が検挙され、四百人が取調べを受け、四十七人が騒擾罪で起訴された。警官は十六人が負傷、海軍からは余部町に少佐以下六十八人、新舞鶴町に大尉以下三十九人が出動している。

『大江町誌・下』
舞鶴の米騒動 京都市では、八月十日暴動が起こり、十三日から十四日にかけて、加佐郡余部町(中舞鶴)と新舞鶴町(東舞鶴)にも火の手が上がったのである。その状況は、「新舞鶴署沿革録」(『舞鶴市史』記載)を要約すれば次のとおりである。
 鎮守府や工廠の下請け労働者-石炭運搬その他雑役人夫・仲仕・土方・手伝い等-で組織する「一心会」という組合があった。彼等は工廠の職工たちより不安定な苦しい生活にあって、物価騰貴に際し、町当局に対して救済方を懇願していた。ようやく八月十二日夜、町当局・警察も立ち会い、新舞鶴、余部両町の米商組合役員会が開かれ、「米商の篤志者によって、八月十四日より窮民と認める者に限り、白米一升に付三五銭で販売する」ことを決議するに至った。
(註)警察署調による二町付近の窮民は七六○名(六○戸)
   内訳 農家一二 商家五八 俸給生活者二三 職工三六○ その他労務者二四九 その他五八
 このような予防措置がとられつつあったが、騒動防止に間に合わなかった。米安売りの決議は、十三日にはまだ組合員多数に周知されていなかったのである。
 八月十三日夜、残業を終えた多数の工廠職工が、余部警部補派出所前に差しかかった時混乱が発生し、たちまち三○○○名の群衆となり、派出所に投石、喊声をあげつつ工廠酒保を襲ってこれを破壊、群衆はさらに増大して六軒の米屋を次々と襲い、一升二○銭で約一四○俵を強買した。
 十四日未明には新舞鶴町に飛び火し、ここでは暴動は起こらなかったが、一、五○○名の群衆が米店に押しかけ一升二○銭で約七○俵が強買された。
 長浜の酒保の米倉庫に殺到した群衆に対しては、鎮守府衛兵の実力行使が行われた。又、私服警官が巧みに群衆の中に混り、民衆の背にチョークでマークしたため、鎮圧されてから多数の人が逮捕された。警官に軽微な負傷があったが、群衆は剣でたたかれたり蹴られたりされた者が多数あったらしく、ただ群衆に混じっていただけで逮捕された者も多数あったという。
 騒動が一応鎮静化すると、府や町村では緊急に米の廉売措置をとった。大江地方でも細長い粒の外米の配分があったと伝えられる。)(米騒動の影響 米騒動は、蓄積された社会の矛盾・勤労低所得大衆の不満の大爆発であった。その巨大なエネルギーは、政治・経済・社会に次のような変革をもたらしたと考えられる。
(イ)政府は、憲法制定後も厳しい官僚的専制を続け、民党の抵抗力も容易にこれを崩すことができなかったばかりか、軍閥の横暴が強まってきていた。米騒動はこの鞏固な政権を一挙に軍閥から政党の手に移させたといえる。初の政党内閣(原内閣)は騒動後一月で出現したのである。
 更に、政党政治の限界を見せつけられ、ロシア革命の影響も受けて社会運動が起こり、社会主義政党も生み出されていく。
(ロ)米騒動は、生活に喘ぎ忍従と諦めに陥っていた大衆に、自らの力を自覚させ、束縛と闘う勇気を起こさせたことであろう。大戦後の世界的平和風潮とも連動して、大正デモクラシーの時代が出現する。
(ハ)労働者・小作農の団結 小作争議は大正七年に二五六件であったものが、大正十年には一、六八○件に激増し、小作人組合が各地に結成され、翌年日本農民組合結成へと発展した。労働組合も大正七年僅か一一のものが翌年には七○へと増大していった。
(ニ)解放運動の前進
 明治四年の解放令の後も、依然として不当な差別と貧困に苦しめられていた未解放地区の人々も、団結の成果を自覚し、大正十一年(一九二二)全国水平社を結成して自らの力で解放を闘いとる方向を打ち出した。

丹後では大騒動となったのは舞鶴だけであった。労働者が多かったのは舞鶴だけであったから、そうしたことなのであろう。舞鶴は特に貧しい働く人々が多かったということかも
貧しい階層はその社会の仕組みの中では再生産される。これを打ち破るには体制そのものを変える以外にはなく、それを目指す運動が生まれてくる。現代とはそうした時代かも

令和の米騒動

←『京都新聞』(2025/5/16)より











物価が高い舞鶴では、こんな値では買えない。スーパーで5㎏が4980円である(2025/5/24)。
とにかく2000円まで下げてもらいたい。問題はいろいろあろうが、後回し、今は全力で小売価格を5㎏2000円へ







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 精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石

Le Coucou -Daquin


DAQUIN - LE COUCOU (THE CUCKOO) - THE ORGAN OF ADLINGTON HALL - JONATHAN SCOTT
Louis-Claude Daquin - Le Coucou
Louis-Claude DAQUIN (1694-1772) Le Coucou . Дакен "Кукушка", Vasilisa Lushchevskaya.

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