冠島と沓島
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 自然環境冠島と沓島Google Earth 3D画像で見ることができます。 海底の地形図 『舞鶴市史(各説編)』 冠島
舞鶴市北方、若狭湾上の無人島で、舞鶴港より二八キロはなれ、北緯三五度四○分四一秒、東経一三五度二五分四三秒にあり、大正十三年十二月九日(内務省告示第七七七号)オオミズナギドリ繁殖地として、天然記念物に日本で最初に指定された。冠島と沓島及び中間の礁の配列は、ほぼ北二〇度東の方向で新井崎(丹後半島)から南南西に伸びる海岸線の方向と大体一致している。島は東西四一三メートル、南北一、三一六メートル、標高一六九・七メートルで面積二二万三、〇〇〇平方メートルの無人島である。山地の大部分は角閃石安山岩で、遠望すると冠状で老樹密生し、原生林を構成している。南方の平地は沖積層の砂礫からなり、常緑灌本か密生し、一部低地となり、沼沢化しているところがある。海岸まで急峻で絶壁のところが多く、海岸は大きな岩が重なり合っていて、砂浜はない。西部、東部の一部に中新世の凝灰岩、凝灰角礫岩、凝灰質泥岩が露出している。この層に植物化石、落葉樹一六種、常緑濶葉樹五種を包合している。 島は断崖や、海岸を除き、対馬暖流の影響を受け、タブノキ、シロダモ、スタジヒ、モチノキ、ヤブツバキ、イヌマキ、ケグワ、ムサシアブミ、オオカサスゲ、キノクニスゲ等の常緑闊葉樹、落葉闊葉樹が混生した原生林で、暖帯植物景観を示している。 島内には老人嶋神社、船玉神社があり、日本海沿岸の漁師の崇敬あつく、昔から大漁祈願のため近在漁村から「雄島参り」の行事が行われる。 第二次世界大戦中に海軍は冠島聴測照射所を設置し、兵員が常駐した。冠島は奥島、恩津島、大島、老人島、雄島など異名が多い。 冠島は、おおみずなぎどり繁殖地 私も10回くらいは冠島に行っているが、オオミズナギドリに出会えたのは、この日だけであった。いる時はいくらでもいるが、たいていはまず見かけることはない。飛ぶ鳥を写すのだから、レンズは50㎜でよいが、高性能カメラに、メモリーとバッテリーを持てるだけ持って行かれれば、もしかすると写せるかも… これはウミネコ↓。この鳥はエサをまけばいくらでも集まってくる。 沓島はウミネコの繁殖地。 『舞鶴の文化財』 天然記念物・国指定文化財 オオミズナギドリの繁殖地 冠島
オオミズナギドリの巣冠島は、舞鶴市成生岬より北北西9.3kmの若狭湾上に浮かぶ無人島である。島は一部を除き周囲は険しい崖であり、島全体がタブノキなど常緑広葉樹の原生林でおおわれている。 オオミズナギドリは、日本近海や南太平洋、インド洋を生活の場とする海鳥であり、この地方では古来「サバドリ」と呼ばれ、魚群を知らせる鳥として大切にされてきた。成鳥は体長約50cm、翼開長約110cm、体重440~750gである。毎年2月下旬に南方から飛来し、その数、20万羽と推定される。5月中旬~6月中旬に交尾を行い、6月中・ 岩手県の三貫島など6ヶ所の繁殖地が、国の天然記念物に指定されているが、なかでも冠島は最初の指定地である。 上陸禁止の島 オオミズナギドリ保護のため、上陸はできません。無断上陸すると処罰されることがあります。 地震と津波伝説『丹後風土記残欠』 凡海郷 今依前用
凡海郷。凡海郷は、往昔、此田造郷万代浜を去ること四拾三里。□□を去ること三拾五里二歩。四面皆海に属す壱之大島也。其凡海と称する所以は、古老伝えて曰く、往昔、天下治しめしし大穴持命と少彦名命が此地に致り坐せし時に当たり、海中所在之小島を引き集める時に、潮が
冠島の北側にある立神岩。 大宝元年(701)の地震の記録は、 『続日本紀』の大宝元年三月条に ○
この前の奥丹後地震では沖積層のあちこちで液状化現象がみられたというが、『地震の日本史』(寒川旭・中公新書)は、 大宝律令が成立して「日本」という名称が確定した七〇一(大宝元)年。この年の五月一二日(旧暦三月二六日) には、『続日本紀』に「丹波国地震三日」と書かれている。「丹後国地震三月」とする写本もある。
京都府舞鶴市の志高遺跡では、京都府埋蔵文化財調査研究センターの調査で約五千数百年前の砂脈が見つかった。さらに、最大幅二〇センチでさまざまな方向に延びる新しい年代の砂脈も検出され、弥生時代から奈良時代はじめにかけての地層をすべて引き裂き、奈良時代後半の地層に覆われていた。 綾部市の市街地の北にある青野西遺跡でも同センターが調査を行ない、最大幅五〇センチで南北方向に延びる砂脈が見つかった。砂脈は古墳時代前期頃の竪穴式住居とその埋土を引き裂き、平安時代の住居の柱穴は砂脈を貫いていた。この遺跡の別の調査区では綾部市教育委員会が調査を行ない、同じ年代の幅一・三メートルの砂脈が見つかった。 これらの痕跡は奈良時代で八世紀の年代となり、『続日本紀』に書かれた七〇一年の地震の頃に、京都府北部が激しく揺れたことがわかる。 大地震があったことは確かめられているが、島が沈んで大津波が発生したと伝えるのは、本当のことであろうか。 「此里(凡海里)一夜にして蒼海と為る。漸くわずかに郷中の高山二峯と立神岩、海上に出たり」というのだが… 籠神社の奥宮、真名井神社の参道に「波せき地蔵」が祀られている。その案内板に 真名井原 波せき地蔵堂
昔大宝年間(約一三〇〇年程以前)大地震の大津波が押し寄せたのをここで切り返したと伝えられ以後天災地変から守る霊験と子育て病気よけの妙徳も聞こえる。又、日本の原点・真名井の神へのお取次もされると云う、あらたかなお地蔵さんである。 二千五百(ふたちいほ)鎮まる神の神はかり 百(もも)の御生(みあ)れの時ぞ近づく 平成八年八月八日 『岩滝町誌』は、 上山寺の永代記録その他に残っている大宝元年(七〇一)大地震は、加佐郡の大半が陥没し、嘉永三年(一八五〇)の大洪水は加悦谷を泥海に化したと伝えられる。
岩滝町は西隣の町だが広く周辺には知られた地蔵様の有名な伝えのようである、10尺=1丈で、1丈は約30メートル。又、府中真名井神社前に残っている波せき地蔵尊は十丈の大津波をここでせき止めたと言い伝えられている。 『丸山校百年誌』(丸山小学校は舞鶴市三浜にある、凡海のド真ん中。三浜峠は海抜198メートル) 小橋にも三浜にも、海嘯伝承があり、「ある時、大津波があって、三浜の人達は、南の山に多くは逃れたが、波は南の山を這い上ってこの人達をさらった。逃げ遅れた人たちは西山に上ったが、この人達は助かった。」まさに峠を越す寸前の高さまで波が上ったことになり、三浜が三角形の傾斜地であることを考えてもこれは大きな事である。このような伝承をさぐると、田井の水ヶ浦にも残っていた。
老人島神社、瀨の宮と雄島参り冠島には、凡海坐息津島社(船玉神社もあるが、これは後に祭祀されたものか。 老人嶋神社↑ 瀨の宮↓(六角形柱状節理の玄武岩(たぶん)がこのあたりに見られる、元々ここにあったものかは分からないが、島の東側の一部にも同じ岩石が見られる) 『丹後国風土記残缺』 嶋毎に祠有り。祭る所は、天火明神と日子郎女神也。是れは海部直並びに凡海連等が祖神と斎所以也。
『勘注系図』 始祖彦火明命の注文に、 火明命佐手依姫命を娶りて穂屋姫命を生みます佐手依姫命は亦名市杵嶋姫命亦名息津嶋姫命亦日子郎女神なり
凡海の息津嶋の瀬に坐す日子社は祭神彦火明命なり凡海の息津嶋社に坐す祭神は佐手依姫命なり 式内社ではないが、国史現在社で、『三代実録』 元慶4年(880)10月13日条の 丹後國正六位上息津嶋神。葛嶋神。坂代神並授二從五位下一。
の「息津嶋神」と見られている。祭神は素朴な信仰としては女神様と信じられていて、その女神様の機嫌をそこないかねないようなことになってもと、明治の初め頃までは女性の上陸は禁ぜられていたという。 『宮津市史(史料編五)』 オシマ参り
冠島 舞鶴市の沖、成生岬より北北西九・三キロメートルの若狭湾に浮ぶ冠島へ参拝する習俗がある。冠島は、全島が常緑樹で覆われ、オオミズナギドリ繁殖地として天然記念物に指定されているが、この鳥は別名サバドリと呼ばれ(土佐でカツオドリという)、漁師の間では魚を呼ぶ鳥とみなされている。 冠島の北東二・二キロメートルに沓島(釣鐘島と棒島の二島からなる)があり、この島はウミネコ、ヒメクロウミツバメの繁殖地として舞鶴市の指定を受けている。 冠島、沓島の呼称は、その遠望した形状から名付けられたらしく、文殊大士が脱いだ冠と沓が島と化したという伝説や、『丹哥府志』に「冠島の二島俗に沖の島という。一に雄島女島と呼ぶ。又大島小島」とあるなど、常に一対でみられてきた。参拝するのは冠島だけで、山裾に残るわずかの平地に老人島神社がまつられている。 島参り 冠島のことを漁師たちはオシマサンなどと親しみをこめて呼び、冠島参詣のことを「お島さん参り」または単に「島参り」と呼びならわしている。神社の祭日は毎年六月一日とされ、この日は若狭湾沿岸の各地から漁師たちが、豊漁と海上安全を願って、船に大漁旗をなびかせ参詣にやってくる。神社には神職はおらず、ただ「老人島神社」と墨書した幟を持って参るだけの行事で、これ以外の日に参る地域も少なくない。 市域では、由良〔松下(宮本の一部)〕、中津、小田宿野、島陰、田井、宮津(漁師町)、江尻、岩ケ鼻、大島などが島参りを続けてきたが、由良や中津、島陰、岩ケ鼻などでは行われなくなった。しかしこれは村(漁業組合など)行事としての集団参拝を廃止したもので、なお、個人的に参る場合があり、根強い信仰を保っている。 島の神は女神と考えられていて、山の神のように女性が参ることはタブーとされてきた。また、トモブトなど無動力船を用いていたときは、たいてい複数の船に分かれて競漕が行われ、漕ぎ手は若い衆であった。このため、ついでに橋立の文殊さんへ参り宮津で遊んで帰るのを恒例とする島参りもあった。沿岸の漁村では、男が成人すると小さい船を櫓一本であやつり、冠島に参拝して無事戻ってはじめて一人前の男とあつかわれた。舞鶴市吉原の「節句参り」の風習はこの発展型であろう。 小田宿野 昭和六十年代になって島参りを六月一日とするようになった。それまでは、四月か五月の漁師の都合の良いときに参っていたが、よく海が荒れたという。今も島参りを続けるのは、定置網漁のオオシキアミを続けている十五、六人の人たちだけである。漁業改革以前すなわち戦前、小田の戸数が八十戸弱のころは、オオシキアミの組ごとに船を出し秋祭りの衣裳を着て太鼓を打ちながら参った。他に田井や島陰にも組がある。島陰は廃したが、田井に残る一組からも島参りの船を出す。なお、オオシキアミのことを漁師たちはオオシキと略して呼ぷ。平成三年の小田宿野の島参りは次のようであった。 六月一日、いつもと同じように早朝から二か所のオオシキに出かけ、水揚げした魚を出荷する。そのあと今朝獲れた魚を酒の肴に調理し、山から切ってきた青竹に大漁旗をくくり船に立てる。肴は、マルゴ(ブリの子)、アオリ(アキイカの親)の刺身、エソの刺身にきゅうりを三杯酢あえしたもの、イカの煮付けなどである。こうして一○時にオオシキに使う漁船に乗り組み小田宿野の港を出発(かつてトモブトニ隻を合せて帆をかけ、櫓をこいでいったときは四時間もかかり、このため朝四時頃に出て、十一時頃になると吹く逆風に帆をかけて戻ったという)、一時間あまりで島に着く。すでに多くの船が来ており、舞鶴市三浜、小橋などの旗がみえ、海岸ではあちこちでテントを張り、煮炊きする風景が見える。島近くに停船して小舟に乗り換え、海岸線に並ぶ丸い大石に舳から乗り上げるかたちで着船し上陸する。一行は、「奉納 老人嶋大明神平成三年六月吉日 栗田漁業生産組合小田事業所」と墨書した赤い幟二本にお神酒、紐で結んだカケノイオ(このときは一対のカマス)などを手にして老人島神社へ参る。海岸から樹海のはじまる所に鳥居が立ち、木々をくぐっていくと社殿がある。先に参った人たちの赤い幟が、いずれも「老人島大明神」と大書し、周囲を圧倒するかのどとく林立し、信仰の厚さを物語っている。めいめいが参拝したあと供えたお神酒をいただき、掛けの魚を手前の建物に掛けておく。掛けの魚はかならず一対で、海で獲れた魚ならば何でもよい。 ついで海岸に戻り、島の端にある瀬の宮(オイベスサンともいう)へ参る。ここは恵比須大明神をまつる。この神は耳が遠いので大声を出し、祠に石をぶつけて祈る。お参りが終わると、小舟に乗って本船に戻り、先に来ていた田井の漁師といっしょになって船上で酒盛り。ひとしきり歓談の後帰途につく。途中、大谷と無双にあるオオシキの漁場に立ち寄り、お神酒を海に注ぐとともにビールとジュースをビンごと網の中へ投げ入れ、大漁を祈願する。 港に戻ってくると、迎えの船が出てきて、二隻並漕して神さん回り(時計の針と逆回り、時計回りを葬式回りという)に三度回る。その間に両船は接舷して、迎えの船からお神酒を持って乗り移った人が、島参りをしてきた人に注いでまわる。港に着いて片付けが終わると、一同は一度着替えに戻り、留守番をしていた人も加わって酒宴が開かれる。 大島 大島は、主漁従農の半農半漁であった。それで農業のサナブリに漁業の島参りが結びつき、田植えと養蚕の終わった六月末にこの二つの行事をまとめて行っていたが(大島区有文書の「老人島参り入費帳」によると昭和五年と十五年は六月二十五日、昭和十六年は六月二十九日であるが、昭和十二年は五月二十五日である)、青年会の衰退とともに昭和四十年代から一時中断していたのを、若家主会を組織して復活させている。宵宮のサナブリ行事では、トモブト四隻をつなげて帆柱を立て、これに提灯を山形に飾り、老人島大明神の白幟も立てて、鉦や太鼓、笛で囃しながら浜の沖を三巡する。その夜犀川の河口で拾った石を持って、翌朝島参りをしている(かってはトモブトに帆を張り、夜の西風を受けて冠島へ向かった)。石を持って参るのは、孤島が侵食されて消滅するのを防ぎ、少しでも島を太らせたいためと考えられているが、これも一種の大漁祈願とみなされ、伊勢神宮の式年遷宮に行われる白石持ちの行事に通じるものであろう。ちなみに大浦半島の漁師は、出漁のとき陸の石を積んでおき、わざわざ冠島の海岸まで近づいて石を島に投じてから漁をはじめる習慣があったという。 宮津 冠島が天然記念物に指定されていることは上述したが、参拝の上陸許可を舞鶴市教育委員会へ申請しなければならない。宮津漁業共同組合では、平成四年に二度この申請を出している。最初は平成四年四月二十七日から五月五日までの間の一日(午前七時から十一時)に、大浜丸など六隻三十名が上陸参拝するというもので、二度目は、五月二十八日から六月五日までの一日(時間同じ)に一美丸十名が参拝するというものである。一度目の実際は、四月末に三十一名が五隻の船に分乗して参ったという。大正初期までは、宮津祭りの前後旧暦三月と五月の二回参ったといい、「島参りが日和ならば、宮津祭りも日和」といった。また、漁師町には島講という講があり、上・中・板屋・新地・小浜の五組に分かれて組ごとに島参りをし、残った人はハマに茣蓙を敷いて坂迎えの宴を開いた。波が荒くて島に着船できないときは船から拝んで新井崎の神社へ参って帰った。 江尻 漁業会が五組からなり、各組が一人ずつ代参をたてて角樽と魚と赤い幟とを持って参る。瀬の越さんは耳が遠いので、「江尻から参ったぞ」と大声で叫んで石を投げる。島から戻るとその足で籠神社へ参る。代参した人は明日から大漁だという。 島参りの広がり 島参りは、図135のように、京都府から福井県にかけて若狭湾一円に広がっている。冠島に遠い若狭東部や、主として雨乞いを祈願した舞鶴湾の西側では近年衰退しているものの、豊漁を願う湾岸一帯の漁村では、今も根強い信仰を保っているといえる。これに対し、老人島神社の横に弁財船の模型が奉納されているが、これに乗って老人島の女神が海を渡ると考えられており、船玉神社と呼ばれている。ただしこの船は、明治五年に若狭国西津小松原から海上安全を祈念して寄進されたものである。さらに、境内の石仏や狛犬には「安政三丙辰年仲秋奉再造弁天/小浜講中」「若州高浜東ノ/町講中慶応元丑歳八月吉日」など、島参りの衰微した若狭からのものがいろいろみられる。 養蚕が盛んなころは、由良川流域の農家が繭の豊作を祈願して、団体で島参りをし、染め絹を奉納する「養蚕参り」が行われた。また、東舞鶴の市場地域からは毎年桑苗を冠島へ寄進したといわれている。 音の玉手箱
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