『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。
平遺跡
丹後町の宇川の川口部。その西岸部にある。
平遺跡
平遺跡は、京丹後市丹後町平の宇川河口左岸の日本海に面し砂丘上に営まれた縄文時代前期から中期・後期・晩期の長期にわたる遺跡であり、昭和38年・昭和40年に同志社大学と帝塚山大学の考古学研究室により発掘調査が実施された。これらの調査では、深さ4mにおよぶ砂丘の包含層から多量の土器、石器が出土した。特に出土した土器は平式土器として知られ、近畿地方における縄文時代中期の代表的なものである。
さらに国道178号線改良事業に伴い、平成8年度(財)京都府埋蔵文化財調査研究センターが調査を実施し、縄文時代前期から晩期にわたる多量の縄文土器等の遺物が出土した。
また、古墳時代の石敷遺構や製塩土器も出土し、この平遺跡が丹後地域における縄文時代、古墳時代の重要な遺跡であることが明らかになった。尚、平成8年度の発掘調査による平遺跡出土遺物は一括して京丹後市指定文化財となっている。
京丹後市教育委員会
地元の中学生が土器を拾い遺物散布は昭和15年頃から知られていた。同38年、40年の2回にわたり発掘調査が行われ、遺物包含層は約4メートルで、層位は11層に分類された。
遣物は縄文前期~晩期・弥生時代・古墳時代にわたる土器と、石器・石鏃・石皿・叩石・石斧・石錘・すり石・石製容器など。このような長期にわたる遺跡は西日本海岸では珍しいという。
当遺跡の出土が初めてという「平式土器」(縄文中期)の標式が生れた。平式土器は地文に撚りの強い縄文を施し、その上に円形連続波状文の文様を爪形状の細い突帯で施している。口縁内部の屈折は角ばっていて、その上に縄文が施されている五角形の底部をもつ黒茶色の薄手の土器という。
『京都新聞』(96.11.9)
*北陸の玉類出土*赤漆塗り木製品も*縄文からの交流示す*丹後町・平遺跡*
京都府竹野郡丹後町平の縄文時代の前期から晩期中葉(五千数百年前-約三千年前)にかけての「平遺跡」を発掘していた京都府埋蔵文化財調査研究センターは八日、当時、北陸地方で生産されたと見られる石製の玉類や赤漆塗りの木製品の小片などが見つかった、と発表した。「縄文時代から、海上ルートを通じて、丹後と北陸とが交流していた有力な資料」として注目している。
同遺跡は、宇川河口左岸で、平海岸から南約百㍍の国道178号沿いに位置。一九六五年までの同志社大考古学研究会などの調査で、西日本でも数例しかない、同一場所での二千数百年間に及ぶ縄文時代の遺跡と、確認されている。
今回調査したのは、調査済み地点の南側の隣接地約千平方㍍で、八月下旬から発掘していた。
出土した玉類は、黒色の粘板岩や白色の硅(けい)質岩など軟らかい石を加工した平玉などの五点。装飾品ではないかと見られ、直径数㍉の円柱状のものや長さ三㌢、幅二㌢前後、厚さ五㍉前後の長玉状になっている。赤漆塗り木片(長さ五㌢、幅三㌢前後)は、何かの容器だったと判断される。
玉類は、富山県・馬場山D遺跡出土の玉類と石材が類似。また、赤漆塗り製品は北陸地方では縄文時代前期から生産がおこなわれていたとされており、今回北陸式とよばれる土器破片も多く出ていることから、「両地域の交易を補強する有力資料」と調査員は見ている。
さらに古墳時代中期(五世紀後半)の、丹後半島では最も古い脚台付き製塩土器や、石を敷きつめた道状(長さ十三㍍、幅十二㍍)の遺構など珍しい遺物も見つかっている。 現地説明会は、十三日午後二時から行われる。
『丹後町史』
縄文時代と平遺跡
北は北海道から南は九州に至る全国各地で、縄文以前(約九千年以前又は一万年ともいわれている)のかつてのプレ縄文と呼ばれる時代があった。そこには「土器をともなわない石器群」が発見され、その一部は旧石器時代にさかのぼっている。この先土器時代の文化遣跡は今のところ丹後町では発見されていない。先土器時代の文化の時期は、地質学上では、洪積世の時期であって氷河期の第四期以前とされている。洪積世の第四期以後が沖積世の時代であり、現在私たちの住んでいる自然環境と同じであるとされている。縄文以前即ち無土器文化の遺物として、丹後では舞鶴・久美浜・峰山で尖頭器に類する石器が出土している。現在のところ人間の活動は縄文時代を更に五つに分けて早期・前期・中期・後期・晩期と区別し約一万年前から西暦紀元前二百年前くらいの所まで土器編年により、比較的はっきりと歴史を知ることができる。今から丹後町の平遺跡の発掘調査をもとにして、約三千年~五千年前の祖先の足跡を辿ってみよう。
調査
昭和三十七年九月末、宇川中学校社会科クラブ員が現場附近で拾った土器片から平遣跡を中心に丹後町古代の歴史の研究がすすめられた。現場というのは平の「さんまい」の海岸であり、畑地主(田中半治氏)はかつて(昭和十五年頃)壺一ケを掘出し上宇川小学校に届けている。(昭和二十二年二月上宇川小学校の火災で焼失)これまで耕作中に数多くの土器破片に気付き、昔畳一畳敷きくらいの敷石も発見された事もあったという。
丹後町で縄文時代の土器類が発見されたのは、勿論はじめてであり、府文化財保護課へ連絡して、協議ののち同志社大学考古学教室酒詰教授を中心に十二月二十一日から三日間試掘調査をして翌年春(三十八年豪雪のあと)本調査が進められ。
本調査は昭和三十八年五月一日から十九日迄、同志社大学考古学教室の学生、大阪信愛女学院短大、宇川中学校クラブ員など約三〇余名が参加して同志社大学酒詰仲男教授、堅田直講師(現帝塚山大学教授)を中心に考古学協会会員玉谷哲氏・白石太一郎氏・石附喜三郎氏等によって発掘作業と、それに伴う研究が進められた。
この間およそ五百余点あまりの縄文時代中期~晩期(三千年~五千年)の土器、石器が発掘され、しかも三千年の長い年代にわたる遺物が同一遺跡から出土されたのは、日本でも珍らしいとされ、さらに土中の深さによって年代毎の遺物が埋まっていることなど、学術的に貴重な遺跡であることが確認された。
昭和三十八年堅田講師はこう話された。
「考古学上標式的な遺跡で、古代文化を知る上に、貴重なものである。竹野郡網野町周辺一帯にも遺跡が多いが、縄文代晩期のものは、こんどがはじめてだ。いづれにしても前期より中期・後期・晩期の四期にわたる遺跡は西日本海岸で調査されたのは、ここだけであり、出土品によって、今後この地方の石器時代における全容を解明したい…」と。
帝塚山大学から発表されている「平遺跡」の研究調査結果の報告は次のようである。
遺跡の位置
丹後町平字湊にあり、日本海に面した段丘の上にできた砂丘上にあって、丹後半島の突端部経ケ岬から西へ約七㎞標高約二〇m、海岸から約一五〇mの距離にある松林の南側畑地で、天然鮎の棲息地として有名な宇川の左岸に当っている。
調査の経過
昭和三十七年十二月の試掘調査の結果、これより一段高い畠の上部に厚い土の層があったことが推定されたので、三十八年五月同じメンバーで調査を行った。
その結果土師器・須恵器・弥生式土器・縄文晩期から前期までの遺物が三m五〇㎝の層位になっていることが明らかになった。さらに再調査を必要とし、昭和四十年七月二十八日から八月十日まで帝塚山大学考古学研究室の事業として調査が行われた。
遺跡の断面
トレンチ(部分発掘を行う場合に使われる長方形の細長い溝)は昭和三十八年度に発掘調査を行ったトレンチの東側に並列して、幅約三m長さ一八mのものと、西側に幅約三m長さ六mのものを設定し発掘を行った。発掘は全トレンチを水平に掘下げた。地表面から地中に達するまで、地点によって砂地特有の性格にもよるが、層位の弁別が困難な所もあったが、調査の進行とともに解決した。
調査の結果遺物包含層の厚さ約四mに達し、層位も十一層に分類することができた。その状態は上図の実測図に示す通りである。この実測図を基に地学、地形的に考古学的にその問題点をあげると
地学地形的に--トレンチの北側(実測図では左を上に)南側にさがる傾斜をもつ層が重なりあっているので第一層の直下にある平面はただちに第二層を意昧するのではなく北から第五・四・三・二層とたてに並んだ状態であることがわかった。
また平式土器を出す第五・六層から大歳山式土器を出す第八層までのあいだの砂層の堆積は大で、しかもその粒子が非常に荒い、これは砂の堆積速度が大であったと同時に、砂の補給源が近かったこと、すなわち海岸がこの地点に近づいたことを示すものであろう。たとえば第九層(北白川下層Ⅲ式)の時及びそれ以前は砂の堆積は全くなく、地上の直上に粘土層があり、その中から土器を検出したのである。綱野町宮の下縄文遣跡(早期)においても、砂丘下の地山の直上粘土層中に遺物が包含されていた。これらのことから、早期から前期の中ごろすぎまでは海岸は遠く、前期末から急速に海進か或は地盤の沈降作用が始まったと考えられる。このように、砂の堆積物及びその厚薄によって地形関係の推移をみることができた。
考古学的に--約四mの砂の堆積の中に縄文式前期から古墳時代の土師器に至るまでの遺物が包含していることは図に示す通りであるが、これが文化的に運綿と継続したものとは直ちに断定はできない、大きな文化の流れは、近畿的、時には瀬戸内海へと大きく流動している様子がその中にみられた。
先人の生活
「平遺跡」に縄文時代の人々が住みついていた長い年月のうちには地形、海岸線、気候等による環境の変化も生じたであろう。しかし先人の生活の基調は海、山におかれていたことは、彼等の日常生活品であった出土遣物によって知られるところである。
例えば貝殻・石錘・軽石で作ったウキ等で前面の日本海で魚介、海草類等の海の幸を漁りしたことがわかり、また、石皿や凹石等によって木の実・木の根・いも類等を採ってすりつぶし食糧に供したり、さらに矢の先に石鏃をつけ、シカ・イノシシ等の山の幸を獲ったことを獣骨片の検出とあいまって知ることができた。しかしこれらを貯蔵し、調理するのに用いられたのが土器類であり、木を伐って家を造るのに石斧が用いられたであろう。当時の生活は案外予想以上に豊かなものであったかも知れない。
出土遺物
石器・石鏃・石皿・たたき石・石斧・石錘・すり石・石製容器・土器(縄文前期末~縄文晩期初頭)土師器・須恵器等
『京丹後市の考古資料』
平遺跡(へいいせき)
所在地:丹後町平小字湊
立地:宇川河口域左岸砂丘上
時代:縄文時代前期~晩期、古墳時代中期
調査年次:1963年(同志社大学)、1965年(帝塚山大学)、1996年(府センター)
現状:半壊(道路改良)
遺物保管:市教委ほか(一部、市指定文化財)
遺構
平遺跡は、宇川河口の砂丘上に営まれた縄文時代前期~晩期及び古墳時代の遺構である。海辺に近い砂丘土壌であるため遺構の検出は容易ではない。1963、65年に同志社大学、帝塚山大学が発掘調査を実施し、厚さ4mにわたり縄文時代前期~晩期の土器、石器が土層ごとに検出され、近畿北部有数の縄文遺跡として知られることとなる。
1996年の府センターの調査では、縄文時代晩期の埋甕および石敷炉が検出された。埋甕は、篠原式の高さ40㎝ほどの土器を使用した大型のもので、蓋、標石をともなうものである。石組炉は、長さ20㎝の棒状石材3点を組んだ上から尖底の深鉢底部を検出しており、石材は被熱していた。古墳時代中期の石敷遺構は、ミニチュア土器を伴うなど祭祀的な色彩の強いものである。
遺物
多量の縄文土器が検出された。縄文前期の北白川下層式、大歳山式、縄文中期の鷹島式、船元式、平式、縄文後期の元住吉山式、宮滝式、縄文晩期の滋賀里式併行期、篠原式の土器のほか北陸の新保式の深鉢などの他地域から流入された土器も出土した。特に1966年に発掘調査がまとめられ、「平式土器」の名と共に縄文時代中期の型式として注目された。土器以外では石鏃、石斧、また海に面した遺跡であり石錘などの石器のほか、縄文時代の玉も4点出土した、そのほか、古墳時代の祭祀にかかわると推定されるミニチュア土器も出土している。丹後地域での古墳時代の製塩土器の出土例は、こくばら野遺跡に次ぐもので、他地域との型式差から宇川製塩土器と命名された。
意義
縄文時代前期~晩期にわたり長期間に継続して営まれた遺跡であり、出土遺物も豊富である。特に縄文時代中期の渦巻文や紡錘文で加飾された土器は平遺跡の出土が初見であり、平式土器と呼ばれ近畿北部の縄文土器の一型式と位置づけられるものである。
縄文時代の土器についてみると、北陸的な土器であると鷹島式、船元式、新保式の土器がみられ、他地域との交流のあったことがうかがえるものである。また、古墳時代の製塩土器の出土は珍しく、能登や若狭の製塩土器との関連が注目される。このように平遺跡は浜詰遺跡とともに海辺の近くに営まれた市域の縄文時代を代表する遺跡であり、平式土器とともに学術的にも非常に価値が高い。
上野遺跡
上野は平の東側にある、少し高い土地、小学校・中学校があるあたりになる。ここで、後期旧石器発見された。約3万6千年前の遺跡と推定されている。隠岐の黒曜石が出土した。
約3万年前の姶良カルデラの火山灰層と、約6万年前の大山の噴火に伴ってできた軽石層の間から出土した。台形石器と呼ばれる狩猟道具の一部や、獣の解体に用いる石器も見つかった。台形石器を中心とした国内の遺跡は約3万4千~3万8千年前であることから、中間値として3万6千年前と推定したという。
『京都新聞』(2020.9.18)
*京丹後に府内最古の遺跡*台形石器で年代特定*旧石器時代の営み裏付け*
約3万6千年前の京都府内最古の遺跡と分かった上野遺跡(京丹後市丹後町上野)。年代を特定する決め手は狩猟などに使われたとされる台形石器だった。調査した京都府埋蔵文化財調査研究センターは「後期旧石器時代前半の人類活動が府内でもあったことを明らかにする大きな成果」としている。
上野遺跡は日本海沿岸の海岸段丘上に立地する。2017年度から調査を始め、これまでに古墳時代の土師器を伴う炉跡や土坑が確認されていた。
石器群は、段丘東部の約20メートル四方の範囲の姶良丹沢火山灰と大山倉吉軽石に挟まれた地層から152点が出土。地層分布から約6万年~約3万年前と推定され、出土した台形石器の特徴から年代を特定した。
石器は最大5センチで、多くは3センチ以下のかけら。柄の先につけ狩猟具として用いる台形石器のほか、道具の加工や動物の解体に使う鋸歯縁石器、抉入石器など。
素材は多くが由良川水系産のチャートとみられるが、島根県の隠岐諸島産の黒曜石5点も出土したことから、当時の活動が日本海沿岸を中心に広範であったことがうかがえる。
上野遺跡は、後期旧石器時代前半の中でも日本列島最古層の石器群と位置づけられる。石器を造った形跡があまりないことや、長期間住んだ跡としては石器の出土数が少ないため、「狩猟の移動に伴う一時的なキャンプ地」とみられるという。
石器の一部は、18~22日午前9時半~午後4時)に同市丹後町の丹後古代の里資料館で展示される。
鳥浜貝塚(三方町鳥浜)
鳥浜貝塚(とりはまかいづか)
鰣川と高瀬川との合流点一帯に広がる南北約60メートル、東西約60メートルの範囲の縄文草創期・早期・前期に属する低湿地性貝塚。昭和36年(1961)に発見、翌年以来55年まで五次にわたり発掘調査され、「縄文人のタイムカプセル」とよばれる。鰣川は大正から昭和初めに鳥浜集落の中を通っていた河道を改修したもので、高瀬川との現合流点には西から東へ椎山丘陵が延びている。縄文時代には舌状の丘陵があって、その周囲まで湖が及んでいたと考えられ、丘陵上に集落を構成し、食料や生活残滓を南の水中に投棄、貝塚が形成されたと想定されている。遺物包含層は標高0メートル以下にあり、その上に約3メ-トルの土砂が堆積している。包含層は豊富な地下水のある冷暗所で、自然の保存庫のような状態をなし、本来腐敗しやすい植物性遺物を中心とする有機質の遺物が良好に残存する。国内では縄文前期の貝塚と低湿地遺跡が共存する唯一の例である。
基本的な層序を下層から記せば次のようになる。
(一)最下層(有機物層)、縄文草創期の多縄文系土器の時期。
(二)砂礫層、縄文早期の押型文土器の時期で、遺跡の南部では白色の火山灰層(約四センチの厚さ)が存在。
(三)有機物層、縄文前期初頭、羽島下層Ⅱ式併行の土器の時期。
(四)貝層、縄文前期、北白川下層Ⅰ式併行の土器の時期と地点によっては北白川下層Ⅱ式併行の土器の貝層もあり、貝層は有機物層と互層をなす。
(五)砂礫層、縄文前期後半、北白川下層Ⅱ式併行の時期。貝層が形成されるのは縄文前期の段階であった。
包含層からは豊富な人工・自然遺物が出土している。縄文草創期では土器、石鏃、削器、弓状木製品や加工木、直径2ミリの糸、ヒシやブナの種実や魚骨、縄文早期では土器、石鏃、石錘、丸木弓や杭、ヒシの実である。縄文前期の遺物は本遺跡出土物の90パーセント以上を占める。土器は多量に出土し、丹彩土器・漆塗土器もある。石器は石鏃・石匕・石錐などの剥片石器、磨製石斧・礫石斧・石錘・磨り石・凹み石・石皿などの礫塊石器があり、石製の状状耳飾・垂飾もある。骨角器はやす・針・箆・垂飾などで、カキやベンケイガイの貝輪もある。木製品は、赤色漆塗の櫛・石斧柄・丸木弓・擢などと各種の棒や板がある。とくに櫛は9本の歯を作り出した長さ9・2センチ、幅7・9センチ、厚さ1センチのヤブツバキ製で、日本最古のものである。編物や縄も豊富に出土し、編物は籠や敷物と考えられ、縄は左撚り・右撚りのもので、太さは数ミリの糸、1センチ内外の紐、2センチ内外の縄、数センチ内外の綱と、用途別の使い分けが行われている。
自然遺物では、マツカサガイ、ササノハガイ、ヤマトシジミ、サザエなどの貝、イノシシ、シカ、カモシカなどの獣骨、コイ、フナ、マグロ、ブリなどの魚骨、クルミ、クリ、ヒシ、ドングリ類などの種実、人間のものと推定される糞石がある。さらにアフリカやインド原産といわれるヒョウタンの果皮と種、リョクトウ(緑豆)などの栽培植物があり、縄文時代に栽培植物のあったことが実証され、最近ではエゴマ、シソといった外来植物も明確となってきた。このことは縄文農耕論に有利な資料となっている。
当遺跡には自然科学分野の研究もかなり進められ、花粉分析による植生や気候の復原、放射性炭素による年代測定、木材の樹種の同定など当時の生活の復原がなされつつある。このほかに昆虫の羽・木の葉などももとの色のまま多数出土し、各種の遺物はきわめて多彩である。なお植物性遺物についてはいずれも今のところわが国最古のものばかりである。
丸木舟の出土
縄文の丸木舟
三方五湖周辺では、鳥浜貝塚から2艘の、ユリ遺跡から9艘の合計11艘のスギ製丸木舟が出土しています。これらの丸木舟は、約6300年前の縄文時代前期から、約2700年前の晩期のもので、製作年代に幅がみられます。
縄文時代当時、鳥浜貝塚とユリ遺跡の位置は、湖の入り江で近接していましたから、わずか30haの区域内から合計11艘の丸木舟が出土していることになります。1区域からの丸木舟の出土数では、琵琶湖周辺の滋賀県彦根市「松原内湖遺跡」の11艘と並ぶ出土数です。展示されている丸木舟は、保存処理が済んでいるユリ遺跡出土の丸木舟です。また、地下にはユリ2号丸木舟の出土状況を再現し展示しています。
浦入遺跡出土の丸木舟
舞鶴市の遺跡紹介リーフ
浦入遺跡・縄文時代の丸木舟
場所:舞鶴市字千歳
平成10年2月に舞鶴市の北東部にある大浦半島の西端に位置する浦入遺跡で縄文時代前期後半の丸木舟1艇が発見されました。浦入遺跡は外海である若狭湾から舞鶴湾へ入ってすぐの位置にあり、丸木舟は南に開ける浦入湾の西岸、南東に延びる砂嘴によって入口は狭く波穏やかな浦入地区西岸の砂嘴の付け根部分から出土しました。丸木舟は地表下0.5mの当時は外海であったことが分かる白い砂の中に舟尾を外海側の西方へ向けて海岸線と平行に埋まっており、出土した土器や化学分析によって縄文時代前期後半の約5,330年前のものであることが分かりました。その後の縄文時代中期にも丸木舟の周辺からは杭や碇石も見つかっていることから、この地点に桟橋のようなものがあったと考えられます。
この丸木舟はスギ製で船尾部分が残っており長さ4.3m、幅0.9m、深さ0.3m、厚さ5㎝が残っいしましたが、復元すると長さ8m~9m、幅1m弱の大きさのもので全国的にも最大級のもめであり、出土した地点が海に面していることから日本海へ漕ぎ出していったことが分かる初の外洋航海用の丸木舟です。この丸木舟には杉の丸太を石の斧で削ったり、焦げた跡が残ることから火で焦がしながら造られたものと考えられています。
縄文時代には、日本列島全域にわたるような遠隔地交易が存在し、ヒスイ製玉類をはじめ黒曜石やサヌカイなどの石器用材などが特産地から港を経由して遠くの消費地へ運ばれていたとされています。浦入遺跡でも北陸や東海地方の特徴をもつ縄文土器、富山県産蛇紋岩製の磨製石斧や大型の耳飾り、コハク製の玉類、島根県隠岐産の黒曜石が出土しており、山陰地方や北陸地方へこの舟を利用して遠隔地との交流が行われていたことが分かります。その他にも、浦入遺跡からは石錘も出土し、丸木舟を使って海に出て漁労も行っていたことが想定されます。
大海原を介するこの広範な交易ネットワークには、外洋航行用の大型丸木舟が不可欠であり、浦入遺跡出土の丸木舟の発見は、日本海沿岸や東シナ海にわたる「海の道」を使って交流した東アジアの文化的交流を具体的に考える上での極めて重要な発見といえます。
「広報まいづる99.03.31」
*5300年前の丸木舟**わが国最古・最大級で外洋性*
わが国で最古・最大級のものと判明した丸木舟は、浦入湾の砂嘴の付け根部分から出土。地下約五十㌢の砂層に舟先を南側の舞鶴湾方向へ向けた状態で埋まっていました。
同じ砂層から出土した土器片から、この舟が造られた年代は縄文時代前期であることが分かりました。その後、舟の一部を「炭素(C14)年代測定法」で測定したところ、約五千三百年前(五千二百七十年プラス・マイナス九十年)と特定することができました。
船体は、スギ材をU字型にくり抜いたもので、長さは舟尾部分が腐食していましたが四・六㍍、幅は土庄による変形を受けた状態で計測して約一・一㍍、舟底の厚さは約七㌢でした。幅から推定すると少なくとも八㍍前後はある大型のものだったとみられます。
また、丸木舟付近からは、舟よりやや新しい時期の杭やイカリ石なども見つかり、桟橋のような施設があったことがうかがわれます。
縄文時代には、日本列島全域にわたるような遠隔地交易が存在し、ヒスイ製玉類をはじめ黒曜石やサヌカイトなどの石器用材などが特産地から港を経由して遠くの消費地へ運ばれていたとされています。
この広範囲な交易ネットワークには、外海航行用の大型丸木舟が不可欠と考えられていましたが、これまでに発見された丸木舟のほとんどは幅五十㌢、長さは五㍍程度の小型のもので、河川や内海用とされています。浦入の丸木舟は、その大きさなどから外海航行用であるとみられ、わが国における縄文時代の交易を論じるうえで極めて重要な資料といえます。
出土した丸木舟は現在、奈良市内で保存処理を行っています。
縄文時代とは
縄文時代は、今からおよそ約10,000年前~12,500年前から始まり、水稲農耕が盛んになる約2,400年前まで続いたとされる。10000年の長い時代であった。
縄文時代の時代区分は「草創期」「早期」「前期」「中期」「後期」「晩期」に分けられる。縄文時代は土器を使用するようになり、それが旧石器時代と区別される最大の違いとなる。縄文時代というの名の由来は、この時代の人々が縄目模様の独特の装飾(縄文)が施された土器を使用し始めたことによる。
縄文時代の人口
東に高く、西に低い文化であった。
紀元前2300年のころ、日本には26万人が住んでいたと言われる。原始時代としては高度な狩猟採集経済を営み、限りある空間を最大限に利用していたと考えられる。 住居跡などから割り出してみると、日本の人口密度は狩猟採集社会としては、世界一高かったといわれる。ところが縄文時代も晩期に入ると、その人口が一気に減少する。それも26万人の人口が、8万人にまで落ちてしまう急激な減少だった。
原因は、気候変動で気温が下がり、食料供給量が激減したこと。クルミ、ナラ、トチの実、貴重な食料であったナッツ類が気温低下の影響を受けて激減してしまう。
音の玉手箱
精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石
Rosamunda Beer Barrel Polka
Gli Spunciaporchi " Rosamunda " (youtube.com)
Le Mondine - Rosamunda (dal vivo) (youtube.com)
Beer Barrel Polka - André Rieu (youtube.com)
※参考
Vinicio Capossela - Suona Rosamunda (youtube.com)
「30年前、私と私の文化を救うために、自分たちの文化と命を捧げてくれた60万人の子供たちのことを忘れることはできません。18歳の少年が、詩人になるための土地を私に保証するために、外国の兵士に喉を切り裂かれたことを忘れません。このことを忘れるわけにはいかないし、自分が生きているのに、彼らは生きていないから不幸なのに、30年間自分の中に抱えてきたブルースを自分の中にやらない。彼らは私の土地と文化を救い、祈りを私に教えてくれ、彼らのおかげで今日、私は美しく、美しく、最高であり、私は許しません。…
そして、プリーモ・レーヴィの「If This Is a Man」の曲にインスパイアされたこの曲を歌いました。」とある。
ワレラがいかに戦争を知らないか、知らなすぎるか、オソロシイほどに知らないことを痛感させられる。
収容所(Lager)へ着くと、最初の「選別」が行われる。大部分(80%ばかり)は、即、シャワー室(ガス室)行きであった。収容所には楽団があって、このロザムンダも演奏していた。行進曲調のリズムに合わせて進む、そこは煙突から煙となって出ることしかできない部屋であった。選別は、仕事ができるかどうかという基準であり、女・子供はほぼ100%、着いたその日に煙となった。
ロザムンダは、このお姉さんのような女性の名と思われる。何もこの曲が悪いのではないが、そうした歴史があることは、ワレラもその人道に反するゴクワル同士のお友だちだったのだから、忘れないようにしたいもの。
『これが人間か』(レーヴィ)(朝日新聞出版)より↓ 本国とその占領地は収容所だらけ。ワレラはSS側の収容する側、絶滅させる側にあったことを忘れないように…
彼らを逃したのは、杉原千畝氏などのごくわずかな例外者だけであった。
ドイツファシズムにとっては、ユダヤやロマ(ジプシー)やスラブなどは、人ではなく、抹殺すべきものであった、こんな連中がいるから全世界が腐ると考えていて、ファシズム体制の立ち上がりから、これほどの↑ラーゲルを建てていた。その死亡率は90~98%という。子供でも容赦なし、身長何㎝以下は抹殺だから、その基準に届くよう、子供は身長計で懸命に背伸びしたという。どこかの国の731や優生思想をさらに強化したようなもので、一千万ほどいるとされるヨーロッパに住むユダヤをすべて煙にする計画であった。
ドイツ語のラーゲル((Lager)収容所・寝床、宿泊所)は、ロシア語のラーゲリ(Лагерь)の元となった言葉と思うが、ソ連軍人捕虜などは最初に抹殺されたという。
Лагерьがひどくて、ひどくてと、どこかの町あたりでは一方的に言うぱかりだが、ソ連のЛагерьにはガス室や焼却炉はない、ロシア兵なみの食糧や建物はあてがわれた。言葉は同じだが、LagerとЛагерьは別のものである。原因も結果も見えていないのではなかろうか。知っていて隠しているのか。Лагерьはすくなくとも、黄色いナチの同志戦友の日本軍人らであっても抹殺の対象とは見てはいなかったのだから、まだしもワレラよりはマシであった、と言えるかも、ワレラとそのお友達よりはマシであったと、それくらいは知っておこうではないか。
関連情報
|