丹後の地名プラス

そら知らなんだ

羽衣伝説
隠された元初の最高神
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -24-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
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少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上、生物の寿命上、言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。


丹後国風土記逸文


丹後の羽衣伝説は風土記に記された古いものである。
『丹後国風土記』(岩波古典文学大系本)より
奈具社
 
丹後(たにはのみちのしり)の國の風土記に()はく、丹後の國丹波(たには)(こほり)郡家(こほりのみやけ)西北(いぬゐ)の隅の(かた)比治()(さと)あり。此の里の比治山(ひぢやま)(いただき)()あり。其の名を眞奈井(まなゐ)と云ふ。今は(すで)に沼と()れり。此の井に天女八人降(あまつをとめやたりくだ)り來て水浴(みかはあ)みき。時に老夫婦(おきなとをみなと)あり。其の名を和奈佐(わなさ)老夫(おきな)・和奈佐の老婦(おみな)()ふ。此の老等(おきなら)、此の井に至りて、(ひそ)かに天女一人の衣裳(きもの)を取り(かく)しき。(やが)て衣裳ある者は皆天に飛び(あが)りき。(ただ)、衣裳なき女娘(をとめ)一人(とど)まりて、(すなは)ち身は水に隱して、(ひとり)懷愧()()りき。(ここ)に、老夫、天女に()ひけらく、「()()なし。()ふらくは、天女娘(あまつをとめ)(いまし)()()りませ」といひき。(天女、答へけらく、「妾獨(あれひとり)人間(ひとのよ)(とど)まりつ。何ぞ()へて從はざらむ。請ふらくは衣裳を許したまへ」といひき。老夫、「天女娘、(いかに)(あざむ)かむと(おも)ふや」と()へば、天女の()ひけらく、「(すべ)天人(あめのひと)(こころばへ)は、(まこと)()ちて(もと)()す。何ぞ疑心多(うたがひおほ)くして、衣裳を許さざる」といひき。老夫答へけらく、「疑多く(まこと)なきは率土(ひとのよ)の常なり。(かれ)、此の心を以ちて、許さじと(おも)ひしのみ」といひて。(つひ)に許して、)(すなは)相副(あひたぐ)へて(いへ)()き、(すなは)相住(あひす)むこと十餘歳(ととせあまり)なりき。(ここ)に、天女、善く酒を()(つく)りき。一坏(ひとつき)飮めば、()(よろづ)病除(やまひい)ゆ。其の一坏の(あたい)(たから)は車に積みて送りき。時に、其の家豐かに、土形(ひぢかた)富めりき。故、土形(ひぢかた)の里と云ひき。此を中間(なかつよ)より今時(いま)に至りて、便(すなは)比治(ひぢ)の里と云ふ。後、老夫婦等、天女に()ひけらく、「(いまし)()が児にあらず。(しまら)(かり)に住めるのみ。早く出で()きね」といひき。ここに、天女、天を(あふ)ぎて哭慟(なげ)き、地に(うつぶ)して哀吟(かな)しみ、(やが)て老夫等に()ひけらく、「()私意(わがこころ)から來つるにあらず。是は老夫等が願へるなり。何ぞ?悪(いと)ふ心を(おこ)して、(たちまち)(いだ)()つる(いた)きことを(おも)ふや」といひき。老夫、増發瞋(ますますいか)りて()かむことを(もと)む。天女、涙を流して、(すこ)しく門の外に退き、郷人(さとびと)に謂ひけらく、「久しく人間(ひとのよ)に沈みて天に(かへ)ることを得ず。(また)親故(したしきもの)もなく、(を)らむ(すべ)を知らず。(あれ)(いか)にせむ、何にせむ」といひて、涙を(のご)ひて嗟歎(なげ)き、天を仰ぎて(うた)ひしく、
  天の原  ふり
()け見れば
  霞立ち  家路まどひて
  
行方(いくへ)知らずも。
遂に退き
()きて荒鹽(あらしほ)の村に至り、即ち村人等に謂ひけらく、「老父老婦の(こころ)を思へば、我が心、荒鹽に異なることなし」といへり。()りて比治の里の荒鹽の村と云ふ。亦、丹波の里の哭木(なきき)の村に至り、(つき)の木に()りて()きき。(かれ)哭木(なきき)の村と云ふ。(また)竹野(たかの)の郡船木(ふなき)の里の奈具(なぐ)の村に至り、(すなは)ち村人等に謂ひけらく、「此處(ここ)にして、我が心なぐしく成りぬ。〔古事(ふること)平善(たひらけ)きをば奈具志(なぐし)と云ふ。〕といひて、(すなは)ち此の村に留まり居りき。()は、謂はゆる竹野の郡の奈具の社に坐す豐宇賀能賣命(とようかのめのみこと)なり。

比治山はどの山か

写真は名木神社境内より、左が磯砂山、右が久次山。
比治(ひじ)山は今は伝わらない。久次(ひさつぎ)山(咋石(くいいし)山)か磯砂(いさなご)山(足占(あしうら)山)とされる。国道312号の峰山町と久美浜町の境に比治山トンネルがあるので、この辺りの山と思われる、風土記記事によれば、磯砂山ではなく久次(くし)山(咋石(くし)山)がそれでないかと思われる。HKの互転で、ヒジ山ともクジ山とも呼んだと思われる。韓国金海市の加耶の金首露王が天降った亀旨峰(クジボン)や日本の天孫降臨のクシフル山(.竺紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)-『古事記』)と同じであり、当山は丹後王国の始祖王が天降ったか、その始祖神が天降った山であろう。もともとはそうした丹後国建国神話とかかわる伝説と思われるが、風土記が編まれた時代では、そこは触れないか忘れたのであろうか。

比治山の真名井に天女八人降り来て

なぜ8人なのか。この八人は北斗七星の八ツ星と思われる。七夕の日に祭りが行われているからである。
『中郡誌稿』
安達三右衛門
(五箇村誌草稿)
田畑(たなばた)神の跡小字大路安達庄蔵氏宅なりこの家代々三右衛門を以て家の名とす大路にて最旧家なりこの事跡口碑に妄説を伝ふ宜しく風土記逸文にしたがふべし
旧七月六日七夕まつりにぎはしく支那の星まつりと混合して竹に短冊をさげてまつり餅をつきて祝ふ
(実地調査)安達氏祖先猟師にて磯砂山雌池にて天人の羽衣を獲云々との古風土記伝説の家と伝へ祖先伝来と称する矢筒一個矢四本及天女と牛を引き居る老翁とを図きたる図一幅を蔵す当地方俗間に有名なり矢筒は真黒になり居りて見分け難き程なり図幅は幾段にも雪を現はし秋草など書き添へ愛らしけれと至て近作にして土佐風の図なり之を織女像と称し七夕以前に之を披閲する時は暴雨ありとて見ること許さず編者郡誌編纂の為め強て之を一覧せしに偶々驟雨迅来す郷人皆其験あるに感歎せり

天羽衣の8人がもし星と無関係なければ、この日は祭日とはしないだろう。8人は星だと認識されていたものと思われる。
昔の中国の人達は、夜空の星々が、北極星を中心として廻っているのを見て、北極星がすべての星を統率する星の王と考え、北極星は、太陽や月を始めすべての星々や鬼神等も統括していると考え、地上の人間や死者の功罪、善悪の行いも調べ、人間の寿命や富貴も司っているとも考えたという。

しかし北極星は二等星だし、周囲にもあまり目立つような明るい星々はない。北斗七星やカシオペア座のWくらいが目立つが、北極星と北斗七星をセットと見て、北斗七星は北極星の眷族と考えていたという。北斗七星は北極星の代行者と見なしていたようである。
さて、北斗七星の八星とはヤヤこしてハナシだが、北斗七星は八ツ星と見られていた。明日香村のキトラ古墳石室の天井に星宿図が描かれている。中国式の星座図であるが、その図には北斗七星も描かれている。



キトラ古墳(明日香村・7世紀末)の星宿図↑に描かれた北斗七星の八つ星。
直径6ミリの金箔を貼って星を表しているが、もうはげ落ちたのか柄の部分の最後の星(大熊座η星)は見えない、その次の二つくっついているのが、ミザールとアルコルの肉眼でも見えるという二重星(グルグルとお互いに回り合っている連星系、互いに何光年と離れているので本当に連星かの疑問もあるという。ミザールもアルコルもそれぞれ連星というが肉眼では見えない)。北斗七星は実は8つの星と見られていたようである。
風土記当時、日本天文学がどこまで発達していたかは不明だが、ここに表された天文知識は外来のもので、明日香の夜空ではなく、高句麗とか唐だとか、そのあたりの夜空だとか言われる。
「天女八人降り来て」とは、天上界(星の世界)の王族の乙女たちが舞い降りてきたということであろう。その一人が豊宇加能売命(=豊受大神)だということになる。


和奈佐(わなさ)老夫老婦
その時、地上にいた彼らは何者か。ワナサは阿波国の地名のようである。
風土記の時代以前の地名なのであろう。
『播磨国風土記』
美嚢(みなぎ)の郡
志深(しじみ)の里 土は中の中なり。志深と號くる所以は、伊射報和気(いざほわけ)命、此の井に御食したまひし時、信深(しじみ)の貝、御飯の筥の縁に遊び上りき。その時、勅りたまひしく、「此の貝は、阿波の國の和那散(わなさ)に、我が食しし貝なる哉」とのりたまひき。故、志深の里と號く。
於奚・袁奚の天皇等の此の土に坐しし所以は、汝が父、市邊の天皇命、近江の國の摧綿野に殺されましし時、日下部連意美を率て、逃れ來て、惟の村の石室に隱りましき。…

岩波本の和那散の注
徳島県海部郡海部町鞆浦の古名。延喜式神名帳の那賀郡和奈佐意富曾神社の旧社地。逸文阿波国風土記に奈佐浦とある(四九一頁)。播磨国へ巡行される以前にこの地を巡行されたとするのであるが、履中天皇と和奈佐との関係は明らがでない。
伊射報和気命は17代履中天皇のことである。仁徳天皇の第一子。

『阿波国風土記逸文』
阿波國
奈佐浦
阿波の國の風土記に云はく、奈佐の浦。奈佐と云ふ由は、其の浦の波の音、止む時なし。依りて奈佐と云ふ。〔海部は波を奈と云ふ。〕

今も奈佐湾と呼んでいる。

『出雲国風土記』意宇郡
来待(きまち)川 源は郡家の正西廿八里なる和奈佐(わなさ)山より出で、西に流れて山田の村に至り、更に折れて北に流れて入海に入る。〔年魚あり。〕
今も和奈佐山があり、麓に和奈佐神社がある。和奈佐神社

『出雲国風土記』大原郡
船岡山 郡家の東北のかた一十九里一百八十歩なり。阿波枳閇委奈佐比古(あはきへわなさひこ)命、曵き來居ゑましし船、則ち此の山、是なり。故、船岡といふ。
この山の頂に船岡神社(船林神社)がある。舩林神社


風土記の時代の記録はこれだけだが、『延喜式』にも記録がある。
阿波国那賀郡海部郷の式内社、和奈佐意富曽(わなさおふそ)神社。
同社は現在は大里松原にあるが、もとは海部川対岸の鞆浦の大宮山の山上にあったもので、郡内最古の延喜式内社だそうである。奈佐湾はその南である。和奈佐意富曽神社


磯砂山七夕伝説を伝える安達家は大路集落一の旧家という、狩人の子孫と伝わるそう。ワナをつかった猟師か。兵庫県養父郡八鹿町に式内社・和那美(わなみ)神社がある、ワナアミのことであろう、このワナではなかろうか、鳥取氏の遠祖なのかも…
同家のあたりを小字尾細(おぼそ)というそうで、和奈佐意富曽神社の意富曽ではないかとも言われる。
阿波国の和奈佐一族は出雲や丹後へ移動してきたのではなかろうか。イサナコ山、名木神社、奈具神社のナもあるいはこの一族と関係があるのかも知れない。渡来系人々が丹後へ天降って来る以前から当地一帯に住んでいたのであろうか。
そこへやってきた渡来人たちは酒造りや先進産業(製鉄など)を教えてくれたので、村々は富み栄えた、しばらくは仲良く暮らしていたが、やがて彼らを追い出してしまったと伝説は語る。本当に追い出したのかはリクツに合わないしアヤシイかも知れない。

奈具神社の祭礼のノボリには新羅大明神の名もある。住吉神社系と新羅神社系の共存共栄の地であり、神社なのでなかろうか。
和奈佐一族は海人族であろうから、北極星は航海には欠かせないので、その信仰持っていたものか、あるいは新羅系の渡来人たちが持っていたものか、あるいはそれら以外に由緒があるものか、丹後風土記だけでは何とも判断できない。もっと広い検討が必要であろう。

ベースに鉄があるのでなかろうか。志染は今も播州刃物で知られる地であるし、来待は来待石という赤っぽい凝灰岩で知られるが、鉄分が多いのではなかろうか。
磯砂山はその鉄分のためか磁石が狂う山であるし、麓の藤社神社には天目一箇神社がある、竹野川を下れば竹野郡鳥取郷があり、遠所製鉄遺跡がある。
『西丹波秘境の旅』(澤潔)
『闇の日本史』(彩流社)によれば、漁民であるアマ(海士・海女)が、魚をとることを漁(すなどり)いう。本来は「砂採り」の意で、真砂(まさご)と呼ばれる砂鉄を採集する産鉄民が、同時に漁民でもあったので、「スナドリ」といわれた。出雲の名物、「泥鰌(どじょう)すくい」は漁民がドジョウすなわち砂鉄を川か海の浅瀬で採集している姿なのである。スナドリのなりわいはまた古くからイザリ(漁)ともいい、そのときにつける火をイサリ火としう。足の立たぬものもまたイザリ(躄)という。漁の者が産鉄民であり、その産鉄民は職業病として葦萎(な)え(零落して田の神となった一本足の案山子はタタラ神である)になったことによる。かくして海人の謎の産鉄の曙光がみえてきたように筆者は思うのだが? さて。
 また北九州地方では、魚の行商人や海女を「シガ」という。「洲処(すか)」の意である。当然ながら洲処には砂鉄が豊かである。これらの言葉からも、漁と製鉄を兼業した倭人のむかしがしのばれるという。まだ安孫子(あびこ)(網子)という地名があるが、これも「足びき」の転で足を引きずることに由来し、これから発展して山の枕詞ともたっているのは面白い。おそらく彼らは、弥生文化と共に海外からやってきた製鉄民であろう。
 また話はかわるが、丹後峰山町大路(大呂)に海人の羽衣伝説に登場する七夕伝承のワナサ翁とワナサ媼の子孫をもって任ずる安達家の「アダチ」も「足立」で、海人芦田の転であろう。ワナサの「ワ」は「鋳」と同系の熔鉱の関係語であって、大きな熔鉱炉とも考えられる。そのことからみて、ワナサ翁媼は産鉄長者伝説とみられるのである。このようにみると大路(大呂)とは大炉のことであろう。大路の近くの中郡五箇村大字鱒留にある藤社神社の境内社に天目一社があって、天目一箇神を祀っている。



隠された至高神


豊宇加能売命(豊受大神)の性格…ナゾだらけでサッパリわからない。しかしここで調べや考察が止まっては、フツーならそれでもいいが、豊受大神の故地、丹後郷土史家のつもりなら何ともだいぶに物足りまい。と思われるので付け加えると…

羽衣伝説は余呉湖と三保松原に伝わるものも古いが、彼女らはやがて天界へ帰っていく。「地上の星」となった天羽衣は丹後だけで、豊受大神と関わる伝説としては唯一のものである。
風土記の豊宇加能売命は豊受大神なのか。違うという人もあるが、だいたいは同一神と見られている。
豊受大神は、その名すらよくわからない。
『古事記』に
和久産巣日神の子の豊宇気毘売神とあるが、これが豊受大神だろうか。
また、天孫降臨の条に
登由宇氣神、此は外宮の度相に坐す神ぞ、とある、この登由宇氣神は豊受大神なのだろうか。だいたいは同一神とするが、否の見解もある。
『日本書紀』には一切登場しない。
記紀の筆者にもわからない神様であったのであろうか。もともとが日本の神様ではなく、異教徒の外来の神様なのであろうか。

月の神への祈り 神話に遊ぶ」(伊勢市図書館便り)に、(スゴイ図書館だね、どこかのマチの図書館には、同水準の便りなどはムリか、少しは見倣ってガンバッて下されよ)
宮柱立てそめしより月よみの神行き交ふ中の古道 『勢州古今名所集』
月夜見宮から外宮北御門に真っ直ぐに伸び両宮を結ぶ神路通り。かつては神の行き交う道とされ不浄の者はその中央を通ることを遠慮したといわれる。
地元では、月夜見宮の石積みの石が馬に変わり、その白馬に乗って月読尊が夜ごと豊受大御神の元へ通うという伝説が残されている。


神宮巡々2」にも同じ話がある。

月読神と豊受大神は夫婦と見られているようである。夫婦ということはだいたい同一の神様ということにもなる。

しかしさらに、もっと元々を考えれば、豊受大神は羽衣とかケの神様とか、月読神とかいったチッポケなアホくさいような神様でない、豊受大神はもともとは北極星(古代中国では太一(たいいつ)という)であったと見られるので、全天上界の最高神、至高神の属性を持つ、至高の唯一の根元神である。太一は中国では春秋時代から文献に見え、漢代に特に崇拝されたといわれる。日本では弥生以前の文化高い中国のありがたい神様であった。
豊受大神は元々は天照大神などは屁でもない神様of神様であった。日神・月神も統率していた神であった。記紀の筆者達はそれを知っていたので触れることができなかったのでなかろうか、知らぬふりをすることにした。時代が下るにつれて、そのことは次第に忘れられていき、天照大神こそ最高神とするようになっていき、ワレラもそう信じているのだが、豊受に比べれば天照などは最近つくられた、広い世界の地方の田舎神のようである。
「太一」は、伊勢神宮の神饌や遷宮用材を運搬する際の幟や、伊雑宮のお田植え神事の団扇、作業にあたる者の帽子やヘルメットなどにも書かれいて、昔から広く神宮のしるし・マークとされてきたという。
フツーにはこの「太一」は天照のことと考えられているが、そうではないであろう、豊受こそが本来の「太一」であろう。

丹後でもほとんど聞くこともないが、豊受大神は元初の最高神であり、
亦の御名を天御中主神(天御中主尊)と申し、宇宙根源の大元霊、即ち、最高の尊神であらせられる。日本書紀には、最高の尊神は国常立尊となっているので、天御中主神の亦の御名を国常立尊とも申上げている。旧記に「天御中主尊亦名豊受皇太神」と見える。
と籠神社の宮司氏は書いておられる(『元初の最高神と大和朝廷の元始』)。
天御中主(あまのみなかぬし)神とは北極星、太一の日本的呼び名なのではなかろうか、その亦名は豊受大神だと、「旧記」にあるという。「旧記」というの海部家に伝わる書なのであろうか。正解であろう。

地元に伝わる、もう一つの羽衣伝説



磯砂山山頂のモニュメント
磯砂山の麓の大路集落には、もう一つの羽衣伝説が口頭で伝わっている。

『京都の昔話』(昭58・京都新聞社)、
サンネモと七夕さん
 むかしむかし大呂(おおろ峰山町)に、サンネモという若い猟師がおったそうな。
 ある夏の暑い日に、何かいないかと思って、足占山(いさなごさん)の山に登ったそうです。むかしはこの山が火山だったそうで、頂上ふきんの穴に水がたまって、その池には、よう鳥がつくので、今日も何かがおると思って、えっさえっさと登ってみると、木の枝に見たこともないきれいなきれいな着物がかげてあるだそうです。サンネモは正直者ですので、他人の物など盗ったりすることばなかったが、あんまりきれいなものですので、つい持って帰ってみとうなった。そこで知らん顔をして、木の下を通ったら鉄砲の先きにきれいな着物が引っかかってきた。サンネモは大急ぎで我が家に帰って、その着物を隠した。
 池で泳いでいた天女が水から上がって着物を着ようとしたら、着物が見当たらん。
「はてなおかしなことだな。いま通ったのはサンネモだったが、あれは正直者だで、人の物を盗るような男ではないし、そうかというて、風に吹きとばされたようにもないし、着物がないと天に帰ることができんし、困った事になった。どうしようか」と考えこんでしまった。それできれいな娘さんになって、サンネモの家にやってきて、
「私をこの家に置いてくれ」と頼んだ。サンネモも、一人暮らしだし、なにかと不自由しているときだったし、きれいな娘さんなんで、
「よしよし」と二つ返事でこの娘さんを家に置くことにした。そうしてこの娘さんに、嫁さんになってもらった。
 嫁さんになった天人は、いろいろと家の内を調べてみるが、羽衣は見当たらん。そのうちに子供ができて、三つにもなった。
 ある日、その子供に、
「おとっさんは毎朝神様を拝んでおるが、どこを拝んどるか」と聞いてみたら、子供が、「表の床の柱を拝んでおる」言う。それで主人の出て行ったあとで、床の柱をよう調べてみたら柱の下の所にわからんようにして、込め木がしてあった。おかしい思って込め木のところをはずしてみたら、その中に捜しておった羽衣が入れてあった。天女はこれさえあれば天に帰れると喜んで、
「もし私に会いたいのなら、千荷(せんがい)のまや肥の上にこの種をまいて、つるが延びたら、それを伝わって来てほしい。実は私は天女でした。羽衣が見つかったので天上に帰ります」と書き置きをして、羽衣を着て、ひらひらと天に帰ってしまったそうです。
 仕事から帰ってきたサンネモはこの手紙を見て、きれいな女だと思ったら天女だったのか、そんなら、なおのこと別れてなるもんかと、村中を頼んで、千荷のまや肥を積み重ね、その上に残してくれた種をまきつけた。
 するとほどなく種は芽を出し、つるが天に向かって伸びていって、先のほうは雲よりも高う高うなった。サンネモはつる草の葉のもとに足をかけては、えっさ、えっさと昇っていった。何日昇ったか、どれだけ昇ったかわからんほどだったが、とうとう天上に昇りついたようなんで、天上に姿を現わすと、七夕(たなばた)さんや、天人たちが、おおぜい集まってきて、
「ようまあ、ここまで無事に来られたなあ」とみんな喜んで迎えてくれた。
「それでも、おまえが来てくれても、何もしてもらう仕事がないが、瓜畑の番人でもしてほしい。しかし、なんぼ瓜があからんでも(うれても)とって食うことはならんで」ということで、毎日毎日、瓜畑の番人をしておったが、あんまりうまそうな瓜がようけなっとるもんで、一つくらいとって食ってもわからんだろうと思って、一つとって食ってみたら、ほんまにうまいうまい瓜だったんで、も一つぐらいはと思って食っとったら、にわかに大洪水となって、サンネモは、どんぶり、どんぶり流されてしまった。
 それを見た七夕様が、サンネモに向かって、
「七日、七日に会うでえ」と叫んだが、悪魔がおって、
「七月七日に会うでえ」ととりついだんで、七夕さんは、年に一度、七月七日の晩にサンネモと会うことになり、サンネモの流された川は天の川となって今も天に残っとると。
 大呂の七夕様の家には、残された子供の子孫が、今もつづいているそうですが、ほんとかどうかわからんそうです。       語り手・井上 保(大宮町新宮)



どこに豊受大神は祭られているか


伊勢神宮外宮に祀られていることは言うまでもないが、故地の丹後では、
『郷土と美術83』(1984.6) (図も)
古代丹後逍遙 浦島伝説と羽衣伝説の謎(第二章)小牧進三
…比治山(磯砂山)近傍の豊ウカノ売の神を祀る社を図で示すと後図にみるとおり、豊ウカノ売神の鎮座は、比治の真名井の比治の山を頂点に、今日の中郡峰山町・大宮町・竹野郡弥栄町・網野町・さらに兵庫県出石郡但東町を、その分布範囲は放射状に三郡五町に広がる。「延喜式」十三座に及ぶこのような豊ウカノ売神「一神」の祭祀事実をみるのは全国でもその類例をみない。ところが、こうした「一神」十三座の祭祀は、風土記などにもとづく後世の所産祭祀だと言う反論もあろう。しかし氏神とはその名のとおりその地の氏族の祖霊を祀るのを本旨とする。ところが前図で明らかなとなりそうした氏族神の祭祀を拒み介入を許さなかった豊ウカノ売神の古代祭祀圏(権)がそこに横たわっていたとみるのが穏当だろり。ことに十一座が竹野川流域にいちじるしく集約される点がことに重要である。なかでも、中郡大宮町周枳(主基)鎮座の「延喜式」大宮売神社二座(名神大)は竹野川中上流域に位置し比治山に正面鎮座する。一座は若宮売神とし豊ウカノ売神を祀る。さらにもう一座は、天照大神が天の岩屋隠くれのさい大神を神招きした猿女の祖天宇受売(天鈿女)を祀る。同社地から、鏃・管玉・匂玉・瑪瑙・ガラス小玉、の出土をみ、弥生祭祀遺跡とし全国屈指とされる。こうして神はゆえあるところに祀られ、豊ウカノ売神の祭祀ははるか弥生中期の上代にさかのぼりうる。また天ウズメを主神とし祀る大宮売神も全国唯一の社である。ひるがえって比治の山腹には、いまなおかつての真名井を髣ふつとさせる「男池・女池」の沼をとどめ、つい近年まで雨乞いの池とされていた。その比治の山容、かならずしも秀麗な「神奈備」の姿容と言いがたいが、日本海から容易にその山頂が望まれ海人族にとって唯一の指点となる聖山である。ここをみなもととする竹野川は、峰山、弥栄、丹後町の三町の流域沃野をうるおしやがて日本海(丹後町竹野)に流入。一方、熊野郡内を流れる、佐濃谷川、川上谷川、など主流のみなもともこの比治の山へと求められ、視界は、はるか若狭湾をはじめ、遠く「伯耆大山」の山てんを望む。加えて「古事記」がのべる丹波道主の妻丹波の河上(川上)麻須郎女(ますのいらつめ)の里、川上はこの比治の山頂から西北眼下に俯瞰されきわめて注目される。


『摂津国風土記逸文』
稻倉山
攝津の國の風土記に云はく、稻倉山。昔、止與口+宇可乃賣の神、山中に居まして、飯を盛りたまひき。因りて名と爲す。
又曰はく、昔、豊宇可乃賣の神、常に稻椋山に居まして、山を以ちて膳厨の處と爲したまひき。後、事の故ありて、已むこと得ずて、遂に丹波の國の比遲の麻奈韋〔地の名なり〕に還りましき。

稻倉山はどこなのか不明。

『陸奥国風土記逸文』
飯豊山
陸奥の國の風土記に曰はく、白川の郡。飯豊山。此の山は、豊岡姫命の忌庭なり。
又、飯豊青尊、物部臣をして、御幣を奉らしめたまひき。故、山の名と爲す。古老の曰へらく、昔、卷向の珠城の宮に御宇しめしし天皇の二十七年、戊午のとし、秋飢饉ゑて、人民多く亡せき。故、宇惠々山と云ひき。後、名を改めて豊田と云ひ、又飯豊と云ふ。









 音の玉手箱
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地上の星


デーモン小暮閣下「地上の星」with群馬交響楽団 - YouTube
地上の星 / 【桐山絵里子と歌謡NOTE】Vol.8 ~ゲストコーナー~ - YouTube
合唱 地上の星 アカペラ ジョリーラジャーズ - YouTube
女子十二乐坊 12 Girls Band - 地上の星 Chijō no Hoshi - Earthly Stars (Unsung Heroes) - HD - YouTube

白鳥の湖 情景
天女は白鳥と同一視される(余呉湖の羽衣伝説)、しばしば白鳥処女説話系の類型とみなされる。


チャイコフスキー - バレエ組曲《白鳥の湖》 Op.20 カラヤン ベルリンフィル 1971 - YouTube
P.I.Tchaikovsky: Swan Lake (THEME) - Wolfgang Sawallisch - YouTube
【エレクトーン】「白鳥の湖」より情景(チャイコフスキー) - YouTube


関連情報


『逸文風土記』近江国
 伊香小江(存疑)
古老の傳へて
()へらく、近江の国伊香(いかご)の郡。與胡(よご)の郷。伊香の小江(をうみ)。郷の南にあり。天の八女(やをとめ)(とも)白鳥(しらとり)()りて、天より降りて、(うみ)の南の津に(かはあ)みき。時に、伊香刀美(いかとみ)、西の山にありて遥かに白鳥を見るに、其の形奇異(あや)し。()りて()し是れ神人(かみ)かと(おも)ひて、()きて見るに、(まこと)に是れ神人なりき。ここに、伊香刀美、(やが)感愛(めづるこころ)(おこ)して得還(えかへ)()らず。(ひそ)かに白き犬を()りて、天羽衣を盗み取らしむるに、(いろと)の衣を得て隠しき。天女(あまつをとめ)(すな)(さと)りて、其の兄七人(いろねななたり)天上(あめ)に飛び昇るに、其の弟一人(いろとひとり)得飛(えと)()らず。天路(あまぢ)永く(とざ)して、(すなは)地民(くにつひと)()りき。天女の浴みし浦を、今、(かみ)の浦と()ふ、(これ)なり。伊香刀美、天女(あまつをとめ)弟女(いろと)と共に室家(をひとめ)()りて此處(ここ)()み、(つひ)男女(をとこをみな)()みき。男二たり女二たりなり。兄の名は意美志留(おみしる)、弟の名は那志登美(なしとみ)、女は伊是理比咩(いぜりひめ)、次の名は奈是理比賣(なぜりひめ)()伊香連等(いかごのむらじら)先祖(とほつおや)、是なり。後に(いろは)(すなは)ち天羽衣を捜し取り、着て天に昇りき。伊香刀美、(ひと)り空しき床を守りて、?詠(ながめ)すること()まざりき。(帝皇編年記)(日本古典文学大系2) 


『逸文風土記』駿河国
 三保松原(参考)
風土記を案ずるに、古老傳へて言はく、昔、
神女(しんにょ)あり。天より降り来て、羽衣を松の枝に(さら)しき。漁人(ぎょにん)、拾ひ得て見るに、其の軽く軟きこと言ふべからず。所謂六銖(いはゆるろくしゅ)の衣か、織女(たなばたつめ)機中(はた)の物か。神女()へども、漁人(あた)へず。神女、天に上らむと(おも)へども羽衣なし。(ここ)(つい)に漁人と夫婦と()りぬ。(けだ)し、()むを得ざればなり。其の後、一旦(あるひ)、女羽衣を取り、雲に乗りて去りね。其の漁人も亦登仙(またとうせん)しけりと云ふ。(本朝神社考五)(日本古典文学大系2) 







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