丹後大震災①
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 『福井校百年史』 笑えぬ喜劇 中瀬一男
…昭和二年奥丹後大震災後のエピソートである。子供心に一番恐怖をいだいた大震災の想い出は、今だに忘れることが出来ない。夕方の事である、ゴーと云う音と共にグラグラと家が揺れ始めた。夢中で外へ飛び出したが歩くことが出来ず、道路の真中でしゃがみこんでいると、電線がゆれてヂャンヂャンと大きな音がしていたのをおぼえている。日が暮れて暗くなってくると建部山から喜多村の山の向うが真赤に染って見え出した。宮津方面が大火事だと云うニュースが出ていた。夜になっても余震が何回となくやって来るので、一晩中眠れなかった。他所では家は危険なので、外にむしろを張って、焚火をして一夜を明かした人達も多かったと聞いている。親達は毎日交代で四所駅から汽車で奥丹まで救援に出掛けて行った。雪の下で倒れた家屋の始末をするのは大変だったろうと思う。 世界の各地で暴風雨や洪水、干ばつなど異常気象の発生件数が1970年から50年間で5倍になっていて、地球温暖化が進むほど異常気象は極端になり、頻度や強さが世界で増すと指摘されている。地球規模の異常気象の連続で、明日はどんな自然災害が起こるかわからない。加えて、地震や津波も心配されている。 当ページでは、地震・津波、原子力災害を取り上げる。舞鶴の場合は、さいわいにも近くでは大きな地震や津波に見舞われていない。 だからいって、未来永劫、舞鶴には災害がないというわけではない。 「歴史は2度繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」 マルクスの有名な言葉。どこの町だったか昔のことだが、ある書店を覗いていると、ベッピンさんで利口そうな顔立ち、センスある服装の同級生くらいの女の子が入ってきた、何を買うのかと見ていると、スっと買っていったのが、この言葉のある名著『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の文庫本だった。 どっかのイナカ町あたりとはレベルがちゃうなーと思ったものだが、それはそうとして、人間の歴史はそうかも知れないが、「地震の歴史は2度繰り返す」とかいったものではない、何度も何度も繰り返す、災害史は過去のものではなく、将来にも必ず繰り返されるものである。 岸に寄せる波のように何度も何度も繰り返される。人間の力ではそれを止めることはできない、未然に防ぐこともできない。必ず繰り返されるものと捉えて、普段からの備えと心構えを持ち続け、被害が少しでも少なくなるようしていくより手はない。 災害史『岩瀧町誌』『網野町誌』史上記録されている我国の主な地震は、大和朝時代に18回、平安朝初期に24回、同中期に22回、同末期に20回、鎌倉時代に49回、南北朝時代に35回、室町時代に52回、戦国時代に81回、江戸時代初期に62回、同中期、71回、同末期に40回、明治以後昭和2年の丹後大震災までに33回、合計507回、このうち府下に発生したもの実に264回。 これらの大地震についてはなんらの文献も見当らないので規模、被害等知る由もないが、大宝元年の大地震は3日間も止まず、加佐郡の大半が滄海となり、現在の冠島、沓島はその時に陥没した陸地に取り残された高山の二峰であると伝えられ、寛文2年の大地震は京都で倒潰家屋1000、死者200、近郊では潰れたり、焼けたりした家3000、死者が600であったといわれている。
海溝型地震は当地方にはないので、内陸型地震の大きなもの、明治以降のものを見てみる。 濃尾地震明治24年(1891)10月28日午前6時37分。M8.0←根尾谷断層 (本巣市根尾水鳥) 総延長距離約80キロメートル、活動一回あたりの最大左横ずれ変位量8メートル、最大上下変位量6メートルに及ぶ断層。 この地点は上下に6メートル、左右に0.6メートル 岐阜県美濃地方、愛知県尾張地方に起きた猛烈な地震。最初は上下、水平方向への動きとともに、北、南へ揺れていたが、いきなり大きな烈震となり、岐阜地方気象台の地震計の針は振り切れた。31日までの4日間に、烈震4回、強震40回、弱震660回、微震1回、鳴動15回、合計720回を数えた。その後も余震は絶えなかった。という。震源地は本巣郡根尾谷(本巣市根尾)。地震のマグニチュード8.0、世界でも最大級の内陸直下型地震。死者は7,273人、全壊・焼失家屋142,000戸。 関東大震災大正12年(1923)9月1日11時58分32秒。M7.9南関東および隣接地で大きな被害をもたらした。死者105,385、全潰全焼流出家屋293,387、電気、水道、道路、鉄道等のライフラインにも甚大な被害をもたらし、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害となった。 震源は相模トラフで、11時58分32秒に発生したM7.9の本震から3分後の12時01分にM7.2、5分後の12時03分にM7.3という巨大な揺れが三度発生した「三つ子地震」であった。本震の震央が神奈川県西部、続いて東京湾北部、山梨県東部が三つの地震の震源とされ、海溝型の地震とされる。津波も発生した。 自然災害だけでなく、悪質なデマが広がり無関係な人々が多数殺された。 9月7日に治安維持令を公布して人心の動揺を抑え、11月15日まで戒厳令を解除せず、東京、神奈川、埼玉、千葉の1府3県の人民の市民的・政治的自由を完全に剥奪した。大震災発生直後の9月1日午後3時以降、東京や横浜などで「社会主義者及び鮮人の放火多し」「不逞鮮人暴動」などのデマが広がったが、デマの出所の一部は警察や軍隊であった。恐怖におののく民衆はこれらの悪質なデマに惑わされ、各地で自警団を組織し、官憲といっしょになって多数の朝鮮人や中国人を虐殺した。実際には約6000名の朝鮮人が虐殺されたと推定されている。また中国公使館の調査によれば、中国人の行方不明者は約160~170名という。さらに陸軍と警察は、混乱に乗じて社会主義者や労働者の撲滅を企て、3日夜から4日未明(一説には4日夜から5日未明)にかけて10名の労働者が軍隊に虐殺された亀戸事件、16日には大杉栄・伊藤野枝夫妻らが甘粕正彦憲兵大尉らに殺害された甘粕事件が引き起こされた。 災害救助で自衛隊が出動すると、自衛隊の人気が高まるのと同じで、当時は軍部の人気が高まり、大正デモクラシーも屈折し敗北していった。 普通選挙法の制定によって目標の一部を達成したが、治安維持法の成立によって政治的自由の実現を阻止されて敗北し、やがて政党政治も満州事変と五・一五事件によって没落させられるに至る。関東大震災は単なる天災ではなく、歴史の流れを変える決定的な転換点となった災害であったとされる。天災にかかわらず人心が落ち着かないなかでの政治的な流れとしては、これは現在、将来とも起こり得る最悪の方向性と思われる。天災は防げないが、人災は防げるので、普段からの安全安心のインフラ整備を進め、時々の権力に片寄らない正確な報道や情報も含め、落ち着いた流れを作っていくことであろう。 北但馬地震大正14年(1925年)5月23日午前11時9分頃、M6.8円山川河口付近で発生この地震で、円山川流域、特に豊岡と城崎の町が甚大な被害を受けた。 北但大震災によって町のほとんどが焼失した城崎温泉↑。 死者:428名。全壊:1,733棟 半壊:2,106棟 焼失:2,328棟 全焼:1,696棟 軟弱な沖積地盤上に建てられた家屋の倒壊率は4割を超えた。揺れを感じる直前には、円山川の河口付近において、海側から大砲のような音が断続的に聞こえ、地震発生時には、豊岡の町で地面が16秒間に4回も強く波打ったという。建築物は木造が大半であったために、地震の初動で建物の多くは一気に倒壊した。おりしも昼時で、炊事のために火を起こしていた民家や旅館の倒壊に伴い、数か所から火の手が上がった。北風にあおられ延焼し翌日の午前4時、焼き尽くした後に鎮火した。 この火災により豊岡では町の市街地の約7割が焼失し、城崎では72名(人口比で8.0 %)という多数の死者が生じた。犠牲者の大半は、炊事中に家屋の倒壊に巻き込まれ脱出できないまま焼死した女性たちであり、「北但大震災の最大の犠牲者は城崎の女性である」と言われる。 奥丹後大震災②へ鳥取地震昭和18年(1943)9月10日17時36分54秒 M7.2震源地は鳥取県気高郡豊実村(現・鳥取市)野坂川中流域。震源は極めて浅く、深さ0㎞。被害は主に鳥取平野の地盤の弱い地域に集中し、多数の家屋が倒壊した。炊事の時間帯であったため、複数個所から出火し被害に拍車をかけた。死者1,083名、負傷者3,259名、家屋全壊7,485など。戦時体制下であったため戦地へ出征している男性が多く、死者の約65 %(1,083名のうち702名)が女性。 地震後に、市内16か所から出火。水道管が破裂したが、地震前に降雨があり湿度が約90 %と高かった事と倒壊した家屋が破壊消防の防火帯の役目を果たした事などにより、市民のバケツリレーでも容易に延焼を食い止める事ができ大火にはならなかった。液状化現象も見られた地域も存在し、山陰本線や因美線といった鉄道もこの被害を受けたため、長期間にわたって鉄道が不通になった。 福井地震昭和23年(1948)6月28日午後4時13分頃 M7.1坂井市丸岡町付近)を震源として発生した地震 福井空襲からの復興途上の福井市を直撃した都市直下型地震。福井平野のほぼ全域に甚大な被害をもたらし、隣の石川県内の被害も合わせると、死者は3,769人、負傷者は2万2000人以上、全壊した家屋はおよそ3万6000戸に上った。 最も被害が大きかったのは、福井県坂井郡金津町(現あわら市東部)、丸岡町および春江町(現坂井市南部)、吉田郡森田町(現福井市北部)で、各町のほぼ全戸が倒壊した。震央からやや離れた福井市内でも家屋の全壊率は79.0%、福井平野全域で全壊率は60%を超えた。都市部では火災による焼失で被害が拡大し、被災地域を流れる九頭竜川水系の堤防が地震による被害を受けた上、地震の約1ヶ月後の7月下旬に上流部で記録的大雨が降ったため、堤防が決壊するなどして水害が発生し、複合災害を引き起こした。 阪神淡路大震災平成7年(1995)1月17日5時46分52秒 M7.3明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源 近畿圏の広域が大きな被害を受けた。特に震源に近い神戸市の市街地(東灘区、灘区、中央区、兵庫区、長田区、須磨区)の被害は甚大で、近代都市での災害として日本国内のみならず、世界中に衝撃を与えた。 死者6,434名、行方不明者3名、負傷者43,792名。 住家は、全壊が約10万5,000棟、半壊が約14万4,000棟にものぼった。 そのほか事業所等の建築物や高速道路、鉄道、港湾、ライフライン等、多岐にわたっており、総被害額は約10兆円。とくに神戸市内の長田区など老朽木造住宅密集市街地での建物の倒壊と火災の被害が激しく、また、避難生活者も約31.7万人に上った。 トルコシリア地震令和5年(2023)2月6日にトルコ南東部を震央として発生した地震。南隣のシリアにかけて大きな被害が出ている。同日4時17分(日本時間10時17分)にトルコのガズィアンテプ県とカフラマンマラシュ県の境界付近を震央とする1回目の大きな地震(マグニチュード7.7 - 7.8)が発生し、同日13時24分(同19時24分)にカフラマンマラシュ県のエルビスタン地区で2回目の大きな地震(マグニチュード7.5 - 7.6)が発生した。 日本の産業技術総合研究所の分析によると、活断層によって地表が最大約9.1メートルずれたことが判明した。日本の観測史上最大の内陸地震である濃尾地震の約8メートルを超え、水平方向のずれとしては世界最大級。 これまでに死者は、トルコで4万4374人、隣国シリアで5914人とあわせて5万人を超える。現地ではいまも191万人以上がテントなどでの暮らしを余儀なくされている。 ます。 音の玉手箱
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