函石浜遺跡
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 函石浜遺跡函石砂丘に咲くハマナスとその実↑ ハマナスは砂地の日当たりのよい所に咲く。バラの一種で小さなトゲが一杯ついている。五月の連休頃に咲き、実は食べられる。丹後ではこのあたりと、天橋立、舞鶴なら神崎海岸に咲く、知床まで行かなくとも見ることができる。野バラ。 国指定史跡 函石浜遺物包含地
函石浜の一帯は海岸にできた砂丘地である。一、指定 大正十年三月三日 本史跡は縄文時代後期から室町時代に至る複合遺跡である。 明治三十六年に「王莽の貨泉」が採取されたことで注目を集め、その後に行われた京都大学の調査でも多数の出土遺物が確認された代表的なものに次のようなものがあげられる。 石器類=石鏃・石斧・石錘・石剣・砥石等 土器類=縄文式土器・弥生式土器・須恵器・土師器 装飾品=勾玉・管玉・ならびに原石(メノウ・ヒスイ・碧玉)等 金属器=銅鏃・鉄鏃・貨泉等古銭類 貨泉は中国「新」朝の王莽が西暦十四年に作ったと伝えられるもので、弥生時代の年代推定に重要な意義をもつものである。 この史跡からはさらに古い中国戦国時代の明刀銭が出土したとも伝えられており確証が得られるなら、大陸との交流を伺わせる貴重な資料である。また装飾品用の原石は出雲や北九州との交易品とも考えられ、後世の久美浜が海運によって栄えたことと合わせて興味深いものがある。 なお現在ある鹿野・葛野・上野・俵野・溝野の各集落はこの地にあった 平成五年四月 京丹後市教育委員会 ←函石浜といえば、これ。 大きさは1寸という、10円玉や100円玉くらいのもの。 『久美浜町誌』(1975) 函石浜遺跡
佐濃谷川は、北上して函石浜の南側で砂丘に突き当たり、急角度に左折して久美浜湾に注ぐ。ずっと昔の砂丘は、現在と趣を異にし、砂の堆積は少なかった。佐濃谷川がまっすぐに日本海に抜けていたことも考えられるのである。どちらにしても、この付近は、河口に砂がたまるために排水が悪くなり、葦の生い茂る湿地帯ができる。このような低湿地が、幼稚な生産用具による稲作農耕を可能にしたのである。 当時、鉄は全くの貴重品で、木の鍬などを作るときに使われた程度だったのであろう。鉄の鍬で開墾するなどというのは、ずっと後の、弥生後期から古墳時代のことである。 函石浜遺跡の状態は、大正九年刊行の「京都府史蹟勝地調査報告-第二冊」に詳しく報告されている。以下その報告書をもとにして、遺跡の概要をみてみよう。 この遺跡の特色の第一は、東西一キロメートル、面積二五ヘクタールの遺跡を八区域に分けられ、区域ごとに出土遺物の差異が認められることである。第二は縄文時代から、弥生時代、古墳時代、平安・室町時代に至るまでの遺物が出土していることである。 ①新開場 石鏃多く出土する。 ②白石 石鏃・銅鏃を発見。縄文式の甕の破片一個を発見。 ③製造場 石鏃・石劒・勾玉・管玉やその未完成品の小玉などが出土した。これら玉類の材料である硬玉(瑪瑙・翡翠・碧玉など)の破片が、石器の材料である燧石の打欠き破片多数散在する中に発見されたので、石器製造所であろうと推定された。 銅鏃はこの付近から最も多量に出土し、小量の鉄片も出ている。土器はやや厚手の弥生式で、西日本各地の出土品の形式と一致し、紋様がつけられている。無紋のやや薄手の砂の混入する赤色の土器も出ている。 特記すべきは、ここから明治三十六年に「王莽の貨泉」二枚が発見されていることである。なお「函石」の名の起こりという扁平な岩片が多数出たという。 ④骨山 丘全体に無数の人骨が散乱していたという。中古の五輪塔も出ていて、旧墓地と推測されている。 ⑤人形岡 人形のようなものが並べられていたという。 ⑥貝塚 幅二〇メートル、長さ一五〇メートルにわたって広がる。浅い層に蛤・蜆・牡蠣など数種の貝殻が散布し、弥生式土器片・須恵器片が混じり、人骨も出ている。完全な弥生式の鉢、壺や錘石が発見され、中央の溝地からは唐・宋・明の古銭が出土している。 ⑦鉄山 遺跡の西南隅にあって、全面に弥生式土器片・須恵器片が散在する。勾玉・鉄鏃・鉄滓・木炭なども散乱しており、ときに銅鉄も出ている。鉄片特に多く鉄山という。 ここの弥生式土器は薄手精巧で、焼き方にも他区域のものより技法的に進歩がみられる。また時に青磁や染付の磁器片が出土しており、大陸文化の影響も考えられる。ここからは、平安時代初期に作られた日本の銅銭、富寿神宝や貞観永宝の古銭が出土している。 ⑤石原 遺跡の西北端にあり石が多い。土器片・鉄片・管玉などが散布し、硬玉の勾玉を発見している。 函石浜出土の弥生式土器が、すべて西日本各地の出土品と同じ系統のものであることから、北九州に始まる弥生文化を受け継いだものであることが理解される。 また、勾玉の材料の硬玉は日本には多くは産しないので、大陸のものであるかも知れない。青磁や染付陶器片の出土していること、王莽の貨泉や大陸の古銭が発見されていることから、大陸と直接間接に、深いつながりを持っていたことがわかる。 函石敷遺跡の出土品中、特に注目すべきは、王莽の貨泉である。この貨泉は、明治三十六年に織田幾次郎氏が、製造場付近で採集したものであり、いま京都大学に所蔵されている。 この銅銭は、西暦八年に前漢を倒して「新」を建国した王莽が、天鳳元年(一四)に鋳造したものである。しかし、この「新」は西暦二十五年に、後漢の光武帝に滅ぼされて、貨泉の流通は禁止され、流通していたものを集めて鋳直されたから、流通の期間は極めて短い。 今まで、日本では壱岐・福岡・瀬戸内・大阪など五か所で、弥生中期の土器といっしょに発見されているだけである。これらの貨泉は、恐らく、「新」からその植民地の朝鮮の楽浪を経て、日本に持ち込まれたものであろうといわれている。 このほかに、函石浜遺跡出土とみられる古代中国周代の刀銭「 刀銭は、紀元前五~六世紀ごろの、中国周代につくられた刀の形をした貨幣である。函石浜出土といわれている刀銭は、燕の国でつくられた青銅製で、側面に「明」という字が記されている。長さ一四・一センチメートル、幅は一・一~一・九センチメートルである。現在神谷神社に保管されている。 函石敷遺跡の発掘のときに、刀銭が二枚出土したという。この二枚は、さびなどの状態から、二枚重なって出土したことが明らかになっている。その一枚は、発掘に参加した人が持ち帰り、一枚は、佐治家に保存されたと言い伝えられている(毎日新聞四十七年十月二十八日より)。この刀銭が、函石浜出土という確証があれば、王莽の貨泉より更に古く貴重な研究資料になる。 以上述べたように、函石敷遺跡は、初め東部の台地に始まり、しだいに西部に広がっていったもので、弥生前期から、室町時代に至るまで、千数百年にわたって、人が住みついてきたという、例の少ない遺跡である。 函石浜あるいは箱石浜は、網野町と久美浜町にまたがる海岸の一帯。久美浜湾口の湊宮から網野町浜詰に続く約6kmの海岸砂丘のほぼ中央部にある。この浜の標高約20mの砂丘部に遺物が出土することは明治20年頃に知られていた。大正10年ここから函石式石棺と王莽期の貨泉が出土し、東西約800m・南北約600mの地域が同年3月「函石浜遺物包含地」として国史跡に指定された。 古墳・貝塚のほかに、土器・石器・銅器・鉄器・青磁器・古銭などの多くの遺物が散布している。場所によって出土品に特色があり、居住地も東から西に移動していて、各時代を明証する古銭が出土するなど、縄文時代から平安期への文化の発達を示している貴重な遺跡である。 古銭としては唐・宋・明代の通貨、特に新の王莽が天鳳元年に鋳造した貨泉の出土が注目されている。わが国のものとしては9世紀の富寿神宝・貞観永宝が出土している。この遺跡南部で西流し久美浜湾に注いでいる佐濃谷川流域にも多くの古墳があり、この川の河口部が砂洲でふさがれるまでは北流して日本海に注ぎ、河口部には北九州や朝鮮半島と連絡した港津が存在していたと考えられている。 しかし弥生土器の中には大和系のものもあり、瀬戸内との交流があったことも推定される。 砂洲によって港津の機能が失われたため、内陸部や、さらに東部の丹後海域に移住して集落も消滅した。現在は防砂林となっている。 『京丹後市の考古資料』 函石浜遣跡(はこいしはまいせき)
所在地:久美浜町湊宮小字高山沖ほか 立地:日本海に面した砂丘上 時代:縄文時代~室町時代 調査年次:1918年(京都府史蹟勝地調査会) 現状:完存(国指定史跡) 遺物保管:京都大学総合博物館、東京国立博物館、久美浜高校、個人所蔵など 遺構 函石浜遺跡は、日本海に面した砂丘地に立地する。現在の箱石海岸には、古砂丘が高まりとして連続しており、内陸側の方が標高は低い。遺跡は、古砂丘の内陸側に立地し、現地の状況から見て点在する微高地状の高まりに位置していた可能性が高い。 本遺跡は、久美浜町の12代稲葉市郎右衛門英裕と宅蔵兄弟が1896年前後より遺跡として認識し、1898年4月に来丹した佐藤伝蔵により東京人類学会へ報告された。その後、大野雲外の来訪、報告や坪井正五郎による管玉未成品の報告が見られる。稲葉兄弟、織田幾二郎、青木義融の採集資料は、織田が1903年に私設で設け、1912年にすべての資料を京都帝国大学へ寄贈した織田考古館に収蔵、展示されていた。 1920年の梅原末治の報告によれば、辰馬悦蔵による伝聞として稲葉宅蔵が遺跡内を「鉄山」「貝塚」「石原」「人形ヶ岡」「骨山」「製造場」「白石」「新開場」「大窪」「砂丘」の十地点に大別していたことを報告する。1922年の梅原の報告では、前年の史蹟指定にかかる内務省測量図(内務省告示図)を捕訂した図が掲載され、各地点の位置関係が示され、あわせて「おこうの(御五野)伝説」をもつ「長者屋敷」が図示されている。また製造場には「古墳」地点が示されているが、これは1922年に不時発見された箱式石棺の出土位置を示したものである。遺跡の中で具体的な遺構が判明しているのは、「貝塚」と箱式石棺のみである。なお悔原は、1918年に製造場と鉄山を発掘調査しているが、顕著な遺構は見られなかった。その後、昭和初期に直良信夫が踏査しており、史蹟の範囲外に遺跡が広がることを指摘し、あわせて出土遺物の報告を行っている。 遣物 梅原による試掘調査出土資料以外は、採集資料である。縄文土器、弥生土器甕、壷、高杯、土師器甕、壼、須恵器杯、鉄鏃、銅鏃、貨泉、皇朝十二銭(貞観永宝、富寿神宝)、銅銭(開元通宝ほか)、明刀銭、玉類(碧石製管玉、ガラス小玉、滑石製勾玉、臼玉)、石剣、大形石錘、砥石などが知られる。弥生土器は、田代弘や丹後古文化研究会により検討されており、前期後葉と中期後葉に位置づけられる。採集資料の出土地点は、資料の付箋に明記されたものが少なく、梅原が織田から聞き取りして報告したものが判明するのみである。 意義 本遺跡は、本格的な発掘調査が実施されていないが、明治30年代以降に稲葉兄弟や織田による採集資料が世に知られていた。遺跡は、大正期に生まれた金石併用時代の認識と貨泉の出土から「日本民族は古く石器時代よりここに住して支那の文化の影響を受けて漸次開化に向へるを示すものとして、吾人祖先の歴史の縮図と見るを得べけむ。」という梅原の評価を踏まえ、1921年3月3日付で「函石浜遣物包含地」として史蹟指定を受けた。 改めて出土遺物を観察すると、その内容から遺跡の存続時期や性格がおぼろげながら浮かび上がる。 遺跡の初源は、縄文土器より見て縄文時代後期前半と見られる。弥生時代は、前期後葉と中期後葉の土器が大半であり、製造場発掘の1点のみ後期前葉のものが見られる。古墳時代は、前期後葉~中期前葉の土器があり、中期後葉~後期前葉には箱式石棺がある。奈良~平安時代には、土器と皇朝十二銭が見られる。 本遺跡からは、弥生時代の鉄鏃、銅鏃が多く採集されている点が大きな特徴である。鉄鏃には、中国系と推定されるものがあり、貨泉もその中で理解できる資料と推定される。続く古墳時代前期後半~中期前半には、滑石製勾玉や臼玉が使われていた可能性がある。丹後地域では出土例が少なく、海辺の祭祀が行われていた可能性が考えられる。平安時代には、皇朝十二銭の出土から、港湾関係の公的施設があった可能性があり、その後、室町時代には廃絶したものと推定される。遺跡は、縄文~室町時代まで断続的に遺物が見られ、出土遺物に貨泉や銅鏃、鉄鏃などの輸入品と思われる資料が含まれる点から、日本海に面した港湾機能を有した遺跡として評価できる。 中国の新(AD8~23年)の そこで4年でこの制度を廃止し、改めて貨布と貨泉の2種類の貨幣を発行し、両者の比価を25対1とした。貨泉は王莽政権が倒れた後も、40年(建武16)、後漢光武帝が五銖銭を復活するまでは、官や民間で鋳造され続けたので、質や重量や様式に差異がある。またその鋳造量が多かったので、外国にも流出し、朝鮮や日本の遺跡からも出土する。 日本の弥生時代後期後半~古墳時代初頭の遺跡から出土することが多く、鋳造年代が限られていることから、弥生遺跡の年代を決める定点を与えている。 貨泉は、弥生社会において貨幣として使用されたものではなく、交易品、威信財、銅原料などとして使われたとされる。また、中世に中国から大量に輸入された銅銭に混入している場合もあり、出土品の全てが弥生時代に日本にもたらされたとは限らない。 北海道から沖縄県まで、全国で約180点が出土しており、その中で弥生時代~古墳時代前期に属するものは、山梨県から鹿児島県まで、35遺跡91点である(2017年現在)。分布の中心は長崎県から福岡県にあるが、一度に複数枚が出土することはまれで、現状では、岡山県高塚遺跡出土の25枚が最多。墓の副葬品として出土することは少なく、海辺の集落から出土する傾向にあるという。 刀銭は、 中国の戦国時代、斉と燕で鋳造され、流通した青銅貨幣。刀銭 刀貨ともいう。戦国時代にの青銅貨幣の一つで現在の山東省にあった斉と北京周辺にあった燕で流通した。小刀を模したもので、斉のものがもっとも大きい。 刀銭には、先端の尖った尖首刀、背が真っ直ぐで先端が丸い直刀(円首刀)、小型の小直刀、「明」の文字のある明刀(燕刀)、大型の斉大刀などがある。大型の斉大刀は、重さ40g前後のものもある。 明刀銭の国内の出土地は、ごく限られている。沖縄で2箇所で各1枚と唐津市、串間市、三原市の、それぞれ1枚づつだけである。函石浜に2枚もあったとすれば、函石浜はこの時代のどういった所だったかと見直しが必要となろう。 刀銭は中国古代の刀形貨幣(刀貨)の一種で、戦国時代の燕国で通用した銅貨。春秋時代に山東半島を支配した斉国で刀子(とうす)の形を青銅で鋳造した刀銭がおこり、北京を中心とする燕国に伝わったものとされている。燕国の刀銭は刀身に〈明〉に似た文字を鋳出していることから、俗に明刀銭とよばれている。明字の解釈については各説あるが、燕の古字である匽の省略文字にあてる説が有力である。 明刀銭は大きく3型式に分類されている。1型式は明字を?とかき、裏面に〈斉化〉などの地名をいれ、刀背の身と柄(つか)との境が弧形に曲がるもの。2型式は明字をとかき、裏面に鋳造の番号らしい左、右などの文字をいれて、刀背が弧形に曲がるもの。3型式は明字をとかき、裏面に左、右などの文字をいれ、刀背の身と柄との境が折れ曲がるもの。戦国時代後期につくられた 明刀銭は、布銭、円銭など他の戦国時代貨幣とともに数千枚にまとめ、都市や集落から離れた人目につかないところに隠匿した状況で発見される場合が多い。朝鮮半島北部でも布銭とともに多量にまとまって発見され、沖縄県那覇市の 中国に周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在した国。春秋十二列国の一つ、また戦国七雄の一つ。河北省北部、現在の北京を中心とする土地を支配した。首都は 周朝の諸侯国に端を発し、西周・春秋時代・戦国時代にわたって中国の東方に存在した国。国号は単に「斉」であるが、「田氏代斉」以前の姜氏の斉と、以後の田氏の斉を区別するために前者を「姜斉」、後者を「田斉」と称する。現在の山東省北部を中心に勢威を張り、盛時には山東省の大部分、河北省の東南部、河南省の東北部を支配した。戦国時代には、いわゆる「戦国七雄」の一国として強盛を誇り、秦が他の五国を滅ぼしたのちも命脈を保った。斉は、秦によって最後に滅ぼされた。 浜詰遺跡網野町浜詰の縄文遺跡簡単な案内板がある。 『網野町誌・上』 縄文時代の終わり-浜詰遺跡-
『京丹後市の考古資料』縄文時代後期になると配石、立石などの大規模な祭祀施設が盛んにつくられるようになり、抜歯の習俗(成年式などの社会的儀礼として健康な前歯を抜去する風習)は全国的に波及するようになった。また、磨消縄文土器(線で器面を区画し区画内に縄文をつけ区画外を平滑に仕上げた文様の土器)が全国的に盛行するのもこの時期である。 北近畿タンゴ鉄道木津温泉駅から木津川に沿って約一キロメートルいくと木津川の右岸、比高(沖積地からの高さ)一四メートルの台地上に一つの復元住居がある。この住居を中心に日本海へ向かって約一○○メートルの範囲が浜詰遺跡である。昭和三三年、この辺り一帯で造成工事が行われ、貝塚や炉跡(火を使い物を煮炊きした跡)などが発見され同志社大学酒詰仲男教授、同大学文学部考古学教室の学生らにより調査が行われた。当時この洪積台地は、北に開く馬蹄形で、北斜面に比較的大きな貝塚が二か所、南斜面に直径六メートルほどの小貝塚が一か所あり、よく残された南斜面上に縄文時代後期前半の遺物を伴う方形の竪穴住居跡一基が発見された。また、北斜面の東側に二基の住居跡が発見されたが破壊されてしまった。現在では南斜面の一基が復元され残っている。竪穴住居は長辺の長さ八・三メートル、短辺の長さ五・八メートルの長方形で面積は四八平方メートルある。 貝塚からは土器のほか、石器、骨角器(シカ・イノシシなどの骨でつくった道具)、動植物遺体などが多数出土した。縄文時代後期を代表する磨消縄文土器片のほか、動物遺体はマシジミ・ヤマトシジミ・コイなどの淡水産のもの、ハマグリ・アサリ・サザエ・アワビ・ボラ・フグ・クロダイ・マグロなどの海産のもの、イノシシ・シカなどの哺乳動物の骨、植物遺体はドングリの実などであり、当時の食生活をうかがい知るものが多くある。 また、矢の先につける石鏃、木を切る磨製石斧、土を掘る打製石斧、穴を穿つ石錐、網のおもりに使う石錘、獣の皮をはぐスクレーパー、木の実をくだく敲石と凹石などの石器、魚を取るための骨針、骨銛の骨角器など、生活に使用した道具が多くある。これらの遺物から、当時の人々が海や川で漁をし、山で獣を追い木の実を採集していた縄文時代の生活を想像することができる。 浜詰遺跡(はまづめいせき)
所在地 :網野町浜詰小字栗山 立地: 木津川河口域左岸砂丘上 時代 :縄文時代前期、中期、後期 調査年次:1958年(同志社大学、橘中学校)、1968年(帝塚山大学)、1992年(網野町教委) 現状:半壊(一部、市指定史跡) 遺物保管:網野高校(丹後郷土資料館寄託)、市教委、同志社大学 遺構 浜詰遺跡では、竪穴住居跡2棟、住居跡に伴う石組の炉跡、貝塚などの遺構が検出されている。1958年の同志社大学による調査で検出された竪穴住居跡は、長辺8.3m、短辺5.8mを測る方形の竪穴住居跡である。主柱穴は4箇所ずつ2列あり、床面積約48㎡を測る。住居内には、1辺80㎝の石組の炉跡が存在し、出土遺物から縄文時代後期の竪穴住居跡である。1990年の調査では、方形の竪穴住居跡の一部を検出した。柱穴は3箇所確認されており、縄文時代中期の住居である。この遺跡は、小規模ながら貝塚を検出している。貝類、魚類をはじめ動物の骨などが出土しており、当時の人々の生活の様子を知る上で貴重な資料である。 遺物 出土遺物には、石鏃、磨製石器、打製石器、石錘、石匙、敲石、石皿、スクレイパーなどの石器や土器が多数出土した。土器は、船元式、粟津式、新保式、新崎式、平式などの縄文中期の土器、中津式、福田式などの縄文後期の土器が出土した。 また貝塚からは、シジミ、ハマグリ、カキ、アサリ、アワビ、サザエ、イガイ、レイジ、ツメタガイなどの貝類、ボラ、フグ、コイ、クロダイ、スズキ、マグロ、イルカ、サメなどの魚類、イノシシ、シカ、イヌ、タヌキ、サル、クジラなどの哺乳類やドングリなども検出され、当時の生活の状況をうかがいうる遺物が多く出土している。 意義 平遺跡と共に、日本海に面した砂丘上に営まれた縄文時代の集落遺跡として重要である。とりわけ貝塚や豊富な動植物の自然遺物は特筆される。また縄文時代の方形の竪穴住居が検出され、検出資料をもとに竪穴住居が復元整備されて市指定史跡として活用が図られている。 音の玉手箱
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