幻の古代寺院
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 幻の古代寺院推古32年(西暦624年)に行われた調査によると、寺が46か所、僧尼はあわせて1385人を数えた。仏教公伝(538)より100年後である。 『日本書紀』推古天皇32年 秋九月の甲戌の朔丙子(三日)に、寺及び僧尼を校へて、具に其の寺の造れる縁、亦僧尼の入道ふ縁、及び度せる年月日を録す。是の時に當りて、寺四十六所、僧八百十六人、尼五百六十九人、并て一千三百八十五人有り。 また『扶桑略記』は、 持統天皇六年九月、有敕:「令計天下諸寺。」凡五百四十五寺、寺別施入燈分稻一千束。と記す。 持統6年(692)には全国で、およそ545ヶ寺あったと記されている。 仏教の公伝(538)の150年のちには、これほども寺院があったという。 当時全国66ヵ国とすれば、545÷66=8.3 延喜式では591郡とされるから、545÷591=0.92 丹後国はまだない時代だが、丹後地域にも8ヶ寺くらいはあった、かも知れない。 丹後国5郡だから5ヶ寺くらいはあったのかも知れない。 国分寺創建の50年前の、全国平均からの寺院数の推計であるが、今のところ実際に確認されているのは、俵野廃寺1寺のみである。 丹後国はまともな寺もない国だったのか。飛び抜けて遅れ劣った国だっただろうか。丹後といえば古代史上では飛び抜けて優れた先進の国と普通は見られてきた、それなのにこれはまたどうしたことであろうか。 まともな便所もない町みたいなクソになってしまったのだろうか。 小中学校の洋式トイレ設置率だが、全国平均68.3%、舞鶴は32.4%で、全国平均の半分にもならない、府下でも最低という(京都新聞24/10/9)。ドクソどもの実績だ、どうにもこうにもならんデーターを出されてしなった。まことに恐れ入った、嘆かわしい。次世代の教育でサボルなどはどうしようもないドクソだ、ドクソすぎる、もうちいと人らしいことができんのか、サルでも子は大事に育てる、サルが笑う、舞鶴はサル以下にまで人間性を失ったマチになっていたのか、オヤとしての教育者としての資格があるのかと根本から疑われる。病院つぶしをはじめた頃から、これが心配されるマチになり始めていたが、どうやら本当に心配通りのことのようだ。 それでも大昔のままの舞鶴市会多数はいらぬ陽動をしようとして、アタマにきた報道機関によって、その信じがたい暗部を暴かれてしまった。市民はそんなこととは知らなかった、ここまで腐敗した児童無視教育無視のマチになっていたのか。 そーら納税者が怒るぞ、この町は何をしとるんだ、市、市教委、議員、どいつもこいつもこんなことでよく給料もらって帰れるナ、お仕事しとってんですか、エエ商売だのう、これはサボっとりましたけど、ほかではカンバッテますぜ、とか、あるわけがないな。人目にはつきにくいが大事なとこ、ではサボルなよ、人目がないと何をサラスのかわからんぞ、と思われる。これで市民からは全国と同じ税金を取っているのか。多額の予算が必要とか統廃合問題とも絡んで難しいと言ってきたわけではあるが、それは何もこの町だけの話ではない、どこの町でもそうで、もっときびしい中でも何とか進めてきたのであろう。理由にもならないことを言ってないで、サッサと進めろ。もっともこれは過去のマチの先輩どもの無能な仕事を言っているので、今の人を責めるのではない、負の遺産の話であるが、そのまま今も引き続いている人、引き継ぐつもりの人にはあるいは当てはまるかも。こうした指標が一つ出てくれば、何もこれだけではあるまい、と想定できる、この問題だけにはとどまるまい、ほかも懸命になって隠しているだけで実態はクソばかりの深刻な事態なのではないか、この町はロクなモンがおらんのでないのか。腐ったリンゴかまともなリンゴかは何も全部喰わなくともわかるものである、何かでチョット違和感があれば、これはおかしいぞ、喰うのはやめておこうと判断するものである。遅れすぎた町、周回遅れになっていることにも気付かない町、自分らだけで顔付き合わせ外へは尻を向け田舎者同士のだらけたなれ合い仲間、外界は見ない、外へ出かけていくこともない、よそ者、異なる意見を持つ者は排除してきた、自分らがポロクソに遅れていることに気付きたくない純粋培養者のみなので、そうした事態にも本気で気付くことはない、まことにチョーバツを受けるべき者はダレであろう。児童や保護者や市民には懲罰権がない、まことに不公平な非民主的な国ではあるが、そこを議員は補わなければならない、子供に親に市民に聴いて聴いて聴いてそれをもちかえり、市会で取り上げ討議するべきなのだが、そんなまともなことはしない。大本営国のつもりか。市民には捜査や調査権がないので調べたくとも詳しくは調査できない、ある程度の誤情報がどうしても含まれるかも知れない、黒塗り部分を調べられない、それはどうしようもない、悪意ない誤情報は仕方ないのである、民こそが主である、民の声以上のものは日本には存在しない、その声を塞ぐ蛸は独裁者である、大本営である。 これはどこかの町の話だが、これでは滅びるしか未来はない、今の日本全体がそうかも知れないが、当時の丹後もこうしたことであったのだろうか。 少なくとも郡寺はあったのではなろうか。 郡寺(ぐんじ、ぐんでら)といっても、そうした名で呼ばれることもある不明のもので、一般には、飛鳥時代から奈良時代にかけて、日本各地で造られた古代寺院の一種で、郡名を冠する「郡名寺院」を指す場合もあれば、評衙跡や郡衙跡が近接する「郡衙寺院」を指す場合もあるなど、研究者によってその定義は異なっていて、郡寺が公的な性格を有するかどうかもわからない。平安時代中頃には、ほとんどが廃寺となったため、不明なことばかりである。という。 545ヶ寺という爆発増加はもこんなことでなかろうかと想像してみるしかないのであるが、郡衙に付属の寺か、郡司の氏寺か、それとも郡司を核にして周辺諸氏族の総氏寺か、何とも史料はない。 郡役所に近接して建てられた寺院は「お堂」くらいの小さな物ではなく、寺域は小さくても1町歩(109メートル四方)はあり、七堂伽藍を備えた立派なものであった、のではないか。 丹後でその候補を探すと… 丹後の古代寺院(ネットより)↑ 俵野廃寺俵野廃寺跡の案内看板(伴とし子さんが立てたもの) 7世紀後半に創建。大正11年に俵野川の改修工事がおこなわれ、通称“塔ノ坪”といわれるところから丸木柱の根部5本、柱の心礎となった大石、軒丸瓦、軒平瓦、鬼瓦、須恵器など多数出土しました。 鬼瓦には人面のようなものがみえ、軒丸瓦1は複弁八葉蓮華文、縁に3本1組の鋸歯文が入るものです。また、軒丸瓦2は七葉の花弁の文様で近畿北部にも同系列のものはなく珍しいものといわれます。 大石は、直径約180㎝、厚さ58cm。 ほぼ円形の自然石の上面が平らに削られ、中央に径15~1 6 cm、深さ1 6 cmの円筒状の穴がありました。 俵野廃寺は古代丹後の繁栄を伝えてくれる重要なものです。 心礎石とされる大きな石(網野郷土資料館)。向う側半分がないので正確な計測はムリだが、スケールの位置では、約170㎝、高さ50㎝、心の穴の直径18㎝くらいである、花崗岩のよう。 『網野町誌・下』に、 ○俵野廃寺・俵野廃寺の礎石と瓦 震災記念碑が俵野集会場前にあり、その台石となっているのが俵野廃寺の礎石である。これは大正一一年(一九二二)に俵野川から掘り出されたもので、直径一・五一㍍、厚さ五七㌢で、中央に直径一六㌢、深さ一七㌢の円筒形の穴がある。この中に紫色や金色の液状のものが入っており金属製の壷もあった。この礎石と同時に出土したのがあぶみ瓦、すなわち平瓦を並べた上に押さえとして載せる瓦で、製作時に布を使ったため表面にその跡が残っているので、布目瓦と呼ばれている。 写真の石が、網野町誌の言う石なのか、それとも別にあと半分の石なのか不明。 俵野廃寺跡を見渡せる場所にある「俵野廃寺跡」碑 (これも伴とし子さんが建てたもの)→ 『網野町誌・上』 俵野廃寺-丹後最古の寺院- 丹後国分寺よりも早く造られたのが網野町木津の俵野廃寺で、丹後の最古の寺院である。 俵野廃寺については、昭和六一年発刊された『木津村誌』に、発見された当時の様子が発見の際に立ち会った人たちによってまとめられている。それによると次のようなことがわかる。 ① 俵野廃寺は、大正一一年に俵野耕地整理組合の事業として、谷の中央を流れていた俵野川を集落沿いに移し変える工事が行われた時に発見されたものである。 ② 塔の心礎石は、直径約一八○センチメートル、厚さ五八センチメートルで円形の自然石の片面を削って平たくし、その中央に直径一五~一六センチメートル、深さ一六センチメートルの穴を穿っている。この礎石が出土した時はこの穴の上部に薄い石の蓋があり、それを取り除くと中に麻織物のようなわずかな布片と薄い金属製の壷状容器の首部が三分の一ほど残っていた。 ③ 建物の柱と考えられる手斧の削り跡も生々しい丸木柱の根っこの部分(直径五○~六○センチメートル、長さ一メートル)が、一間半の間隔で出土した。 ④ 須恵器壷が一個出土しているが、土手にすくい上げられた土の中からみつかったものである。 ⑤ 礎石が出土した付近に、布目瓦が粘土層の中に差し込まれたような状態で層をなして埋まっており、瓦積み基壇の可能性がある。 ⑥ 昭和一四年ころには、礎石の出土位置より約一○○メートル下流を護岸工事した際、柱の根部数本と鬼瓦一個が出土しているが、この鬼瓦は現在、所在が不明である。 ⑦ ⑥の位置より一○○メートル東方の水田の地下一メートルのところに、南東から北西の方向に向かって基壇らしい遺構がある。 以上が『木津村誌』に記載されていることの要約であるが、このうち、須恵器壷については、これまで塔の心礎石に納められた舎利容器と報告されていた。しかし、この木津村誌の記載が事実とすれば②で明らかなように金属製の壷状容器こそが塔心礎石に納められた舎利容器であり、須恵器壷は舎利容器とは考えられず、このことは須恵器壷の年代が平安時代前半であることとも矛盾しない。また、遺跡の周辺には塔の坪・寺口・寺屋敷・防垣などの地名が残っており、寺域の大きさは東西、南北共一○○メートル以上に広がりそうで、相当大きな伽藍配置が推定できるが、詳しくは今後の調査を待つよりない。 また、昭和五八年には俵野川改修工事で、礎石の出土した位置の少し上流のところから、川の水面のレベルで軒丸瓦や軒平瓦などが土器片多数とともに出土している。 俵野廃寺から出土している瓦は、軒丸瓦、軒平瓦、平瓦、丸瓦と鬼瓦である。軒丸瓦は鋸歯文のある複弁八葉蓮華文軒丸瓦、軒平瓦は二重弧文軒平瓦と三重弧文軒平瓦であり、丸瓦や平瓦に見られる布目痕や格子状のたたき目痕の特徴とともに、川原寺式と呼ばれる瓦の形式で白鳳時代の典型的なものであることから、俵野廃寺は奈良時代に建立されたことがわかる。 それではなぜ、木津地区の中でも狭小な谷あいの地に丹後最古の古代寺院が建てられたのであろうか。古代寺院を造った勢力は、古墳時代に有力な古墳を造ることができた豪族の末裔であろうとする考え方で理解しようとしても、この木津の谷には取り立てて挙げることのできる有力な古墳はみつかっていない。網野町全体に範囲を広げてみても、網野銚子山古墳や離湖古墳とは二○○年以上、岡一号墳とは一○○年前後の時間的隔たりがあり、地理的条件とともに直接結びつけることはむずかしい。むしろ、地理的な条件から考えると、俵野の谷は桜尾峠を越えて熊野郡へ通じる古代の道筋であり、熊野郡の佐濃谷川流域の勢力との関連を考えたほうがよいかもしれない。いずれにしても、現在の時点では確かなことはいえず俵野廃寺建立の謎は今後に残された丹後の大きな歴史上の課題である。 今のところは、国分寺以前の丹後唯一の古代寺院として知られる。ところが碑はもとより案内板もなかったのであったが、ここをふるさととする伴とし子様や地元の人々様によって、それらが整えられた(24/8)。 俵野は35軒だが動画再生回数は2000を越えた。 「俵野廃寺第23次発掘調査報告」 「丹後の「謎」の古代寺院~俵野廃寺新発見の軒丸瓦と新たな謎~」 佐濃廃寺?久美浜町佐濃の佐濃小学校(現在閉校)に、軒丸瓦、丸瓦各2点、須恵器2点が保管されていた、8世紀の前葉あたりの瓦だというがどこから出土したかの記録はない。国分寺よりも早い。近くには横枕窯趾(小桑)と堤谷窯趾(丸山)があり、これらの窯趾から出土したものか、それとは別に付近に古代寺院があって、その跡地から出土したものかは不明である。『京丹後市の考古資料』 佐濃小学佼保管資料(さのしょうがっこうほかんしりょう) 所在地:不明(久美浜町佐野周辺か) 時代:飛烏時代後期~奈良時代 遺物 京丹後市立佐濃小学校には、軒丸瓦、丸瓦各2点、須恵器2点が保管されていた。古くは『京都府の古瓦』展示図録に図版掲載され、後に堤谷窯跡群発掘調査報告書の中で肥後弘幸が図化、報告を行っている。資料自体にネーミングなどは残されておらず、『京都府の古瓦』展示図録にも「佐濃谷出土」と伝えるのみで出土地は不明である。また同書では、軒丸瓦は1点と記されており、軒丸瓦(1)が図版掲載される。そのため、軒丸瓦(2)は、同一地点からの出土資料かどうかが不明である。 軒丸瓦は瓦当面上半を欠失するが、復元径約13・8cm、厚さ2・7cmを測る。周縁はみられない。文様は、凹線表現される中房を中心に凸帯を放射状にめぐらしており、14本分残る。中房に蓮子みられない。軒丸瓦(2)は摩滅が著しく一部を欠失するが、複弁八葉蓮華文と椎定され、復元径14・4㎝、厚3・5㎝を測る。中房には蓮子、外区内縁には珠文が見られる。丸瓦(3)は玉縁式のものが2点ある。凹面は玉縁部先端まで布目痕を残し、凸面は横ナデする。側面、狭端部は、ヘラ削りする。須恵器は、杯蓋(4)、杯身(5)がある。 意義 軒丸瓦(1)は類例が見られないが、周縁のない点が堤谷窯跡のものと類似するため8世紀前葉の所産と思われる。軒丸瓦(2)は、同一地点からの出土資料かどうか不明であるが、平城宮6235型式と類似し1より時代の下がるものと思われる。肥後が指摘するように窯跡出土の可能性が高いものか寺院に伴うものかは不明であるが、熊野郡内に飛鳥時代後期~奈良時代に古代寺院が存在したことをうかがわせる資料として評価できる。 佐濃川の流域はよい粘土がとれるのか、古い瓦窯趾がある。ここが生産地とすれば、消費地(瓦葺寺院)も近くにあったかも知れない。重量のあるものだから、山を幾つも超えていかねばならないような場所にある寺院用に焼いたのではあるまい。 河守廃寺図は「河守北遺跡第8次発掘調査報告」より 国道175号(河守街道)を下から来れば、宮川橋を渡った今宮津街道との三叉路になっているあたりの先、新河守街道と旧河守街道とに挟まれた所、大江病院などがある、かなり広い範囲の扇状地の先端部で、洪水があってもギリギリセーフの地。この辺りを通りかかるといつも発掘していた。何があるのかな、と思っていたが、古代寺院と加佐郡衙があったかも、国衙もあったかも、という。 『舞鶴市民新聞』(050422) *由良川 考古学散歩131**河守廃寺は何処だ!* 平成十六年夏、加佐郡大江町字河守と字関に位置する河守北遺跡で大江町教育委員会が発掘調査を実施した。調査を始めた頃は、古墳時代後期の竪穴式住居跡などが見つかり、当時の一般的な集落遺跡なのかなと思わせるような内容であった。しかし、調査を進めていくにつれ、土器に混じって次第に瓦が出土し始めるようになったのである。出土した瓦の多くは凸面に縄目模様が刻み込まれ、凹面には布目模様が残るものであり、間違いなく古代の瓦である。古代の瓦が出土すること自体、京都府北部では大変珍しいことで、由良川流域では綾部市の綾中廃寺、福知山市の和久寺廃寺など限られた這跡でしか確認されていないものであり、特に綾中廃寺の場合は古代の郡役所である何鹿郡衙が隣接している。発掘現場では、瓦の出土量は日ごとに増えていくばかりである。調査担当者(筆者)も必死になって瓦を使った施設の痕跡を見つけようと、毎日、夏の日差しを受けながら目を凝らして土を見つめ探し続けたが、残念ながらとうとう見つけることは出来ず、調査は秋に終了したのである。 それでは、河守北遣跡から出土した瓦を使用した施設は一体何であって、どこにあったのだろうか。過去の発掘調査事例から推定してみると、当時、瓦は一般的には公的施設(古代の役所など)か、お寺に使用されることが多かったようで、先に述べた通り綾中廃寺や和久寺廃寺など、お寺に使用されている例が多く、今のところは河守北遺跡から出土した瓦は、お寺の屋根に葺かれていたものと考えた方が無難なようである。そして地名により、そのお寺は「河守廃寺」と呼ぶのがふさわしいように思える。 次は、その河守廃寺の場所は何処かということだ。これまでにも河守地域では発掘調査を行うと、古代の瓦が出土することはあったが、いずれも少数、小破片であり、場所を絞り込むには難しい状況であった。このような状況の中で今回の発掘調査により、これほど多量の瓦が出土したということは調査地近辺をおいて他には考えられないことであり、地形的なことを考蘆すれば、調査地西側の微高地に広がる市街地の下に眠っているものと推定出来る。そして、より大きな夢を持てば、綾中廃寺と何鹿郡衙のように、加佐郡衙も一緒に眠っていることも考えられる。 ともかく、文献にも現れることがなく、古代にお寺があったという言い伝えもない中で、多量の瓦の発見は幻の河守廃寺を彷彿させる大きな成果である。時は律令国家が成立し、中央集権的な国家体制が築き上げられていく時代である。河守も丹後国加佐郡川守郷として古代の行政区画の中に組み込まれ、律令国家体制の中の一地方として歩み始めたところである。そういった中、竪穴式住居しか見たことのない人々の目の前に忽然と瓦葺きの屋根を持つお寺が現れ、仏教の浸透を図るとともに律令国家体制の浸透を推し進めるのに大きな役割を果たしたのであろう。さて、その河守廃寺は今、何処に眠るのだろうか…。 (学). 和江廃寺?『丹哥府志』【護国山国分寺】 三才図会云。国分寺の本尊薬師如来は行基菩薩の作なりとぞ、今廃寺となる。丹後旧記云。三才図会に国分寺は由良にありといふは誤りなり、護国山国分寺は与謝郡国分村にあり、則ち聖武帝の御宇に建立する處なり、今由良の南和江村に国分寺の寺跡あり仏国山と號す、一国一寺の国分寺に非ず、和銅六年丹波五郡を割て丹後の国を置く、是時宮を造りて元明帝を祭り郡立大明神と称す、又供養の為に一ケ寺を建立す蓋仏国山国分寺は其寺なりといふ。 溝尻廃寺?と中野廃寺?釈龍雄氏復元案図(ネットより)↑ 条理線と寺院の中心線がずれているのが気になる。寺院は正南面して建てられているが条理線は地形の関係か22度ばかり東が北にずれている。両地割りの重なり合いや消失具合から判断すれば、正南北線の寺院地割りが、ずっと古いと思われる。 もし先に条理線があったのなら、寺院の向きもそれに合わせたと思われる。条理線より先に1町四方くらいの何らかの寺院があったのでないかと考えられる。 専門家でもわからないというが、条理とは何か、いつ出来たものか。 条里制の施行を示す史料文献は残ってはおらず、今も地面の上に残る地割りや道路、地名などくらいが史料であることから、条里制の成立を解明するのは、たいへんに難しいとされる。 条里制は班田収授制に伴い施行されたものと見られてきた。律令制では民衆に支給する(班田収授する)農地の面積を一律に定めていたことから、整然とした条里区画は班田収授との強い関連が想定されていたのである。『日本書紀』では「大化の改新詔」に「班田収授法」の記載があり、従って孝徳天皇・大化年間(645年ころ)から始まったとする説もある。 考古調査によれば、条里制が全国的に広く展開し始めたのは古くても奈良時代中期であり班田収授との関連は重視されなくなっているという。紀の記事は隋か唐の制度を実際より遡らせてそのまま書いてみただけのものだったのかも知れない 奈良時代中期には墾田永年私財法の施行で富豪や有力寺社による農地開発(墾田)が盛んとなり、条里制は富豪や有力寺社を中心とした民間部門による農地開発に伴って成立した、とする説が有力という。 史書と考古調査が合わないのである。大化年間に始まったはずの条里制が、その展開は考古学によれば100年ほど遅れると見られているという。 わが国で最初に広い範囲を対象に計画的に行われた地域開発は、条里制施行であった。1町(約109m)方格の規則的な耕地の景観は、強大な権力のもとで統一的・計画的に多量の労働力を使って行われた大工事をうかがわせる。巨大古墳を幾つも作るに匹敵する大工事である。片田舎のタンボまで条理遺構が見られ、広範囲にビシッとやっている、平城京や平安京の条坊は民間開発か、総面積はあれの何10倍もありそうな各地の条里を民間開発とはホンマかいな、民間の力は借りたであろうが、民間開発ではこれはムリとワタシは思う。、条理地割は、道路・水路の方向や溜池の形態、さらには村落・都市計画や民家の敷地まで、その後の現在までも土地利用を強く規制し続けている。こんなことは今の私有財産制国家でもできるものではない。公地公民制の古代国家でなければ出来ない。民間開発は私有制に基づく自分の目先の利益で行われるもので、民間開発で全国的な条里制が進められたなどとは論理的にありえないと思われる。どこかの大資本にまかせておけば、全国すべての地方が同じように再生するなどがあり得ないようなことである。今の言葉でいえば資本主義か社会主義かと各々の体制の効用と限界を地図見るようなことであろうか。 府中という国府があった地の条理だから、丹後で一番早かったであろうと想定して、国府や国分寺、国分尼寺の建設とどちらが先だったのであろうか。元々から何もない土地ならば条理が先とワタシは考える、条理のほうが寺域よりは広範囲であり、寺院の中心線に合わせて条理を敷くなどは考えにくい。条理に合わせて寺院の中心線を敷いたと見るほうが納得しやすい。 ところが条理と国分寺中心線が合わず、寺院が先にあった。これはまたどうしたことであろうか。ここは元々から何もない地ではなかった。条理より先に、国分寺より先に、そこにはすでに正南面する寺院が建っていた。国分寺はそれを引き継いだため、中心線が周辺の条理線とズレている。ワタシはそう見るのである。 この寺は郡寺であったろう。近くに郡衙があったであろう。 図は「146埋蔵文化財セミナー」より↑ 逸文風土記に、 郡家の東北の隅の方に 「速石の里」は広くは、このあたりの全体を指すが、ここではその中心村の今の中野を指しているのではなかろうか。そうだとすれば、A2が郡家だろうか。A3は「西寺」と書かれているから、籠神社の神宮寺さきがけかも、寺と書かれているから仏堂でなく寺だったのだろうか。郡家から見れば東寺であるはず。A1が郡寺か。 天平の国分寺ですら不明だから、さらにそれ以前の寺々といっても、推定しかない。あくまでも思いつきの空想である。 音の玉手箱
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