丹後の地名プラス

そら知らなんだ

与謝郡は新羅郡
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -42-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
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少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上、生物の寿命上、言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

丹後国与謝郡

与謝郡は国府が置かれた所で、丹後国の中心であった。郡域はだいたいは今の宮津市、与謝郡与謝野町、与謝郡伊根町で、丹後半島の東側になり、天橋立や伊根の舟屋などで全国的に知られている。
郡名の文献上の初出は『日本書紀』の雄略天皇二二年七月条に、
秋七月に、丹波國の餘社郡の管川の人瑞江浦嶋子、舟に乘りて釣す。…
顕宗即位前紀に、
難を丹波國の余社郡に避る。
仁賢即位前紀に、
難を丹波國の余社郡に避りたまふ。

浦島太郎やオケヲケの話の条に出てくる。この当時に「郡」はないであろう。当書自身が、郡は大化改新でできたと述べている。しかしヨサという地名はあったのであろう。
考古資料としては藤原宮出土木簡
「与射評大贄」とある。

その後『続日本紀』和銅六年(西暦713)四月三日条に
丹波国から、加佐、与佐、丹波、竹野、熊野の五郡を割いて、始めて丹後国を設置した。
今は与謝と書くが、これは丹後風土記に書かれている文字でもある。元々が当字だから、いろいろな漢字を当てたのであろうが、後には与謝と書かれている。

ヨサは何のこと。従来の説

ワタシはカサもヨサも新羅(含・加耶)のことと見ているが、そう明言した先人はない。
従来はヨサの意味はだいたいは次のように考えられてきた。
『大日本地名辞書』
【与謝郡】加佐郡の西北にして、丹後の中央なり、宮津湾を腹心に抱き、東北に海洋を控す、今面積八方里、二町二十三村、人口五万五千、治所は宮津に在り。与謝は和名抄与佐と注し、七郷に分つ、雄略紀丹波国余社郡、顕宗紀丹波国余社郡に作る、又吉佐に作る。倭姫命世紀并に神皇正統記に、崇神帝の時、天照大神を吉佐宮に遷幸なしゝ由見ゆ、惟ふに与謝はもと海湾の名にして、之を陸上に広及し、今の丹後の域内皆与謝の名に総べられしごとし、国郡制定の際五郡に分ちぬ。

『与謝郡誌』
…郡名の起原に就きては種々の説あり由来地名の解釈は頗る困難にして多くは不明なり。本郷の郡名また然り、関清謙の与謝称呼考に「往昔豊宇賀ヒメ命以二天吉葛一盛二真名井水一調二度皇大神神饌一故名二其地一曰二吉佐一也」と云ひ比の天吉葛は新井白石の東雅に「アマノヨサヅラ」と訓し、細川忠興慶長五年十一月加佐郡笶原神社再建の棟札に「崇神天皇即位卅九壬戌歳使丁二豊鋤入姫命一遷丙天照大神、草薙劔、月夜見神、于乙此地甲、以奉レ斎、一年三月矣、燃後鎮二其御霊代一又遷二与謝郡九志渡島一以泰レ斎、此時始有二与謝郷名一」となし、小松国康の丹後旧事記に「余社ノ郡名ノ文字ハ豊受皇太神ノ垂跡此地ニ残リテ余社ノ宮卜祭ルガ故ナリ」と云ひ、大原美能理の皇大神四年鎮座考には「伊邪奈岐大榊大に往通給ふ梯立の本に御舎造り隠り坐せし御舎なる故に籠神社と称す此社に坐って御子神等に事依し給ひしに囚て地名を依事(ヨザ)(与謝)と云ふ爾後天照大神の入り御せし故に尊みて与謝宮と称へ云々」ごなし関氏の丹後考に地域瓢に似たるより本字匏となし此の説は上井鼎また「丹後にのぞむ海を吉佐の海といふ其形ひさごの如きかひどきとの音通にて吉の字を用ひ吉佐と匏を読ましめしか云々」といふ。又籠神社編纂の同神社誌に物部依網本郡物部郷に住し近郷を領知したる由を載せて与謝の郡名も是れより出でしと云へるも、之れ等の諸説如何あらん、其文字も倭姫世紀、神皇正統記に吉佐と書き雄略紀に餘社、顕宗紀に余社、和名抄に與佐、延喜式,正倉院文書、風土記逸文等に與謝等に作れるも就中多く用ひらるゝものは與謝なりとす。與謝の起囚仁就ては恰かも中郷の田庭か丹波と呼びて丹波郷となり丹波郡となり更に廣及して丹波国と呼ばれしが如く、今の與謝村より水利に随て流布し一郡全體の総名となれるものと簡単に見ては如何にや與謝村の字に與謝あり與謝の小字に又與謝あり或ひは起因地にはあらざるか尚ほ考ふべし。
大先人たちも手も足も出ぬ、まったく歯が立たぬの感があるが、地名だから、大先生でも解明できないそんなに超難解な意味があるはずもない、ダレでもが理解できる簡単なものでなければ、地名とはならない。何か基本が間違ってはいないのだろうか。

また金沢庄三郎博士の『日鮮同祖論』を再録するが、
丹後国加佐郡のことであるが、丹後国は和銅六年に丹波国の五郡を割いて始めて置かれた国であるから、天武天皇白鳳五年紀には丹波国訶紗郡と見え同国与謝郡も顕宗天皇紀に丹波国余社郡とある。この与謝の地は四年間天照大神の鎮座ましました処で(倭姫世紀)、天椅立は伊射奈芸大神が天に通ふため作り立てたまうものといふ古伝説(丹後国風土記)もあり、此辺は古代史上研究すべき値の多い地方である。天橋立は、嘉祥二年三月興福寺の大法師等の奉賀の長歌にも匏葛(ヒカカタノ)(アマ)()椅建(ハシダテ)践歩(フミアユ)()天降利(アモリ)(イマ)志志大八洲(オホヤシマ)と詠み、又釈日本紀にも兼方案之、天浮橋者天橋立是也といっているが、丹後国風土記には与謝郡郡家ノ東方ノ隅方ニ有速石里、此里之海ニ有長ク大ナル石前(イソノサキ)、長二千二百二十九丈、広サ或所ハ九丈以下、或所ハ十丈以上、二十丈以下、先ヲ名ケ天椅立、(シリ)ヲ名久志浜(シカ)云者ハ、国生大神伊射奈芸命、天ニ為通ヒ行ント而椅ヲ作リ(タマウ)、故云天椅立、神ノ御寝(ミネ)坐セル間ニ仆伏キ、(カレ)怪ミ久志備坐、故云久志備浜、此中間云久志、自此東ノ海ヲ云与謝海、西海云阿蘇海と見えて、二神の故事を語り伝へている。この由緒ある土地に、加佐郡・久志浜・与謝海・阿蘇海など、天孫降臨の筑紫にあると同型の地名を発見することは、偶然の暗合とは考へられない。
博士は当時の世情下では、ヨサはソフルのこと、新羅のことですよ、と明言はしないが、そう言いたいのである。ソフルにヨという、たいして意味のない接頭語がついたもので、のちにフルが落ちたもの、それがヨサです。クシビ、クシとかアソもそうです、舎弟のハシクレのつもりのワタシが説明すれば、そういいたいのであろう。
ワレラにはヘンなクセがあって、お茶碗とかお箸など、言うが、その「お」はあってもなくてもよい接頭語である。「お茶碗」と「茶碗」はチャウやろ、という議論をするようなことで、ヨサと新羅はチャウやろと見てはならないようである。同じ茶碗を人によっては茶碗と呼ぶし、お茶碗とも呼ぶ、同じソフルをヨサフルとも呼ようになり、のちにフルが落ちたと見るのが正解なんですよ。と。

ヨサは本当に新羅か

吉田東伍博士は「与謝はもと海湾の名にして、之を陸上に広及し、今の丹後の域内皆与謝の名に総べられしごとし」と述べられるが、そうではなかろう。
永浜宇平氏の『与謝郡誌』には「與謝の起囚仁就ては恰かも中郷の田庭か丹波と呼びて丹波郷となり丹波郡となり更に廣及して丹波国と呼ばれしが如く、今の與謝村より水利に随て流布し一郡全體の総名となれるものと簡単に見ては如何にや與謝村の字に與謝あり與謝の小字に又與謝あり或ひは起因地にはあらざるか尚ほ考ふべし」とあるが、これだろう。
加悦谷の一番奥に与謝(よざ・よさ)という地名が残っている。現在の京都府与謝郡与謝野町の旧加悦(かや)町の与謝という所である。
与謝は元々はこのあたり、恐らくは今は加悦谷と呼んでいる地こそが、与謝だったと思われるのである。この地名が海辺にも広及したものであろう。
今も加悦谷と呼ぶくらいで、その加悦は新羅の中の加耶(かや)のことであろう。加悦とは新羅なのである。そうであるなら言葉は違うが、今もまちがいなく当地は新羅と呼ばれているのである。
加悦谷は旧加悦町で、その中心地が加悦になる、「かやのいちは」と中世以来呼ばれるところ、今は縮緬街道で観光名所となっている。加悦谷祭は当地の天満神社の祭礼が中心となっている。

縮緬街道に面して急石段の参道がある。天満神社は中世くらいに祀られたものか、この奥に吾野(アガヤ)神社(式内社)があり、その祭神をかやの姫という。
加悦は古代朝鮮の国名から出たものと思われる。日本では任那(みまな)とか(から)(から)と呼んだりする所で、加耶、加羅、加良、駕洛などとも書かれる。日本に一番近い外国であった。
カヤ・カラには広狭二様あって、加耶諸国全体をさす広義と、加羅諸国中の特定の国(金海加羅、高霊加羅)を呼ぶ狭義とがある。日本では韓と呼んで古代朝鮮の諸国を、唐(から)と呼んで海外のすべての国々を指すこともある。
広義の加耶諸国は、時代により変動し、洛東江下流域を中心に、ときに中流域まで及んでいる。加羅諸国は三国時代前半期に活躍し、562年に新羅に併合されるが、その多くは三国時代後期にかなりの自治を許され、統一新羅時代にもその伝統が生きていたという。加羅諸国の主な国は、古寧(慶北、咸昌)、卓淳(大邱)、碧珍(星州)、大伽耶(高霊)、非火(慶南、昌寧)、多羅(陝川)、阿羅(咸安)、金官(金海)、小伽耶(固城)。加羅諸国は山地、丘陵、沼沢の多い地形的条件と、大国に隣接していなかった国際環境などから、基本的には小国分立の状態であった。5世紀後半から6世紀中葉にかけて、百済、新羅の侵略に対抗するため、五伽耶、六伽耶、加羅七国、浦上八国など加羅諸国の連合体を組織することもあったという。

今の天満神社本殿の裏に吾野神社↓が鎮座。この天神山の一番高い所にある。

祭神はかやの姫という。卑弥呼さんのような人であったのであろうか。
加耶や新羅といっても、かなり倭人的な、倭人とそう変わらぬ風俗の国であったと感じられる。

加悦地区の奥というか西側に加悦奥というところがあるが、そこは『女工哀史』の細井和喜蔵の生地である。

柴神社



与謝の二ツ岩という集落、街道沿いに柴神社がある。与謝峠の登り口にあり、農村というよりは宿場街の感じがある。当地は与謝蕪村の母げんの生地と伝えられている。
柴はシハラ(ソフル)であろうか、それにヨが付いてヨシハラ、ハラが落ちてヨサとなったものか。ここが与謝の起源地と伝わるそうである。当社は渡来人の祖の男女神を祀るものであろうか。

『与謝郡誌』
柴神社
 與謝村字與謝小字二ッ岩二十番地鎭座、村社、祭神伊邪那岐命、往古餘社といふ地に諾冊二尊を祀りしも元和年中諾尊を此に遷し嘉永三年五月再建明治六年村社に列せらる。例祭同上、氏子四十四戸、境内稻荷の小祠あり。
 尚同小字百八番地に無格称二ッ岩神社ありて前項餘社に諾冊二尊を祀りしも一柱を他に移して柴明神と號し当社を二ッ岩明神といふ。外に無格社愛宕神社あり。

『加悦町誌』
柴神社 与謝小字二ツ岩
 伊邪那岐命を祭る。
 初め「余社」という地に二ッ岩社と称して、伊邪那岐命、伊邪那美命の二神を祭っていたが、江戸期元和年中に伊邪那岐命だけ柴神社へ移し、二ツ岩社は、大きな岩を神格化したものであり、夫婦(めおと)岩ともいわれ、ここが地名余社(与謝)の起源だと伝えられている。
 その後柴神社は、一八五〇年(嘉永三年)五月再建された。境内社に稲荷神社がある。

「京都新聞」(99.03.30)
*岩石と語らう91*二ツ岩(与謝郡加悦町与謝)*古代宗教探る手掛かり*
 天橋立の内海(阿蘇海)にそそぐ野田川をさかのぼると、加悦谷の南のふところ、与謝郡加悦町与謝地区に突きあたる。山のふもとに建ち並ぶ民家の一角に、長さ三㍍ほどのだ円形の岩に、直径四㍍ほどの丸い岩が寄りかかる格好で、「二ッ岩」がある。そばに小さなほこらと鳥居が建ち、雄大にそびえる大江山を正面に望んでいる。
 地元に残る資料によると、この岩には伊邪那美命(イザナミノミコト)がまつられている。しかし、江戸初期(十七世紀初め)に伊邪那岐命(イザナギノミコト)が少し離れた神社に移されるまでは、二神一対の「夫婦(めおと)岩」として地域であがめられていたという。
 イザナギとイザナミの神は、日本列島を形成したとして神話に登場する。そこで「二ツ岩が古代宗教の起源に何らかの関係があったのでは」との説をとなえるのは、加悦町金屋の郷土史家、杉本利一さん(七三)。
 近くの天橋立は、天と下界を結ぶ架け橋としてこの二神がつくったとされている。その天橋立と二ッ岩の間に広がる加悦谷には、古代の日本で有数の巨大勢力があり、大和朝廷との結びつきが強かったことをうかがわせる大型の前方後円墳がいくつもある。
 さらに、日本書紀には与謝という地名が登場する。それによると、兄弟で仁政をふるったとされる仁賢天皇と顕宗天皇が、即位前に二ッ岩近辺に住んでいたという。この二人をたてまつったといわれる神社が与謝の地に残る。
 杉本さんは「古代人は、山や岩、木など自然にある大きなものに神が宿るとして信仰を深めた。古代史の話題が豊富な与謝郡内で、イザナギとイザナミの神が宿る与謝地区の二ッ岩は、古代宗教を知るうえで重要なカギを握っているのかも知れない」と話す。
 今は、年に一回、地区の氏子たちがみこしと神楽を奉納する時だけ華やいだムードに包まれる。普段は気にとめる人は少ないものの、時をへて大岩は二つ仲良く古代宗教の神秘をにおわせる。

始祖降臨の山、与謝山がこのあたりにあるのでなかろうか。大江山連山のどこかか、それとも磯砂山か…



加悦谷は古代遺跡の宝庫

当地の一帯は丹後でも有数の古代遺跡の宝庫である。ものすごいものである。量も多いが質も高い。
遺跡地図
同じ新羅郡でありながらも、加佐郡は足元にも及ばない。
遺跡や遺物はたくさんありすぎるので、紹介しきれないが、これはその中でも最も古い時代の遺物である。「人面付土器。温江遺跡。弥生時代前期」とある。紀元前400年くらいのものという。7、8センチくらいのものである。当時温江(あつえ)のあたりに暮らしていた人々の顔がわかる。頭が狭いように見える。
この顔をみるとワタシは、近所に住んでいる人の顔が重なる、ソックリというか、頬のあたりの特徴は特によく似ている。その人の苗字は、新羅・加耶系渡来人の雄といわれる氏族のもので、この顔はその先輩の顔のようである。青年団にいた○○君も温江の出身と言っていたが、口元が似ている。職場にいた××さんも温江だと言っていたが、まったく似てない。よくがんがる性格である。

それから200年後くらいの日吉ヶ丘遺跡↑
鉄が出土したことと、こんな時代にこんな大きな貼石墓が、と驚かせた。最近の発掘では二重の環濠があった。内容もすごくて、これは管玉(677個)と朱。全国さがしてもこれだけの玉はなく、丹後最初の王と見られている。神武さんなどよりは何百年も早い。何か女性の冠のような気がする、もしそうなら卑弥呼より500年も早く丹後には女王がいたことになる。この時代に多量の鉄となると、素材はこの地の人々の故国(加耶地方)から得ていたのではなかろうか。
温江は与謝野鉄幹の出身地である。

謁叡郷


加悦谷は与謝郡謁叡(あちえ)郷である。式内社に阿知江神社(湯ノ谷。大虫神社に合祀)、謁叡イソ(石+山)部神社(野田川町岩屋。白髭神社といった。イソベのソはあるいはソフルのソか)がある。加悦谷は名神大社2社を含め、式内社の宝庫でもある。
今は温江という地名となって残っているが、郷域は今の温江よりも広くて、少なくとも加悦谷の全域であろうと思われる。
このアチは、渡来の名であって、漢氏の祖・阿智使主(あちのおみ)などのアチで、阿利叱智(アリシチ)の縮まったものであろう。




(参考)
『三国志』魏志東夷列伝の韓の条によると、
3世紀初頭は、半島南部には3種の韓族が分立し、南西部には馬韓諸国(後の百済諸国)が、南東部には辰韓諸国(のちの新羅諸国)が割拠していたという。弁辰(加耶諸国)はほぼその中間に存在したと推定される。彼らは辰韓と雑居して服装も言語も風俗も類似しているが、宗教的行事は異なっていたという。またこの地方は鉄の産地で、韓・濊(わい)・倭の諸国が争ってこの鉄を取り、鉄は楽浪・帯方2郡にも供給されたとしている。弁辰諸国はだいたい慶尚南道方面を中心とする地域と比定され,それはいわゆる任那(みまな)諸国として、『日本書紀』によれば倭の進出によってその支配下におかれたとされる地域であるが、倭の任那支配に疑問がもたれ、この地方は単に加羅(加耶・伽耶)と呼ぶことが多い。

(地図)


「三国志魏書弁辰伝」(東洋文庫本による)(地図↑↓も)
〔第一弁辰伝〕弁辰もまた十二国である。〔その他にも〕また多くの小さな別邑(小国)があり、そこにはそれぞれ渠帥(首長)がいる。その勢力の大きな者を臣智(しんち)と名づけ、その次には険側(けんそく)があり、その次には樊?があり、その次には殺奚(さつけい)があり、その次には邑借(ゆうしゃく)がある。
 巳柢国・不斯国・弁辰の弥離弥凍国・弁辰の接塗国・勤耆国・難弥離弥凍国・弁辰の古資弥凍国・弁辰の古淳是国・冉奚国・弁辰の半路国・弁〔辰の〕楽奴国・軍弥国・弁軍弥国(重複であろう)・弁辰の弥烏邪馬国・如湛国・弁辰の甘路国・戸路国・州鮮国・馬延国・弁辰の狗邪国・弁辰の走漕馬国・弁辰の安邪国・馬延国(重複であろう)・弁辰の涜慮国・斯慮国・優中国があり、弁辰と辰韓とを合わせて二十四国である。大国は四、五千家、小国は六、七百家で、総計して四、五万戸である。
〔辰韓の〕十二国は辰王に臣属している。辰王は常に馬韓人を用いている。〔辰王は〕代々相継いでいるが、辰王は自分みずから〔の意志で〕王になることはできない。
 『魏略』では、つぎのように言っている。
  明らかに〔辰韓人は〕他の所から移り住んだ人たちである。それ故に馬韓のために〔辰韓が〕制御されているのである。
 〔弁辰の〕土地は肥沃で、五穀や稲を植え〔育てる〕のに適している。蚕を飼い桑を植えることを知っていて、縑布を作り、牛馬に乗る。嫁を娶る時の作法には、男女で区別があり、〔それぞれ異なる礼儀に従っている〕。大鳥の羽根を用いて死者を送るが、それは死者を〔天上に〕飛揚させたいからである。
  『魏略』は、つぎのように伝えている。
  〔弁辰の〕国々では、屋根を作るのに横に木を積み重ねて作っていて、あたかも牢獄のようである。
 〔弁辰の〕国々から鉄を産出する。韓〔族〕・濊〔族〕・倭〔族〕が、みな鉄を取っている。どの市場の売買でもみな鉄を用いていて、〔それは〕中国で銭を用いているのと同じである。そしてまた〔鉄を楽浪・帯方〕二郡にも供給している。
 〔弁辰の〕習俗は、歌舞し飲食することを喜ぶ。瑟(大琴)があって、その形は筑に似ている。この瑟を弾く、また音曲がある。子供が生まれると、石でもって子供の頭を圧す。〔それは〕頭を狭くしたいがためである。そのため今の辰韓人はみな狭い頭をしている。男女〔の習俗は〕ともに倭に近く、また〔男女ともに〕文身(入墨)している。〔戦闘では〕、歩戦が巧みで、〔用いている〕武器は馬韓と同じである。人々の礼儀では、往来を行く者が出会った場合、すすんで相手に路を譲る。
 〔第二弁辰伝〕弁辰は、辰韓と入り雑って生活している。また〔弁辰には〕城郭があり、衣服や住居などは辰韓と同じである。言語や法俗も共に似ている。鬼神を祭る仕方には、異なっているところがある。竈をそなえているが、〔それは〕みな戸の西側につくっている。〔弁辰の〕涜盧国は倭と〔境界を〕接している。十二国にはそれぞれ王がいる。〔弁辰の〕人々の体格は大きく、衣服は清潔で、髪は長く伸ばしている。そしてまた広幅の細布を織っている。〔弁辰の〕規律は特に厳格である。



「倭」の位置に注意。元々は倭はこのあたりにあったものか。そうならば、倭といってもそこは加耶であり、新羅ではないか。まだ国もなく国境もない時代であるし、今の韓国内の「クニ」であって、日本で言えば大和だ丹波だという程度の違いであろう。暴力的な侵略でもない限りは人がやって来ることは全体として富が増えてありがたいような、今の過疎地のようなことであったろうし、それなら、のちの倭国が加耶や新羅だらけのワケもわかる。日本列島に倭だけが渡ってきて、加耶や新羅は来なかったと見ることはできない。








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 Mozart symphony 40



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市町別
 
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若狭・越前
市町別
 
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福井県大飯郡おおい町
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