丹後の地名プラス

そら知らなんだ

国分寺創建②
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -92-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
シリーズ


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志楽と阿良須
真倉と十倉
笶原神社
九社神社と加佐(笠)
枯木浦と九景浦
女布
爾保崎
丹生
三宅
日子坐王と陸耳御笠
麻呂子親王の鬼退治と七仏薬師
源頼光と酒顛童子
元伊勢内宮と元伊勢外宮
丹後国神名帳(加佐郡編)
丹後国郷名帳
丹後国神名帳(与謝郡編)
丹後国の5郡
丹後国神名帳(丹波郡編)
丹後国神名帳(竹野郡編)
丹後国神名帳(熊野郡編)
天橋立伝説
浦島伝説
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竹野媛と丹波大縣
日葉酢媛と朝廷別命
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古代の土器製塩(若狭・丹後)
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飯豊青皇女・市辺押歯皇子伝説
冠島と沓島
幻の凡海郷
母なる由良川
由良川舟運
由良川の水害
由良川の村々と社
福知山20聯隊の最後①
福知山20聯隊の最後②
加佐郡は新羅郡
与謝郡は新羅郡
田邊・田造郷①
田邊・田造郷②
拝師(速石)郷(丹後国与謝郡)①
拝師(速石)郷(丹後国与謝郡)②
民族大移動の跡か!?
鳥取①
鳥取②
幻の倭文
伊吹①
伊吹②
息長①
息長②
奥丹後大震災①
奥丹後大震災②
丹後のオニ伝説①
丹後のオニ伝説②
大蛇伝説①
大蛇伝説②
火祭①
火祭②
福知山二十聯隊の最後③レイテ戦と二十聯隊の全滅
福知山聯隊の最後④インパール作戦と15師団
伝承郷土芸能①
伝承郷土芸能②
伝承郷土芸能③
伝承郷土芸能④
伝承郷土芸能⑤
伝承郷土芸能⑥
産屋
子供組
村の年齢集団-小中学校
村の年齢集団-青年団
舞鶴の古墳①
舞鶴の古墳②
日本海側の古墳
蛭子山古墳
網野銚子山古墳
神明山古墳
丹後の弥生期-日吉ヶ丘遺跡 他
扇谷遺跡、途中ヶ丘遺跡
大風呂南墳墓と赤坂今井墳墓
奈具岡遺跡
函石浜遺跡
平遺跡
玉砕の島①
玉砕の島②
仏教伝来①
仏教伝来②
国分寺創建①
国分寺創建②





少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上タイムリミット上言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

国分寺創建(つづき)

丹波・但馬・若狭の国分寺など

丹波国分寺と国分尼寺

調査が進んで、往事の様子がほぼ解明されている。


丹波国分寺(京都府亀岡市千歳町国分)

タンボと荒れ野の中にボツンとある。付近に民家はない。ロクな道はない、小さな車でないと入れない。(当時は立派な道であったのであろうが、今どきの感覚で言えばのハナシのことで、タンボ道がほぼ直線、カクカクと90度に交わり曲がる、ナニコレで最近の圃場整備か、たぶん古代の条理の道ではなかろうか。)

現代日本人にはスッコーンと忘れられ、さびれすされた荒寺。時代劇にでも出てきそうなお寺だが、実際映画ロケにも使われるという。
千三百年の古代へ導いてくれる。

山門と鐘楼と本堂、しか今はないが、丹波国分寺という近世に再建(再再建?)された浄土宗のお寺で、山号は護国山、本尊は薬師如来(木造坐像、重要文化財)。奈良時代の国分寺の寺名と寺地とを受け継いでいて、その寺跡は国指定史跡となっている。今の本堂は講堂跡に建てられたようである。
国分寺(千歳町)
 奈良時代に建立された国分寺は中世以降、一時衰退しましたが、元禄年間(一六八八~一七〇四)に再興され、現在の本堂は、安永三年(一七七四)に護勇比丘が近在の村はもちろんのこと、全国的に浄財を集めて建立しました。
 本堂は、正面向拝を唐破風造とした入母屋造、妻入の建物で、城下紺屋町の木村藤四郎玄信が大工棟梁として、花野九兵衛が瓦工として関わっています。内部の格天井には四季折々の花鳥風月が描かれるなど、彫刻や絵様に見られる匠技は見事です。また、門や鐘楼も本堂と同時期に建てられたもので、丹波国分寺の歴史を今に伝える重要な建物として、亀岡市指定文化財になっています。
 本尊の薬師如来坐像は平安時代後期の作で、国の重要文化財に指定されています。また、後堀河上皇が北国の天変を心配して、この薬師如来に祈願したところ宮廷に米が降ったということから、「
飯薬師(めしやくし)」と呼ばれています。さらにイチョウ、カゴノキ、ムクノキは亀岡市指定文化財となっています。
 なお、本堂等を再建した護勇比丘の墓所は、山門の南方約一三〇mの竹藪の中にあります。


史跡 丹波国分寺跡 附八幡神社跡
 丹波国分寺跡は、現在の国分寺境内に塔跡の礎石がすべて残り、またその鎮守社と考えられる八幡神社の跡があることなどから、貴重な遺跡であるとして、昭和3年(1928) 2月17日に国の史跡(面積約25,000㎡)に指定されました。その後、発掘調査等の成果を得、平成18年(2008)にはほぼ寺域全域(面積約74,000㎡)が追加指定されました。
 これまでの発掘調査等により、伽藍配置や各建物の規模等は概ね解明されていることから、国分寺の往時の姿を多くの人たちに感じていただき、知っていただくために、現在、環境整備工事を進めています。
平成27年3月 亀岡市教育委員会 設置

方2町の法起寺式伽藍配置のお寺であったよう。

境内にオハツキイチョウ・カゴノキ・ムクノキなどの古木がある。

オハツキイチョウの古木があって、ちょうど実がなっていた。探してみたが、葉にくっついているという感じのものはない、今からくっつくのだろうか、まさか…。葉と実は関係ございません、と言った感じである。写真の右下の二つはあるいはオハツキかも、高いところだから、しっかりと確認できない。
オハツキイチョウは、京都府下ではこの樹しか知られていない。

亀岡の名木
丹波国分寺跡のオハツキイチョウ(雌)
樹種=イチョウ。イチョウ科
所在=亀岡市千歳町国分桜久保二十五
雌雄異株の落葉高木。たけ下った気根(俗に乳という)にふれると母乳が良く出るといい、「チチイチョウ」と呼ばれ信仰されてきた。オハツキイチョウは「お葉つき銀杏」の意で葉の先にも実(正しくは種子)がつくことから名付けられた。これはまれに現れる奇形である。亀岡市の天然記念物に指定(昭和六十一年三月三十一日)され・京都・自然二百選にも選ばれている。
〈調査日〉一九九六年一月二十九日
胸高幹廻=四・三メートル
樹高=二十二メートル
  「亀岡の名木」十ページ所載
亀岡市・(公財)亀岡市都市緑花協会


七重の塔の礎石


中央の心礎石は直径2メートルもありそうな巨大なもの。


金堂跡地であろう場所はサラチなっていて雑草がはえているだけ、礎石も案内もない。おいおい整備されるのであろう。
創建時の基壇は瓦積基壇、平安時代末期頃の再建時の基壇は乱石積基壇で、位置は重複する。瓦積基壇は南辺25メートルを検出。乱石積基壇は東西19.6メートル、南北15.4メートル、高さ約1.2メートルで、南面中央に幅9.5メートルの階段4段を有する。乱石積基壇上の再建建物の推定規模は東西桁行15.8メートル、南北梁行11.6メートルで、桁行5間・梁行4間。この再建建物は鎌倉時代後期に焼失したと推測されているという。

講堂跡

今の本堂が講堂跡。瓦積基壇で、東西32.8メートル、南北20.9メートル。基壇上の建物は東西桁行26.8メートル、南北梁行14.9メートルで、桁行7間・梁行4間という。

経蔵跡


巨大な僧坊跡




僧房跡
 僧房は僧侶たちが住む公的な棟割長屋です。中世にはこの長屋とは別に、僧侶の私的な住まいである院家・子院が発達し僧房は廃れますが、古代寺院では僧房での共同生活が一般的でした。僧房は、規則的な生活を送るために時を知らせる鐘楼、勉学に用いるための経典を収める経蔵、講義を受け議論するための講堂に近接して建てられています。
 天平13年「国分寺建立の詔」は僧寺に僧20人、尼寺に尼10人を置くことを命じており、各地の国分寺跡においても、講堂跡の北で東西に長い僧房跡が検出されています。東西約98.0m、南北約15.6mの基壇規模をもつ丹波国分寺僧房跡は、その中でも最大級です。
 西半部は削平され建物に関わる遺構は残つていませんが、東半部の状況から礎石建物で創建し、一部を掘立柱建物に建て替えたと考えられます。礎石建物は東西約94.8m(25間、柱間8.4mの中央間以外は3.6m等間)、南北約12.6m (4間、身舎柱間3.3mで南庇柱間3.0mです。整備では中央間を除く東半部と西半部の1列分の位置に礎石サイズの自然石を配置しています。


鎮守社
西側の山裾に鎮座の愛宕神社(千歳町国分・元愛宕社)の境内社に八幡宮神社がある、祭神は応神天皇、天平年間に宇佐八幡宮から分霊して丹波国分寺境内に祀られたものとされる。その後国分寺は荒廃し、天保6年(1835年)愛宕神社に遷して祀られたという。
また当寺西側の蔵垣内遺跡では、子院と見られる遺構が見つかったという。

仏像(国分寺薬師如来像)

門の左側に収蔵庫が建ち、国重文の木造薬師如来坐像が収められている。平安後期の作。
国重文の「木造薬師如来坐像」のほか、現存最古の行基像といわれる「木造行基菩薩坐像」、田植地蔵の別称がある「木造地蔵菩薩坐像」かある(三体とも平安期の作)。また同寺中興の祖の「木造護勇比丘坐像」がある。

工房?
方2町の寺域のようだが、寺院の中心線が東に寄っている。北と西がなぜか広い空き地になっている。ここには工房があったのでは?


丹波国分尼寺跡
何とも位置を説明しにくい所にある。この案内板しかない、このあたりが南大門の位置という、荒れ野にポツンとある感じだが、一部宅地や畑地。道はむかしのままなのか狭い。市教委の案内板がしっかりしているので助かる。尼寺の跡はめずらしい。
府道405(郷の口余部)線を南から来れば、水田地帯から丘陵に入ると左手に仲井玄米茶屋さんの工場がある、その手前の道を100メートルほど入った所になる。




丹波国分尼寺跡(御上人林(おしょうにんばやし)廃寺)
 御上人林廃寺の発掘調査は、昭和47年(1972)に金堂跡基壇が発見されたのに端を発し、以後6次にわたって行われ、当廃寺が丹波国分尼寺跡であると推定できるようになりました。
 丹波国分尼寺は、南大門跡・金堂跡・講堂跡が南北一直線上にあって、国分尼寺として通有の(塔のない)伽藍配置です。寺域は東西約150m、南北約170mで、周囲に築地塀をめぐらし、丹波国分寺(僧寺)とほぼ東西に並んでいます。建物の規模は、南大門跡が東西約15m、南北約10m、金堂跡が東西約27m、南北18m、五間四面(柱マス7間×5間)の建物が想定されます。また、講堂跡は東西25.8m、南北1 6.8mでやはり五間四面の建物跡が確認されました。
 出土遺物は、丹波国分寺(僧寺)跡で出土したものと同じ文様の軒瓦が出土しており、そのほか奈良時代から平安時代にわたる須恵器や土師器・緑釉陶器・青白磁器等が出土しています。
 国分寺とは、天平13年(741)2月、聖武天皇の発願により国ごとに建立された寺を言い、金光明四天王護国之寺(僧寺)・法華滅罪之寺(尼寺)の二箇寺で構成されます。丹波国分寺(僧寺・尼寺)跡は、古代丹波の国の中心であった亀岡市域の政治的・文化的様相を知る重要な手掛りとなるものです。
 なお、丹波国分寺(僧寺)跡は丹波国分尼寺跡から東へ約400mのところにあり、現在塔跡等の礎石が残り、国の史跡に指定されています。 令和4年 亀岡市教育委員会


この千歳町あたりは重要な古蹟がゴロゴロしている。
丹波一宮・出雲神社

千歳車塚古墳

ちょッと掘れば遺跡がナンボでもの律令丹波国の中枢部であった。

丹波国府

国分寺から北北西に5㎞くらいのところ、今は船井郡八木町の屋賀というところになるが、水田面より5メートルばかり高い台地に↑(むね)神社があり、国府といった地名もあるし、屋賀にはほぼ二町四方の小字国府が現存し、国府垣内(こくふかいち)・国府川・国府馬場などの通称もあるという。丹波国府はこの屋賀の地とする説が有力という。
「和名抄」に丹波国府について「在桑田郡行程上一日下半日」とあるため、桑田郡に所在するとされてきた。屋賀は船井郡になるので、チャウだろうともされるが、郡境はよく変わるし、今でも郡界から1㎞とは離れていない。
室町時代の様子を描くとされる丹波国吉富庄絵図には美野田・川関(現亀岡市)、多国山に囲まれる中に「国八庁」とあり、豪壮な建造物が図示されている。この場所は明らかに屋賀の地と考えられ、屋賀説を強める。集落の南部に鎮座する宗神社(旧称宗社大明神)が総社であったとも考えられる。また桑田郡内の式内社で、同郡内に比定される神社が見あたらない「三県(みあがた)神社」が同社である可能性もある。小字国府には一千年間かれたことがないと伝える井戸があること、堀を巡らす防御形態がみられることなども傍証になるという。元和3年(1617)7月9日付の三輪氏由緒書に「丹波国司(中略)船井郡屋賀村に館舎を構へ(中略)今しるしとて末世迄残れるハ国司屋舗と名付方二町(中略)四方竹林にて外に堀をほり廻し」と記されるという。

但馬国分寺・国分尼寺

但馬国分寺

近くの博物館の展示↑
今の兵庫県豊岡市日高町国分寺という所に遺跡がある。

この案内の後に塔の礎石が残っている。 二つしかない、心礎石↓

案内板には
史跡 但馬国分寺跡
平成二年十二月二十六日指定
平成十二年十一月十五日指定(追加)
平成十六年二月二十七日指定(追加)
平成二十三年九月二十一日指定(追加)      文部科学省
国分寺とは、奈良時代の天平十三年(七四一)、聖武天皇が国家の安泰などを願って諸国に建てさせたものです。
文化十一年(一八一四)に但馬を測量に訪れた伊能忠敬は、「国分寺旧跡田地中に柱の敷石三ツあり」と記録していて、江戸時代にはすでにこの地が国分寺跡として知られていたことが分かっています。
昭和四十八年(一九七三)に始まった発掘調査では、金堂・塔・中門・回廊などの主要伽藍や、寺域東南隅を区画する築地塀、井戸なぞが見つかっていて、寺域は一辺一六〇メートルほどであったと考えています。
遺物では、大量の瓦や土器のほか、全国の国分寺では初めてとなった木簡も出土し
ています。木簡には、「天平神護三年(七六七)」「神護景雲二年(七六八)」などの年号や「院内」「西倉」「醤殿」「鋳所」といった施設名が記されていて、国分寺の造営過程や寺院経営を考える上で、全国的にも貴重な資料となっています。
なお、但馬国分寺から出土した資料は、但馬国府・国分寺館で展示・保管しています。平成二十三年三月    豊岡市教育委員会



塔跡の東側に金堂跡がある。このあたりが国分寺の中心線になり、周辺の条理線と方向は一致する。方1.5町の寺域があったという。
回廊(中門と金堂を結ぶ)跡と講堂跡の案内が近くにある。礎石らしきものはない。



すべて発掘調査が終わっているのではないので、今のところの推定図(博物館資料)
『続日本紀』宝亀8年(777)6月14日但馬国分寺の塔に落雷の記事がある。この時焼失したかもということか。

工房跡。その後の発掘調査で工房があったことがわかる。(博物館資料)
大衆院の時代 但馬国分寺創建時
但馬国分寺は741 年(天平13)の詔により創建が開始されます。しかし、その建設工事は難航し、主要な建物が完成し国分寺としての活動を始めたのは、20 年が経過した760 年頃と考えられます。
 このころ、寺域の東側は大衆院と呼ばれる、食料や物品の調達・保管、建物の修繕など寺院の管理・運営を担う施設がありました。発掘調査では1 辺1.7 m、深さ2.7 m以上の木組みの井戸や建物等に使用する金属製品を製作した冶金工房跡、物品の収納や人員の割り当てを書いた木簡が見つかっています。これらは、大衆院がおこなっていた活動の一端を示しています。


今の護国山但馬国分寺と、その境内にある南大門礎石

本尊の薬師如来像
日高町指定有形文化財
彫刻 薬師如来像
指定年月日 昭和五十七年四月二十六日
所 在 地 日高町国分寺七三四
所 有 者 国分寺
体躯のうち、胴体部は一木造りで、腰から膝前の部分は後世の修理による。両腕の下部は後補、面部も修理によって製作時の面影を失っているか、胸から腹部の厚みのある彫法、褶の柔らかい流れるような線の表わし方は平安彫刻によく見かける特色である。
日高町教育委員会
境内出土品 天平十三年(七四一)
但馬国分寺瓦
 八葉蓮華大丸瓦、唐草文平瓦
南大門礎石


鎮守社?
国分寺北の山に「天平の径」がある、北にあった国分尼寺の方へ続いているそうだが、こんな道をよく登れるな、と思う急坂である。直線でまっすぐに登っていく古代の道らしいものであるが、そのとりつき部にほこらのような建物がある。これは国分寺の鎮守社でないかと思われる。鳥居もないが、今は売布神社が祀られているという。
国分寺が創建される以前は、当地も祢布の一部であったのであろうか。

但馬国分尼寺(日高町水上)

日高東中学校の東側の道沿いに礎石が2ツ残っている。

「国分尼寺 但馬法華寺舊趾」の石柱がある、向かい合うように地蔵さんが祀られているが、その花立てや線香立ての基礎に見える石も尼寺の礎石のようである。

案内板には、
但馬国分尼寺跡
国分寺は、天平十三年(七四一年)に聖武天皇が国家安寧、五穀豊穣を願って全国の各国毎に建立を命じた寺院です。
国分寺には、僧寺と尼寺があり、奈良市の東大寺が全国の総寺に、同市の法華寺が尼寺の総寺となっています。但馬国分寺(僧寺)は、日高町国分寺に造営され、但馬国分尼寺はこの場所に造られました。現在、礎石が二個残っていることから、ここに主要な伽藍の建っていたことがわかります。寺の範囲やどのような伽藍配置であったかは未だわかっていません。伊能忠敬の書いた「測量日記」によると文化十一年(一八一四年)正月十九日には、国分尼寺の礎石が七個あったことが書かれています。平成十五年三月    日高町教育委員会


天台山法華寺(日高町山本)

尼寺の礎石が残る所から北500メートルばかりの山腹に天台山法華寺がある。今は曹洞宗だが、本尊は釈迦牟尼仏という。尼寺の後継寺であろう。

賣布神社(気多郡式内社)
国分寺集落の一番西側の山裾に式内・賣布(めふ)神社の趾地がある。

元々からここにあったとは思えないが、案内板には
式内社賣布(めふ)神社跡
豊岡市日高町国分寺字山ノ脇七九七 旧石立村
祭神 大賣布命
創社 朱雀三年
由緒
当社往古は袮布ヶ森にあったが字天神山中腹に遷宮する。
万延元年(一八六〇年)本殿再建する。
 後に大雨の為、境内が破損し文久二年(一八六二年)現在地に遷宮する。
明治六年(一八七六年)格式制度廃止により村社となる。
明治九年(一八七九年)石立村と国分寺村が合併し国保村となる。
大正十年(一九二一年)屋根替えする。
昭和二十七年(一九五二年)近隣の国府村と聞き違い多く再び国分寺村に改名し現在は国分寺区となる。
令和元年(二〇一九年)荒神神社に遷座合祀する。
              神社合祀実行委員会

令和二年三月吉日


売布(めふ)とか祢布(ねふ)とか、舞鶴では女布(にょう)と書くが、みな同じで丹生(にふ)のことで、丹の産地である。丹生と呼ばない、書かないのは、丹生氏の入植がなかったのであろうか、あっても小規模か。別になくても丹の産地には変わりはなく、そうした地を古来も売布、祢布、女布とか呼び、書いたものと思われる。天日槍時代までの丹の産地地名と思われる。

祢布(にょう)と但馬国府
国分寺集落の西隣が祢布集落である。祢布はネフと読まないで、ニョウと呼ぶ。舞鶴でも同じで女布集落の裏山に金峰神社があり、その奥院に祢布神社がある。祢布はニョウと読んでいる。
水銀がある土地は害虫が少ない、作物がよく育ち住みやすいので、舞鶴でも一女布二○○三□□といって最も住みよい土地とされてきた。縄文の早期から人が暮らしてきた。

黒いコンテナを四つ並べたような建物が豊岡市立歴史博物館但馬国府・国分寺館である。この辺りが祢布ヶ森遺跡である。右の信号機は祢布の信号機、それを左右に通るのが国道312号バイパス、豊岡市役所日高振興局は博物館の並びで信号機の100メートルばかり先にある。
袮布ヶ森遺跡(日高町袮布 袮布ヶ森)
円山川と支流稲葉川の合流点近く、標高25-30メートルの段丘および小扇状地上に立地、奈良・平安時代の遺構は広い範囲に分布し、官衙的性格を濃厚に示す。祢布ヶ森一帯は、東に但馬国分寺跡があり、西方に掘立柱建物跡群が存在する。掘立柱建物跡は本調査部分を含めて10棟分か発見された。建物は柱穴の重複からみて二時期があり、建物方位で三時期に分けられる。これらは奈良時代後期-平安時代後期に属し、官衙的性格をもつ建物群のうちの、雑舎的な建物と想定される。この建物群は遺跡内における北東部に位置すると推定できる。出土遺物のうちに「郷□□」「大」などと書かれた墨書土器が計一三点ある。そのほか緑釉陶器・灰釉陶器・青磁・白磁や木製品がある。
「日本後記」卷十二延暦廿三年(八〇四)正月壬寅【廿六】○壬寅。遷但馬國治於氣多郡高田郷とあって、どこか別の場所に国府があって、延暦23年にこの地に移転したという。この移転後の国府跡が祢布ヶ森遺跡から発掘された。祢布に遷った国府を、第二次但馬国府と呼ぶが、第一次但馬国府がどこにあったかは分かっていない。


若狭国分寺、国分尼寺

若狭国分寺

小浜市遠敷国分に曹洞宗護国山国分寺があるが、ここである。

国道27号(丹後街道)沿い。古墳の森が目印で、わかりやすい所にある。
案内板に
史跡若狭国分寺跡
 国分寺は、天平十三年(七四一年)聖武天皇の発願により全国六十余州に造営されたもので僧寺と尼寺がある。
 ここ若狭国分寺は、遠敷川と松永川とによって東西を囲まれ、南を国道によって区切られたおよそ三角形の地形に位置している。
 第一次調査では国分寺古墳の裾に塔跡、現釈迦堂の下に金堂、水田の中より寺域の東限、北限が確認されている。
 第二次調査では現釈迦堂の前方に中門、後方の畑の中より講堂跡が確認されている。
 寺域はおよそ二町四方が推定され、寺域内には、若狭地方最大で径四十五メートルの国分寺古墳(円墳)があり、全国的にも例のないものである。小浜市教育委員会


薬師堂と釈迦堂

塔跡


『小浜市史』
若狭国分寺跡
位置と環境
市街地の東側国分区に所在する。この地域は滋賀県に源を発する北川によって沖積された小浜平野のもっとも幅広い部分の南側に位置し、北川の支流松永川と遠敷川が東・西・北を画し、南にマンダイ山の山裾を東西に走る国道二七号線で区切られた三角形の地形を形成する。現状はきわめて不安定の立地といえるが、これは河川改修によるもので古代では現状と異っていたと推測される。遺跡所在地は、現在、宅地・水田・畑地・原野となっており、現国分寺(曹洞宗)の境内地を含む。今の国分寺は江戸時代初期の再建と伝える釈迦堂を配し、本尊に丈六の木造釈迦如来坐像(市指定)を安置する。釈迦堂の西側には元尼寺庵の本尊と伝える木造薬師如来坐像(重文)と阿弥陀如来坐像(市指定)がある。
国分寺跡周辺の遺跡として寺域内に若狭地方最大の円墳(六世紀代か)があり、東には前述の太興寺廃寺が所在する。その前面の田地には中期末の前方後円墳を含む円墳五基が点在。また西側の遠敷検見坂一帯には前方後円墳二基と円墳・横穴合せて一五〇基が群集し、若狭最大の古墳密集地帯となっている。さらにかつては条里遺構もあって、この地域が、古墳時代中・後期~奈良・平安初期にかけて若狭の政治・文化・経済の中心であったことを示している。
調査に至るまでの経過
若狭国分寺は過去に調査されたことはなく、表面上では堂塔の配置を知ることはできなかった。もっとも現国分寺には東大寺様式の唐草文軒平瓦の残片一点と、布目瓦三点が保存されており、若狭国分寺のものと伝承されて来た。しかし、出土地も不明で、聞くところによれば奈良より持ち帰ったとの説もあって、必ずしも若狭国分寺に伴う遺物との確証は持てなかった。さらに、江戸時代には尼寺庵が所在したことから尼寺跡ではないかとの推測もなされていた。だが、発掘調査以前すでに礎石が発見されており、その一つは塔心礎で昭和初年ごろ国分区内の民家に運ばれ庭石として利用されていた。今一つは国分寺古墳墳丘の北東裾廻りの近くに埋もれていたのである。この付近を通称「大岩」と呼んでいるが、周辺に巨岩が点在していたためという。これが塔の礎石だった。これらは河川改修のとき北川護岸用石材として破砕されてしまったらしい。
国分寺地域は昭和四十三年(一九六八)より土地改良事業が計画された。そのため事業年度および区画の変更などの協議がなされ、ほぼ国分寺々域と考えられる区域は事業対象とせず保存し、昭和四十七~四十九年の三か年で発掘調査をした。それによってほぼ全容が明らかになり、昭和五十一年には国指定史跡をうけ、現在史跡公園として活用されている。
寺域と遺構
若狭国分寺の規模は寺域を画した溝の検出されたことで二町四方(二一八メートル)と判明。伽藍配置は南大門・中門・金堂・講堂が軸線上に並び、東側に塔を配置した通常の形をとっている。
塔跡
塔跡の基壇上面は、西南部が旧表面に近いと推定された他はかなり削平されていた。礎石は南側柱列西寄りに二個が元の位置に残されていたが、その他はすべて抜きとられていたのである。二個のうち西南隅の礎石は長径二メートル、短径一・三メートル、その東側の礎石は長径一・六メートル、短径一・一メートルが計測された。これら以外の柱位置には礎石据付堀方と根石が残されており塔初層の平面規模を推定することができた。塔は三間等間となっており、各柱間寸法は二・七メートル(九尺)である。したがって塔の初層辺長は八・一メートル(二七尺)となり、通常みられる国分寺の塔が三〇尺を越すのに比してかなり小規模であったことがわかる。このことから建築学上からはせいぜい五重の塔しか建たず、七重の塔は無理との判断がなされた。基壇は北西コーナーの残存によって礎石より三・六メートル(一二尺)であるところから、一辺が一五・三メートル(五一尺)の方形であったと推測される。基壇の高さも一メートル内外と考えられた。しかし、周辺からは瓦などの遺物は一切検出されず、火災によって塔が倒壊したと思われる南東で水煙の一部が発見されたのにとどまる。したがって塔創建・廃絶の年代は明らかにできなかった。
金堂跡
位置的にみて現国分寺釈迦堂が元国分寺金堂跡と推定され、ここに焦点をあてて調査を進めた。もっとも釈迦堂が建っているため、その基壇四囲を発掘したが、予想どおり元国分寺金堂の遺構が検出されたのである。この発見によって、現釈迦堂が元の金堂を縮少して再建されていたことが明らかになった。遺構面は意外に浅く現地表下一〇センチで検出され、後世の削平による基壇の破壊が認められた。したがって礎石はなく、礎石据付掘方も消滅していたが、幸いにも根石群は残されていて、建造物の平面規模の復元は可能であった。根石の配列から桁行(東西)五間で二ー・六メートル(七二尺)、梁間(南北)四間一五メートル(五〇尺)となる。桂間寸法は桁行方向で中央三間が四・八メートル(一六尺)等間、両端は三・六メートル(一二尺)であり、梁間は両端が三・六メートル、中央二間か三・九メートル(一三尺)が計測されている。基壇化粧の一部が前面と東北隅に残り、乱石積みであったことが窺われるが、基壇の規模東西二八・八メートル、南北二ー・九メートルである。また基壇前面には二か所の階段が検出され、それに伴う二条の敷石参道が認められた。この周辺からは焼土と炭火物に混って平安時代の土師器が多量に出土している。
中門と南大門
中門は部分的にしか基壇土は残されておらず規模については明らかにできなかった。南大門は地籍名としても残されていたが、ここも中門と同じく遺構としては残らずわずかな基壇土の形状から東西一五メートル、南北一二メートルの基壇と推定した。その他では金堂より三五メートルの地点で講堂跡と思われる掘立柱の柱穴が検出されたが民家があったため部分的な発掘にとどまった。ここでの柱間寸法は南北では三メートル(一〇尺)、東西では二・七メートル(九尺)であった。出土遺物も伽藍周辺では平安期が多く北方建物跡と称した寺城北限に近いところでは奈良期・平安期の遺物が混在して検出されたが、さほど多くはない。また施釉土器や盤などはいずれも平安中期を上るものとは考えられず、国分寺の創建に大きな問題を投げかけたのである。
国分寺の創建と謎
天平十三年(七四一)に諸国国分寺建立の詔勅が発布され、同十九年~天平勝宝年中(七四九~五六)ごろに国分寺建立が始まったと伝えられているが、果してそうであっただろうか。全国各地にみられるように既存の寺院を転用することも多くあり、いっせいに国分寺が創建されたとは考えられないのである。若狭国分寺跡も発掘当時の報告書では詔勅をさほど隔てない時期と判断したが、太興寺の項で述べたように、八世紀中頃には建立されていなかった懸念が強く感じられる。第一の理由は瓦がまったく検出されなかったという事実である。同年代で太興寺・神宮寺に使用されているにもかかわらず国家の所管する国分寺に使用されない筈はない。第二に寺域は二町方格を形成しながら建造物の規模は小さく、能登国分寺など平安期成立の寺院に類似すること。第三には通常国分寺の創建は天平十三年聖武天皇の発願と記すものだが、慶長八年(一六〇三)の若狭国分寺釈迦堂再建勧進帳(「明通寺文書」)には「夫当寺は平城天皇の御願、大同二年の御建立……」と記されており、八〇七年に太興寺転用の国分寺を新しく現在地に創建したことを示唆しているなどがあげられる。もっとも同十四年の勧進帳には「聖武天皇云々」とあるが、おそらく当初は平城天皇の創建という伝承があったのではないか。若狭国は経済的な理由によって瓦を使わなかったのではなく、平安初期に創建されたとすれば奈良期の瓦が出土しないのは当然であろう。因みに文永二年(一二六五)の中手西・東郷検田帳案(「東百」ユ)をもとに条里複原をした結果、国分寺域二町方格が確認され(須磨予頴「若狭国遠敷郡の条里について」『小浜市史紀要』第五輯)、また同年の若狭国惣田数帳写(「東百」ユ)に国分僧寺・尼寺の寺領が記されており、少なくとも鎌倉中期まで僧寺・尼寺の存在したことが窺える。

『遠敷郡誌』
國分寺 曹洞宗神通寺末にして本尊は釋迦如来なり、亦尼寺庵ありて薬師如来を安置す。
 聖武天皇の勅願によって毎州國分寺を置かれし時、若狭に於て國府に近く建てられ、元七堂具備せしと傳ふ、元尼寺庵と稱せしは國分尼寺のありしものなり、文永二年惣田數帳に國分寺十六町四反餘國分尼寺七町五反餘を領すとあり、傳ふる所によれば桓武天皇の時御再建ありしが天正五年兵燹に罹り諸堂烏有に歸し、僅かに國分寺本尊釋迦如来尼寺庵本尊薬師如来脇侍釋伽彌陀二像を殘したるのみ、然るに小濱の山田一徳なる者諸所を勧進して慶長十五年舊址に釋迦堂を建立し、國分寺本尊釋迦如来と安置し奉る今の堂宇是なり、尼寺庵には後堂を建て尼僧住せしも寛文六年以来禪寺となり、曹洞宗の僧之を繼ぐ、中古以来神宮寺明通寺等別當たることありしが明治十三四年頃別當を離れ、明治十九年尼寺庵の稱を廢し國分寺と改む、國分寺釋迦堂由来記に據れば、今の國分區は往昔の寺地にして寺坊三十あり、内二十坊は釋迦堂十坊は尼寺附の尼坊にして東・西・南・北・奥の五坊は大寺なり、府中迄二十四町の間廊下あり云云、現今國分寺本堂に安置せる薬師如来は高さ約三尺の座像にして春日の作と稱し、明治三十四年八月國寶となれり。



若狭国分尼寺
国分尼寺は今のところ、どこにどんな形であったものか不明だが、現国分寺の西側の薬師堂に鎌倉期の木造薬師如来座像(国重文)があり、これは尼寺の本尊と伝わる。近くにあったのではなかろうか。


若狭国府
府中という地名が残っている、今の高速小浜インターのある辺りだが、総神社があり、これが総社なら、国府もこのあたりだろうと推定されている。


『小浜市史』
若狭の国府
ところで、その国府域はどこにあったのだろうか。若狭の国府域は従来、小浜市府中(米倉説)、和久里の東で、木崎の北方、ないしは、東小浜の西北付近(藤岡説、木下説)に推定されていた。これらの地域の内、木崎の北方には檜物田、瓦毛田、土器田など中世の府中に関連する府中の免田に系譜をひく小字名を残しており、また和久里の西北には府中の字名を残しているなどからみて、府中が中世の府中の所在地であって、その東に接して、府中城とでも呼びうる地域があったことはまちがいない。しかし、古代国府は中世の府中とは場所を異にする場合も多く、この府中を中心とする地域に国府を推定してよいかどうかは疑問が残る。ことに、昭和六十一年(一九八六)の小浜市教育委員会の遠敷遺跡発掘調査では、同地域には顕著な奈良時代の遺跡の存在を確認することができず、むしろこの地域の東端小字石田で掘立柱建物跡を見つけており、その付近には奈良時代の土器がかなり散布しているし、国府域の南側で表面採集だが神功開宝も発見されている。この点からみると、国府は小字石田から東で、遠敷にかけての地域に推定したほうがよさそうである。
 したがって、これまでの推定地では東小浜の西北の地域が一番近いことになる。一方、さらに東では、遠敷川の氾濫源にあたっていて国府域の所在地としては不適切になるから、一つの仮説として、石田から下?(門カマエに隹)原あたりまでのところで方一キロメートルの地域に想定しておきたい。このことは、石田より西では旧地形が一段低くなっていること、また上?原の付近で水田の畦が直角にまがっていることなどを一つの手がかりにしたが、もちろん発掘調査で確かめたものでないから、一つの仮説に留まるものである。
 もちろん、その中には国の行政を執行する国庁と、その付辺で国の役人やその関係者が居住していた国府域とに分けられるが、その厳密な位置や構造は、今後の発掘調査に待たざるをえない。国庁は方五〇〇メートルほどの区域をもっているのが通例であるが、若狭の場合には、遠敷の南辺の扇状地の上あたりが最もふさわしいが、なお、その詳細については、今後の調査をまたざるをえない。また、この国府が、字府中に移転して中世の府中となるのがいつごろのことなのかはよくわかっていない。ただ、この府中の所在地は南川と北川にはさまれた低湿地で、決して耕作にも居住にも適切な土地ではない。そのような土地に府中が営まれたのは、北川、南川と小浜湾との水運の要地であったことが一つの要因になっているものとみられる。








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