母なる由良川
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 由良川の概要由良川河口↑ 京都府の北部を流れる川。京都府・滋賀県・福井県境の三国岳(766m)に源を発して、丹波・丹後地方を流れ、宮津市由良で日本海に注ぐ。延長146㎞、流域面積1,882㎢。京都府下ではナンバーワンの大河で、古名は「大雲川」、「 天田川、福知川ともいい、美山町付近では大野川、和知町付近では和知川、福知山市付近では音無瀬川などの部分称がある。 国土交通省のHPより↓ 由良川は河川規模のわりには、両側から丹波山地の険しい山が迫る狭い所ばかりを流れる。例外的に多少広い流域は福知山盆地(幅約1.5㎞、長さ約25㎞)だけである。 福知山盆地を流れたあとも河口まで再び狭い峡谷が断続的に続く。特に狭い所が何箇所かある。写真の位置↓は筈巻・下天津のあたりで、両岸に山が迫り、その狭い箇所になる。こうした箇所がこの下流に何箇所かある。 「エジプトはナイルのたまもの」。古代文明の発祥地は大河のほとりと言われる、しかし大河があるだけではダメで、流域に広く豊かな沖積平野があり、そこで農産物などが安定して多量に生産され、トミの生産量が多く、それを基盤に文化が花開いてこそ、文明のユリカゴとなる。丹波というところ全体がそうだが、由良川も大文明のユリカゴとなるには、たいぶに平野部が不足している。 それでも流域からは、3万6000年前の旧石器時代の石器が発掘されていて、やはりユリカゴ的な川なのかも知れない。このあたりから舞鶴も始まったものかも知れない… 母なる由良川(由良川の考古遺跡)父なる由良川か、母なる由良川か、yuraとaが語尾で、hahaのaだから、女性的な名で、母なる由良川と見た方がいいのでなかろうか。『京都新聞』(2020.11.27) 後期旧石器時代前半、3万6000年前 福知山に府内最古級石器 府埋文研「広域移動示す」 大阪・奈良や隠岐産の素材使用
稚児野遺跡京都府埋蔵文化財調査研究センターは26日、福知山市夜久野町井田の稚児野遺跡の発掘調査で、後期旧石器時代前半の石器群が出土したと発表した。府内最古級となる約3万6千年前の石器が含まれている。大阪と奈良の府県境にある二上山のサヌカイトや隠岐諸島産の黒曜石が使われており、同センターは「人の広域な移動がうかがえる」としている。 国道9号の改良工事に伴う調査では、約3万年前に噴火した姶良丹沢火山灰層の下の層から、後期旧石器時代では府内最多となる約700点の石器が出土した。府内で同時代の石器が見つかるのは京丹後市の上野遺跡に次ぎ2例目。 石器が集中して出土した場所が9ヵ所あり、製作や使用の跡とみられる。約3万6千年前の石器は、サヌカイトの槍先やチャートのナイフ形石器が4点、地元の頁岩で作られた刃部磨製石斧が3点あった。製作に使われた台石やたたき石もあり、一定期間滞在した可能性があるという。動物の皮をはいだりなめしたりする道具も見つかり、同センターは「大型の動物の狩りをしていたのではないか」とみている。 旧石器時代に詳しい奈良文化財研究所の加藤真二企画調整部長は「後期旧石器時代の人たちが、かなりの距離を移動していたことが分かる貴重な資料。朝鮮半島や中国で見つかっているのこぎりの歯のような石器も出ており、石器が日本に入ってきたルートを知る上でも手がかりになる」としている。 縄文期の遺跡もある。 『写真でたどるふるさとの歩み』より 桑飼下遺跡の発掘
桑飼下遺跡は、由良川河口から十四キロ上流の由良川右岸(桑飼下地内)の自然堤防に位置している。建設省による河道拡幅工事中に、土師器、須恵器、縄文土器、石器が発見されたため、昭和四十八年一月~三月に第一次発掘調査、同年四月~七月に本調査の第二次発掘調査が行われた。自然堤防での遺構は全国的にも珍しく四十八基の縄文時代の炉址、弥生時代以降の遺構・遺物などを発掘した。 京都新聞(98.3.12) *まちの文化財〈46〉*縄文人の生活浮き彫り*桑飼下遺跡出土品*舞鶴市桑飼下*
先月、舞鶴市の浦入遺跡から日本最古級、縄文前期の大型の丸木丹が出土し注目を浴びたが、舞鶴には意外と縄文遺構が多い。特に由良川沿いは、魚などの食料調達や水上交通の便などから十の遺構が集中する。 このうち「西日本を代表する」(同市教委)のが、由良川右岸の桑飼下遺跡。一九七二年の河川改修中、掘り返した土手から偶然土器や石器が現れたのが発掘のきっかけだった。 翌年の発掘調査で縄文後期の層から見つかったのは、四十八の炉跡、土器や土偶などの土製品約五千点、石器類約千三百点、ドングリ、魚や動物の骨など。ぼう大な遺物は縄文人の生活を鮮やかによみがえらせた。 舞鶴市郷土資料館(同市北田辺)が収蔵する出土品に、面白い傾向がある。石器の九百点以上が長さ約十-二十㌢の打製石斧(ふ)という点だ。「打製石斧はイモ類を掘るための土掘り専用。半栽培的な農耕が大規模に行われた証拠です」(同市教委)。この石斧の豊富さが、照葉樹林帯の西日本は植物製食料の調達のための道具が発達した-という学説の有力な裏付けとなり、桑飼下を一躍「西日本代表の遺跡」にのし上げた。 遺跡の場所は今、発掘地を示す石碑だけが河畔にひっそり立つ。縄文時代のにぎやかな営みを知っているのは、由良川の悠々の流れのみだ。 リーフ「舞鶴市の遺跡紹介」 桑飼下遺跡 場所:舞鶴市字桑飼下
由良川は京都府北部最大の河川で、その流れは肥沃な大地を形成し太古より人々に恵みを与え続けてきましたが、肥沃な土壌は上流からの氾濫によってもたらされることから甚大な被害をもたらすものでもありました。しかし、その恵みに恩恵を受け人々は由良川沿いの高台(自然堤防)上に営みを続け、由良川下流域には縄文時代のムラがほぼ3km間隔に城嶋遺跡、和江遺跡、八雲遺跡、大川遺跡、志高遺跡、桑飼下遺跡があることが知られています。 桑飼下遺跡はそんな集落のひとつで1973年に調査が行われた縄文時代の研究に名を残す遺跡が桑飼下遺跡です。かねてよりこの周辺及び川底からは土器が採集され、桑飼下遺跡と呼ばれていましたが、由良川の氾濫を防ぐため河川幅を広げる工事中に多量の土器が散布していたことから調査が実施され、関西地方でも有数の縄文時代後期のムラの生活の様子を知る資料が発見されました。 この調査では、縄文時代後期の炉跡が43基発見されたほかにも狩猟に使用した石鏃や魚を獲る網に使用した石錘、根茎類を植えるための土堀り道具である打製石斧、木の実を磨り潰した磨石や石皿などの日常生活に使用した道具類の他に粘土層からは腐食せずに残っていたドングリやトチ、クルミの他にタヌキやリスといった当時の食物が出土しました。そこからは、川沿いの自然堤防上に集落を築き、川で魚を獲り、後背湿地にてイモ等の根茎類を栽培する一方、山へ行ってばドングリやクルミ、トチの実を採集し、時には山へ入ってタヌキやリスの動物を狩猟していた生活が浮かび上がります。食料の多くは身近な所で採れる植物が多いことが分かってきました。このような縄文時代後期の経済基盤は「桑飼下型経済類型」として学史に残っています。 その他にも縄文人のアクセサリーの耳飾りや祈りの道具である石柱、岩板、石刀、土偶なども出土し縄文時代の人々の祈りや食生活を知るための貴重な遺跡です。 桑飼下遺跡 弥生期にかけての遺跡もある。 『写真でたどるふるさとの歩み』より 志高遺跡発掘現場
由良川の河道拡幅工事が志高地区で具体化したため、その事前調査として昭和五十五年度から六十一年度まで七次にわたる発掘調査を実施。その結果、縄文早期から明治時代にいたる包含層が由良川左岸の自然堤防上にある考古学上非常に貴重な遺跡であることがわかった。 リーフレット・舞鶴市の遺跡紹介より 志高遺跡
由良川~加古川の道 場所:舞鶴市字志高 由良川は京都府北部を流れる唯一の一級河川で流域に住む人々に恩恵と災害を与え続けています。その恩恵を受け由良川下流域には約3km間隔で由良川が形成した自然堤防上に集落が営まれ続けていました。志高遺跡はそのひとつで由良川下流域の左岸に位置する自然堤防上に営まれ続けた縄文時代前期から江戸時代に至るまで断続的に続いた集落遺跡です。 志高遺跡に人が住み始めたのは縄文時代前期で建物跡などは明確ではないものの、出土した土器は近畿と日本海側の影響を受けたもので羽島下層Ⅱ式や北白川Ⅲ式までの縄文時代前期の土器が全体の器形が窺える状態で出土するものがあり、西日本の縄文土器を知る上で貴重な資料として位置づけられています。縄文土器には島根県の西川津式の影響を受けたものもあり、日本海を介して文化の交流があったことを示しています。その中でも形の分かる51点は器形や文様構成において情報量豊かであることから舞鶴市指定文化財になっています。 また、弥生時代中期には竪穴式住居で構成される集落と周りに溝を廻らせた方形周溝墓という家族墓が造られ、中でも有力者は大きな方形で墳丘の側面に板石を貼った方形貼石墓という墓に葬られ、集落の中で階層格差が生まれているのが分かります。丹後では京丹後市の奈具岡遺跡、小池墳墓群、与謝野町の日吉ヶ岡遺跡や寺岡遺跡、千原遺跡、宮津市の難波野遺跡でも確認されており、丹後地域の有力者の墓と考えられています。この頃には日本各地に特色を持った墳丘墓が出現し、畿内では方形の盛土の周囲に溝を掘る方形周溝墓、出雲地域では方形の墳墓に四隅を突出させ、板石を貼る四隅突出型墳丘墓などがあり、丹後の貼り石墓は山陰との交流を物語るものと考えられています。 また、方形貼石墓の川側には当時の船着き場と考えられる堰堤状の盛土に貼石や集石を行った護岸も発見されています。志高遺跡の側を流れる由良川は当時、日本海から瀬戸内海へ抜ける由良川-加古川ルートは交通の要所であり、南方産のキイロダカラガイが中に入った壺が見つかるなど当時の交流を知る上でも貴重な資料です。 大川遺跡 今の大川の新堤防の下にある遺跡 『舞鶴市民新聞』(2014.6.3) 弥生~飛鳥期の建物跡 大川遺跡で18基確認
大川の由良川左岸にある大川遺跡の発掘調査を進めている、府埋蔵文化財調査研究センターは5月29日、弥生時代中期(1世紀)~飛鳥晴代(7世紀)にかけての建物跡18基が見つかったと発表した。平安時代以前の集落跡が確認されたのは同遺跡では初めてで、弥生時代に中心的な集落の一つが由良川自然堤防上に作られていたと推測している。 発掘調査は2012年度から、国の由良川堤防建設工事に合わせ、河口から上流約8・5㌔にある南北約600㍍の範囲で行われている。今回の第5次調査で建物跡が見つかったのは、野々宮神社前から由良川下流にかけての長さ約120㍍×幅約10㍍の地区。 同地区では、昨年秋に平安時代後期~室町時代の集落跡が確認されており、今回はさらに80センチ~1㍍掘り下げたところ、弥生時代中期末から後期の7基、古墳時代後期の5基、時代不明の3基の竪穴建物跡と、飛鳥時代の掘立柱建物跡3基を確認した。 弥生時代の建物跡からは、壷や高坏などの土器や、金属器を磨いていたとされる砥石、古墳時代の建物や溝からは須恵器や勾玉などが発掘された。 同センターの竹原一彦主査は「弥生時代中期から人々の生活がこの地で始まり、時代とともに集落が広がっていったのが明らかになった。建物跡が密集していることから、自然堤防上という限られた集落の範囲もわかってきた」と話していた。 「大川遺跡発掘調査(5次)現説資料」など もっと見てみると、『由良川改修史』より↓ 河底から遺物が見つかるという不思議な遺跡が多い。砂利や砂の採集の中で発見されている。 1舞鶴市
現河口より約3㎞の位置にあたる、城島の上流寄りの河底より、砂利採取に伴って土師器片と須恵器片、若干の縄文土器片と弥生式土器片が出土している。現在城島は砂利採取等のために、ほとんど消滅寸前の状態である。土器片の出土は砂利採取作業初期の頃に集中しており、以後は逆に少なくなったという。 2.舞鶴市和江遺跡 城島より上流で、西島よりやや下流の河底より、1955年及び1973年に、砂利採取に伴って縄文土器片、弥生式土器片、土師器片、須恵器片が出土している。 3.舞鶴市八雲遺跡 由良川沿いの遺跡群が注目をあびる契機となったのは、現河口より上流約5.7 kmの八雲附近の河底より、1961年5月、砂利採取作業中に多数の土器片が発見されたことに、端を発している。この資料は、隣接する宮津市由良に住み、由良川流域の考古学的調査に先鞭をつけられた矢田梧郎氏によって収集され、京都教育大学の小江慶雄教授によって報告された。出土遺物は、縄文土器片、弥生式土器片、土師器片、須恵器片、及び弥生時代の太形蛤刃磨製石斧片1、石剣3である。縄文土器には、前期の北白川下層I式。中期の船元式、後期め中津式、福田KⅡ式、津雲A(桑飼下)式がみられる。これらの資料は、後に舞鶴市の彰古館と国立京都博物館とに寄贈された。 4.舞鶴市三日市遺跡 由良川右岸の三日市地先より、砂利採取工事に伴って縄文土器片、弥生式土器片、土師器片、須恵器片が採集され、法心寺に保管されている。対岸の大川の竹藪中より磨製石斧1が発見されたこともあって、大川遺跡とよばれることもある。しかしここでは、最初の発見の経緯から三日市遺跡としておく。縄文土器は1点のみであるが。中期初頭の鷹島式である。 5.舞鶴市志高遺跡 岡田下橋のやや上流にあたる河底より、須恵器破片が少量出土した。 6.舞鶴市岡田由里(改称桑飼下)遺跡 岡田由里地先の河底より、縄文土器片1(後期福田KⅡ式)、弥生式土器片2、須恵器1が出土している。出土量が少なく、明確な地点が不明であったが、対岸の桑飼下遺跡の発見により、その一部に相当することが判明した。この場合は三日市遺跡の場合と異なり、主体をなす桑飼下の名称に発展的解消をはがるべきである。 7.舞鶴市地頭東遺跡 由良川橋のやや下流にあたる河底より、砂利採取作業に伴って、磨製石斧1点が出土している。 8.舞鶴市地頭遺跡 河底より多数の遺物が出土し、先記八雲遺跡とともに。由良川遺跡群を代表する遺跡である。砂利採取作業中の出土品が、同地に居住する杉本嘉美氏によって意欲的に収集されている。同氏は1971年に近畿地方建設局の許可を得て、河川敷内でさらに資料を増加している。出土遺物は、縄文土器片、弥生式土器片、土師器片、須恵器及び同破片、須恵質土馬1、敲石1、石剣1、石庖丁1、磨製石斧8である。縄文土器には、前期の北白川下層I式、中期の船元式、後期の中津式等がある。 9.大江町高津江遺跡 河底からの砂利の採取に伴って、縄文土器片1点、土師器片20点、須恵器片8点、及び土師質管状土錘23点が出土している。縄文土器は単節斜縄文のみの小破片で、中期と推定されている。資料は杉本嘉美氏宅に保管されているが、管状土錘のみ寄贈を受けて渡辺の手許にある。 10.大江町三河遺跡 東南流して由良川に流入する三河川の右岸で、由良川の左岸にあたる畑地において、1959年頃に伊田半治氏によって発見された。採集遺物は縄文土器片のみで、約20片である。 1968年にいたり同志社大考古研では、さらに附近の崖面より約70点採集し、伊田氏採集品とともに報告した。報告によれば、前期の北白川下層I・Ⅱ・Ⅲ式、大歳山式、中期の船元式、里木Ⅱ式。晩期の滋賀里式土器がみられる。 11.大江町三河西遺跡 三河遺跡より数百米上流の河床より、土師器片か砂利採取に伴って出土し、伊田半治氏によって発見された。 1973年にいたり、杉本嘉美氏によってさらに多くの土師器片、須恵器片が採集された。 12.大江町高川原遺跡 2)の高川原遺跡の項で記述。 (発掘検出されたものは、土師器・須恵器の他に管状土錘22点・石製紡錘車4点が出土している。その他磨消縄文をもつ後期の縄文土器片と、少量の弥生式土器、及び打製石斧片2・磨製石斧片2・石鏃3が検出されている。) 以上の12遺跡の大部分は、河底より遺物を出土する点において、非常に特色のある立地条件を示し、その成因にさまざまな臆測が行なわれていた。後述するように、桑飼下遺跡の発掘の結果として、この問題に対する結論が得られたのであるが、改めて12遺跡の立地条件を分類すると、基本的には2類に分類される。 … 由良川下流にはなぜか河底の遺跡が多く、従来研究者はその解釈に苦慮していた。桑飼下遺跡の発掘は、この謎に科学的解明を与えることができた。このことは、単にこの地域の古代史の研究に関してばかりでなく、西南日本全般の古代史研究に関しても、大きな寄与をなし得るものである。 桑飼下遺跡の立地する地形条件は、自然堤防である。自然堤防以外、由良川下流域には集落立地のための好地形、たとえば河岸段丘の発達がみられず、現に明治時代まで、桑飼下地区がこの遺跡上に営まれていたのである。日照、交通の便等の利点が、度重なる洪水の危険を上廻って高く評価されていたのであろう。 自然堤防は必ず背後に後背低地を伴う。このため大増水時にはここが河道となり、場合によって自然堤防を中州として取り残すこともある。そして一たび中州となった場合には、しだいに浸蝕されて、遂には河底に没することになるのであり、ここに立地した遺跡も河底に沈むことになる。自然堤防上の遺跡の多くは、このような運命をたどって消滅することが判明したのである。 幸い消滅を免れていた桑飼下遺跡は、上層では弥生時代中・後期、及び古墳時代~奈良時代の遺構と遺物が出土し、下層では縄文時代後期の遺構と遺物が出土した。特に下層では攪乱の著しい上層と異なり、縄文後期の安定した集落址を確認することができた。したがって、現在では河底より遺物を採集するだけになってしまっている、由良川下流域の河底遺跡についても、本来は本遺跡と同様な形状を有していた、とみることができるのである。 高川原付近↑ 大江町郷土資料館↑ (参考) 『由良川子ども風土記』より じやり船の移りかわり
舞鶴市・神崎小 三年 松村小百合 神崎では、由良川のすなやじゃりをとって、売る仕事を明治の終わりごろがら始めたそうです。村の人々は、朝、じゃり船に乗ってとる場所へ行きます。この船の大きさは、十トンくらいで、二人くらいが乗っていました。船には「ほ」がついていて、このほが風をうけて走ったのだそうです。船底には、じゃりをつむ場所と、ねとまりする所がありました。ねる場所は、風がすすまない時に、船にとまらなければならなかったからです。 すなは、神崎の浜の近くでとりました。「じょうれん」という、くわのようなもので、すなをすくってかごに入れます。二つのかごが一ぱいになると、てんびんのようにして、肩でかついでじゃり船まで運びます。じゃりは、長いえのついたじょうれんで、船の上から引きあげます。この船は川船(ともうちともいう)といって、底の平べったい小さな船のことです。一せきの川船には、一人か二人が乗っていました。川船にぱばいになると、じゃり船に運びます。 じゃり船に一ばいになると、今度は売りに行きます。行き先は、東舞鶴や、西舞鶴や宮津なのだそうです。昔の日立造船所や板ガラスなど、舞鶴で使うじゃりは、ほとんど由良川から運ばれたものだと聞いてびっくりしました。売りに行く時は、重くて船がしずむので、よい天気の朝をえらびます。東舞鶴や西舞鶴、宮津へは、はやい時でも、だいたい半日くらいかかります。とちゅうで、風がふかなかったりすると、船がすすまなくなって、予定よりも何時間も、ひどい時には何日もおくれたことがあったそうです。お昼の三時ごろに目的地につくと、その日は船にとまります。おそくなってからでは、じゃりを買ってもらえないからです。あくる日は、じゃりをおろす仕事をします。これも、お昼すぎくらいまでかかるので、その日もまた船でとまります。そうして次の日に帰ってくるのです。帰る時、運悪く「しけ」にあったりすると、とってもこまったそうです。 じゃり船が一番多かったのは、大正のはじめだそうです。神崎の村ではそのころ、八十五せきぐらいのじゃり船があり、神崎に住んでいる人は、ほとんどがその仕事に関係していたのだそうです。じゃり船の仕事は、えらかったので、はじめのうちは、男の人ばかりだったそうです。しかし、大正のおわりごろに、生活が苦しくなってきて、女の人も船に乗るようになってきました。小学校へ入るまでの小さな子どもも船に乗せておもりをしました。赤ちゃんは、お母さんにせおってもらいました。時々、遊んでいて川にはまった子どももいたそうです。すなをてんびんでかついだり、じょうれんでほったりするのは、えらがったそうですが生活のために、みんながんばって働いたそうです。 じゃり船は、昔とくらべるとだんだんとがわってきました。昭和五年ごろになると。それまで、じょうれんでほっていたのから、機械にかわりました。じゃり採集船といって、大きなチェーンにバケツのようなものがたくさんついているのです。このおかげで自動的にほれるようになり、ずい分楽になったのです。また、風のふき方によって、仕事の予定がかわってくるはん船(ほのついたじゃり船)に かわって、モーターで走るようになりました。これは、昭和十一年ごろがらです。そのおかげて、予定どおりに仕事ができるようになり、船にとまることも少なくなったそうです。昭和の三十六年ごろになると、それまで木で作られていた船が、こう船という、鉄の船にかわりました。大きさも、はじめのころにくらべると、八倍で、八十ト ンくらいになりました。 その他、ベルトコンベアーがついたり、ディーゼルがついかりして、今のじゃり採集船になったそうです。由良川の川岸のところどころにつながれている同じような形をした大きな船が、今のじゃり採集船です。 これは、近所の竹内のおじさんに聞いたことです。竹内のおじさんは、今もじゃり採集船に乗って、元気に働いておられます。 由良川の鮭『由良川子ども風土記』 さけののぼった由良川
大江町・有仁小学校 荒本 泉 昔の由良川は、川はばいっばいにやなばというサケを捕るしかけがあったという事だった。それは、一番中心の背骨となるたてのくいが三メートルとあるが、ぼくはもっと深かったと思う。それは、今でも、それぐらいの所にあるようで、昔もまん中とか流れの外側にはそんな所があっただろう。それに上に五〇センチ~一メートル位は出さなければいけないと思うし、棒の長さが四、五メートルの所もあったのではないかと思う。どちらにしてもこんな大きなものだから、一人や二人で、一日や二日でできるものではなく何日もかかってやったのだろう。それが、二ケ上や有路で場所がわかっているところもある。 ぼくは、今でも、サケが上ってきとんやないかという話は聞いたことがあるけれども、昔は、やな場でなんぼでもサケが捕れる程、水がきれいやったんかなと思う。 今は由良川で、もっと水かきたなくても住めるコイ、フナナマズですら、少なくなった位だし、泳げないほどきたなくなった位だから、サケがいなくても少しも不思議ではない。それが子どもでも捕れるほど多くいた時代だから、下をのぞいても下の石が良くわかる程、水がきれいだったのだろう。 やなばのハリ木は、二百五十本、竹は千八百本というからやはりものすごく大がかりな工事だったのだろう。 とれるサケは、少し前、二百カイリで聞いたことのある白ザケだった。 その頃は、今問題になっている一ばん消費税と似たりよったりのかまどの税、塩年貢、竹の皮の年貢、とあみの税等があったそうで、その中で、サケノウオの年貢は、ニケ村、南北有路でサケをたてに並べて三百尺だったそうだ。昔は、数や重さでなく、並べた長さなので、これで差がなく計れるんかと思った。その時にサケがいくら捕れたか分からないが、 (三百尺は二百匹として)二百匹では大部多いと思うので、よくとれた年はともかくとして、不漁の年は、このサケ年貢ばかりが頭の中にうかんできたんやないかと思う。けれども大漁の年となると、何人も何十人も総出でかけつけて、いせいよく、捕ったんやないかという。 写真は綾部市山家の観光用のアユのヤナ↑由良川の上流 ←これもアユのヤナ どこの川かわからないが、このように川いっぱいにわたす大規模なもの。 ヤナの仕組みとしては、アユもサケもだいたい似たようなものと思われるが、アユは河口付近で産卵するために、川を下る(落ち鮎)。サケは逆で川上で産卵するために遡上するところをとるので、ヤナの向きが逆と思われる。ヤナが仕掛けられていると舟は通れない。 『大江町誌』 第四節 鮭簗のこと
(一)簗漁 由良川通船議定書の一項に、川に簗を張って鮭を獲ったことが書かれている。その原文は次のとおりである。 「有路村鮭簗の義 運上地頭へ差上来り申し候 上り下りの船壱艘に付 塩四斗宛取来り候 簗の義 水高き節は定杭水ゝ印これあるにより、其水印へ水乗り候節は、通船相止め候事」 何しろ川幅一ぱいに簗を張り渡すのだから、舟の通行は大いに阻害される。おまけに通過する舟一般ごとに塩四斗ずつの通行料金を払わせる。というのだから、簗をはるのは大変な特典で、特別に藩の公許を得た村だけがこの権利を持ち、営業税ともいうべき年貢(原文の運上)を、お上へ上納した。 「田辺藩土目録」(舞鶴市史料編)によると、由良川筋でこの特権を認められていたのは、弐ヶ村、南有路村、北有路村三ヶ村の他は、地頭村、岡田由里村に僅かな年貢割当てがある程度で、(藩領全域の年貢割付は後述)鮭運上のほとんどは大江町内の三か村で占めている。 一銀壱貫弐百目 鮭六百尺代 但弐ケ村、南有路村、北有路村年番ニ築立申候。尤鮭ニ而上納仕候得者 其分銀納相減申候。鮭壱尺ニ付銀弐匁ヅツ、 (註)銀拾匁 鮭五尺代 地 頭 村 同六匁 鮭三尺代 岡田由里村 藩領全域としては他に、平村(鮭三尺代銀六匁)浜村(鮭取分)泉源寺村(鮭取わけ)の三村が賦課されている。 簗漁の時期は「秋ひがんの入りより寒の入り迄」(公庄村庄屋文書)である。 (二)簗の構築 「大雲川筋鮭簗ノ略図」によると、その規模は数字の示すとおり細当大仕掛けで、村を挙げての取組みでなければ構築できないものである。 杭 用幅六〇間に長さ一丈六尺(五メートル)の杭、一間ごとに六〇本打ち込む。 ハリ木(突張り) 川下側凡本、長さ一丈凡、凡尺(五・六メートル)、川上側細き丸木を結いつける。この数約二五〇本が必要。 横手 図のとおり川を横断して二段組んだ。材料竹 簀 五寸廻りの竹を縄で細み、用幅一ぱいに上流側横手にもたせかける。「竹数凡千八百本、但五寸廻り」とあるのは、横手、簀、その他の細量であろう。 番小屋 弐ヶ所、杭の丸木を葛で細び藁ブキ アミ 番小屋の前に簀のない空所があり、ここに三角型の網を沈めておき鮭の入るをまつ。 通船 杭を打たぬ一か所があり、通船の時はここの簣をまくり通す。この時通航料として四斗の塩が要ったというわけである。 機能的には、後代、各地に見られたエリと同様であるが、仕組の大きさは後世のエリの比ではない。 (註)1 享保八年北有路村庄屋加兵が、「奉行ニ願ハズ」方々へ鮭を売り払ったのを咎められ入牢役取上げになった。 元文四年、大川村アミハリニ付 上東次兵 油里弥左、閉門、も鮭漁にかかおるものかもしれぬ。(歴世誌) (註)2 町内で簗を張った箇所は三か所、字図ではヤナバという畑地名で残っている。河道が変わるために例えば二ケ村のヤナバ(旧病院下)と川の間には、現在畑地(下嶋)がはさまっている。南有路区の柳場は高川原遺跡の辺にあって、川の改修と発掘調査によって既に消滅し、俗称だけ残っている。 (註)3 昭和二十年ごろまでは、鮭が有路辺へも溯ってきた。小川の浅瀬で手づかみにした例さえあるというが、江戸中末期に六〇〇匹の鮭を年貢に細めたことは注目されてよい。「今鮭が幻の魚としてその姿を見せなくなったのは、明らかに水の汚濁である。五〇年前は、秋になって水が澄むと、三四尋の水底の魚の影が見え、網で寄せた魚をヤスで突けたが、今は一尋の底でも見えなくなった。」(八三歳倉橋隆一談) 鮭の伝説大川神社創建は顕宗天皇元年3月、五穀と桑蚕の種を持って金色の鮭に乗った神が垂迹し、大川の地に鎮座したという託宣が由良の漁師野々四郎にあり、同年9月社殿を造営したことにはじまると伝える(『加佐郡旧語集『丹哥府志』』など)。また由良の冠島より遷座したという『丹後旧事記』の説もある。 『丹後国加佐郡寺社町在旧起』は、岡田庄大川村は、「この村の者鮭を喰う事かなわず」と伝えている。 杵の宮 『何鹿の伝承』 杵の宮由来記
綾部市寺町の谷すそを流れる、田野川の一帯を、「池田」といっていますが、大昔、この谷は、おのづから大きい池であったことは、いまでも古老は、この地方のことを「古池」といい「正歴寺のうらから一ノ瀬まて、船で通った」という、博承さえのこっています。それが後代「池田」と、いわれるようになったのは、いつの世から、開こんされたものか、近くを流れる由良川に切り開いたものか。あるいは風水害のとき、自然に崩れてそうだったものか。ともかくこのあたりが、「寺村」「神宮寺」などと、よばれているように、上代インシンをほこっていた文化の中心地帯てあったろうことは、容易に想像されるようです。また、この地方が須知山峠の麓にくらいし、大昔、京に通じる要路として、たくさんの人々が、往き来し、この美しい池の風光とともに、いくたの物語があったことでしょう。「杵の宮由来記」は、その一つであります。 ○ 大昔のことである。物語は丹後の魚の行商人からはじまる。 秋風のそよぐ吹くころ、丹後から、魚売りの行商人がはるばる丹波路をこして、うんと仕入た干魚の荷物を、あえぎつつ、中村(綾中)から並松を通り、寺村の山道に登ってきて、この池のほとりで、やっと一ぷくしようとしました。 当時このあたりは、うつそうとおい茂った大森林、原生林そのままの大木が、たけなす雑草とともに、亭々とそびえていました。「やっとこせ」と、重い荷を下して休んでいた魚屋は、そのとき不意に、林の茂みのなかから、バタバタと異様な物音がしたので、ギョッとしました。おそるおそる昔のした、茂みのなかをのぞいてみると、そこには、村人の仕かけた、ワナに一匹の雉子が、あしをとられて、バタバタもがいているのです。 「なアーんだ、びっくりさせるじゃないか」と、魚屋はひと安心しましたが、「まてョ」魚はいつも食っているが、鳥の肉は、なかなかありつけない。一つ取りかえつこしてやろうと、一人がつてんして、雉子を荷のなかに、ぼんとしまい込み、そのかわり一尾の塩鮭をワナにかけて、魚屋はすたすた、寺村から須知山峠えと、急ぎました。 ワナをしかけた村人は.なんか獲物はと、日暮どき、池のほとりにやってきました。と、みると、ワナには思もよらぬ、魚みたいなものがかかっているので、吃驚しました。 「これは何としたこっちや、魚も魚だが、これは鮭じゃないか」 と、二度吃驚しました。というのは、当時この附近一帯は、大原神社(天田郡川合村大原)の氏子であり、大原の氏子は、鰻と鮭は、ぜつたい喰べなかったものです。 鳥の獲物のかわりに、久しぶりに海の魚にありついたが、なんともしようがないので、「チエッ」と、舌打するとともに、 「神さんの祟りにあつてはつまらない、オイ鮭公、この池の主になれ!」 といって、勢よく鮭を池の真中めがけて投げこみました。すると、どうでしょう。鮭はときどき、白い腹をみせつつ、こっちをみるようにしていたが、ついに水中にかくれてしまいました。村人は、恩はずゾッと寒気をおぼえ、まつしぐらに、家の方に逃げ帰りました。 それから、一年あまりたって、この他にはときどき、不思議なことが起るようになりました。ある百姓は、池のあたりで、なんともいえぬ怪物に出合って逃げかえったが、そのまま熱をだしてねこみ、うわ言に池の怪物のことばかりいっている。これが一人だけでなく、誰れさんもみたかれさんもみた。あるときは追かけられた。という話もでて、この美しい池は、いまや淋しい、気味のわるいものになってしまいました。 しかし、この池のはたの道は、丹波、丹後と、そして京街道の要路で、ほかに脇道を通ると、いうわけにはまいりません。それから附近一帯の人々が、大変心配になりました。と、いうことは、ついに毎年人身供養として、少女を一人づつ池の主にださねば、いつ、この地方一帯に恐ろしい祟りがあるかわからんということになりました。そしていけにえになる娘の家には、どっからか白羽の矢がたつというのです。大事な娘を泣きの涙で送った親たちは、もうすでに三人、ことし四人目の人身供養に、ださねばならなくなったのが、青野の宿屋の、かわいい娘でした。 さて、一方鮭と雉子とを、とりかえつこした、丹後の魚屋は、あれから五年目、どっさり魚を仕入れて、都にのぼろうと、やってきましたが、綾部で日が暮れ、いつもとまる青野の宿屋え 「今晩は、丹後の鮭賣りだが、こんばん宿を一つ」 と、勢よくいいましたが、いつも機嫌よく迎える宿の主人が、今日にかぎって、妙にふさぎこんでいます。 「今日はちょっと取込んでいるので、どこかほかの宿え……」 というのです。魚屋は 「冗談いっちゃいけないよ。取り込んでいるつて、誰れも出入があるようすはないじゃないか水臭いこというんじゃないよ。どこだってかまわない」 と、いって元気よく、勝手しった部屋には入ってしまいました。宿屋の主人は、なじみ客のことであるし、しかたなく、「それでわ」と、いって泊めることにしました。 魚屋は、クシャクシャ腹で、夕飯もそこそこ、早寝をしました。フツと眼がさめますと、隣りの部屋から、ススリ泣の声が、するではありませんか。じツと、耳をすましますと、 「ここまで大きくしたのになア」 「いくら池のヌシだといっても、腹がたつ」 「あアあア、もう、今夜かぎりの命か」 すると、娘の声も、まじって、 「おつ父う、おつ母ア、あしや、こわい」 「ああ、いじらしい」 といって。また、夫婦のすすり泣く声がします。魚屋は、やにわにガバと、飛びおきました。 そして、がらりと、ふすまをあけますと、そこには、白裳束の娘を中にはさんで、宿の主人夫婦が泣きくづれています。「あツ」と、驚く夫婦を制した魚屋は、 「なンだって、なンって、驚くのはこっちのこっちや。なにツ、今夜限りの命だツ!驚き、桃の木、山椒の木ってやつだよ。えいツ、黙っていっちゃわからない。なんのこっちや話してみなア」 夫婦の物語は、四年前からの池の怪異と、池の主に献げる人身供養のはなし、今年は、わたくしの娘に、その白羽の矢がたったことを、涙ながらに話しました。 じっと、聞いていた魚屋は、なにか思いあたることがあるとみえ、大きくうなづいていました、決心していいました。 「ようし、おれが一番、その怪物とやらを退治してやろう」 「ええツ、それでも祟りが!」 と、おそれおののく夫婦を制して 「祟りなんてクソくらえだ、そのヌシってやつを、たたき切ってしまえば、こっちのもんじゃ まア オレにまかしておきな」 といって、魚屋は、帯をしめなおし、はや天秤棒をにぎって、立ちかけましたが、なんと思ったか、土間の隅にかけてある、杵を、みつけ 「やツやツ いい得物があるゾ、これは屈強のものじや」 と、いってその杵をしっかとにぎり、夫婦と娘をうながして、魚屋は、そのあとにつづいて家をでました。綾中から由良川添に、やがて、道を右にとり、池の土手をあがってゆきますと、くらい林にかこまれた、池は、おりからうすぐらい、弓張月にぼんやり照らされて、気味わるく静まり返っています。土手のなかほどには、新らしく作った、青竹の、人身供養の構があります。夫婦は、その中えやつと娘をいれると、かけるように土手をくだりました。魚屋は、それをみ届けると。 一抱えもある大木の影に、そツと、身をかくして、容子いかにと、娘の方をみていました。すると、やがてのこと、池の水がざわめくと思うと、さツと、波もんをあげてあらわれた怪物は、なあ-んと、丈余もある、鮭の怪物ではありませんか。 「やっぱりそうだツ、あいつだ。ここで取りかえつこした、鮭の野郎だ。池の中にはいって、主になりおりやがつたナ。ようし、いまにみておれ!!」 と、腹のなかで叫びました。鮭の怪物は、ばアツと、水をきって、土手にはいあがり、そろそろ、娘の方に近づいてゆきます。いまや、躍りかかろうとするシュン間、魚屋の杵の一撃は、怪物の脳天を打砕きました。 「おのれ! たかが三分五厘の野郎じゃないか。くたばれ!!」(三分五厘とは鮭のねだん、米の代一合たらず) と、さらに止めの一撃で、怪物は、もう、動かなくなってしまいました。 生きた気持もない、娘をかかえて、魚屋は、夫婦をよび、意気揚々と青野に引きあげました。魚屋は、附近一帯のものから、神様同様の扱いされる騒ぎになりました。 「わしの力じゃない。みんな、この杵の力さ!!」 と、あっさり言葉をのこして、魚屋は、都にのぼって行きました。 村人たちは、不思議な偉力を発揮した、この杵を、寄合の結果、御神体として、池の上のお山げんざいの本宮山のいただきに祭ったのが、この杵の宮であるということです。 ○ 「杵の宮」のことは、井原西鶴の「諸国はなし」 (一六八五)の開巻一頁の序文の中にもでています。「世間の広き事・国々を見巡りで 談話の種を求めぬ。熊野の奥には、湯の中にひれ振る魚あり、筑前の国には、一つをさし荷の大蕪あり、豊後の大竹は手桶となり、若狭の国に、二百余才の白比丘尼、近江の国堅田に、七尺五寸の大女房もあり、丹波は一丈二尺の塩鮭の宮あり。松前に百間続きのあらめあり。(中略)是を想ふに、人は妖物世に無いものはなし」 本宮山にあった杵の宮は、そのご綾部藩主九鬼さんの祖霊社とともに、若宮神社の境内にうつしまつられていたことは、綾部の人々には、よくしられていることであります。ところが、昭和のはじめ、兵庫県印南郡西志万村に住んでいられる、九鬼隆治氏が、綾部にこられ、九鬼の祖先が、おろそかにされているとかいって、おこられ、宮居をこわして、持ち帰られるとき杵の宮の御神体まで持ち帰られ、いま、このいわれの「杵」はもう綾部にはなくなっています。 大原神社(福知山市三和町) 『福知山市史』 「鮭・鱒の話」
やはり丹波志の文であるが、大原神社の記述のうち、社家の説として次のようなことがある。 この山に鮭が数千年住んでいる。伊奘冊命を遷座する時、天児屋根命が宮地を探し廻り、水門の瀬をみつけた時、水底から金色の鮭が浮き出て来て申すには、「私は水底には住まず(原文判読)、この山を守ること数千年である。嶺に白和幣、青和幣(ともに神に供える麻布)があって、いつも光を放っており、この山こそ大神の鎮まりたもうにふさわしい霊地であろう。また川水は清冽であって不浄を濯ぐのによく、上つ瀬下つ瀬のごとく相合しているので、この地を河合(川合)と呼んでいるのである」と、だからこの地に悪事が予感されるときは、この淵に鱒がちらちら上って来、不浄の事がある前には鮭が浮いて出るのであろう。これが自然の祥(兆)である。そうしたことから当社では鮭を末社に斎き祭ってあって、飛竜峯明神と呼んでいるのがそれである。いま(安永)に至るまで、この地で鮭や鱒を食べないのはこのためであらう。 大原神社(南丹市美山町樫原) 『北桑田郡誌』 大原神社
摂社川上神社に関しては樫原住民間に鮓講(すしかう)と称する特殊の風習を遺存せるを以て、左にその梗概を記述せん。 川上神社は樫原部落住民の氏神なりと伝ぜられたれば、氏子たるもの結婚すれば一度はこの祭典を奉仕すべき慣例古くより行はれ、之を俗に樫原の鮓講といふ。即ち当月三日には三日月講と称へ、其の親戚知友相集り、九日に要する鯖鮓を調製して水漬にす。八日に至れば親戚知友を招きて披露の宴を張り、この夜より其の祭典に係る仕入九名神職と共にその家に籠りて、翌十日の祭式の練習をなす。當日に至れば早天行場(ぎやうば)に往きて水垢離を取りて潔齋し、神饌の調理をなす。祭式は一種の田楽にて、いづれも上下を着け、笛役一人太鼓役四人サヽラ役四人より成る。さて笛に合せて太鼓を打ちサヽラを摺る。(このサゝラは矢代の編木と同様の形にして古式の百子と称する楽器に類す其数は日本国数に揃へて国内安穏を意味すると傳ふ。) サヽラ役の中年少者三人は互に起ちて潤歩しつゝ仕人の前面を一周して拝をなす、終りに他の一人は三歩前方に跳躍して拝をなす。俗に之をカラスと云ふ。その献ずる神饌は盛相飯(もつさうはん)にして、之を圓錐形の型に詰めて松板の上に載せ、千切餅五個其他昆布??青豆青葉等を添へて奉るなり。又之と同様のものに杉箸を具して参詣者一般に配布す。これ往昔人身御供(ひとみごく)を行ひし餘風なりと解せらる。現今にては仕人の前夜より来泊することを廃し、當日早朝より之を勤むることに改めたれど、大體に於ては昔日の如き儀禮を行ふなり。 (参考) 南ヘ流れていた由良川
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