丹後のオニ伝説①
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 丹後には「大江山の鬼」ばかりでなく、いくつかの地にも鬼伝説が伝えられている。鬼退治の対象にはならない鬼で、「鬼は外」と、豆で追われない鬼達である。ワルモノでない鬼達で、本来はこの鬼が民衆の側から見た鬼ではなかろうかとも思われる。 退治される鬼は当シリーズの11、12、13などで触れているので、そちらを参照して下さい。ここでは、それではない、追われない鬼、実際にそうした鬼もいて、その主な、面白そうな興味引かれるものを紹介してみようと思う。 ① 節分がない村、豆まきしない家 『子どもがつづる丹後の歴史』 鬼は内 福は内 宮津市・上宮津小 六年 久古直樹
僕の家の近くに節分の豆まきを「鬼は内、福は内」といってまく家がある。僕の家は、「鬼は外、福は内」といってまくので、「鬼は内」といって豆まきをする家のあることを初めて知った。どんな訳があるのか、聞いてみた。 昔から、僕の住んでいる上宮津には大きな村山がある。昔はこの村山でたき木を作り、宮津の町まで売りに行って金をもうけたそうだ。今はその村山に植林をして、毎年地区の人たちが何日か出て植林の世話をしている。 この村山が上宮津地区の山になるについては、舞鶴の大俣村との長い長い年月にわたる争いがあったそうだ。江戸(東京)まで出て裁判をしてもらったそうだが、上堀さんの祖先の人が、その裁判の帰り道、山道で日を暮し暗い夜道を急いでいると、鬼が出てきて言ったそうだ。 「早く帰りたければ背中ににつかまれ。」 上堀さんの祖先の人は、日が暮れるし急いでいたので、鬼の背中につかまって、無事家までつれてもどってもらったそうだ。 そのとき、鬼がこんなことを言ったそうな。 「今夜つれて帰ってやった代わりに、わし(鬼)が丹後町のいつぎの宮神社にお参りするときは、おまえの家で休ませてくれ。」 けれども、上堀さんの家は当時貧しくて泊まってもらえるような家ではなかったので、そのことを言うと、鬼はこういったそうな. 「入口の戸を少しあけ、外に石うすを置いてくれればよい。」と、その事があってから上堀さんの家では二月四日の節分の日には、「鬼は内、福は内」と豆をまくのだということだ。困ったとき助けてもらったことを喜び、末代まで感謝の気持ちを伝えていくこのような話を僕はおもしろいと思った。 『丹後の民話』(萬年社)に、 節分のない菰池
薦池の節分もう、ずう~っと遠い昔のことである。 薦池という村では、節分に大江町の元伊勢神宮へお参りに行く風習があった。 その年は、大家さんが村を代表してお参りに出かけた。雪の中をひたすら歩き続け、峠を越えて、やっとの思いで元伊勢さんに着き、村の安全と村人の健康、そして、五穀豊穣を一心に念じた。 無事にお参りをすませた、その帰り道のことである。峠にさしかかるあたりから雪が又チラチラと舞いはじめだし、大家さんは道を急いだが、夕暮れ近くには、とうとう吹雪になってしまった。 大家さんは、横なぐりのひどい雪に進むことができず、あたりを見渡したが休ませてもらう人家もないので、しかたなくその場にうずくまって、じっと雪のおさまるのを待っていた。 ところが吹雪はますます勢いを強めるばかりで大家さんは、とうとう体が冷えきって、そのまま倒れてしまった。 と、大家さんの肩をゆさぶり、しゃべりかける者があった。 大家さんが、ふわぁっと目をあけて見上げると、 それは鬼だった。 鬼は、大家さんに 「わしが、お前をおぶって送ったるで、目つぶっとけ」 と、大きな声でいった。 大家さんは、小さくうなずくと、また気を失ってしまった。 そして、囲炉のパチパチという音に気がつき、 目をさますと、そこは我家だった。 「はぁれぇ……」 と、大家さんが、ぼんやりと見まわすと、囲炉のむこう側に鬼が座っていた。 びっくりして起きあがった大家さんに、鬼は、 「もう、心配ねえな」 と、いって帰ろうとした。その言葉に大家さんは鬼に助けてもらったことを思い出し、 「おおきにありがとうございました。おかげで命が助かりました」 と、何度も何度も、頭を床につけた。そして、 「何ぞ、お礼がしたいので、どうさへてもらったら、ええでしょう」 と、いった。すると、鬼は、 「礼はしてもらわんで、ええけど、ひとつ頼みがある。節分の日には、豆まかんといてくれ」 と、いった。そして、 「もし、豆まきをやめてくれたら、この村を、火事から守ってやる」 と、いって、帰って行った。 あくる朝、大家さんは村人をぜんぶ家へ呼んで鬼に助けられた話をした。 村人たちは、鬼といえば娘をさらったり、人を喰ったりする恐しいものとばかり思っていたので、狐につままれたような、ボカンとした感じだったが、 「大家さんのいうことにゃ、まちがいは、ねえ」 「鬼は命の恩人だぁ」 「よかったよかった」 と、口々にいいだした。 そして、鬼の恩に報いるために、これから村では節分の行事を一切やめようと決めたのである。 それから何百年もたった今でも、この薦池の村では、節分の行事をしていないという。 だから、鬼も約束通り、火事から村を守っているのだろう。家が焼けたということは昔からなく、山で何度か火がでたらしいが、不思議とそのたびに大雨が降り、ぼやのうちに消えてしまったと、いうことである。 津々浦々で、「鬼は外……」と豆まきをする節分の日は、全国の鬼が難を逃れて、この薦池に集まり年に一度の寄りあいに、楽しいひとときを過ごしているのでは、ないだろうか…。 (薦池・和田昭夫様より) 『京都の昔話』(京都新聞社)に、 昔、島(網野町)の安達(あだち)家の何代か前の主人が京都から帰る途中道に迷い、あせればあせるほど山の中に迷いこみ、日はとっぷり暮れ、おなかはすいて、もはや歩く気力もなく、山の中に倒れておりました。
夜がふけてきた頃、どこからか鬼が現われて、 「おい、こんな所にお前は何をしとる」と言うので、おそるおそる、 「道に迷って、おなかがすいて、どうにもなりません」と申しますと、 「そうか、それはかわいそうに。ではおれが送ってやろう。目をつぶって、おれがよいと言うまで開いてほならんぞ」と言って目隠しをされた。 しばらくしてから、 「そら帰っただ」と言うから目隠しを取ると、それは自分の家のかどであったということです。 その後安達家一族は、節分の夜の鬼はじきをやめて、「鬼は外」の豆まきはしないということです。 語り手・糸井芳蔵 (網野町島津) ※三津(網野町)の末次というみょう字の家でも節分の豆まきをしない家が多いといいます。 『ふるさとのむかしむかし』(網野町教員委員会)に、 それは、だいぶん昔の話です。何代か前の島の足達家の主人が、京都から帰る途中、道に迷い 陽は暮れるし、あせればあせるほど、山の中に迷いこみ、もはや歩く気力もなくなり、とうとう山の中で倒れておりました。
夜もふけてきてから、どこからか鬼があらわれて、 「おいこんな所に、お前は何をしとる」と問うので、おそるおそる、 「道に迷ってこんな山中に入りこみました。おなかがすいて、もうどうにもなりません」と答えますと、 「そうか、それはかわいそうだ。それではおれが、送ってやろう。目を閉じ、おれがよいというまで開けてはならんぞ」といって、目かくしをされ、しばらくすると、 「そら帰ったぞ」と言うので 目かくしを取ると、そこは自分の家の前でありました。 このような不思議なことがありましたのでその後、足達家一族は節分の夜の鬼やらい(鬼は外)はしないということです。(原話 島津 糸井芳蔵) 『ふるさとのむかしむかし』に、 節分の晩に豆まきはしない
むかし、私の家の祖先さまが、宮津の殿さまの言いつけで京都へお使いに行きました。 京都から帰る途中、道に迷ってしまいました。日は暮れてしまって困っていました。その日は節分の日だったそうです。 すると、どこからか、ひゃっかけ(鬼)が出てきて、 「どこへ行くのか」と聞きました。 「三津へ帰りたいのだが、道がわからなくなって困っています」と言うと、ひゃっかけは、 「節分の晩に豆まきをするな、そうしたら送ってやる……さあ、わしの背中に負われて 目をつむれ。もうよいと言うまで、ぜったいに目をあけるな」と言いました。 言われたとうりにして、しばらくすると、 「目をあけ」と言うから、開けたらいつのまにか三津の自分の家に着いていました。 それで先祖さまは 「節分の晩に豆まきしてはいけな」 と、自分の子供たちにも言い伝えました。それで私の家は、豆まきがしたくても、できないのだそうです。 (原話 三津 末次みな子) ※追って、三津には末次という姓の家が十五軒以上もありますが、現在でも節分の晩に豆まきをする家と、しない家とはっきりわかれています。 『おおみやの民話』(大宮町教委)に、 鬼の送り 上常吉 安見幸八
安見家のいい伝えによると、初代のころ、娘が病気になって、京へ行った帰りに、大枝(京都市)の峠までもどったら、鬼が出てきて、食ってしまうと、いうたんで 「実は、わしの娘が病気で薬もらいに来て、これから帰るところだで、どうしても帰らんなん」いうたら、 「ほうなら目えつぶっとれ」いうて、大枝から矢のように飛んで帰り、眼えあけたら、安見家の玄関だって。そしたら鬼が、 「お前を食うこたあやめた」と、いうた。 その代り安見の家では、節介の晩げ、豆はまかん。 福は来てほしいが、鬼さんも来てほしいで、「福は内、鬼は内」いうた、という話。 ②鬼面・鬼石(宮津市国分) 『宮津市史・資料編五巻』は、(写真も) 追儺面 三面 字国分 国分寺
この鬼面、片方の目がおかしいという人もある。中央の仮面の右目だが、ここには何かシカケがあったのかも知れない…木造彩色 長 三五・八五 二九・八 二三・五センチ 室町時代(十五世紀) 宮津市指定文化財 当寺の修正会に用いられていたと考えられる面で、男、女の鬼面と宣基上人と伝える面とからなる。鬼面二面は、一角を含んで一材(材不明)から厚手に彫出され、白で下地を作ったのち、彩色を施していたものとみられ、父鬼に一部朱色が残っている。太い鋸歯形の眉(先端欠失)や、中央に穿孔のある球形に表された目、大きな鼻の作り出す相貌には誇張が目立っているが、下唇を噛んだり、口をへしめたりした表情には諧謔味も感じられる。口の両脇に穿孔があり、可動式の牙が取り付けられていたかとも考えられるが、類例が知られずその意味は不明である。追儺面 全体に彫技に優れ、鼻から口にかけての滑らかな彫り口にはみるべきものがある。 伝宣基上人面も一材から彫り出されるが、こちらは幾分薄手である。この面も伝承にかかわらず、鬼神系の面とみられ、細まった顎や開けた口の作り出す表情には、一種の不気味さがある。鬼面と一具の制作ではないであろうが、これも追儺面と考えられる。これらの制作時期は、同類の作品との比較から室町時代かと考えられるが、全体の整った形態には古風なところがあり、国分寺復興の南北朝期にさかのぼる可能性を保留しておきたい。 寺蔵の『国分寺略縁起』の紙背の『当寺之霊宝鬼面之起』は、嘉暦三年(一三二八)十二月に宣基上人のもとに仏道修行に訪れた二人の男(実は鬼)が、その本形を現すことを請う上人に対し、残して行ったものと伝えている。 その伝説はともかく、法隆寺西円堂には、毘沙門天が三鬼を追う追儺の例があり、これらは中世に南都との関係が深かった国分寺の追儺の行事を示す遺品として貴重であろう。 口のあたりの穴はキバを射しこんでいたのでは、という。 『宮津府志』 護国山国分寺 在同郡府中国分村
… 當寺什物 鬼面二ツ 外ニ 上人面一 鬼沙門面一 古記曰、當寺に一角の鬼の面二あり、常は秘して猥りに開かず、是を出す時は究めて風雨俄に起るなり、夏日旱天には郷民此面を仰ぎ雩(あまごひ)を爲すに大雨必ず降るなり、毎年正月十三日於二寺内一開帳す。相傳へて云ふ宜基上人の時嘉暦二年十二月二日何國ともなく老人夫婦来りて上人に仕ふ、老夫は山野に出て耕作薪水を供す老婦は内に在で食饌を供す夫婦晝夜奉事する事数月也、上人怪みて毎々其来所を問へども更に語らず。一日上人他に行かんとして留守を夫婦に屬し、明日ならでは歸るまじとて出行しに、其夜夫婦の者上人の留守を安じて互に酒を酌で覺へず酔臥す、上人は思の外に用事を早く仕舞て他に一宿す可き所を其夜に直に歸り、方丈に入て見れば夫婦酔臥してあり、灯の影に見れば其顔色異形の相を顯らはす人間の顔にあらず、上人大に驚き径むと雖彼等が日頃の勞事を思て是を咎めず、翌朝に至て夫婦の者上人夜中に歸來て、酔臥の貌を見し事を恥けるにや、二人共に啼泣して暇を乞ひ永く去らん事を願ふ、上人懇に止むれども留らず、其夜顯わせし二人の異相を手自ら彫刻して上人に奉り、二人其に辞し去て行方を知らす、時に嘉暦四年正月廿三日なりとぞ、今の汁物の面即ち之れなり。 鬼石 當寺の近辺にあり、右の兩鬼立去る時に擲し石なりと俗に云傳ふ、鬼の手痕とてくぼみあり。 『丹哥府志』 【護国山国分寺】(真言宗)
… 藏寳 一、鬼形の假面 二 (出圖) 寺記曰。嘉暦三年十二月二日一老夫老婆を携へ偶然として寺に來り投宿を乞ふ、元より何の人なるを知らず蓋廻國の者と見へたり、宜基上人其老て塞氣に向ひ猶搓行するを憐み懇に之を留る、遂に寺に留る凡四五十日其人となり皆質朴にしてよく寺の助となる、以是寺檀共に是を喜びぬ。一日上人留守を老夫に托して他に出たり、是夜は爲に歸らじと約せしが、思の外早く用を濟し、いまだ夜半にならざる 前寺に歸る。老人夫婦は既に熟睡して曾て上人の歸るを知らず。其顏色蓋人間にあらず各一角あり、上人之を見て怪むといへども敢て其熟睡を覺さず、ひそかに室に入りしが翌朝に至て二人のもの別を告げ將に去らんとす。上人強て之を留れども肯せず、其夜現せし二人の異相を自から刻み上人に捧げて去る。今ある所の鬼形の仮面是なり。毎年正月十三日は鬼面開帳の日なり、常には人に示さず、之を出せば必ず雨降るよつて請雨に是を用ゆ極めて驗ありといふ。 【鬼石】(海辺) 鬼石といふは石の状鬼に似たりといふにあらず、鬼の持ちたる石といふ所以なり、蓋国分寺に留りし二鬼寺より帰り去る時此石を持てなげたりとて、其手の跡今に存すと語り伝ふ。 国分寺に残る鬼伝説 舞鶴市溝尻の貴布禰神社 『丹後国加佐郡旧語集』 貴布弥明神。氏神元来正一位の宮成しか或百姓京江上り貴布祢の神を勧請申帰村に祠を建たり。後々村中尊敬し正月に者家々に松にて嶋の形を作り藁ニて鬼を拵祝ふ也。昔鎮西八郎為朝嶋江渡り鬼を退治平安成なせし因縁を云伝ふ。此コトは貴船勧請せしものの縁者の者に聞たり。
③鬼と仲の良い 上堀、安達・足達、末次、安見という苗字 は、鉱山や鍜冶と関係がありそう 以下は「丹後のオニ伝説②」へ ④天一・大原神社の「鬼は内」 音の玉手箱
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