丹生
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 大丹生舞鶴には 丹生(爾保)が水銀と関わる地名だと見られ、それが定説のようになって来るのは、最近のことである。 大丹生地区↑ だいたい丹生をニュウとかニフ、ニウと読めないで、タンジョウとかタンセイと読む場合も多く、その名の由来はたいていは忘れられている。 日本民俗学の創始者とされる柳田国男も産屋だとか、稻づみのことだと言っている。 「海上の道」に、 大體に於てニホ又はニフ・ニュウ等が、産屋のことであったとまでは考へて行くことが出来る。 江戸期の初頭まで近畿地方にも、二ョウに近い稻積の呼び名があったといふ以上に、ミュウが拜みかしづかるゝ一種野外の祭場であったらしいことである。 とある。稲作農業しか見ない彼の民俗学の欠陥かも知れないが、だいたいはこうした見方であった。そもそも稲作は渡来の農業であるし、渡来の金属文化と結びつかないと発展ができないものだが、そこまでは見なかったのであろうか。 地名の意味を確定するには、あれこれと証拠もなしに推測に推測を重ねて空想妄想の地名学とならないためには、何か何人も比定できない物的証拠があるのが一番よい。 『丹生の研究』 丹後の舞鶴湾の咽喉部に大丹生がある。いまは舞鶴市域に加わっているが,近ごろの市域のことであるから,東舞鶴港から1時間も船にゆられなければ行きつかない僻地で,もとの行政区画の京都府加佐郡西大浦村大丹生と表示する方がふさわしい。訪ねてみると,この大丹生は,舞鶴湾口の狭い海峡に面しているが,それでも小さな入海を抱いて波静かであり,海岸から2.5kmの谷奥まで楔形に耕地が拡がる。この谷のなかを大丹生川が流れているが,河の左岸つまり南側は黒色の土壌であるのに,右岸は水銀の鉱染をうけて赤い土があらわれ,それは部落の北にそびえる赤坂山につづいている。この土壌には水銀0.00051%が含まれ(昭和34年7月30日採取),この僻地に大丹生が存在する理由を頷かせた。 大丹生部落の南隅には海辺の白砂の上に大丹生神社が鎮まる。しかしこの社名は明治になつて郷名に基いて呼称されたもので,実体は山王社にほかならない。この村には別に海辺から約1kmの奥に今は奥の宮と呼ばれている熊野社がある。それからさらに奥に進んだ丘陵面に宮の尾という地名も残っているが,これ以上むかしの大丹生の人たちに信仰された神の正体を捜ることはできない。丹生の実状に即したニウヅヒメ祭祀は,すでに村民の生活が変つている以上,追求できなくなってしまった。古記録はむろんない。ただ古老(堂本松之助・上林新吾の両氏)に訊ねて,大丹生に対比して考えられがちな小丹生の名がどこにもないことは,確かめることができた。 ところで,大丹生の北,舞鶴湾の湾口部に湾に面して浦丹生という小部落がある。これは丹後半島の東北岸に見出される蒲入(がまにう,与謝郡本庄村)とともに,丹後のどこかに丹生を設定しなければ解けない名称である。 『 〝遠敷〟の語源について 平成三年(一九九一)四月二十六日の新聞に「遠敷の通称惣谷にある洞穴から岩石を採鉱し、奈良のヤマト分析研究所で鑑定の結果、九三〇〇ppmいう高濃度の水銀を含む辰砂(硫化水銀)であることが分かった」と報じられた。 日本海側では報告例がないという。そして「地名の裏付け」との見出しまでつけられていた。そこで地名「遠敷」の語源について考えたい。十二世紀頃にできた「東大寺要録」に二月堂のことを掲げ「お水取り」の起源について記されている。その中には「彼ノ大明神在り若狭国遠敷郡二」と地名「遠敷」そのものが明記されている。 江戸後期の国学者「伴信友」は著書「若狭旧事考」に「さて遠敷と云う義は、今遠敷村のわたりの山々に美しき丹土の出る処多く、山ならぬ地も然も処多し(中略)故に小丹生と呼へるにて、小はその地を称える詞なり」と書いている。また奈良時代の初めに編纂された「豊後風土記」の同義の文章も引用されている。 戦後、ある研究者は、アイヌ語で「乗船する所」と発表、またある作家は、朝鮮語で「遠くにやる」との説を紹介し、更に「敷」とは「配置する。統治することである」との主張をも紹介している。難しいばかりに様々な「語源説」が出てくることは致し方ないといえる。 しかし誰が何といったとしても少なくとも、伴信友が喝破した通り「遠敷」の語源は「小丹生」であった。近年その最も決定的な証拠資料が確認された。昭和四十年(一九六五)、奈良平城宮より発掘された「木簡」に初めて「若狭国遠敷郡小丹生郷」との地名表記したものが発見された。その後、藤原宮跡からも「小丹生郡」、あるいは「小丹生評」と記した木簡が幾点も出土した。また平城京跡からも和銅五年十月の紀年銘をもつ木簡が発掘され「小丹生郡」名が明記されていた。 また「続日本記」によると元明天皇の和銅六年(七一三)五月二日に「諸国の郡郷名は好字、二字で表記せよ」との官命が出された。和銅五年の木簡は「小丹生郡」と書かれている。和銅六年(五月以降)のものには「遠敷郡」と書かれており、元来の地名「小丹生」)が「遠敷」に替わった時期と理由を確認できる最適の資料となっている。 シルクロード研究の第一人者で歴史学者(当時早大教授)の〝松田寿男博士〟が丹生とは丹(辰砂)を生ずる所、辰砂とは水銀と硫黄との化合物であることを歴史地理学的に立証した論文を発表された。 しかもこの研究の真価を確固不動のものとして決定づけたのは水銀鉱床学の権威〝矢嶋澄策博士〟であった。昭和二十四年(一九四五)七月、松田博士一行が現地「遠敷」を訪ね諸所で採取した資料から一五ppm前後の水銀が検出され「遠敷=小丹生」の地名解釈の正しさが証明された。 しかもその後平成三年(一九九一)四月遠敷の山中に朱を掘ったと思われる古い洞窟が見つかり残存する辰砂(朱)が採取できた。先の新聞の通り九三〇〇ppmの水銀含有が証明された。「丹生は水銀産地」という松田、矢嶋の両学説に一つの見事な実証を加え得たのである。 (若狭歴史民俗資料館嘱託 永江秀雄氏に学ぶ) 「辰砂」 大丹生(大入)という所は全国にはけっこう多く見られる。 近い所は福井市大丹生町である。オニウと読むようだが、越前国丹生郡で、 『舞鶴ふるさとのやしろ』は当地の山王宮(大丹生神社)の章で、 同社から東へ一キロ余、大丹生川の谷をさかのぼったところに熊野権現(現在イザナギ命に比定)をまつる奥宮熊野神社がある。「天文十四年(1545)泰造立五社社大明神」の棟札が創建の年代を物語っている。また「元和七年(1621)越前国三国新保村助左衛門寄進」の銘が入った石の狛犬一対が残っている。これは冠島の老人島神社や、大江町の元伊勢外宮に残る狛犬と同時代、同型のもので、当時丹後、若狭、越前の人々の交流を物語っている。 ←これは老人嶋神社の狛犬 越前足羽谷の笏谷石製の1尺ばかりの古い形をした狛犬である。新保は九頭竜川河口にある。大丹生は古墳時代の地名であろうが、千年の後まで関係があったものかも知れない。 遠ければ、元々は、糸島市の 『丹生の研究』 福岡県糸島郡二丈村(もと福吉村)の大入は国鉄唐津線の大入(だいにう)駅をもち,風光明媚な唐津湾に臨んでいるが,永江秀雄氏が昭和41年11月15日に採集した試料は水銀含有0.0015%を示した。 すごい量である。筑前国 大丹生氏 舞鶴は丹生ではなく、大丹生である。この「大」にはどうした意味があるのであろうか。 『丹生の研究』 この方面には調査の旅をわずか4度くりかえしたにすぎないが,私は越前の中央部から若狭にかけての一帯,さらに舞鶴湾の周辺をふくめて丹後半島に及ぶあいだで,水銀の鉱徴を示す紅色土壌を至る所で目にした。きわめて特異な朱砂地帯であるといってよかろう。このような地方で古くから朱の採取と使用が見られたことは確実であり,そのうちの若干部分には丹生氏の植民が行われたにちがいない。それにしても,丹後には丹生や大丹生はあっても,小丹生は,その痕跡すら認められないのである。したがって本章でまっさきに取上げた舞鶴湾頭の大丹生は,前節の越前海浜の大丹生とともに,その発足の当初から大丹生と呼称されたとしなければならない。「丹生大明神告門」と共に天野大社に伝わった「丹生祝氏文」に「紀伊の国の伊都の郡に侍える丹生の真人の大丹生の直,丹生の祝,丹生の相見の神奴等」云々とあるなかに顔を出している大丹生氏の一派が,上述両地の開拓に関与したと解せられる。なおこの「丹生祝氏文」は写本として伝わっているが,その訓読は「紀伊続風土記」(巻48:活字本Ⅱ・P.142)に「丹生真人とは下の三姓,大丹生直・丹生祝・丹生相見の三姓の神奴をいふなるべし」とあるのに従った。 「丹生祝氏文」 舞鶴大丹生は丹生氏一派の「大丹生直」系の開発になるのかも知れない。 浦入(浦丹生)『田辺旧記』に、 領中湊數 田邊湊 城下、遠浅、潮時不構舟懸りよし 宮津ヨリ九里 黒地湊 田井村 岸深潮時不構舟懸りよし 田邊湊ヨリ八里半 浦丹生湊 大丹生村同断 同湊ヨリ二里半 大波湊 大波村 遠浅、片遠所故廻舟懸り申事無之 同湊ヨリ三里 由良湊 由良莊 大川口北風時舟出入難レ成 同湊ヨリ三里半 江戸時代は重要な湊であった。 火電建設に先立った行われた発掘調査で、縄文期の丸木舟や、奈良期の製塩遺跡や5世紀の鍜冶遺跡、和銅開珎なども見つかった。すごい先進地であったようで、その話は多いが、地名の由来について取り上げたものは何も見当たらないままである。 ←『続・引揚援護の記録』より 引揚船・興安丸の背後に見えるのが、浦入である。入口に砂嘴のある丸い入江があった。 この砂嘴の上を歩いたことがある、フィルム時代の写真も何カットかあると思うが、もうどこにあるか判らない。 引揚船は舞鶴に着けばすぐに上陸できるわけではなく、この辺り(大丹生検疫錨地)に停泊して厳しい検疫を受けた。今の新型コロナのような話である。特に恐れられたのはペストとコレラであったという。この時代の防疫体制を学びなおすと、コロナ禍での大型クルーズ船にどう対処すればいいか見当がつきやすいかも… 引揚援護局には火葬場も用意されていたそうで、まあそれももしかしてコロナクルーズ船でもいるのかもかも… 横道にそれたが、 『丹生の研究』 大丹生の北,舞鶴湾の湾口部に湾に面して浦丹生という小部落がある。これは丹後半島の東北岸に見出される蒲入(がまにう,与謝郡本庄村)とともに,丹後のどこかに丹生を設定しなければ解けない名称である。 という。 伊根町の 『京都府の地名』(角川)は、 集落は狭い海岸に密集している。一部は越前(四ヶ浦)から移ってきたといわれ、その人々によって鰈延縄・シイラ釣などが開かれたという。 越前の また『季刊東北学』(2011.11)「津波伝承論ノート」(金田久璋)は、福井県三方郡美浜町丹生について 「丹生千軒」は山津波で村が立ち行かなくなり丹後の蒲入に分村したとされ、戦前までは村付き合いがあったといい、盆踊りが酷似しているともいう。以前、古老からの採話では山津波とされていたが、先日長老の古川信治氏(大正十四年生)に確かめたところ、鶏肉を使って出漁したところその祟りで津波に襲われ、八百戸もあった村が丹後へ分村したと述べており、伝承にいささか齟齬がみられる。 立石半島の先端の、美浜原発のある若狭の丹生だが、丹後の蒲入はその分村だという。これらの文献によれば丹後からではなく若狭、越前からの分村のようである。カマヤ海岸という断崖絶壁にある天然の良港だが、そのカマにある丹生という意味であろう。「丹」が出た地なのかは不明である。 浦入もあるいはそうしたことかも知れないが、記録には何も見当たらない。水銀量を分析しないと確かなことは推測すらも立てようもない、しかし大丹生とは隣り合わせの地なので、水銀の地である可能性は強よかろう。 丹後の丹生、その関係と思われるもの丹生に関係していそうなものは、舞鶴以外の丹後にもけっこう見られる。 文献資料としては『丹生の研究』がやはり一番かと思われる。 私は次の2事実から丹後における丹生の存在を主張する。その1は,竹野郡網野町の郷に鎮座する式内大字賀神社の社地が,郷の小字として丹生土(にうど)と称されること,その2は,竹野郡豊栄村(いまは丹後町に編入されている)の岩木に丹生神社が厳存することである。この2事実は,網野町郷に住む後藤宇右衛門氏が,氏の郷土の地籍図(昭和2年7月再製,竹野郡郷村大字郷「字限図」)から前者を,また網野町立野家に蔵される「丹哥府志」(写本)から後者を発見して,私に教示されたもので,昭和42年11月5日に行った私の現地調査にも同氏は導者の役を買われ,たいへんお世話になった。 このとき丹生土から採った試料は,水銀含有0.0010%であった。この地点名が朱産の現実に基く命名であることは疑いをいれない。この土地の隣りに小字を入道という土地があるのも丹生土の訛転としておもしろいし,ここには真言宗明光寺址がある。思うに丹生土の名は,但馬の丹生に隣して丹生地(兵庫県城崎郡香住町奥佐津地区に所在)があり,あるいは紀伊の有田の丹生と有田川の流れをはさんで丹生図(にうづ,和歌山県有田郡吉備町の御霊地区にあり,東丹生国と西丹生図に分れている)があるのと同様な事情にあったが,その附近に存在した丹生の本地はすでに亡んでしまったのであろう。 竹野郡岩木の丹生神社(京都府京丹後市丹後町岩木新道) 元は真言宗という金竜山宝蔵寺が集落にあるが、その裏山の頂上にある。ここは山城跡地ではなかろうか。神名を書いた物は見当たらない。祭日にノボリが立つ。 真ん中が本殿で左右に境内社が幾つか祀られている。その向かって左側の覆い屋の中には祠が一つあり、こんな神額が掲げられている。 『丹生の研究』 岩木の丹生神社は,丹後半島の大山である依遅尾山(540m)から西に続く山すじの一つが竹野川の河原にひろがる水田地帯に没入しようとする先端に乗り,裾に岩木の人家をまとわらせている。祭神はミズハノメと伝承されている… なお現地採取の試料は水銀含有0.0005%であり,附近からは0.0010%の水銀を含有していた試料もえられた。 『郷土と美術91』(1988・1)「金工史の視点から 古代丹後の伝承地名を歩く 小牧進三」丹後の丹生神社と丹生地名 実のところ、この丹生神社が丹後国に二社鎮祭している。たかが二社とは言え、この社が鎮座する以上松田寿男氏が説くとおり、この丹後にかって丹生氏が存在し、朱砂採掘を行っていたことを示す無言の立証となる。 その一社は、丹後半島の北端、丹後町の岩木の丹生神社と、他の一社は、青葉山の北西大浦半島の突端、大丹生の丹生神社がそれである。 丹後町岩木の丹生神社は、用明天皇の時代麻呂子親王による土クモ退治伝説が横たわる。 竹野神社の近接地、高城山(城山)に対峙する小字、新道(しんど)に鎮座し、ここでも土クモが動めく。 とおりがかりの中年婦人からこの社は現在岩木集落の氏神であることを知ったが、突然訪れても、社名標示もない椎の潅木に覆われた社地から丹生神社だと知るには、かなりの時間がかかる。 たまたま摂社にかかる乳道(にゅうじ)荒神と記された小さな墨書文字から乳道は、丹生地であり、朱砂産出を示す地名から丹生神社であることを知る。 この岩木出身で近くの吉永に住む古老、道家宗春翁八十八才からの教示によると、この社は現在、ニウさんの呼称は消え、ニブさん、ミブさん、比較的若い世代になると、タンショウ(丹生)さんと呼ぶという。古代朱砂採掘の民である丹生氏は、岩木集落において今日タンショウさんと呼ばれ風化しつつある。致し方のない歴史のはざまが、ミブ、ニブ、タンショウと語る古老の口もとで去来し、浮沈している。 ところが、古老道家宗春氏が、平然とつぶやいた、ミブさん、ニブさんのたったふたことをききつけかつてない衝撃をうけた。 このミブの言葉は、平城宮跡出土木簡に、丹後国竹野郡・生部(みぶべ)・須・・と記された墨書文字が語る「生部・壬生部」そのものを指すミブの古語であったからだ。 五世紀初頭の仁徳天皇記に壬生部を定めると記され、皇徳天皇記にみえる「乳部(みぶ)」がそれで、言葉のふるさを物語っている。 ついでニブは「新撰姓氏録」(八一五弘仁十三年)に記された平安初期の高官、息長丹生直人の「丹生」そのものを表現する言葉であった。やはり丹生氏は、この岩木で、ミブ、ニブという日常会話の中に生き、今日も健在であった。平安京の地名壬生より丹後岩木のミブがよりふるい落差がある。岩木のミブは、木簡記載のとおり奈良朝にさかのぼる。京都の壬生は湧水地水分(みぶ)より生まれた地名でその性格がまるで違う。「神社明細帳」によると、この丹生神社は、水神である 象女の女神を祀り、弘化元年(一八四四)四月十六日火災にかかり嘉永二年(一八四九)六月再建と記し創建年代不詳となっている。 しかし日本の丹生の記録は、延久四年(一○七二)『参天台五台山日記』承保三年(一○七六)『百錬抄』を最後に採掘記録が史上消滅。丹生氏の活躍も、平安末から鎌倉期にかけ衰退した。時代の推移である。 この事情から「神社明細帳」で創建年代不詳とされているが、この丹生神社の創建は、松田寿男氏が述べるとおりまず平安期にさかのぼり丹生氏による創始と察しられる。 丹生の言語が今日に生き、乳道(丹生地)地名も現存する。丹生氏のかつての土着がこの岩木にあったことは、もうまぎれもない。 いまから二十年前の昭和四十二年十一月五日のこと、松田寿男氏は、網野町字郷の史家後藤宇右門翁の案内で、はるばる東京からこの岩木の大地にたたずんでいる。そして岩木の朱岩から水銀を見事検出された。これによって岩木の地が、古代朱砂の採掘地であったことを証された。それは、丹後町の岩木の古代を語る鮮明な一頁でもある。 新道、乳道、新造は本来はニイヂ、ニウヂ(丹生地)とか、あるいはニイドウ、ニュウドウ、ニイゾウ(丹生土)とか読むものと推測されるのである。 竹野郡郷村の丹生神社 江戸期か、明治期の「神社明細取調書」には、郷村に丹生神社の名が見える、しかしその後は廃絶したものか郡誌の時代には不明となったのか記載がない。 竹野郡式内社・大宇賀神社の今の鎮座地は京丹後市網野町郷、小字は 『丹生の研究』を再度 竹野郡網野町の郷に鎮座する式内大字賀神社の社地が,郷の小字として丹生土(にうど)と称されること,…このとき丹生土から採った試料は,水銀含有0.0010%であった。この地点名が朱産の現実に基く命名であることは疑いをいれない。この土地の隣りに小字を入道という土地があるのも丹生土の訛転としておもしろいし,ここには真言宗明光寺址がある。 すごい量である。この辺りに丹生神社があったものと思われる。境内には須恵器窯趾がある。 尚、大宇賀神社は、当社のほかに、 室尾山観音寺神名帳の加佐郡「正三位大宇賀明神」今の 大宇賀神社(弥栄町黒部) 宇賀神社(弥栄町和田野上地・春日神社の境内社(祭神・豊宇賀乃売神) 室尾山観音寺神名帳の熊野郡「正三位 大宇賀明神」 そのほかの気になる所ウカ、ウタと水銀 『郷土と美術91』「金工史の視点から・古代丹後の伝承地名を歩く・小牧 進三」 網野の郷に鎮座する「大宇迦神社の大ウカの神」は峰山町字鱒留に鎮まる古社で、丹後国風土記逸文がのべる豊ウカノメを祀る藤社神社から勧請された古伝を残している。 しかし、この郷の丹生土で、丹生とウカがペアであり、大和の吉野のウカシのウカと丹生とが、重層し丹生とウカとの関係には、なにかがありそうだが、いま深入りはしない。 いまから二十年前の昭和四十二年十一月のこと丹後町の岩木と同様、松田寿男氏はこの神社の境内「丹生土」にたたずみ赤土を採取。○・○四オーダーというまさに目を見張る多量の水銀が検出された。松田寿男氏が着目した地名、丹生土は、松田寿男氏の期待をそこなわなかった訳だ。 同氏の検証成果をふまえると、郷の丹生土は、地名といい神名ウカといい、古代水銀の採掘にたずさわる一群の丹生氏が、かってこの地に土着していたことを如実に語りかける丹生氏の古代から現代へのメッセージでもある。 このことから、柳田国男が主張するように地名は、二人以上の人間が、生活の便宜上、人間がひとひらの大地の「一隅」に命名するものなのだという述懐があらためて念頭に浮かぶ。 よって前述のとおり、血原、血浦、血田、「爾保、ニホ、二尾、ニヲ」「新井、ニイ」「乳道、二ウジ、丹生土、ニウド」「丹生、二フ、ニウ、ニブ」「井光、一光、碇、イカリ」等々の地名が、それぞれ、朱砂採掘の民たちのかかわりによって命名された地名であることが理解された。 誰かが水銀量を計測してくれているわけではないが、どうも水銀でなかろうか、と気になる所。将来誰かが計測されることを期待しながら、もう少し見てみよう。 『丹生の研究』 血原の伝説 宇陀の水銀地帯が早くから注目されていたことを立証する材料がもうひとつある。それは血原の伝説にほかならない。「古事記」中巻および「日本書紀」巻3に,神武天皇すなわちイワレヒコ(磐余彦)にまつわるウカシ(宇迦斯・猾)兄弟の話として,それは伝えられているくエウカシ(兄宇迦斯)すなわち兄のウカシがイワレヒコを謀略によって打取ろうとし,大股のなかに押機をしくむ。オトウカシ(弟宇迦斯)すなわち弟のウカシがその謀計を知って,これをイワレヒコに告げる。その結果エウカシは,自分の仕かけた押機に打たれて死ぬ。その死体を斬ったところ,したたり流れた血が踝を没するほどであり,いつまでもそれが消えなかったので“其地を宇陀之血原となん謂う”とある。 血原とは辰砂(朱砂)が赤く一面に露頭していた景観からでた呼称であろう。もちろんこのことは,太古の人たちにとってもなみなみならぬ関心事であった。しかしそれを,我々がいま話すように,直接の表現形式で伝えることは,当時として考えられない。たとえそうしても,口から口に伝わるうちに消えてしまう恐れがある。だから,伝えるべき事実が重要であればあるほど,重大な,そして伝わりやすい話が附会され,その話によって事実が保護される。この点に意を用いないで,ただからませてある話,いわばその事実を保護する装備というか,アクセサリーというか,その皮相部分だけを,現代人の頭で解釈し,すべてをいとも簡単に抹殺することは,却って非科学的というそしりを免れないであろう。記紀や風土記を見ると,血原の伝説だけでなく,同様に辰砂の露頭ないし堆積を流血に見たてて,血田・血浦・血川また茅原などと呼ばれた例は,数多く,かつ全国的に散布している。このことは別章で述べるから,いまは繰返さないが,それらがみなそれぞれに,伝わりやすい話や英堆の行為と関連づけてあるのに注意し,“火のないところに煙はたたぬ”というコトバの意味をよく考えて,古代人に笑われないように心がけようではないか。 大和水銀鉱山がある(奈良県宇陀郡菟田野町入谷)。民間企業が少し前までは操業していたが、今は閉山。周辺にもいくつも小規模な水銀鉱があった。 『万葉集』に宇陀の赤土を詠んだものがある(巻7-1376)。 岩波本の訳は、 赤土に寄せた 大和の国の宇陀の赤土の色が赤く染み付いたら、そのことで人は我々をとやかく言うであろうか。 宇陀の真赤土の丹で紅化粧をすれば、人々は私を何と噂するでしょうね。といった意味になり、宇陀の真赤土の丹は当時の貴族らの化粧品として使われていたことを伺わせる。あの娘、エエ男がでけたようだな、とウワサされることになろう。 ウダ、ウカが水銀と関係がありそうだとわかる。ウカシのシは人の意味と思える、ウカの偉い人の意味であろうか。ウタ、ウカは良い所の意味と思われるが、ウカは豊宇加能売=豊受大神のように穀物神で、浮かれ女というように漂泊する神の意味もある、また産鉄の意味でもあるという。 竹野郡式内社・生王部神社(京丹後市網野町生野内) 生王部は、神名帳にはイクワウヘノとニフヘの訓注がある。詳しくは「生王部神社」 当地は先の大宇賀神社とは背中合わせの地になり、赤坂今井墳丘墓のある谷の口になる。丹生であってもおかしくはないが、誰も水銀を計測してくれていない。 始皇帝の命を受けて徐福が不老長寿の霊薬を求めてやったきたとの伝説がある。 『丹後旧事記』に、 とある。始皇帝が求めたものはヨモギではなく、当地の水銀ではなかったであろうか。 近くの伊根湾の耳鼻という地名もたぶんニイと同じで、 久美浜町 女布の売布神社の元の鎮座地の裏側の谷にある。 新戸古墳は丹後最大の横穴式石室をもつ古墳後期のもので、玄室内部奥には石棚を設けた両袖式の石室がある。新戸はあるいはニイドで丹生土のことかも… 与謝野町石川の高浪古墳にも石棚がある。 福井県三方郡美浜町丹生にも一基、石棚石室の古墳がある、丹生と石棚に関係があるのかも… 石棚付きの石室は紀ノ川が中心地で、全国の半数近くがここにある。そこは丹生氏の本貫地でもある。 赤地名、血地名の伝説 土が赤いから水銀とは限らない、鉄で赤いこともある、色だけでは断定できず、土壌の分析とか神社があるとかがないと決め手に弱い。 『古代の鉄と神々』は、 大阪府南河内郡千早赤阪村の千早は血原である。辰砂を含み、鉄も豊富。としている。. 名神大社・大川神社のある集落は今は大川だが、古くは千原といったという(岡田下村誌)。裏山に碇山があるから、赤い血の原であったかも知れない。 『丹後風土記残欠』 川守郷。川守ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王土蜘陸耳匹女等ヲ遂ヒ、蟻道郷ノ血原ニ到ル。先ニ土蜘匹女ヲ殺ス也。故其地ヲ血原ト云フ。 今も千原というが、そこも赤いし、対岸の北有路も赤い。阿良須神社裏の国道バイパス工事中の山肌↓ 『加佐郡誌』 小倉には小倉木王の領であったから王を慕ふて小倉と称したとのことである。小字に血原と称する所がある。崇神天皇の十年青葉の賊を此処に追ひ詰めて射殺した時、血の流れたのを以て後血原といふと伝へられている。 ワタシはよく通るところなのだが、山肌の土壌が見える所がないよう。 関連情報『仙崎で働いていた人たちの手記』(仙崎は今の山口県長門市の日本海側の港で、ここも引揚港であった) 日に日に朗らかになる人々の間にも病人が生じて、肉親の介抱も、医師や乗組看護長の献身的な看護も効無く、航海中に病没する不運な人が毎度あった。 船内では遺体を長時間放置出来ないから、翌日水葬を執行するが、遺体を海に葬った後船尾に白く続く航跡に手を合せて泣き沈む母姉妹の姿には、前年まで幾戦場の海を乗り回した海の勇士達も思わず涙した。 内地に着いても直ぐには上陸出来ず、入港して内地の山河を目前に見ながら船上で病没する人も有った。外地港湾を出てから百四十四時間以内には上陸を許されず、検疫を受けて合格しなければならない。占領軍の定めた防疫規則で、軍政下の強圧の下では、情状をもって便宜を与える事も出来なかった。 病人を寝かせる寝台も無ければ、清潔な敷布さえ無く、鋼板の床上に軍用毛布を敷いた病床で息を引き取るのが最期であった。 入港後の港湾内では水葬は出来ないから、病没した愛娘の遺体を引き取りに来た指定通船に移す時、両親が持ち帰った乏しい荷物の中から取り出した只一枚の晴れ着を遺体の上に覆いかけ、ついて行く事も許されず船側で別れる姿には涙を誘われた。 『引揚援護の記録』 昭和二十一年の「コレラ」事件 檢疫および醫療の業務は、引揚援護廰のうけもつ大きな役割の一半を占めている。援護面にも、受入と送出があるように、出港檢疫と入港檢疫とに分れるが、引揚檢疫は従来の一般海港檢疫よりもはるかに廣い範圍にわたっている點、わが國の檢疫史に新らしいページを加えたものである。檢疫所の整備は、引揚關係業務中もっとも早く完了したことは、檢疫關係者の一つの誇りである。 昭和二十一年三月には、さきにもふれたように浦賀、佐世保、博多、仙崎等の引揚援護局においてコレラ事件が起り、このために各局は大活躍をつづけたのであった。事の順序として、ます引揚檢疫一般について少しく説明を加えておこう。 引揚船が入港すると、まず檢疫錨地に投錨せしめ、現地軍の指示によって檢疫官が臨船檢疫を行う。その内容は、(1)明告書の點檢、(2)發航地における傳染病流行状況の聴取、(3)傳染病患者、疑似者、容疑者の有無の檢診、(4)船内衛生状態の調査である。異常のない時は、現地軍の許可によって入港を許可し乘船者を上陸させる。上陸した上で、さきにも述べたように、税關檢査と携帯品のDDT撒布がある。DDTのなかった時代には、SK蒸気消毒によっていた。しかるに、米軍の好意によって昭和二十一年四月以降DDTが供給せられることになり、檢疫業務はスピードアップされた。厚生省の係官は、ますこの使用法を収授され、これを各方面に普及した。つぎに檢診所において、さらに精密な檢診を行った上、要入院者とそうでないものとを區別する。健康者は入浴の上、各種の豫防接種を行って檢診がおわる。異常のあるものの中、入院を必要とする普通患者は、引揚援護局内の檢疫所診療室に假収容して、應急の治療をなし、必要に應じては、第一次収容病院に送り、さらに必要とあらば、第二次、第三次収容病院に送るのである。檢疫傳染病その他の法定傳染病患者は、特設病院すなわち病院船又は檢疫病院に隔離して治療にあたり、これらの患者と接觸關係のあった人々で、隔離を要する者は隔離所に入れられる。 從來の海港檢疫にあっては、その對象はコレラ、ペスト、痘瘡、發疹チフス、黄熱にかぎられているけれども、この引揚檢疫にあっでは、指令によってその他の法定傳染病および結核、癩、炭疽の檢診ならびに虱の有無を檢診せねばならない。したがって、その措置も多種多様であって、臨船のときばかりでなく、上陸後もあらためて厳重な檢診が行われるのである。海外からおくられてきた癩患者は、當初はただちにもよりの癩収容所に送られた。日本内地からの引揚は禁止されている。 海港檢疫でもっとも重視せられるものはコレラであるが、同胞のひきあげてくる地方はつねにコレラの常在地であるか流行地が多い上、前例ない大集團の人々が、短期間にしかも不衛生のまま混亂した状態で移動するのであるから、コレラに對する警戒には、關係職員は不眠不休の努力を續けたのであった。浦賀のコレラ事件は、その規模においてもはなはだ大きいものであったが、國内への上陸をふせぎとめ、憂慮された大流行の事態にいたらなかったことは、不幸中の幸であった。 各援護局中、最初にコレラ汚染船の入ったのは浦賀である。昭和二十一年三月二十九日廣東を出發した引揚船V〇七五號に、航海中患者が發生し、どしどしとひろがり、患者二十一名(内三名死亡)容疑者二十名をのせて、四月五日午後六時、浦賀に入港したのである。六月四日、最後の海上隔離解除まで二ヶ月間、ここに人港したコレラ汚染船は二〇隻同船者六七、三二六人で、患者は四七八人(内死亡七〇人)保菌者一八九人、容疑者三二八人、揚陸した死體一四一體であった。患者は最初國立久里濱病院に、後には檢疫病院に収容され、同船者は船内に隔離されたが、一時は引揚船二十一隻その人員七萬人に達した。七萬人といえば一つの中都市である。この人々の食糧、飲料水をまかなうことは、さらでだに食糧事情の戦後もっともきゅうはくしていた時であり、また封鎖支拂の時代であっただけに、この苦心は醫療の面とは別な重大問題であった。例えば、百萬圓の現金をそろえて新鮮野菜を調達する苦心などは食糧事情がよくなり、封鎖支拂もなくなった今日においては、想像してもおよばないものがある。このようにして、浦賀は地獄の観を呈した。 この對策のためには、昭和二十一年四月十八日浦賀援護局に「コレラ防疫本部」が設置された。本部長には。引揚援護院阿部醫務局長、副本部長には河合檢疫所長があたつた。富時、浦賀檢疫所は、まだ建設の途上にあり、職員も要員をみたしていなかつた。この危急の状況に對し、献身協力しにものは、東大、京大、慶大、慈恵大、千棄醫大、日大および昭和、東京、千葉、横濱、各醫專の教授、学生-東京都第一、第二、相模原、久里濱各国立病院の醫師、看護婦、日赤看護婦、復員者中の有志などであった。このようにしてコレラ防疫體勢はととのった。 この編成は次ぎのようなものであった。 略 ※癩は今はふさわしくないのかも知れないが、当時の記録なので、そのままにした。 (後の話になるが、NHKのクロ現でも、この「コレラ船」を取り上げていた、GHQの検閲が厳しく、当時の真実がマスコミでも伝えられていないという。南方からの引揚船にコレラが発生することが多く、一時は114隻23万人が日本を目の前にして船内に、最悪2ヶ月近くも隔離され、200人以上が亡くなったようである。オカゲでというか、幸い国内には入らなかったようだが、船内は地獄であったという。) 新型コロナは国境の従来の防疫システムを簡単に突破している。人や物が大量に毎日毎日国境を行き来する時代になり、どの国も見直しが迫られるが、特に日本は水際入国管理が甘いといわれている。経済活動優先のため簡単に入国できるし、入国すれば後は野放し状態という。ワクチンはないし、これではコロナが流行しない方がおかしいようなことである。 マスクしていても、気を十分つけていても、検査で陽性、どこから感染したのか本人にもわからない。 ワクチン接種がひどく遅れているのはよく報道されている通り。:こうした状況をケタオチというが、スンバラシイ国と自治体は、その国民の安全・健康などはどうでもよいと無視するお考えなのであろう。このグラフが何よりもそれを雄弁に物語る。 ←「世界の接種状況」より ウィルスは人間の弱い所をついてくる、薄い所をついてくる、傲慢な所をついてくる、いつまでたってもダメなところをついてくる。その社会の本当の弱点、ダメ点を教えてくれているようなものである。。 クルーズ船でワンサカワンサカワンサカと観光に来て下さいませ。ただし50年稼働に近い超老朽オンボロ原発2基のUPZ(30㎞圏)内です、さらにプルトニウムを燃やす原発UPZです。医師も看護師も病床も器材も過労死ラインを越えて働いてもらっても足りないでしょう、たらい回しです、助かる命も助からないでしょう。火葬場、そんなもんがあるわけないでしょ。 数値上では何か問題なしかのようになっていても、実際はゴマカシで、再調査すると足りていないことが日本ではよくある。もし何かあれば舞鶴は地獄かも。過去と世界に学びマジメに対策を強めたいもの。 建物や病床はすぐできても、それだけではどうにもならない、医療従事者がいないことには機能はしない。医師などは急には作れない、いくら頑張っても何十年とかかる、イノチにかかわる安全保障、社会保障である、普段からのゴマカシのないマジメな努力が求められる。昭和60年ころと比べると感染症病床は1/8に減らされ、保健所も半分になったという。その当たり前の帰結なのかも知れない。これらをヌキにして、飲食店がワルイ、私権を制限する法が必要、憲法も変えるの論議すらある。本当の問題はどこにある、ここを納得いくようにやらないことには国民の協力が得られない。アホらめが勝手にさらせ、ワシは好きにする、となるかも…。負け戦っぽい状況に移りつつあるように見える。。 憲法第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。 最近は重傷化率が高くなり、どこかのマチあたりでは、いよいよたらい回しもできない、受け入れ先がなく救急車の中で36時間も待たされたり、自宅待機中に死亡とことが発生したという。医療崩壊が始まった。憲法を無視してその反対に努めてきた国だから、そうした事態は遅かれ早かれいずれのマチでも発生すると見ておかねばなるまい。本当の問題はこうした事態を招いたA級戦犯は政治や行政にあるのであろう。ここを改めないと死ぬのは次はワレだということになろう。 厚生労働省のHPより↓ 国際的に見て低い日本の社会保障費 音の玉手箱 精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石Monti Csárdás(132) Ksenija Sidorova: V. Monti - Csárdás (ZDF Klassik live im Club, 16-4-2017) 1080p, HD - YouTube (132) Zoltán Mága - Czardas - Csárdás (Vittorio Monti) - YouTube (132) MONTI: CSÁRDÁS - LISCSINSZKY KATINKA és KOVÁCS SZILÁRD - YouTube (132) Чардаш(степ) - YouTube (これはロシアのステンカラージンという「酒場」のよう。日本ではそう呼ぶが、ステパン・ラージンと書かれている) 名前がよい。丹後で言えば吉田新兵衛みたいな農民一揆の指導者である。 チャルダーというのは「酒場」のこと、ハンガリーの酒場で演奏され、歌い踊られていた曲が次第に磨かれ芸術性を高めていったものという。ハンガリーの酒場唄とでもいうものか。酒場というか食堂というか劇場というか、そこに小さなステージがあって、ストリートミュージシャンからプロなどいろいろ演じる、ライブハウスのようなもの。何であれ、 プロのカミワザのハイレベルのワザのナマが目の前で見られるのは大きな文化的影響があると思われる。文化芸術の裾野を広げることに役だっているのかも… モンティはイタリア人で、これに翼を与えられて作曲、数あるチャルダーシの中では、この曲がよく知られている。 チャルダーシュは一時は大流行して、禁止の法律ができたほどだったという、どうにもならないウィルスか酒場のバッドウィスキーのように止めがたいデビル的な伝染力があったよう。:しかし現在社会がゼニやソンタクで大狂いしているようなことよりはマシかも… |
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