伝承郷土芸能②
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 鈴鹿神社の祭礼鈴鹿神社↑ 志楽小学校グランド↑その向かいに阿良須神社 志楽の中ほどに鈴鹿神社が鎮座する。同社の案内板によれば、「当社は、丹後国神名帳によると芝束社(天火明命)と称されて来ましたが、後に鈴鹿明神(金山毘古命)箭取明神(経津主命)の御神体を移し、三社を合祀し産土神と呼びお祀りして来ました。(寛保三年)。ところが明治維新の頃、鈴鹿神社と改められました」とある。『丹哥府志』に鈴鹿権現とあり、鈴鹿神社と称するようになったのはもう少し古そう。、それ以前は、丹後国風土記残欠に、志東社と伝えているが、これは志束社の記録間違いと思われる。「室尾山観音寺神名帳」では、正三位志束明神、あるいは正三位斯束明神とおもわれ、これが当社の前身であろう。その志束社は、本殿の右側の脇に今も摂社・志束大明神として祀られている。 シズカがスズカに転訛したものであろうか。シズカとかシズシとかイズシなどは天日槍と思われ、志楽二宮らしく古い来歴がありそうである。 案内板は続けて、年中行事として、 「●秋の例祭 十一月三日(都合で変更有) 豊穀感謝神事 五年毎に(平成九年三月十四日登録京都府無形民俗文化財)式三番叟、徳若萬歳、姫三社の舞が奉納されます。 太鼓屋台の巡行は神事奉祀の前に子供たちの先導で賑やかに囃子を伴って町内を練り回り祭を盛り上げています。 特に平成十五年に新調された屋台は、境内にて育った欅の古木で完成された立派なものです。」 太鼓屋台も立派なものだが、古くより伝わる奉納芸能も立派なレベルのもので、よく復活されたものと感心、感謝である。姫三社と徳若万歳の演目は近辺にはなく、一度途絶えてしまうと、二度と復元は困難であったであろうと思われる。 元々は、情報が少ないので、たぶんであるが、姫三社は祇園の舞妓さんの舞か、徳若万歳は尾張、設楽のようである。 北名古屋市役所のHPに、 「徳若万歳」は、鎌倉時代、名古屋市東区の長母寺の名僧道暁(無住国師)に、味鋺村(名古屋市北区)の安部朝臣有任の次男徳若らが陰陽の道を学ぶかたわら、「万歳歌」を教わったのが起源とされています。 チャットGPTによれば、 「姫三社の舞は、宮川町の舞妓さんによって踊られるそうです。鈴鹿神社の祭礼でも伝統芸能奉納されているそうです。」 舞妓さんの舞にも過去があろうから、その淵源はいずこ…。祇園さん(祇園祭の祇園社で、今の八坂神社)の巫女舞でなかろうか… 『京都新聞』(2013.10.28) 中学生が伝統芸能を奉納 舞鶴・鈴鹿神社で大祭
京都府舞鶴市田中町の鈴鹿神社で27日、5年に1度の秋の大祭が営まれた。地域の小中学生が府無形民俗文化財の伝統芸能を奉納し、多数の住民らが地域の安全や豊作を祈る子どもたちの演舞に見入った。 演目は「田中の三番叟(さんばそう)」、女子が舞い踊る「姫三社」、祝いの歌詞に合わせ舞う「徳若万歳」。子どもの減少などで中断したが、同神社祭礼保存会が1989年までに各演目を順次復活させ、97年には同文化財に登録された。今年は8~15歳の9人が9月から練習を重ねた。 この日、特設舞台では江戸末期から伝承するという翁(おきな)の面を着けて跳びはねる男子の踊りや扇を手にした女子3人の優雅な舞が奉納され、住民らが拍手を送っていた。同保存会の田端一男会長(61)は「子どもたちはよく頑張った。地域の手作りのお祭りを、今後も守っていきたい」と話した。 踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々… しかし見てるだけの阿呆でも、祭の楽しさに引き込まれる。地域社会の格として生きて機能している祭礼芸能になっているように見える。 阿良須神社の祭礼志楽・小倉の阿良須神社は、鹿原・吉坂・安岡・田中・小倉地区の氏神。祭礼には、1地区ごとの輪番で、各地区が特色ある伝統芸能を奉納される。 『舞鶴市民新聞』(031028) *小倉の阿良須神社**5年に1度の〃天女舞〃秋の祭礼で神楽奉納**上田中地区、25年前に復活**女児5人が厳かに歌い、舞う*
小倉の阿良須神社で二十六日、秋の祭礼があり、地元の上田中地区による世の中を祓い浄める神楽「天女舞」が奉納された。この舞は、一時途絶えていたが二十五年前に復活、以来五年に一度ずつ披露されている。 「天女舞」は、今から千三百年前の白鳳年間に、高市皇子が当地を訪れ、柳原宮(阿良須神社の古名)で天下太平を祈願した時に、威光山(現在の城山)に五色の雲がたなびき、美しい五人の天女が舞い降りて、歌って舞った。さらに季節外れの桜が満開になり、皇子はその後、当時のことを思い起こして「天女舞」と「あめつちの舞」を奉納したのが始まりとされる。 地元の上田中地区では、この舞を継承してきたが、大正時代に一時中断。その後、二十五年前に古老の記憶を元に復活した。阿良須神社では、上田中地区と小倉、鹿原、吉坂、安岡の五地区で祭礼を担当しており、上田中地区では五年に一度、祭礼行事として舞を奉納している。 上田中地区の小学六年生と中学一、二年生の女児五人が、舞姫、歌姫になり、天女舞では、白い衣に赤い袴の王女姿の二人の舞姫が、二人の歌姫の歌う古謡に合わせて舞ったほか、あめつちの舞では、二人の女児が厳かな舞を披露した。 記事と写真はちがう時と場所だが、上田中も田中なのか、鈴鹿神社の祭礼に合流してくる。5年に1度の阿良須神社奉納サイクルと鈴鹿神社祭礼サイクルが同期しているようである。阿良須神社は元々は田中にあったといわれる。 5年に1度なので、どの年にどの演目が奉納されるのかわからず、ワタシはいまだに見せてもらったことがないのであるが、小倉から奉納される「杓子舞」をとりあげてみると… 『舞鶴の民話3』 天狗とおかめ(小倉)
小倉、吉坂、安岡、田中、鹿原の氏神様は小倉の阿良須神社である。こんもりと大木が立ち並ぶ、境内は広く、志楽小にいるとき、子供をつれてここで鬼ごっこ、かくれんぼ、なわとび等遊んだものだ。本殿の裏はなだらかな坂になっている。府の文化財の冊子をみると、この坂はのぼりがまがあった指定地になっている。古老と話しあって掘ろうかと思ったが、指定である以上掘るわけにもならぬ。又境内に大きな腰かけられる石があり、古老の話によると安産石で、よく妊婦が母親とともに座っているのを見かけるという。この宮は金剛院の守神ともいわれ、豊作を感謝する祭りが十月二十九日に行なわれる。その祭りの時は小倉、吉坂、田中、安岡、鹿原の五字がそれぞれの特色を生かした出し物を奉納するのが慣習となっている。ことしは小倉地区が当番で、おはやしの屋台、子供の豊年みこし、総勢百六十人の祭り行列が地区内をねり歩き、正午ごろ神社の境内に到着する。 森本宮司による神事のあと、杓子舞の奉納が社殿前に作られた舞台で行われる。天狗とおかめの面をつけた男女一人ずつがおはやしに合わせてひょうきんな動きの舞をする。子供たちには理解できないが、おかめが恥じらい、天狗が追う。沢山の見物客が見ているため恥ずかしいことはわかるが、天狗のあらゆる手練によって、おかめもだんだんその気になり、天狗のいいなりになり、天狗の高い鼻がおかめのなかにはいっていく。着物で顔をかくした喜びの顔を見て見物客がヤンヤと手を叩く。又写真のシャッターが切られる。五年に一回のこの舞、私はウフフと笑いながら古老とともに、短時間の練習であそこまで上手になるとは大した役者だなあと話し合った。あの二人の男女は未婚者であるという。このあと、「小倉フル宮太鼓」もあった。それにしてもだんだんむかしの行事が復活し、奉納されることは世の中が平和なためだ。いつまでもこうありたい。 写真は「伝統文化を訪ねて」より。→ 堂奥の山口神社で奉納される杓子舞も、この系統になるという。 当社には「笹囃し」(花おどり)がある、あるというか、あったというか、たくさんの演目の歌本が残されているのだが、いつからかすべて休止となっている。復活のメドも立たないとか。 (参考)--芸能史の入口 「丹後の笹ばやし調査報告書」(府教委) 丹後は風流小歌踊が集中分布することで知られている。花の踊といい、笹ばやしと称すなど、それらはさまざまの名で伝承されてきたが、昭和三十年代から急速にすすんだ地域共同体の解体と、生活様式の激変のなかで衰退が著しく、過半が中絶の情況に追いこまれているのが現状である。
民俗芸能は地域の生活とともにあり、庶民の営んできたくらしのぬくもりを今に伝えてくれる″生きた文化財″である。その本質のゆえに、ひとたび絶えればそれはまるごと消え去ってしまう運命にある。地域の熱意でかろうじて受け継がれるものに、積極的に助成の手を差しのべることと同時に、失われゆくものを記録し保存する作業を急がねばならないのである。 本書は、丹後における風流小歌踊のこのような現状をふまえ、さきに刊行された「丹後の花踊調査報告書」に引き続いて作成した、丹後の笹ばやしに関する記録である。 笹ばやしは、丹後において花踊とならぶ地域的特色をもった民俗芸能である。伊根町を中心に一つの圏域をなして分布する花踊に比し、笹ばやしはさらに広範な分布圈域をかたちづくっている。これに対してわれわれは、伝承のすべてにわたって調査する条件をもたなかった。 しかし、調査の範囲を許されるぎりぎりいっぱいまでひろげ、その分布圈域を明らかにするとともに、できるだけ多くの伝承について報告したいと考え努力したつもりである。忌憚のない御批判と合わせ、残されたものの今後の記録化に御支援をいただけたら幸いである。 さて笹ばやしとはどういう芸能であるのか。以下の報告がそれを示すわけであるが、とりあえずその特色を摘記しておきたい。 笹ばやしは、 一、シンポチ(新発意)、太鼓、音頭という構成を原則とし、いわゆる踊子をもたない。 二、使用楽器がほぼ締太鼓に限られる。 三、シンポチの存在が明確で、笹と軍配団扇という採物がめだつ。 四、以上の結果、太鼓の拍子と小歌によるはやしものとなっている。 と言えるものである。 笹ばやしという名称のゆえんは明らかでない。酒気嫌で行うからという説明も聞かれるけれども、それはこじつけで、笹にかかおるシンポチの印象的な所作にもとづく名とすべきであり、元来はむしろはやしに比重のかかる芸能と思われる。 笹ばやしとまとめてとらえうる風流小歌踊は、舞鶴市をはじめとする二市七町にわたって伝承される。伊根町を中心とする花踊圈を除けば、その分布はほぼ丹後(旧加佐郡を含む)の全域に及んでいるといってよい。伝承数は、廃絶に帰したところを除いても、約四十ケ所に達する。それを地図におとしたのが分布地図である。伝承数はなお調査密度に応じて増加するはずで、たとえば『丹後国加佐郡旧語集』にみえるものだけでも、さらに十五ケ所余りを加えることができるのである。 これらの地域をとおして、もっとも一般的な芸能名称は「笹ばやし」である。一部に「踊子」「太鼓打」等の名で伝える所もみられるが、この地域はまとめて笹ばやしの分布圏域としてとらえることができるであろう。とともにこの地域はまた、分布地図に明らかなように、二つのブロックに分けられる。一つは舞鶴市を中心とする地域(A)、いま一つは大宮町を中心とする地域(B)であり、それぞれに小圏域をなしているのである。 丹後の風流小歌踊は花踊についてみたとおり、太刀振とふかく結び合って伝えられるのが一つの特色である。笹ばやし圏においてもそれは顕著であり、笹ばやしと太刀振をセッ卜芸とするのが通例となっている。… 宇良神社延年祭の翁三番叟 『伊根町誌』、 河来見の翁三番叟
河来見の三柱神社(元三宝荒神社)に伝承されている翁三番叟は、その創始年代は明らかでないが、江戸時代初期から始められたと推定され、起源は浦嶋神社にその発祥を見ることができる。 浦嶋神社には室町時代に神社お抱えの猿楽師達があり、神事には能楽(始め猿楽能)が催されていたが、近世初頭に社領が半減されたことによって、能役者を抱えることが財政上困難となり、能楽師たちは若狭方面に移住してしまった。浦嶋神社の社領は天文九年(一五四○)十月二十三日付、「浦嶋大明神へ御寄進分目録」(社創注進)によると二○石六合四勺があてがわれていたが、慶長六年(一六○一)十月に一○石となり、更に翌慶長七年(一六○二)京極高広の検地により六石三斗一升二合と削減されている。この社領の減少によって、常時能役者を抱えることができなくなった浦嶋神社では、神社の造営や屋根の葺き替えなどの神事の時には臨時に能楽師をよんで上演していた。翁三番叟はその後浦嶋神社の神事のおりに、能楽者に代わって河来見の地域の人々が勤めるようになっている。河来見地区に残されている記録によると、天保二年(一八三一)、三柱神社の造営のときと、昭和四年(一九二九)四月十九日、同神社創建八百八十年祭に、装束や調度品を新調して荘厳な式典を共に上演されている。当時の記録をたどって見ると、京都室町にて能楽の装束や調度品を整え、三本木観世能楽堂をたずねて実地に見学し、研さんに努めていることから、観世能の流れを汲む翁三番叟である。この翁三番叟が催されたのは、年中行事の祭礼とはことなり、かつては干天がつづいたときの雨ごいや、重要な神事の時だけに上演されたものであり、戦後には一度雨ごいのために浦嶋神社で奉納されている。 翁三番里の由緒について浦嶋神社前宮司宮嶋茂久の書写したものによると、 「権現山は経が岬の沖合より見通しのよろしきところへ、昔ある年の春ならむ。浦々をめぐりける千石船のありけり。はてしなき海原にかすみかゝれる晨そらに、舟の上にて人々舞楽を催しけるに、ふしぎや一時ばかりのほどに舟、水上に留まりして動かざり。人あやしみて同船の智識に其のいわれをうらないけるに、遥かに権現山にいます熊野大神のこれの興あり。音楽におん耳をそばだてられしより、自ら船は行手にさまよいけむという。みな人即ち驚き畏みて、鼓、太鼓のかずかずを大宮に献上する事を起誓し奉り、具に海上安穏を念ぜしに船忽ちにすゝみ行けりと。是ら郷の人神慮を和らげまつるよすがとして、翁三番叟を神技とし累代伝えたりとぞ」とある。 一 翁三番叟と別火 翁三番叟はもと猿楽能から伝わって、今なお能楽に演じられる首曲であるが、一般常納の戯曲的なものと全く異って、天下泰平・国家安穏を祝う祭式的性質をもっている。 神秘観から俗界を離れた清浄境を現すために、能楽の冠頭に据えて前奏する曲礼である。 演式は翁・千歳・三番叟の三部からなっている。 猿楽が神社の所属であった時代にその芸術的信仰から常の演舞に先立って、神魂を迎えて舞台を浄化せしめるよう翁を奏したもので、古来「翁渡し」といっていることを考え合わせると、神の渡御に擬する意義を酌みとることができる。 翁三番叟はこのように神曲として尊崇されたので、この役にたずさわる者は、あらかじめ数日間別火して不浄を忌み、精進潔斎をする掟がある。河来見の場合も一週間前よりそれぞれの家の表の間に籠り、家の出入りも通常の入口は使わず、表の縁側より出入りをし、寝食も家族と別にした。特に炊事の火の取扱いは厳重にされ、使用に先立っていちいち切り火をして清めてから使用され、また炊事用鍋なども同様に切り火をした。食事も酒、肉を断って心身を清めて当日を待つのが慣わしであった。 「舞々」という地名 福井県大飯郡高浜町宮崎舞々 『大飯郡誌』 舞々の遺趾 維新前は世に名高かりしも、現時は殆ど其面影を留めず。〔全郡誌参照〕
〔稚狹考〕幸若 …高濱にも其胤ありて…幸菊と號し畑田を氏とす越前の親屬にや知らず…農家のもの賎しんで交はる事なし正月の始諸村を廻りて福いれといふ事を呼ばりて庭に在りて立ながら扁翳して鞍馬山毘沙門寳懸など弓むふて産業とす…高濱に澤村といふ所あり…横町ともいへり…細川氏の家令澤村才八此所の産にて幸菊の支属なり…幸若の平家…古雅なるものなり…舞々といへども本國にては終に舞事をきかず 〔常田文書〕天明年中 舞々 拾軒 四十二人 男二十人女二十二人 〔太良庄年貢算用状〕 文和四年?猿樂田…方下行 (勸逕猿樂)應永廿八年 永享三年六百四十文山縣方禮 三百四文同時與二郎方禮 三百文長法寺方禮 (謹請申手猿樂と事)長禄三年七月日 右手猿樂々事 近年大方御制禁之處今月十八日夜於乘觀在所沙汰之事 『高浜町誌』 高浜町指定文化財
舞々文書 五点 高浜町教育委員会 五三桐御紋入桐文庫収蔵巻子仕立五巻からなる古文書である「越前若狭古文書選」(昭和八年刊)には杉本しづ氏所蔵として収録されている。高浜舞々中に宛てられた免許状判物で次のとおりである。 一、天正一六年霜月一六日 浅野久三郎判物 二、天正一六年 久米田輝政〃 三、文禄五年三月一〇日 木下宮内少輔〃 四、慶長六年八月三日 津河内記 〃 五、慶長一二年一二月二三日 佐々義勝 〃 福井県大飯郡おおい町小車田舞々 『大飯町誌』617(小車田 小車田の地名については、昔神祭用に車田という田をもつ所があって、稲苗を車の輪のように円く、同心円にして植えたものだといいこれが語源であろう。
元、姫宮という社が、字宮前にあったが、明治四十四年(一九一一)三月十日福谷の伊射奈伎神社に合併された。その御神体であったという仏像が、今伊射奈伎神社に移管されている。像高五一センチメートルの如来座像で藤原時代の作といわれている。破損が甚だしく腐食も見られるがこれを奉祀していたとすると、相当な信仰者が藤原時代にあったと思われるのである。したがって、集落の歴史もその時代までさかのぼることができるのである。 石山と小車田との間に舞々谷(小名)という所がある。その舞々谷は一〇〇ほど前まで丹といった所で、神子を主業としていた家が四戸あった。奥太夫が本家で孫太夫、与太夫、久太夫がその一族であった。みな太夫名を名乗っていたのは幸若舞という舞仕であったからである。幸若舞(本郡では幸菊といった)は白拍子の舞から外かれたもので、南北朝ごろから一種の流派を完成したものらしい。多く祭式上に用いられ、領主からも相当の禄を受けて保護された時代もあった。 この丹の集落が四戸かたまっていて、高浜龍蔵院の配下として佐分利一円と丹波の一部で祈祷と舞とを行っていた。こうした特別な業態をもつ関係上、宗門改めなどの場合出家などと同じように取扱われて一般の戸数の上には加算されなかった。したがって文化四年(一八〇七)の小車田一七戸の中には丹の四戸は加えられていない。荒木文書「高付」のなかに、「舞々上下、市場、下薗、小堀に各一人」とあって本郷にもおのおのの村に一人ずついたことが分かる。 ついでながら高浜の幸菊文書によって、大飯郡内で行われた様子を述べて参考とする。 「私共先祖の義は幸若別家の者にて、少々の御扶持も頂戴……」、 「一、居屋敷御赦免地、諸役御免除に仰付けさせられ候義は、天正十六年(一五八八)浅野久三郎様御代に御判物下し置かれ、其の後代々頂戴仕り……」(文化五年の文書)とあるように、高浜城主浅野久三郎(浅野長政の臣)から屋敷年貢や諸種の掛かり目を免除され、扶持米も少々給与されていた。 これは高浜のことであるが、当町域ではその数年後、佐畑に同じ家臣の小笠原与十郎が配置されていたから、何らかの保護が加えられていたのであろう。その後宗門改の制度ができたときから「別段に帳面差上げ」とあるから、寺院を離れて別に宗門改書を作ったものらしい。 こうしたことから追い追い別扱いをされるようになり、「元禄中の頃より舞々町と唱え高浜の……帳尻に相成り……至って筋目悪敷者と専ら申成し……」という状態に陥ったのである。好意の保護政策がとんでもない迷惑なことになったのであった。もちろん、これは高浜の記録であるが、同じ舞々村というためにあるいは誤解する向きがあったかも知れない。 「正保五年戊子八月二十五日福谷村天神宮鳥居……、寛文九年己酉九月八日岡安村依居大明神鳥居……、慶安二年己丑八月五日大島村なりれ大明神御立……天和三年癸亥七月五日大島六所大明神鳥居……にも供養の舞数多御座候(貞享二年=一六八五)文書)」によって各所で舞を奉納していることが分かる。小車田の丹集落が高浜の舞々町一流衆へ差し入れた次の一札が残っている。 指上げ申す済口(すましぐと)一札の事 一、此度中間の者 其の内職筋に付、藤井民弥殿支配上、龍蔵院様よりの懸り合により、其の地の一流ヘーに頼置き候事実正に候。之により国主御役所様土御門殿様、御室御所様、右の御所役様方へ御厄介に預り候者、国主御役所様より、土御門家支配の義御指留御座ありてより、古例通り他□□間敷侯 已来内職筋御指図の別書之れあり候て、事済み仕り候。その証として連判一札仍て件の如し 文政十二己丑七月(一八二九) 佐分利谷小車田村 孫太夫 印(以下三名略) 高浜町舞々町一流衆中 これは高浜の龍蔵院(佐伎治神社の傍らにあった寺院のこと)の関係で小車田の舞々が、高浜の舞々の仲間になるようになっていたのに、納田終の土御門から秘かに支配を受けて祈祷などをしていた。若狭の領主から色々保護を受けながら他流の支配を受けることは、筋違いであるから差し止められていたのに、それを侵していたから、高浜の舞々から苦情を入れられたのであろう。 それで古例のとおり土御門とは手を切って、高浜の仲間になる。その細かい指図書は別書のとおりである。これで一切解決したからその証として一札入れるということらしい。 納田終と小車田は坂一つ越せば連絡ができたから、土御門の勢力がここへ流入したことはあり得ることである。荒木新輔家文書によると上下村に土御門の屋敷があったとあるくらいで、小車田では当然の成り行きといえる。まして四戸だけでは舞々一本でやっていけるはずがない。他の一戸立ちの所はなお更である。加持祈祷の方が本職になっていたことは十分了解できるのである。 そして丹集落は、他の集落の神子家が女が主であったのとは反対に、珍しく男神子ばかりであったという。もちろんこれは明治初期の状態で昔のことは分からないが、女子は主に農作や出稼ぎ奉公であった。また、その主人たちは皆独身者ばかりであったということも不思議な話である。財産は後ろの山の山林一町歩と宅地と畑だけであったというから、妻子を養う余裕がなかったのであろう。その後四戸とも消滅又は分散して集落はなくなってしまったのである。 小浜市遠敷舞々谷 『定本柳田国男集』「物語と語り物」 若狭には舞舞太夫が村々に住んで居た。殊に遠敷郡遠敷村字舞々谷の如きは、十餘戸の住民悉く舞々であった。舞の時に唱ふる音曲は凡て越前幸若の流儀である。貞享元年に土御門家が陰陽師の徒を定めたとき、國中の舞々にして彼家に屬する者十餘人、何れも舞々の號を改めて陰陽師と稱し、泰山府君を祀り祈祷を業とした。舞々谷の舞々も亦大半は陰陽師になったと云ふ(若狭郡縣志)。幸若が舞々であることは明證がある。しかも後世の芝居者が幸若の筋を引いて居ることは、桐座の家元たる桐大蔵の系譜を見ても分る。桐氏の太夫は後々は婦人であったが、伊豆の大場から出て越前幸若の弟子となった幸若與太夫を始岨として居る(百戲述略第四集)。)・418(「踊の今と昔」正徳年中に成りたる若狭郡縣志に依れば、同國遠敷郡遠敷村大字遠敷字舞々谷の條に云へらく、此谷に茅屋十餘家あり、皆舞々の居なり、此外に大飯郡三方郡にも舞舞住めり、凡そ舞の時に唱ふる所の昔聲曲節は皆越前幸若の流なり、貞享元年土御門家にて陰陽師の徒を定めらるゝ時、國中の舞々にして彼家の配下に屬する者十餘人、舞々の號を改めて陰陽師と稱す、專ら泰山府君を崇み祈祷を事とす、此舞々谷の舞々も亦大半陰陽師と成れり(以上)。
『若狭郡県志』 舞々谷
在二湯谷之東一、斯谷有二茅屋十餘宇一、皆舞々之所レ居也、 此外大飯郡三方郡亦有レ之、凡舞之時所レ唱之音聲曲 節、皆越前幸若流義也、貞享元年土御門家泰福定二陰陽 之徒一之時、國中之舞々属二彼家一者十餘人、改二舞々 号一称二陰陽師一、而專崇二泰山府君一事二祈祷一、今此處之 舞々亦大半為二陰陽師一 『遠敷郷土誌』 遠敷の舞々について
集落のほぼ中心丹後街道に接して字市場町、東の島の町、中村、西の池田、三嶋、検見坂等の集落が広がる。三嶋の西側谷間、字湯谷には室町期の守護被官内藤下総守の館跡があったと伝えられる。近世には湯谷の東側を舞々谷と呼び越前幸若舞の一派が居住して幸福座と称した。近世を通じて諸公事が免除されていた。(水島家文書)「若狭郡県志」には「舞々とは一種の舞曲より謡曲の能に似て楽器を使用しないで扇、手拍子を使う。之には幸若、大柏(さいわか・おおかしわ)の二派があり、そして若狭の舞々は何れも幸若の流儀である。「幸若」とは約五百年前、桃井直詮を始祖としている。桃井家は源義家八代後の播磨守直学の孫直詮より始まる。 当時我が国中世の舞楽には田楽、琵琶、幸若、猿楽、能楽等があった。幸若は天台の聲明(御経の節)をもとにして義経記や太平記等の草子類に曲節をつけて謡い、平曲謡曲に類似して浄瑠璃の源の一つである。最初はただ扇子で拍子をとる位であったが後には舞が加わり「幸若舞」と称するようになった。折烏帽子、直垂に小太刀という衣装で演じるのが普通であったらしい。舞手は一人又は三人でそれを太夫、ワキツレと云い、楽器は鼓だけであったと言われている。 幸若は上品にして硬い芸術であったため、時代の太平に流れの軟らかい即ち軟派調の猿楽に押され遂に元禄前後より衰えた。しかし若狭や敦賀方面にはその後永らく残ったのである。 この舞々一座については、江戸中期の町人学者、木崎テキ窓の著す『拾椎雑話』巻四小浜「十五、遠敷の舞々村は、昔より舞の者居住いたし、諸公事御赦免也。陰陽師、竃はらい、梓神子を業とす。空山様(二代藩主 酒井忠直)(一六三〇~一六八三)時分、嘉助、平助とて両人御前にて廣々舞致し御合力米被下候…」この中に出てくる「嘉助」は現在の遠敷池田区の水嶋治一家であり、江戸時代の古文書が多数残されている。 舞一族の内で今日まで存続する諸家は水嶋治一家(屋号が嘉助)、松田金一家(屋号が太善)、杉本辰臣家(尾号が弥左衛門)の三家のみで他はわからない。以上の三家と講中の方々によって、八幡社と薬師堂のお守りが今日も行われている。 (拾椎雑話・小浜市史 諸家文書編四) 向笠の江村家は南北朝期から続いた能大夫家で、気山能大夫とよばれた。江村家文書によれば南北朝期すでに近郷各社の能楽頭職を有していたという。 『三方郡誌』 江村伊平次。向笠に居る。気山能大夫の家なり。観応・延文・應安の際既に三方近郷各社の能樂頭職たり、その家系の由る所古きを知るへし。然とも出自は詳ならす。氣山と稱するは主と宇波西神社に奉仕したりし故なるべし。家に傳ふる所の翁面は、天正文祿の際、敦賀郡縄間浦の漁夫の網にかゝりて、常宮の海に得たる所のものを、當時その祖江村久兵術、常宮神社の能太夫職たりしかば、その家に傳たるたりと云ふ。
『三方町史』能楽
若狭地方は古くから能楽がさかんなところで、神社の祭礼には決まって神事能が奉納され、祭りの楽しみのひとつであった。しかし現在では、祭礼では能は行われず、今井靖之介を中心とした倉座が若狭能楽を引継いで宇波西、弥美、須部神社などで舞うだけとなった。ところで若狭での能楽を考える場合、古くから三方町を拠点として活躍した気山・倉の両座を抜きにしては考えられない。そこでつぎに、三方での能楽の歩みに触れてみたい。 若狭の能楽(猿楽)が、いつごろから三方を本拠にして活躍したか、それを解き明かす史料は、今でもまだ十分に発見されていないが、若狭地方で猿楽に関係ある一番古い史料としては、気山座の太夫職であっだ向笠江村伊平次家に所蔵されている。それによると、気山太夫が観応二年(一三五一)に代官から、年間、米四斗を与えられて、猿楽を勤めるよう命じられている。以後、明治時代になるまで、猿楽座は、領主の保護の下で発展してきた。 若狭の猿楽には、気山・尾古・吉祥・倉の四座があったと伝えられている。なかでも気山座は、中世には四座の筆頭にあった。しかし、武田氏が若狭の領主となった頃から衰えはじめ、やがて、永正十六年(一五一九)になると、郷市極楽寺の楽頭職を倉座へ売り渡したり、大永八年(一五二八)には、気山や宮代の楽頭職を質にして借金するなど苦しい立場になっていく。このころから倉座が次第に頭を持ち土げ、江戸時代以降は、倉座が中心になって若狭猿楽がさかんになっていった。倉座の活動範囲は若狭地方だけではなく、他国へも進出して行き、天保十一年(一八四○)には、田上の倉加賀之承が丹後の浦島神社へ出向き、太夫で能を舞った記録が残っている。 明治時代になって、領主の保護を失うようになると能楽は急速に衰えていった。田上の倉家は廃業し、倉座は、当時座員であった森作太郎などの有志によってかろうじて支えられ、現在の倉座へと引継がれてきたのである。 戦後の混乱期に倉座は、今では幻の狂言と言われる鷺(さぎ)流狂言を伝えなくなった。江戸時代に観世流付き狂言として誕生した鷺流は、観世流の若狭への流入に伴って伝えられ、倉座の座員であった小川の江村八十治郎が、鷺仁右衛門から鷺流を伝授された文書も残っている。倉座に伝えられた鷺流狂言も、森作太郎の死後途絶えてしまったが、台本は今も小川の江村健二家に伝えられている。全国で新潟県・山口郡・佐賀県などの一部に伝えられる数少ない狂言だけに、再興が望まれている。 このほか、三方の場合、能楽は芸能としての側面以外に、能装束を着けて新造船の祈祷を行うなど、猿楽以前の古代信仰の一面も見られ、単に芸能だけに限定されない奥深い意義を持っていたことがうかがえる。 丹波猿楽梅若流の伝承地 『舞鶴市史(各説編)』 ふりもん 各地区では氏神祭礼に際して、「ふりもん」または「振り物」と呼ぶ太刀振りの行事を奉納する。
この代表的なものは「吉原の太刀振り」であるが、「民俗資料事典」によれば、「太刀振り」は「風流」の中の「綾踊り」に属するものであって、持ち物を綾に打ち合わせ、さまざまにひらめかす所作によって、目に見えぬ悪魔や病魔を退散させるとする、呪術的な行為が風流化して芸能となったもので、江戸中期以降に定型化して各地に定着したものであろうという。 各地で行われる「綾踊り」の持ち物は、薙刀、太刀、棒で、丹後の一の宮籠神社の太刀振りも、これと同形の薙刀であることからその源流は同じ系統と考えられる。この起源については細川幽斎に関連しているとするものから、神輿の警護の意義を持つとする説まで、いろいろあって明確には判断できない。 獅子舞い 伊勢神楽の系統を引く「獅子舞い」は、中世、伊勢神宮に奉仕した御師の家に伝わった神楽芸で、獅子の頭をかぶり、いかなる悪魔も被うという「祓え」の信仰が芸能化したもので、永い歴史のなかでいろいろな信仰が入り、徐々に全国的に流布したという。 これらの芸能が市内に流入してきた経路や、定着した時代は、これからの史料発掘によって次第に明らかにされるであろう。 杓子舞い 若狭に近い東地域で、祭礼行事の中に組み込まれた「風流」に「杓子舞い」がある。 これは、その滑稽な仕草から「杓子踊り」ともいわれ、若狭では「三者舞い」の名で呼ばれている。卑猥な動作の連続で、その連想から豊穣を祈る儀礼の変形と受け取られ、神楽の一種と解釈されている。 若狭地方ではこれを若衆組が管理することになっているが市内にはこのような決まりのあるところはない。 太皷打ち どこの祭礼にも必ず登場する一種の芸事であるが、神前にすえられた太鼓を打ち鳴らすことは、もともと悪魔を払う「祓え」の信仰に基づくといわれている。 これに独得の所作が加わると、その由縁を冠した名称で呼ばれるようになる。地頭、大俣の太鼓はこれに相当するが、その他の地区の祭礼で鳴らされている太鼓は、単にその祭りの脇役となって祭りの景気づけに打たれているに過ぎない。 『定本柳田国男集第四巻』「史料としての伝説」女房と杓子 これは曾って南方熊楠氏の注意によって知ったことである。「黄表紙百種」の中「浮世操九面十面」と題する一篇に、西のみや三郎兵衛えびすの面を被り、番頭の九郎兵衛は大黒の面、手代の鬼助は鬼の面とそれぞれの面を被って出る中に、女房は不斷山の神の面をかぶり時々あばれまはるとあり、更に又「この時山の神杓子を持ちてあばれる故、今の世に十二神樂の山の神は杓子をもちてさわぐ云々」とも見えて居る。東京などでは十二神樂と言ふ語は今もあって、しかもこれと山の神との関係は既に不明になって居るが、越後や曾津で十二所又は十二神と言ふのは山の神のことで、或は二月等の十二日を以て之を祭る村もあれば、又十二本の神木の話など傳はって居るやうである。さうして山神と杓子との因縁は単にこればかりではなかった。美濃の土岐郡の某村には、或舊家で毎年長さ一丈もある産衣を仕立てゝ山の神に献納すると、その禮物には大きな杓子を下されて家に傳へたと言ふ話が「扶桑怪談實記」卷二に見えで居る。杓子を持って踊ると言ふことも、最初は我々の考へるやうに滑稽一方の所作でなかったことは勿論である。出羽羽黒山十二月晦日松例祭の夜の年籠りに、終宵「しゃもじや節」を謠ふは玉依姫神これを好みたまふ故と言ふが(三山小誌)、果して杓子の舞があるか否かを知らぬ。豊後三重町邊では御日待講の時に杓子踊と言ふがあり、新参の曾員の役であったとのことであるが(郷土研究四の四四七頁)詳しくはなほ伊東君などの報告に期待せねばならぬ。津軽地方に昔行はれた正月二十日の杓子舞に「杓子舞を見さいな云々」と言ふ古風な章句を傳へて居るのは(同一の五〇五頁)、明らかに杓子工が杓子を持って舞ふことを示し、後世羅漢舞などに變化した大原本躍の囃事などと共に(嬉遊笑覧十上)、山の神を和めるのが本の趣意であったことを想像せしめる。これによって考へると、女房を山の神と呼ぶのは何故かと言ふ難間題も、いろは歌で「おく」は「やま」の上に在るからなどといふ牽強附曾を忍ぶまでもなく、それこそ女房も山神の如く、杓子を表識として居るから、と言つてしまへばそれで好いのである。
『定本柳田国男集』「踊の今と昔」鉦及び金鼓 長門の踊は色々の點に於て田楽と類似するにも拘らず何れの村の踊にもサゝラを持たぬは奇妙なり。此地方の踊の持物の中にて最も普通なるは叩き鉦なり。鉦の形状は説明不十分にて之を知る能はざれども、此も自分の考にてはササラと同じく始より一定の形は無く單にカンカンの音を發する金扇の楽器ならば差支なかりしならんと思へり。昔の田楽には銅鈸子ありて鉦は無きゃうなれど(洛陽田楽記、又は熊野新宮什器目録)、田楽に似たる諸國の踊にて鉦を打つ
例あり。例へば兎園小説に見えたる筑後の風流祭、又は神名帳考證土代附考に掲げたる飛騨の水無神社の八月十五日の踊など是なり。後者に於ては鷄の毛にて作りたる冠を被りアヤと稱する丸竹の両端に彩紙を切りて附けたる物を持ち鉦を首に掛けこれを打ちて踊る。其名を緩踊と云へり。其他雨乞ひ蟲送り風の神其他の疫紳送りなど鉦を打たざる者は殆と無し。梅園日記卷二に諸書を引きて鉦鼓を鳴して邪鬼を攘却することは、支那より渡来せし風習と云ふことは最も傾聴すべき説なるが、近代の歌念佛泡齋踊などにも見ゆる如く此風が念佛踊と因縁して中古以来夙く存せしことは看過すべからざる事實なり。 『舞鶴市史(通史編上)』 娯楽 村々の娯楽について、幕藩は厳しい規制を行った。その理由は、特に、芝居同様に人を集めて演じる遊芸・歌舞伎・浄瑠璃踊り類が、百姓を遊興にふけらせて惰弱にしてしまい、そのため耕作がおろそかとなって荒地が多くでき困窮、その果ては一家離散にいたるというのである。寛政十一年に幕府はこれらを禁止したが、さらに、近来は在々で神事祭礼の節や虫送り・風祭りなどと名付けて、見物人を集め芝居見物物同様の催しをしている由で不埒である。今後、芸人を決して村へ立ち入らせてはならないと、天保十一年十月、再度禁令を全国に布達している。これは同年十二月に当藩の各村でも順達されている(「御用触附帳」)。当藩における娯楽の規制例を拾っていくと、安永七年十二月、第五代藩主惟成の寺社奉行加役中は相撲・富興行を禁止(「御用触附帳」)、天保二年八月、右記幕府禁令の芝居同様の催しを禁止、ただし、神楽・笹踊り・振り物は許可(「御用書附留帳」)、天保十年九月、池内谷での狂言様催しの風聞に対し警告(「御用附留日記」)、翌十一年三月、狂言様の芸を催した今田村百姓らを呼び出し取調べ(「御用触附日記」)、などがある。
操り芝居については、安永七年三月、「寺社御奉行御加役中ニ而茂操芝居興行之儀者其願之品ニヨリ御聞届被遣候」 (「御用触附帳」)、天保十一年八月、「東西村々之内ニ而操芝居二ツ三ツツ、細廻シ申度願 願之通御聞済ニ候」(「御用触附日記」)などと、藩公認娯楽の感がある。文化十年十月、池之内組では大庄屋が組内を半日休みとして、組全体が正四ツ時(午前一〇時)から晩方まで操り芝居を見物する準備を進めている(左掲史料)。… 音の玉手箱
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