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サヌカイト(讃岐石)
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![]() ![]() 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 サヌカイト(Sanukite)讃岐石舞鶴(小橋・女布)出土のサヌカイト ![]() 1は小橋川川床にて採集されたものである。斜状並行剥離によって整形された長大な有茎尖頭器で、わずかに内彎する基部にY字状の茎部が作出される形態である。器面の表裏両面にクレーター状の凹みをとどめており、本資料は厚さ1.5cm~2.0cm程度の板状原礫を素材として製作されたと考えられる。先端部と基部には黒色の欠損面が見え、その面の摩耗度が2段階に大別できることから、不安定な堆積環境にあったと考えられる。採集地点と目されるのは海抜10m前後の低地であり、背後山地からの土砂移動や、海水準変動にともなう浸食のなかで発見地付近をさまよったのだろう。 2は女布遺跡で舞鶴市在住の森下和夫氏が採集したものである(吉岡・黒坪2001)。先端部を欠損しているものの、両側辺は直線的で左右非対称である。茎部は先端部を欠くものの、緩やかな曲線を描くように作出されたことがうかがえる。素材剥片の剥離面こそ残存していないが、自然面の残存状況からは、亜円礫に由来する、背面に自然面をとどめる剥片が素材になったと推察される。おおむね基部を作出したのちに身部が調整されているが、階段状剥離を頻繁に起こしていて剥離は粗雑である。 舞鶴市字女布小字大所・馬場・大坪付近は、弥生時代から平安時代にかけての集落遺跡として知られるが、この地における採集資料にはサヌカイトを原料とした石器資料が豊富にある。これらは後期旧石器時代にさかのぼる可能性がある縦長剥片をわずかにまじえるものの、型式学的・技術的特徴、石器表面の風化状態から、縄文石器を主体とすると判断される。女布遺跡の採集資料には香川産サヌカイトを用いたものが微量ふくまれるが、ほとんどは二上山北麓産サヌカイトを材料としたもので、有茎尖頭器もその例に漏れない。本資料は高野川中流域の微高地で採集されたという。他の採集資料同様、縁辺や稜線が先鋭さを保っており、原位置を大きく遊離していないと考えられる。採集地付近に、縄文時代草創期の活動地点が存在したことを示唆する。(「京都府舞鶴市の有茎尖頭器2例」より) 『わが郷土』(丸山小学校百周年記念誌) 小橋川の有舌尖頭器
昭和三七年九月一〇日、小橋川の川岸増強工事を行っていた工事人が、今の粟野孫七宅前の川岸下の粘土層の中から発見、発見者の轟秀雄氏によって京都府へ届け出された。 ![]() 小橋川は、小橋東部の山に源を発する下流巾二メートル程の小川であり、小橋の家並に入る少し上で二つの流れが合流して、日本海に注いでいる。全長一キロメートル前後のこの川は、周囲に少々の山田があるが、土質は、殆んど古期花崗岩であり、海岸にまでせまった山の裾を抱く形で流れている。 発見地帯は、東側が当時田であった所が、宅地になり、粟野孫七家の民宿が建っている。その民宿北角横の石垣を下に見おろして、一・五メートル程の部分が、出土地点である。 この有舌尖頭器は、現存の長さ一〇・四㎝、最大幅二・九㎝、厚さ一㎝ほどであるが、先端部と舌部を少し欠損しており、完全な形にすればおそらく一二㎝余の長さのものであろう。川床から発見された資料であるため、全体に転磨を受けて磨滅しており。剥離痕の明確でない部分も多い。細身の作りで、両側縁はほぼ直線を成し、尖端は鋭かったものと思われる。逆剌を作るほどではないが、舌部は両側が、やや抉り気味に整形されている。実測図に示した面には比較的丁寧な押圧剥離による斜縞状の剥離痕がみられる。しかし背面は、かなり不規則で、中央に第一次剥離面が残されているようにもみえるが、磨滅が特にいちじるしく、明らかでない。石質はサヌカイトである。 近畿地方の有舌尖頭器は、すでに五〇例が知られており、型式分類も可能かと思われる。 小橋のものは、綴喜郡井手町のものと、形態、大きさ、その他の点で最も近いようである。 -古代文化24-9(片岡肇)- 小橋の有舌尖頭器は、その石質が瀬戸内地方の先土器石質である讃岐、二上山に原産地を持つサヌカイト原石である。その製作技法が、果して瀬戸内技法によるものか、又、宮田山型の製法によるものであるかは、未だ結論がでていないようである。 -日本の考古学(杉原荘介褊)- 『舞鶴市民新聞』(01.06.01) *女布遺跡で森下さんが採集**石器など市へ2618点寄贈**9日から有舌尖頭器*市郷土資料館で常設展示*
![]() 女布の画家、森下一夫さん(52)が近くの女布遺跡から採集した約千二百年前(縄文時代)の有舌尖頭器(石槍先)をはじめ、石器など二千六百十八点を、このほど市教委へ寄贈した。市は、北田辺の市郷土資料館(市民会館二階)で、九日から有舌尖頭器を常設展示する。 森下さんは一昨年、自宅近くで耕作している畑で土器片を見つけたのをきっかけに、その畑一帯が女布遺跡であることを教わった。その後も土器や石器の採集を続け、その中に有舌尖頭器が含まれているのが確認された。 有舌尖頭器は先端が折れて損失していた。残っている部分は長さ三・二㌢、最大幅二・五㌢。縄文時代草創期のもの。同種の石器は市内では小橋遺跡に次いで二例目。市教委はこれまで平成三年、同九年の二度、同遺跡の発掘調査を実施し、弥生時代から平安時代にかけての住居跡などを確認。今回の有舌尖頭器の発見は、同遺跡の歴史を遡らせるものとなった。… 舞鶴ではほかに桑飼下遺跡と浦入遺跡でサヌカイトが出土している。 丹後では、「丹後古代の里資料館」のHPより ![]() 市内最古の石器-有舌尖頭器 縄文時代草創期(1万年以上前)の石器である有舌尖頭器が、これまでに市内から4点見つかっている。奈具岡遺跡(1)と途中ヶ丘遺跡(2)のほか久美浜町内(出土地不明 1)が見つかっている。サヌカイト製の石器で、狩りの槍先として使われた。 丹後では旧石器時代の遺跡や遺物は発見されていないが、これら有舌尖頭器の存在かせ丹後でも1万年以上前から人々が生活していたことがわかる。 「旧石器時代の京都」より↓ ![]() ![]() サヌカイト(讃岐石)は、黒曜石の原産地から離れた場所、近畿や瀬戸内地方で石器として使われた。 ![]() 瀬戸内海から四国北部に分布する新第三紀火山岩のなかに、マグネシウムMgに富む斜方輝石(古銅輝石)の斑晶のほかには斑晶が少なく、石基は比較的ガラス質で緻密な安山岩が産出し、これを特にサヌカイト(讃岐岩,讃岐石ともいう)と呼ぶことがある。この岩石の化学組成はマグネシウム対鉄の比(Mg/Fe比)が異常に大きい特徴があり、その一部は上部マントルの水を含んだカンラン岩が部分溶融してできたマグマが、直接上昇固結したためにできたとされている。同様の特徴をもつ岩石は小笠原諸島やパプア・ニューギニアなどにも知られ、一括して高マグネシア安山岩と呼ばれて、1970年代の火成岩成因論争上注目された岩石である。板状節理に沿って割った岩片をたたくと澄んだ音がする、香川県ではカンカン石の名でみやげ品としている。 日本の石器時代に黒曜石、ケツ岩、ケイ岩などとともに石器用石材として好んで用いられた。緻密で硬く均質な部分は、打ち割った縁が鋭く、刃物として有用。 古くから活用された原石産地は西日本に偏在し、岐阜県下呂、奈良県・大阪府境の二上山周辺、香川県金山、五色台(サヌカイトの学名のもとになった讃岐石の産出地)、広島・山口県境の冠高原、佐賀県多久,岡本周辺が知られる。 黒曜石材の得がたい瀬戸内周辺では打製石器に多用されている。他の石材に比べやや板状に剝げやすい性質をもつが、これは製作実験によれば大型の剝片を得るのに必須の条件である。近畿、瀬戸内周辺地域では旧石器時代から縄文時代をへて弥生時代の中ごろにいたる長期にわたって利用されてきた。旧石器づくりにサヌカイトの性質をよく生かした瀬戸内技法をあみだしたことと、弥生時代の石槍と呼ばれる幅3~4cm、長さ30cmをこえる打製石器がある。緻密で硬いため磨きにくいようで、磨製の石器はごくまれにしか発見されていない。近年,蛍光X線を用いた分析法により、岩石を構成する元素の測定が容易となり,産地による特徴が明らかにされるにつれて各産地の石材が利用される範囲(分布圏)をいっそう明確にとらえることができるようになり、石器用石材の交易の問題、文化圏に関する興味ある事実が明らかとなってきた。 ![]() サヌカイトは、古銅輝石安山岩の一種で、今から約1300万年前の瀬戸内海地域の火山活動によってできた物と考えられている。世界中でも、香川県の五色台周辺や坂出市の金山や城山、大阪府と奈良にまたがる二上山地域ほか数カ所でしか産出が知られていない、きわめて珍しい岩石である。音の良いサヌカイトはきわめて限られた地域(五色台の国分台付近)だけに産出する。 九州東部から愛知県にかけて、サヌカイト類の岩石を含む火山岩類が点々と分布し瀬戸内火山帯と呼ばれている。これらのマグマは、1700万年前頃から日本列島がアジア大陸から分離して日本海が形成されたときに、西南日本弧が誕生間もないフィリピン海プレートの上にのし上げて、マントルが融解して形成されたと考えられている。このようなプロセスは、初期地球における大陸地殻の形成という地球史における大事件を解き明かす鍵として注目されている。 『サヌカイトに魅せられた旧石器人 二上山北麓遺跡群』より 一八八五年(明治一八)に地質学教授として明治政府に招聘されたドイツ人H・E・ナウマンがその岩石学的特徴に最初に着目したといわれている。ナウマン自身は「Klingstein(響石)」と名づけたように、敲打によって発する金属音に魅せられたようである。そして、ナウマンからこの岩石のことを知ったドイツ人のE・ヴァインシェンクが、一八九一年(明治二四)に「サヌカイト」と命名、「玻璃質古銅輝石安山岩」と定義した(玻璃質=ガラス質)。 日本列島では二上山とともに香川県の金山、佐賀県の鬼ノ鼻山がサヌカイトの産地として知られており、おもに西日本に広がっている。北海道から長野、伊豆箱根および九州各地に広がる黒曜石の空白地域に分布しているようだ(図61参照)。 ![]() ![]() ![]() ![]()
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