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そら知らなんだ

米騒動①(大正7・1918)
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -107-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
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米騒動①
米騒動②





少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上タイムリミット上言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。



米騒動の始まり


日本社会を変えた「米騒動」をノベライズした映画『大コメ騒動』より↑
社会を変えた、というより、発展させ、高度化させ、日本の現代史を切り開いた、伝説の“おかか“たちである。現代とはこうした時代である。
江戸期の百姓一揆のようにも見えるが、“おかか“たちは百姓ではない。土地を持たず米を買って喰っている労働者、市民である(漁民、仲仕)。ここがこれまでの伝統的な農民一揆や打ち壊しと違っているところで、社会の担い手が新しい層に移り、新しい歴史のページの幕がここに上がったことになる。
歴史の大舞台のうしろのカゲにいた「その他大勢」の無名の群集であったが、この瞬間から舞台の主役になる。
この日、大正7年7月23日をもって、日本の現代史の始まりとする説も多い。
なぜ7月だったのか、7~8月は一番魚が取れない時期である。
当人たちが好むと好まざるにかかわらず、意識的であろうと無意識であろうと、その社会的立場上、日本社会を変革していく歴史的大役者として人類史舞台にいよいよ登場する。元々大騒動を起こすようなことは好まない良民だが、黙っていると飢え死にすることとなり、立ち上がらざる得なくなる。弱い所へしわ寄せされる社会を変革する武器は大人数ということ、国民のほとんどがそうである。理論値、経験値とも今ならすでに豊富なこと。口先や理論よりも、しっかり実践を積めば未来をつかめそうに見える。

ここは、今はこんな様子↓

(富山県魚津市本町の海岸)「一九一八 大正七年 米騒動発祥の地」の碑
案内板には、
魚津の米騒動
 大正三年(一九一四)に始まった第一次世界大戦は、日本に好景気をもたらしたが、その反面、物価は急上昇し、庶民の生活は困窮した。特に 米商人の買い占めや売り惜しみなどにより米価は戦前の四倍になっていた。
 このような状況下、大正七年(一九一八)七月二十三日、北海道への米の輸送船『伊吹丸』が魚津町に寄港した。おりからの米価高騰に苦しんでいた漁師の主婦ら数十人が、米の積み出しをおこなっていた大町海岸の十二銀行の米倉前に集まり、米の積み出しをやめるよう要求し、このため米の搬出は中止された。
 この事件は、地元紙により富山県内に大きく報道され、水橋、滑川、岩瀬、泊、生地など沿岸部で次々と米騒動がおこった。さらにこの騒動は全国に広がり、当時の内閣が総辞職に追いこまれた。その後、日本で最初の本格的な政党内閣の誕生につながった。 魚津市教育委員会

“おかかたちの一揆” 富山から全国へ燃え広がる
1918(大正7)年7月22~23日、沖仲士(なかせ)の女や数十人の漁師の妻女たちが、米の県外積み出しを阻んで海岸に集結したあと、米商人や資産家の家に押しかけて大声で抗議したのである。それが米騒動の発端であった。
富山県に端を発した米騒動は、ひと月後の1918(大正7)年8月に入ってまたたく間に全国各地に広がった。
事態は全国368ヵ所に9万人以上の軍隊を投入する騒ぎに発展する。この“大正一揆”は、その後のさまざまな社会大衆運動の出発点となった。




大ピラミッドを築くエジプト人か。米1俵は60㎏ある。(上掲映画予告編より↑)
今はこうした重労働は労基法にふれる。女性は確か20㎏か30㎏までである。

銀行倉庫の米をハシケに積み、沖の蒸気船へ積む。(魚津市出身の谷井健三氏のイラスト)。銀行に米があるとは、知らなかった、しかし今も同じかも…

「子だくさんのご飯どき」↓

『米騒動を知る』(←)などによれば、
これくらいの標準世帯(↑)の場合、1日2升の米を喰ったという。
夫は仲仕と漁師半分(この年はまれにみる不漁)で重労働のうえ、肉類がなく、栄養カロリーとも米に頼るので1升メシを喰ったという。おかかも仲仕をする。子供はこれくらいはいるし、爺婆がいる世帯もある。
魚津の場合は漁村というのか、仲仕の村で、普通一般の庶民家庭よりも2割以上は米の消費が多かったと見られている。2割以上はここは苦しくなった。収入の全てをあてても、必要量の米が買えないまでに米価は高騰した。暮らしはその日稼ぎで、その日の米を米屋から買う。明日はどうして暮らしたものかと不安で毎晩泣き明かした。子供がいる家ほど米騒動への参加率が高かった。ただでさえ騰貴する米を他国へ出せばますます品不足となり、ますますますます暴騰するに決まったハナシ、米を出すな、おかかたちが浜へ駆けつけた。

この勃発時の米の小売価格は、今の価格に換算すれば、10㎏で30000円超くらいと見られている。そうすると1升が4500円くらい、2升で9000円、おっとうの1日の稼ぎは8000円くらい。アバウトなだいたいの計算だが、どうしたことになるかは、見当がつく。どこで火が付くか、富山でなくとも、とこかで火が付いたことであろう。そしてアッというまに、全国に燃え広がった。
米はもともとが収入と較べれば、高騰しなくてもずいぶんと高かった(5㎏=5000円)ようで、大正7年のような大騒動に至らずながらも、何年かおきに騒動が起きていた。
農業問題は日本の富国強化兵、近代化を支える日本経済のアキレス腱と見てよいかも、田園が荒れると国が荒れる、現在もやはりこの持病に苦しむのであろうか


ワタシの住んでいるすぐ近くの水田↑。少し前までは米が作られていたが、今はこんな状態↑2反くらいはある田。

1918(大正7)年7月22~23日、沖仲士(なかせ)の女や数十人の漁師の妻女たちが、米の県外積み出しを阻んで海岸に集結したあと、米商人や資産家の家に押しかけて大声で抗議したのである。これが米騒動の発端であった。
タダでくれといってない、米はいのちだ。安うしてくれ、よそへ持って行くな。農家から買った値で売ってくれ、と言っている。
お父ちゃんが懸命に働いているのに、その子供がメシを喰えないというのは、今なら人権問題である。民主主義のキソのキソのキソが揺らいでいることになる。いつの時代であっても人間社会の倫理の問題になる。
メシがないとか、教育が受けられないとか、便所が古いとか、医療が受けられないとか、もうすでに100年にもなるが、今もって解決できていない、一度振り返ってみるのもいいかも知れない。

米価高騰

グラフはWikipediaより↓

『大江町誌下』↓


(米の1石は=10斗=100升=1,000合。=2.5俵。1石は成人1人が1年間に消費する量にほぼ等しい。≒150㎏。元々は、米1石を収穫できる面積を1反としていた。
今の価格なら、5㎏=2.000円とすれば、1石=60.000円くらい。米騒動当時はずっと高かった)

(米価の高さ=日本農業の生産性の低さ・近代化の遅れ・寄生地主制
明治維新期に行われた地租改正と、田畑永代売買禁止令の廃止により地主による土地の兼併が進行した。地租改正により土地所有者は金銭によって税金を払う義務が課せられることになったが、貧農には重い負担であり裕福な者に土地を奪われ小作人に身分を落としていった。
地主は質屋などの金融業を兼業し、小作人を中心に金銭の貸付を行う事が多く、これにより、農村内での貧富の差は更にひどくなった。農民から収奪した富を商工業に投資し、近代的な資本家に転換した地主もいる。
農業から上がった富は農業に再投資されず、農業の近代化、生産性の向上に結びつかなかった。米価が下がることはなかった。日本は土地が狭いとかいった問題ではなかった)

(ロシア(社会主義)(十一月)革命は1917/11/7。1918年、日本はアメリカとの間で、日本が単独では進軍しないこと、兵力はそれぞれ8000人程度とすることを取り決め出兵した。4月5日、日本軍とイギリス軍の陸戦隊がウラジオストクに上陸。8月2日、政府はチェコ兵捕虜救助を名目としたシベリア出兵を宣言した。以後この革命干渉戦争に日本だけが連合国各国よりも数十倍多い兵力を動員し、各国撤退後もシベリア駐留を続けたうえ、さらに占領地に傀儡国家の建設を画策したことから、ロシアのみならず、イギリスやアメリカ、フランス、中華民国などの連合国からも領土的野心を疑われることになった。1922撤兵。「なに一つ国家に利益をももたらすことのなかった外交上まれにみる失政の歴史である」とも評価される。)

物価高騰と米騒動
市民生活を脅かす物価高
 米を中心とした諸物価の高騰は、賃金上昇率を上回り、市民生活を非常に苦しいものとした。大正五年以降、物価平均指数は賃金指数を上まわり、市民の生活は物価高の圧迫の中で営まれることとなった。生活苦は、日雇い労働者はもとより、公務員、教師、巡査、会社員などの中産階層にまで及んだ。
 当時、豊橋地方の労働者の一か月の賃金は、専科正教員の二四円、洋服仕立職裁断師の一〇〇円前後という範囲内にあった。五人家族の場合、米代だけで月に二二円から二五円もかかり、耐え切れるものではなかった。
 米価がこのまま高騰すれば、いずれ爆発することは予想されることであった。

日本近代史上空前の大衆決起

(参考)
『朝日クロニクル20世紀』
 
そのころ、米不足と投機のために米価が急騰し、さらにシベリア出兵による大量の米の思惑買いが事態をいっそう悪くした。そのため、国民の憤懣は煮えたぎっていたのである。8月、富山湾一帯に騒動が広がり、新聞が「富山の女一揆」と書きたてる。するとたちまち京都、名古屋、大阪に飛び火し、都市貧民が決起した。彼らは米価をつりあげた投機商人、米穀取引所、豪商宅などに押しかけ、米の安売りや寄付を要求し、聞き入れられなかったり、警官が威嚇したりすると、焼き打ちや打ち壊しなどに走った。
 8月14日、政府は新聞に騒動記事の差し止めを命令、鎮圧部隊を各地に派遣したが火勢は強まるばかりであった。翌15日、東京では街頭に飛び出した群衆と軍隊が衝突、その情報は口コミでアツというまに全国に広がった。
とくに注目されるのは、関西では被差別部落民が都市貧民の先頭に立ったことだ。また工場労働者は賃上げを要求し、8月には108件ものストライキが集中した。
 こうして7月下旬から9月12日までの50日ほどの間に、東北3県と沖縄をのぞく全国368ヵ所で米騒動が起こり、参加した群衆数百万人、動員された軍隊9万人以上。この衝突で数万人が検挙され、7776人が起訴された。日本近代史上空前の大衆決起といえる。このため寺内内閣は9月21日、総辞職し、かわって原敬のひきいる政友会内閣が成立したのである。
社会主義運動も息を吹き返す
 政府はこれに対し、アメと鞭の政策をとったが、有効ではなかった。皇室に恩賜金を要請し、300万円を各府県に配ったり、米価対策費として1000万円を出すとの声明を出したり(実際は400万円)、さらに富商に米の廉売を求めたりしたが、その場しのぎの策に終始した。
むしろ、根本的な社会政策は原敬内閣によって打ち出される。
 これを機に日本の労働運動、部落解放運動、女権獲得運動、農民運動などが活発になったばかりか、大逆事件以来、火が消えたようになっていた社会主義運動も息を吹き返すのである。
 米騒動こそ1920年代の「日本の大衆の時代」を開いた原動力になったといえる。    (色川大吉)

『朝日クロニクル20世紀』
良民をして暴民に化せしむ
 1918年8月5日り東京朝日を読む。「徴兵忌避者自殺、母校の高千穂高商校庭で」といっ記事がある。「窒扶斯と赤痢が猖獗、忙しい消毒馬車」という記事もある。そうか、このころはまだ馬車にだったのか。
 私のお目当ては中はどの二段記事だ。「二百名の女房連が米価暴騰で大運動を起す。米屋や米の所有者を襲ひ廉売を嘆願し、肯かなければ家を焼払ひ鏖殺すると脅迫」
 騒動の主役は富山県の漁民の女房たちだった。「嘆願」と「鏖殺」という言葉の共存はちょっと異様だが、とにかくこの越中女一揆は以後、全国にひろがる米騒動を告げるのろしだった。
 米騒動の背景には、第1次大戦の戦争景気-物価高騰-軍備拡充のための増税-生活困窮という図式があった。米の消費量がふえ、シベリア出兵で軍用米の大量需要が見込まれたこともあって、米の買い占め、投機が横行した。しこたまもうけた商人もいた。
 騒動は各地に飛び火し、約百万人が加わる異常事態になり、襲撃、談判、放火が続いた。寺内内閣は、力で一揆を押さえこもうとし、のべ10万に近い兵士を出動させた。人びとに銃や剣を突きつける軍や警察の若者もまた困窮者の息子であり、夫だった。
 大阪朝日の鳥居素川は社説で「政府者は…国民の生活を脅かし、良民をして暴民に化せしむるも尚悟らず」と鋭く批判した。
 政府はやがて「米騒動の一切の報道を禁ずる」という暴挙に出る。政府と新聞の亀裂はさらに深まり、以後、言論弾圧が人びとの暮らしの核を切り裂いてゆく。   (辰濃和男)

『画報近代百年史』
全国を捲きこんだ大嵐
 米騒動には、労働者・農民・漁民・被差別部落住民・兵士・市民・学生・婦人が参加し、さらに朝鮮人も加わった。その要求は米を安く提供せよという経済的なものから、県外への米の移出を禁止せよという初歩的に政治的なものをへて寺内内閣を倒せという純然たる政治的なものにまでおよんでいた。全人民層が“米“というただ一つの問題のために立ちあがったということは、民衆の生活と安全がどんなに激しく脅やかされていたかということの証拠であった。当時シベリア出兵の問題があり、出兵と戦争への不安は大きくのしかかっていた。一方、土地を求める農民の小作争議は数を増しており、農村の米騒動の襲撃の対象となったのは地主や高利貸や地方銀行の頭取であった。“平和とパンと土地”--ロシア革命のスローガンとなった問題は、日本にも存在していたのである。米騒動が直接の動機となって寺内軍閥内閣は瓦解したが、米騒動は、けっして“米”だけの問題ではなかった。それは、当時の日本の「政治的社会的欠陥」のいわば集中的な表現であり、このことから「革命的闘争の基調をなすものは組織である」ことを日本のプロレタリアートは学んだのであった。

『世界大百科事典』
1918年7月23日,富山県魚津町の漁民妻女たちが米の県外移出を差し止めるべく海岸に集まったのを皮切りに,富山湾沿岸一帯に米屋・有力者・役場に対する移出禁止や米の安売り要請の運動がひろがった。これが8月に入って,新聞により全国に報道されるに及んで,民心は大いに動揺した。8月10日夜京都市で被差別部落民が中心となって米屋を襲い,名古屋市でも数万の市民が米穀取引所におしかけたのを皮切りに,一挙に騒動は全国化し,8月13日には首都東京を含む18市40町30村に発生した。この日を頂点に11日から16日までが最盛期であり,8月3日より9月10日にかけての群衆行動発生回数623の65%にあたる406がこの6日間に集中しており,その大半は静岡,愛知,三重,和歌山,大阪,兵庫,岡山,広島,山口といった太平洋・瀬戸内沿岸の9府県が占める。8月17日以降は地方小都市・農村に波及し,とくに山口県や北九州の炭鉱地帯では暴動が続発した。9月11日の三池炭鉱暴動の終結で一連の米騒動は終わりを告げたが,7月23日から9月11日まで,示威・暴動の発生地点は38市153町177村に達し,青森,岩手,秋田,沖縄の4県だけは騒動が発生しなかった。10月中旬まで富山や京都では騒動が散発している。
 都市の騒動参加者の主力は土方,仲仕ら自由労働者,職人,町工場の労働者である。被差別部落民が参加した地点は関西方面を中心に,22府県116市町村に達する。民衆は米屋に対し米の約半値の安売りを,富豪に対しては救済寄付金を要求し,相手が要求を入れぬとき,あるいはふだんから民衆に憎まれている場合には,家を打ちこわしたり焼いたりした。工場労働者は舞鶴や呉の海軍工厰の場合のように,局地的には暴動の主力となっているが,一般的には,分散的に騒動に加わるか,あるいは労働争議を起こして街頭の騒動に呼応した。8月中のストライキ件数はそれまでの月間最高記録の108件である。農村では地主と小作人の対立の激しい所や,飯米に困っている貧農の多い都市周辺地帯で,地主や米商が襲われた。
政府の対策
政府はまず警察力による鎮圧をはかったが,大都市や炭鉱の場合はほとんど効果がなく,逆に多くの警察署や派出所が襲われた。そこで京都市を手はじめに26府県34市58町28村計120ヵ所で,延べ9万名以上の軍隊が動員された。大阪・下関が約1万,門司・神戸・宇部炭鉱・戸畑が約5000,和歌山・八幡が約4000,東京・呉・広島・新原炭鉱(福岡)が約3000。大阪,神戸,呉,宇部,佐賀県相知炭鉱ではとくに激しい衝突が起こり,民衆側に死者30名以上が出た。戦前民衆暴動に出兵をみた例は,秩父事件をはじめ9回あるが,米騒動のときのような大規模出兵は空前絶後である。組織と武器をもたぬ騒動はたちまち鎮圧され,出兵下で騒動が3日と続いた例はない。また,8月14日に新聞報道が禁止されたことも騒動の終結をはやめた。検挙者は少なくとも2万5000名。うち8253名が検事処分を受け,7786名が起訴され,第一審では死刑2名,無期懲役12名,10年以上の有期刑59名を数えた。とくに被差別部落民はねらいうちに検挙され,総人口の2%を占めるにすぎない部落民が検事処分者の10%を超えるという差別裁判を受けた。大審院で死刑を宣告された2名も部落民であった。
 政府は8月13日300万円の恩賜金を各府県にわかち,1000万円の国費を米価対策に支出することを発表し,各府県に指令して資産家の寄付金による米の安売りを行わせた。しかし騒動により米価が下がったとの印象を国民が抱くことをおそれ,8月28日には安売り打切りを指令し,米価対策費も400万円しか支出しなかった。このため米価はふたたび上昇し,年末には米騒動当時の水準にまで達したが,騒動後の実質収入の増加のため騒動は再発しなかった。
意義
米騒動は組織的指導部をもたぬ大衆の自然発生的暴動であったが,1918年の場合は,江戸時代の打毀(うちこわし)とは違った意義をもっている。すなわち米騒動は独占資本・寄生地主階級と天皇制支配体制に対する労働者・農民の反抗であり,それを小ブルジョア層が支援した。米騒動はまたシベリア出兵に対する無言の批判であった。ほとんど沈黙を守る政友,憲政,国民の3党に代わって全国の新聞が言論の自由擁護と倒閣の論陣を張り,すでに元老の支持を失った寺内内閣は9月21日総辞職した。官僚支配では民心の安定は不可能とみた元老は政友会総裁原敬を首相に指名した。政党政治のかもしだす政治的自由の拡大のなかで,労働者・農民・水平社・婦人・学生・普選・社会主義運動などの社会運動が開花し,大正デモクラシーの最盛期を現出した。また米騒動は世界史的には翌年の朝鮮の三・一独立運動,中国の五・四運動と連動するロシア革命の波紋の一つをなし,世界資本主義の全般的危機に日本もあみこまれたことを示すものであった。執筆者:松尾 尊兊

写真など
『朝日クロニクル20世紀』
岡山では8月13日午後8時ごろから、雨降るなか蓑笠、合羽などに身を固めた若者が続々と集まりだし、1時間足らずで2万人にも膨れあがった。群集は市中の米穀商を次々と襲撃した。写真は富豪の邸宅と隣接する精米所の焼け跡(8月14日)。夜半には軍隊が出動、鎮圧する。





『朝日クロニクル20世紀』
関西に起きた米騒動はすぐさま東京にも伝播。8月13日夜より、日比谷公園、銀座通り、日本橋蛎殻町、浅草公園などに多数の群集が集まり、米屋や商店のガラス戸などを破壊する騒ぎになった。あわてた東京府は外米1升10銭で廉売することを決定した。写真は14日、下谷青年団の白米巡回廉売。


←出動した武装在郷軍人会(大正7年8月11日夜大阪)とキャプションにある。
大阪の第4師団は全部隊全員出動した、それでも足りずに、在郷軍人まで出動となったものか。
『大阪毎日新聞号外』(大7/8/14)に、「*在阪部隊全部出動す
*歩、騎、砲、輜重の諸隊、全市の大警戒に任ず
十三日夜に入りて大阪市内各所の群集ますます増加して刻々不穏の状態を加ふるに及び第四師団にては歩兵第八第三十七両連隊の殆ど全部外更に砲兵四個中隊に次で騎兵三個中隊輜重兵二個中隊も漸次繰出し在阪部隊は僅少の留守隊を残せるのみとなりて殆ど全部を出動せり」とある。
下の写真は「京都で軍隊出動 大正7年8月12日 京都ヘ出動した歩兵38連隊」とある。

市民の騒動に軍隊が出てくるようになると終わりは近い。軍隊は誰のためのものか、国家とは誰のためのものか、貧乏人のためのものか、それとも富豪のためのものか、サルでもわかる明確な解答が示される。体制が頼るその軍隊も在郷軍人も貧乏人である。貧乏人が貧乏人を鎮圧するのか。できるのか。軍隊も反乱に加われば、体制の終わりである。

“おかか“たちの騒動は何もこの年が初めてではなかったが、この年は大ヒットした。全国に広がり、明治体制と明治神話が大崩壊するその一歩手前まで追い詰めた。







 音の玉手箱
 精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石

Cherry pink and apple blossom white


HAUSER - Cherry Pink and Apple Blossom White
Cherry pink and apple blossom white

関連情報

放送の合間にこんな曲が流れます(予定)

ちゃっきり節
麦畑」  


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資料編の索引

50音順

丹後・丹波
市町別
 
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市

若狭・越前
市町別
 
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市



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