幻の倭文
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 丹後の倭文神社当社の祭礼(曳山祭)は超豪華。 与謝郡式内社の倭文神社は野田川町三河内中坪にある。丹後 明治2年、現社名に改号。改号については同社所蔵文書に、 一 産土神改号御上へ書上シ写 倭文神社石崎大明神祭神天羽槌雄命、鎮座年月不分明、産土神ト奉称候処、当所之儀往昔筬村ト云伝へ 機織ノ祖神トシテ毎年至今其御徳不尠祭日ニハ近郷ヨリ麻苧ヲ持チ群参仕来リ候(中略) 奉伺口上覚 石崎大明神 祭神羽槌堆命 倭文神社ト奉改号度候 明治二巳年三月 三河内村 神主細見長門寺祠御役所。とある。 社殿は古墳上にあるという、すっかり整地されているので、どこに古墳があったものかはわからない。元はもう少し南の筬村(小学校あたりか)というところにあったという。 『与謝郡誌』 倭文神社
『野田川町誌』三河内村字中坪鎭座、指定村社、祭紳羽槌雄之命、当社明細帳によれば天平勝寳の頃 倭文神社(延喜式内社) 三河内小字中坪
天羽槌雄命を祀る。 「羽は布帛の義。槌は借字にて、ツはノに通う助辞。チは例の尊称なり。天照大神の天岩屋に隠れ給いし時、高皇産霊神の命によって文布(アヤヌノ)を織り作れる神なり。倭文氏は其の後胤とす」(大日本神名辞書)。 大祭は、旧来、「八朔祭」といい、旧八月一日であったが、現在は、四月二十五日に行なう。 また、特殊な祭典もある。各町の屋台が小字上地に集合し、行列が繰り出される。小字中坪の奥山川にかかる橋畔で、その行列が停止し、小字梅谷の大幟組が持っている金色の幣を高く捧げて、東に向い神招きを三度呼ぶ。口碑伝説によると、向いの加悦町明石に鎮座されている須代神社の祭神須勢理妃(歌手)命、その弟倉稲魂命、並びに天太玉命(祭祀)と天明玉命(玉造り)の兄弟が、この招きに応じて三河内に来られ、共同して祭礼を行なうといい伝えられている。境内には、金刀比羅、穴の奥、七社の小祠がある。また、倭文神社には、四基の古墳があり、昭和五年秋に、史蹟保存会が結成された。鎮座地は、「石崎」といわれ、明治維新(神仏分離令公布)までは、石崎大明神と呼ばれていた。 三河内の倭文神社元鎮座跡 三河内小字筬村にあり、俗に「おかんだの荒神」といわれ、三河内小学校敷地内に筬岡神社として祀られている。後堀河天皇の貞応年間、今から七四〇年ほど前に遷宮、その直後に分霊をここに祀ったと伝えられる。
須代神社に向かってオオ~イ! 「筬」という地名も何か機織と関係があるのかも。私は織物はさっぱりわからないが、織物の織り目の粗密を決める織機のパーツだそう。 なお、『勘注系図』に、二十五世孫は丹波国造海部直愛志(えし)祝である。注記によれば、辛巳年(681年)より養老元(717)年まで35年間奉仕した。…和銅壬子年(和銅5年、712年)秋7月、この国ではじめて綾が織られた。祝の愛志は勅命により倭文神をまつった。癸丑年(和銅6年、713年)夏4月、丹波国の五郡を分割し、丹後国とした。初代の国司に任命され、国造も前通りつとめた、と記されている。 『丹後文化圏』 倭文織の源流を探る 高野昌司
京都府野田川町 倭文神社 京都府与謝郡野田川町三河内(丹後国与謝郡)の倭文神社が清音で「シトリ」と傍訓するものであり、少なくても10世紀初期までは「シトリ神社」と清音で呼称されていたと考えられるが、一条天皇の時代(986~1011)10世紀後期頃から「シヅリ」「シドリ」と濁音で呼称されてきたであろう。 国造海部直愛志が朝命を奉じて和銅3年(710)に倭文大神(建葉槌命)を筬村石崎の山に斎祀したのが創始とされており、後貞応3年(1224)神託によって現地に奉遷した。現境内地には倭文族の群集古墳がある。この神社で問題にしたいのは「筬村」である。近くに筬岡神社があるが筬に関係あるのではないかと考えられる。筬(写61)は古墳時代中期頃に筬筋のある平絹(織物22)が出土していることから5世紀中葉には筬が使用されていたと考えられる。一方、九州隼人族が5世紀後半から6世紀にかけて畿内に移住しているが、彼等は筬の製作集団と考えられており、古墳時代中期から後期には日本製の筬が存在いたと考えたい。… 裏山が比丘尼城山で、ここから袈裟襷文銅鐸(国重文、梅林寺所有)が出土し、現在は京都国立博物館に保管されている。 「銅鐸博物館」(滋賀県野洲市大岩山)の展示より↓右から2つ目が梅林寺銅鐸(107㎝)入れ子になってもう一つ銅鐸が出た(70㎝)が今はない。全国2番目の大きな銅鐸が当地より出土している。 『野田川町誌』 三河内青銅器埋存遺跡 三河内小字比丘尼城。標高一七六・四メートルの山腹から、享保十七年(一七三二)四月、梅谷の治郎が袈裟襷文銅鐸(弥生後期)を二個発掘した。大きさは高さ一・一六メートルであったが、一個は破損していて文化年間梅林寺の梵鐘鋳造の際漬された。この地域は、巨岩が麓まで連なり、この山を囲んで集落の跡も見受けられる。かかる場所で、青銅器が神聖な器物として供えられ埋められた。この付近は、式内社(古社)が鎮座しており、また、池沼などもあるところから、弥生式時代よりの「祭祀の地」と考えられる。銅鐸は重要文化財(昭和三十三年三月指定)で、現在、京都国立博物館に保存されている。
『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸)三河内の銅鐸
加悦谷は三河内を境として加悦町と野田川町にわかれる。 享保十七年(一七三二)の四月九日、三河内梅ケ谷(うめがえ)の治助という者が、比丘尼山の大木の根元から高さ一○七センチと七○センチの大小二個の銅鐸を発見して持ち帰り、梅林寺に納めた。 人々が寄り集まっていろいろ考えたが、どうしても何物かわからない。そこで藩主青山候にさし出したが、ついにわからないままに再び梅林寺へ返された。小さい方は破損していたので寺の釣鐘を鋳る時に鋳つぶしたと伝えられている。この銅鐸は袈裟襷文様で、人物禽獣の絵のあるまれに見る立派な物であるが、須代銅鐸よりも新しいといわれている。昭和三三年三月重文に指定され、須代銅鐸とともに京都博物館に陳列されている。 この梅林寺の近くの倭文神社の社伝に、昔神の木の下に人々が集まって宝物を祀り、供物を飾り宝器をならして植付けを占ったという。この宝器が銅鐸ではなかったかと思われる。銅鐸の出た桑飼明石の須代神社はこの社のちょうど野田川をへだてて真向いにあり、その中間に一本木がある。昔はここに神の木が植えてあったという。榊の木のことであろう。 倭文神社の祭りの時、祭礼の行列は橋の上からこの一本木を見とおし、須代神社に向っていっせいに「おーい」と呼びかけるならわしがある。昔両社の神は夫婦であったという。倭文神社の祭神は天羽槌雄命で、織物の神様である。しずり布を織った倭文部の氏神である。しずリ布とは椿布、麻布、苧布(からむし)のたて糸を青糸などに染め、横縞に織った布である。舞鶴にも倭文神社があり、やはり天羽槌雄命を祀っている。 境内に古墳があるが、出雲に関係のある布を織り銅鐸をもったこの二社の部族は同族で、部落こそちがえ力をあわせて生活したのであろうか。そしてある時突然他の部族から征服を受けた時に、それぞれその宝器を大急ぎでかくしたのではなかろうか。 倭文神社(舞鶴市今田) 神社とは関係ないかも知れないが、今田の伝統民俗行事「えんとんびき」↑エントンのアタマは万願寺とうがらしで作られていた。 加佐郡式内社・ 祭神は 『丹後国加佐郡旧語集』 倭文社 八月十七日祭 鍵取 源四郎。氏子 今田・万願寺・堀・布敷・別所・岸谷・上根・寺田・白滝・下村。十ケ村の氏神トス。今田万願寺は池姫ハ氏神トセス。右村ヨリ毎年振物笹踊狂言ヲ勤。倭文ヲ幟ニハ小鳥八社明神ト書リ
『加佐郡誌』祭神 天羽槌雄神
由緒 創立年代は不詳なれども一条天皇の御宇正暦三年藤原朝臣平井保昌丹後国大江山鬼退治に際して誓願する所があって再建したと伝えられている。旧社領30石は平井保昌の寄進したものであったが、其後漸次減少して元禄16年の頃には社領は全く其影を存せない様になったと云ふことである。 境内神社 稲荷神社(祭神 稲倉魂神) 八幡神社(祭神 誉田別尊) 「伯耆三宮倭文神社(鳥取県倉吉市志津)久米郡式内社」 「鳥取県東伯郡東郷町倭文神社(伯耆一宮)川村郡式内社」 「鳥取県鳥取市倭文 倭文神社 高草郡式内社」 「葛木倭文坐天羽雷命神社」 舞鶴銅鐸が出土した二尾は氏子圏であったかは不明だが近い、奥には舞鶴鉱山がある。鬼退治伝説や星退治伝説があり、あるいは弥生~古墳時代の鉱山や鍜冶の神かも…、時流に遅れ零落すれば、鬼や星、あるいは「 倭文はどんな織物か倭文は倭文布とも文布とも書き、「シドリ」また「シヅリ」という織物である。「釈日本紀」に「倭ハ青筋ノ文布ヲ云フ」と記している。 ←「倭文地区歴史と文化を語る会」より 原料は麻(苧麻)なので今は生産されることはなく、(麻薬当麻の密栽培と疑われる)、古い物なのでその現物を見る機会はない。古墳からの出土か、あるいは博物館にあるか、あるいは古式の祭礼用織物として残されている社があるかも、の遙か以前(古墳後期くらい)に衰退した、当時とすれば高級織物であった。文献もないなかで最近に苦労して復元され織られた倭文が見られれば幸いという幻の織物である。 麻は日本も含まれるが温かい所で育つ植物だから、日本原産の織物というよりは、元々はどこか南方から伝わった織物でなかろうか。南方系の文化と思われる。 麻は、今はたいていは混紡で織られて着て温かいものではなく、むしろ夏や春用の衣服に使われて、涼しい感じのものである。 『丹後文化圏』(倭文織の源流を探る) 倭文織とは その成立と衰退
(1)倭文織とは ①素材は苧麻 苧麻大麻より丈夫でやわらかく然も白くて光沢があるので彩の染色、発色性に優れている。従って大麻より苧麻の使用が多いと考えたい。(4-1) ②赤、青などの色糸を経糸に 『釈日本紀』に「有青筋文布」とある (3-8-2)また「上代日本染色史」に「条布即ち縞織物である」との新聞記事がある。(4-1)従って青を主体として赤、白、黄などの彩糸を経糸に用いた織物 ③筋織(経縞)の平織地 「新編常陸国誌」に「倭文ト云ウハ、筋織ノ約(ツ)マレルニテ今世ニ云島織ノコト」とし、(3-8-3)「大言海」では「倭文は線(筋)の転化なり」としている。 (3-8-7)これらは正倉院宝物の平織の不規則な経縞「雑彩交織裂」(6-2-1)に通じる織物であろう。 ④線の折れ曲がった経糸の山道文を綾組織とし 『常陸風土記』に「…静織里 上古之時 織綾之機 未在知人 于時此村初機…」(3-3)とあり、綾を織る装置(綜絖)を用い、山形文や菱文でなく経線の折れ曲った山道文を、しかも縞経がよく表現出来る経糸表面の山形文(写67 ・ 68)を綾組織で織る。 ⑤乱れたような紋様になる麻織物 『平安時代の和歌集』と「乱れたような文様」。(3-7)とし、経糸山道文綾の組織で、多彩な経糸と緯糸が交錯した乱れた文様の麻織物(写69)と考えたい。 倭文織の成立と衰退 絹は古く天皇を中心とした極一部の人々に限られて使用されていた。絹の使用が出来ない貴族や用途によっては単なる麻布にもの足らず、彩や紋様のある織物が求められたのであろう。瓜連町の5世紀末の古墳から出土した布が縞織物であったと新聞記事があり、これは5世紀後半から確立される部民制的生産機構に編成された各地の倭文部のもとで作られた織物であろう。日本独特な「倭文布」であったと考えたい。その用途として、『日本書紀』、『萬葉集』や『延喜式』にみられるように神社の祭祀用として用いる外に『倭文纒』、『倭文服』、『倭文幡』、『倭文鞍』、『倭文機帯』、『倭文幣』、『倭文手纏』(1寸5分幅の倭文を刀の柄の部分に巻き付けたもの)や『倭文手纏』(倭文で作った腕輪)など装飾や鞍、刀に使用され、貴族の間で捨て難い魅力があり重宝されていった。 一方古墳時代以降、中国陸の絹文化が導入され「錦」や「綾」の織物、織技術、職人などの舶載・来日により麻文化が脅かされていった。律令制下(7世紀中葉以降)の時代になれば「倭文布」の生産も減じ、延喜格式撰上当時(10世紀初頭)の延喜式主計による常陸国と駿河国2国が各31端織るだけとなり、従来の麻文化は新製品の「錦」、「綾」へと移行し衰退していった。『釈日本紀』(14世紀初頭)に12世紀末の建久年間(1190~1199)の「文布……諸祭興行の時……青筋文の布有り……」以来「文布」は諸文献から姿が消えていった。その後常陸国では「倭文布」の技術で絹製の「綾」を製作し、(新猿楽記)その技術を継承し、後絹技術は紬に受け継がれた(庭訓往来)。また、8世紀正倉院には常陸国から多くの布を納入しており、麻の主力製品は「倭文布」から単なる「布」に移行してったと考えられる。 京都新聞96.7.12 *鮮やかな絹袋に鏡収納*天理・下池山古墳から出土*青、緑の縦じま文様*卑弥呼献上と同種か?邪馬台国論争に波紋*
天理市の下池山古墳(三世紀末、前方後方墳)から出土した大型の内行花文鏡(ないこうかもんきょう)が、毛織物や真綿、絹織物で作った袋と、特殊な漆塗りの箱に収納されていたことが分かり、県立橿原考古学研究所は十一日「鏡が、最高の素材と技術を駆使して、丁重に埋納されていたことが分かった」と発表した。 毛織物や真綿、箱の技術は最古の発見例。絹は、織り方などから、ナゾの織物とされる日本特有の「倭文(しどり)」に当たり、卑弥呼の献上品として魏志倭人伝が伝える「班布(はんぷ)」にも当たる、との見方が有力。 古代の絹のほとんどは九州北部の出土だったが、倭人伝記載の絹とみられるものが、その時代に近い大和で出土したことで、邪馬台国論争にも波及しそうだ。 また、この鏡は竪穴石室の外側に別の施設を設けて埋納されており、儀式の際のシンボルなど、特別のものだった可能性も一層強まった。 鏡は二月に出土。布片が鏡面に張り付いていたため、電子顕微鏡などで科学的調査が行われていた。その結果、ウサギの毛で織った毛織物と真綿、茶色の絹織物、縦じまの絹織物の四種類が確認された。表に毛織物、裏地に縦じまの絹織物を使い、内側に真綿などを挟んだ布を、巾着(きんちゃく)のような袋にして鏡を入れていたとみられる。 倭文とみられるのは、裏地の絹織物で、青や緑色の縦じまの文様が鮮やかに残っていた。横糸が一㌢当たり二十五本なのに、縦糸は七十四本とち密で、縦糸のしま模様の部分には大麻が使われていた可能性もある。織り方から、日本製で、染料は藍(あい)などとみられる。 倭文は、倭(日本)特有の文様・織物の意味で、日本書紀などに記され、青色の織物と推定されているが、実態はよく分かっていなかった。 班布は、卑弥呼が二三九年に魏に使いを出した際に、奴隷とともに献上された。「班」には「列」とか「まだら」の意味があるため、今回のような、しま文様の織物ではないかと推定されている。 「倭文(しづ)織(幻の織物)復元」 天羽槌雄神祭神の天羽槌雄命は、倭文神とも呼ばれるが、どんな神か。『古語拾遺』の日神の石窟幽居の段に、 天羽槌雄ノ神(倭文遠祖也)ヲシテ
『神祇本紀』の同段に、倭文造の祖天羽槌雄神に令して文布を織しむ。
また『日本書紀』の天孫降臨の段では、建葉槌命とあり、…是に、二の神(経津主神・武甕槌命)、
『三代実録』では、葛木倭文天羽雷命神とも記され、天破豆知命や止与波豆知命とも記されるという。 単に織物の神ではなさそうである、経津主神や武甕槌神でも倒せぬ星神・ どうした由緒のある神なのか、氏族なのか、ポツンとこれだけの史料では正体がよくわからないが、『姓氏録』に、 河内国神別。天神。 大和国神別。天神。 委文宿禰。 出レ自二神魂命之後大味宿禰一也。 摂津国神別。天神。 委文連。 角凝魂命男伊佐布魂命之後也。 とあり、神魂命や角凝魂命なら、鳥取氏の遠祖でないか。 鳥取氏の系譜は、神魂命-角凝魂命-宿奈川田命-天湯河板挙命-… としている。 倭文氏は鳥取氏から早く分かれた分派かも知れない。 全国各地の倭文委文郷(上野国那波郡)(訓注・之土利)倭文神社(上野国那波郡)(式) 秀文・委文郷(下野国都賀郡) 倭文郷(常陸国久慈郡) 倭文神社(甲斐国巨麻郡)(式) 倭文神社(伊豆国田方郡)(式) 倭文神社(駿河国富士郡)(式) 倭文神社(伊勢国鈴鹿郡)(式) 倭神社(近江国滋賀郡)(式) 倭文神社(丹後国加佐郡)(式) 倭文神社(丹後国与謝郡)(式) 倭文神社(但馬国朝来郡)(式) 委文・倭文郷(因幡国高草郡)(訓注・之止利) 倭文神社(因幡国高草郡)(式) 倭文神社(伯耆国久米郡)(式) 倭文神社(伯耆国川村郡)(式) 倭文郷(淡路国三原郡)(訓注・之止里) 倭文郷(美作国久米郡)(訓注・之止利) このほか、天羽槌雄神を祀る社がいくつか見られる。 音の玉手箱
España cañí:Spanish Gypsy Dance |
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