竹野媛と丹波大県
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 竹野媛記紀には、丹後のお姫様が、中央の大王(天皇)のお后様になったという記事が見られる。天皇の后は大和の六つの縣の主の娘というのが、だいたいの通例であった。若干その範囲が拡大されることはあるが、丹後や近江の例は、それまでには知られていない。近江はまだ大和に近いが、丹後は遠い、現在でも遠い国である。『古事記』 9開化天皇条に、 此の天皇、
『日本書紀』 開化天皇六年… 天皇、丹波竹野媛を
(ルビは古典文学大系本による)竹野媛は襲名して何代もあったものか、それとも記録の誤りか、同名の媛があり、垂仁天皇の后になった竹野媛は形姿醜により本土に返されたことを羞じ、葛野に到り自ら輿より落ちて死んだという(紀)。 この媛は当ページでは取り上げず、開化天皇の妃となったという竹野媛のみについて見てみる。 「欠史八代」時代の「后妃」の出自 欠史八代とは、歴史学上の用語で、2代綏靖天皇から9代開化天皇までの8代の天皇を指す。記紀にその系譜が記されている初期の天皇の系譜は、全員が父親から息子への直系継承の形をとっているが、当時の実際としてはそうしたことはあり得そうにもない、また和風諡号の名付け方が後世のものである、天皇在位期間が100年を超えるほど長いわりには、具体的な事績が伝わらないなどから、その多くが後世の創作によるものと見られ、欠史八代の天皇が実在した可能性は学術的にはほぼ無いとされる。しかし、それはこうした古い文献史料の常で、それだからといって、まるまる否定して捨て去るわけにもいきそうにもない。 「后妃」の出自などは、後世の創作とするには、それはたぶんムリでしょう、の感がする。后妃たちの出自の大きな特徴の一つが、磯城(師木)県主、春日県主、十市県主といった大和の県主家から出ている者が多いことである。決して大豪族とは言えぬちょっとした地方の地方小豪族、律令時代の郡司あたりになり、これは当時の初期天皇(大王)家といっても、何か周囲から突出した家柄というか、最初から天皇家であったわけではなく、まだ一地方豪族(縣主程度)であり、周囲の縣主家とは親類のような関係で、互いに嫁にもらったり婿をもらったりした関係であったことを反映したものとも考えられ、後世の者なら無視してかかるような家系と婚姻関係を結んでいたものとも見られ、これもこれとして、天皇家も最初はこうだったのだろうと、それなりに尊重すべき記録とも思われるのである。 大和地方の小さな県(『倭人伝』で言えば国)がいくつかあって、それら国々から共立された卑弥呼のような地位にあったものが初期の天皇であろう。歴史の最初から諸県から超然たる地位にあった特定の天皇家というものがあったというわけではなかろう、といったいわば当然の歴史を伝える記録であるのかも知れず、スミをつついて、あれがおかしいこれがおかしい信用できないと、切って捨てれば、大事な歴史の真実まで切って捨てることになるかも…。
開化の時代になって、古墳時代の最初の頃であろう、「大和大縣主」とでも呼ぶような、豪族となったのではなかろうか。 さっそく、近隣の近江と丹波と三者の連合を組み、ようやく全国に威を振う勢力へと成長し始めたと思われる。統属関係というか、丹後や近江が大和王権に服属する関係では、少なくとも当初はなかった、まだそこまでの力は大和にはなかったであろう、大和+丹波+近江の拡大大和縣連合国とでも呼ぶような政権で、各縣同士は対等な地位、互いにかなり独立性の強いものであったと思われる。 「后妃」を輩出した縣は、雄縣であり、そこの縣主家は、今でいえば皇族のような地位にあり、「天皇位」の継承権を持っていたであろう、ホンマに継承権があるのかと思われるような、たとえば継体のよう人でも天皇になっているのだから、かなり広い範囲に継承権者があったものと見られ、ましてや后妃を輩出している縣主層に皇位継承権がなかったとは考えにくい、そうした雄縣主層から后妃を選んでいたのではなかろうか。后妃の男の兄弟には恐らく皇位継承権があったものと推測する。 丹後では竹野別命、朝廷別命が知られている。そのワケの名を負う人は、間違いもなく、それではなかろうか。 応神から始まる「河内王朝」、また「ワケ」の名がついた天皇が多いことから「ワケ王朝」などとも呼ばれる。因みに、15応神天皇は、品陀和氣命(誉田別尊)が和風諡号である。17履中天皇は、大江之伊邪本和気命(大兄去来穂別尊)という、16仁徳天皇の長子である。18反正天皇は、蝮之水歯別命(多遲比瑞歯別天皇)という。 ワケとは天皇である。ワケを負う人は数多いので、実際に即位できたかはべつしとて、皇位継承権者(有資格者)であったのではなかろうか。 天皇本宗家が健在に機能していれば、その他あちこちのワケさんは実際にはその継承権が生きる可能性は、まずはなかっではあろう、政治の世界であり、実力の世界だから、リクツは後付けでよいわけで、もし本家に継承者の適当な人なければ、幾人もいたであろう継承権者の中から、ひょうたんからコマ的に、実際に天皇になれたかも知れない、ウンと神様の気分次第であったと思われる。 しかし皇位継承権があると、ヤバイことでもある、オケ・ヲケのように命を狙われることになるかも知れない。丹波桑田の倭彦王のように逃げるのがよいかも知れない。 尾張連 穂積臣 これらの氏族は、ただの豪族ではなく、もともとは天皇氏一族の分家ではなかろうか。 由碁理、竹野姫、彦湯産隅命、讃岐垂根王、迦具夜比売…青銅の神々と巫女王油碁理は、開化天皇妃竹野比売の父(古事記)。丹波国丹波郡丹波郷の大県主であろうか。書紀では、妃を丹波竹野媛とのみ記して、父の名はみえない。 彦湯産隅王・彦湯産隅命は、開化天皇の皇子。母は竹野比売。大筒木垂根王と讃岐垂根王の二子がある。姓氏録では忍海部の祖。紀には別名を彦蒋簀命とし、丹波道主王の父とする説も記す。 竹野媛の父とされる、油碁理にしても、息子の彦湯産隅命(彦蒋簀命)にしても、人の名というよりも、神様の名のように感じられる。 ユ(湯)というのは、金属が溶けて液体状になったものを呼ぶもので、それは今も湯と呼んでいる。彼の場合は銅(青銅)が溶けた状態のものを言っている。 コリは凝り固まるの意味で、水が冷えてコリ固まると氷というように、青銅の湯が凝り固まった青銅鋳造品の意味であろう。鉄は1500℃以上、ガラスは1300℃以上でないと湯にはならない、青銅は1000℃くらいで湯になるので、当時の技術水準としては青銅と見られる。 ムスというのは、苔むす草むす、とかムスコムスメのムスで、ムシ(生し)の意味、湯が生まれてくる状態をいったものと思われる。丹波の青銅鋳造冶金集団では、その祖神として油碁理神・湯産隅神を祀る巫女王・竹野媛といった構図があったものかも知れない、油碁理も湯産隅もだいたい似た神であり、何で2柱もあるのかとも思えるが、それはハツクニシラス天皇が2人もあるのと同じようなことかも知れない、歴史は二度繰り替えすとか、ヘーゲルも言い、東京五輪が二度あったようなことかも知れない。そうしたところが本来の伝承なのかも知れないが、やがて油碁理-竹野媛-湯産隅-…の系譜にまとめられ、青銅集団では信じられるようになったものであろうか。 まことに興味深いことであるが、さらにこの系譜は続いていて、 開化記 垂仁記 大筒木垂根王の女、
かぐや姫といえば『竹取物語』のかぐや姫だが、この古事記の系譜と竹取物語はゼッタイに関係がありそうである。 いまは昔、竹取の翁といふもの有けり。野山にまじりて竹を取りつゝ、よろづの事に使ひけり。名をば、さぬきの
「さぬき造」は、伝書によって、さかき造、さるき造になっている、旧・綴喜郡の京都府京田辺市は、かぐや姫の里と宣伝されている。 「「竹取物語」“かぐや姫の里”京田辺」(イラストも) サヌキはサナキで銅鐸だとする説を思い出させる。後の讃岐国(香川県)のことか、あるいはどこか鍛冶集団居住地であろうか。 丹後王国といえば、考古学的には弥生期からの畿内きっての鉄王国だが、こうした史書が伝えるところは、以外にも鉄以前の青銅王国である、これらは日本の古い青銅時代の伝承を今に伝える貴重なものなのかも知れない。 迦具夜比売のカグヤは軽矢のことで、青銅の鏃であろう。そうした集団の巫女王と思われる。油碁理集団(旦波大縣)は銅鐸銅鏡軽矢などを製造していて、綴喜郡あたりまで勢力があった。 こうした金属技術は油碁理集団が、丹後国内で自主開発したものというよりは、遙か源流に殷(商)時代の鋳銅技術、あるいは江南の青銅文化があるものと思われる。 丹波王国は、そうした由緒ある青銅王国であったものか、あるいは鉄にもう切り替わっていたが、伝承としては過去の物が生きていたものかも…。 「垂根」の意味。日本語ではないようである。ネはニム(君主とかいった意味の古代朝鮮語)であろう、多くの論者が指摘するとおりであろう。 タリも古代朝鮮語でだいたい国の意味で、「垂根」とは国王の意味であろうか。 迦具夜比売のカグも古い朝鮮語であろう。カグ、カゴ、カルなどはカネ(金)のことで、金属一般であるが、多くはとくに銅を意味していた。 『日韓古地名の研究』(金沢庄三郎) 案ずるに朝鮮の古代にはタラと類音の地名多く、書紀に見えたるものの中にも、忱弥多礼、多多羅、多羅、図礼(ツレ)、?羅(トラ)、周留(ツル)、堕羅(トラ)等ありて、朝鮮の古言には山を、Tarと謂ひ、今日と雖、知異(チリ)山(頭流、豆流、頭留とも書し新羅にては地理山と謂へり)の如き山名に其の跡を留めたり。而して古代建国の始は多く山上に於てし、今日の都府の基は丘陵に萠したりと謂へば、朝鮮地名中のタラの語原は山にして、国又は都邑の義に用ゐられたるものなるべし。此のタラは又転じてナラとなる。朝鮮語に於てはn、tの両音特に密接の関係を有して屡々相転換すれば、百残の残(Toro)転じて百済の済(Naru)となるは恠しむに足らず。今日の朝鮮語「国」を称してNaraと謂ふは即ち之なり。
そうしたことで、大筒木垂根王とは、大筒木の国王といった意味と思われるが、どうしてここに、古い朝鮮語が出てくるのであろう。油碁理系図の真ん中と最後の人名が先祖たちの名よりも古い。この系図もこのままでは何とも信じられないこととなるが、恐らく油碁理や彦湯産隅にも古い朝鮮語神名があったのだろうが、それはもう忘れられて日本語化していたのであろうか。周縁に古い文化が残るという例かも… 『峰山郷土志』 大県主由碁理の旧居は、竹野の里であるともいい、また、丹波郡の丹波ノ郷であるともいう。油碁理の女、竹野比賣は、第九代開化天皇(前一五七)のお召しによって、比古由牟須美命をお産みになったが、後、郷里の竹野の里に帰り、大神を祭って奉仕したので、竹野宮を斎さまと呼ぶようになった。
竹野神社。にぎわう初午祭の様子。金属の神社であった名残であろうか。 旦波大県≒大丹波王国≒旦波版耶馬台国「県」という中国の文字を当てる適当かどうかは不明だが、国郡郷などの制度もない古い時代の豪族の勢力圏をいう普通名詞であったようで、語源は「 「神武紀」に菟田県、「景行紀」に子湯県などがみえ、「成務紀」には、国郡に造長をおき、県邑に しかし後に大和政権が強くなった時代の縣のありかたから、一般には、縣は縣主を管掌者とし、古い時期から置かれていた大和政権の直轄領とするのが通説で、5・6世紀に国造制が成立して以降は国県制として下級地方行政単位となるとする。 同じ「縣」という言葉でも、時代によって、そのあらわす内容がかわってくる。後の時代に仮にそうであったとしても、初めからそうであったとは限らない、初めから大和政権があり、天皇がいたと考えるわけにもいくまい。 天皇ももともとは大和の諸々の縣主の中の一つであったが、たまたま後に勢力を伸ばして、他の縣主の上に立つようになったものであろう。 桑田御県 『宮津市史』 『古事記』開化天皇段に、開化天皇が「丹波大県主由碁理」の娘・竹野比売を娶ったという伝承がある。また丹波国桑田郡の式内社に三県神社があり、丹波県の存在も見落とせない。丹波県主は、上田正昭氏も指摘されているように、大和と関係が深い。すなわち、倭王権と密接な関係を持っていた大和の六御県の県主に唯一混じって、綏靖~開化天皇という欠史八代中の天皇に后妃を出した伝承を有しているからである。また、県主の中でより大きな勢力を持ったと考えられる、「大県主」は河内と丹波(丹後)のみにみられるのである。和田萃氏は、倭王権が四世紀中葉ごろに竹野川流域に設置したのが丹波県で、のちにその領域が拡大されて丹波大県と称したと指摘されている。
桑田郡式内社に、 古典文学大系本の頭注には「三縣神社、武本在三宅神社下、考異云州人云今三方村有三方神社」とある。 宗神社は 桑田の御縣に限らず、御縣は大和政権の直轄地と言ってもいいかも知れない。当御縣の縣主が倭彦王であるかも知れない。 頭注が指摘する「三方村」は調べてみたが、わからない、ミアガタのアが脱落してミカタとなったものであろうか。 綾部市の味方町は何鹿郡三方郷の地であるが、『綾部市史』は「三方は御県(みあがた)で、大和朝廷の治下にくみ入れられた地域からきた名であるとする説があるが、どうであろうか」としている。若狭国三方郡三方郷に御方神社がある。室毘古王の伝承地であり、御縣であってもおかしくはない。 丹波大県 縣といっても時代によっていろいろ、大小もあるようだし、独立した地か、大和の支配地かの違いもあるようである。さて大縣ともなると、 『網野町誌』 『記』『紀』共に表記法は違っても、「旦波の大県主由碁理」とその娘「竹野媛」の名が現れる。竹野媛のタカノ・タカヌは現在の竹野郡竹野を指すものと思われ、その父由碁理は竹野付近に居住していたものと推定されよう。
「丹後旧事記」なども「大県主由碁理は竹野里を国府となし館造し人也」と書き、他の諸文献にも「竹野の大県主由碁理」とするものが多い。 「大県主」という呼称は大変珍しく、単に「県主」でもその性格が解明しにくい上に、「大県主」とはさらに特殊な呼び名であって「丹波の大県主」といわれる由碁理は、なんらかの形で全丹波地方の王ともいえる大首長だったのかもしれない。 縣もロクにわからぬのに、大縣がわかるわけなかろう、という。アケスケに言えばその通りだが、そこを推測していくより手がない。旦波大縣は「大丹波王国」の片鱗を垣間見せてくれる、文献上では唯一の資料であり、そう簡単にはあきらめてしまうわけにはいかない。 ワタシとしては、大縣は縣の連合体と見る。旦波には、あるいはもう少し広い範囲に、弥生期には、独立の縣がいくつもあった、それが互いに対等の立場で連合体を作った。諸縣は全体を統括する一人の男王を共立し、それを大縣主と呼んでいた。 弥生期の青銅時代から続いた、青銅巫女王家があり、だいたいはこの王家が大県主に推戴されていた。 (参考)倭の六県 「六県」は『和名抄』での以下の各郡域に相当する。 各県域内には県名を冠する、添御県坐神社(奈良市三碓、奈良市歌姫町)、山邊御県坐神社(天理市別所町、天理市西井戸堂町)、志貴御県坐神社(桜井市三輪金屋)、十市御縣坐神社(橿原市十市町)、高市御県坐神社(橿原市四条町)、葛木御県神社(葛城市葛木)の式内社が置かれている。 音の玉手箱
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