丹後の弥生期-日吉ヶ丘遺跡 他
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 日吉ヶ丘遺跡加悦町明石の蛭子山古墳のすぐ北隣の台地上にある弥生遺跡。巨大な墳丘墓が発掘され注目された。(資料は加悦町史やネットなどによる)。弥生時代中期中頃の大規模な方形貼石墓が発掘され、全国的注目をあびた。 以前は桑飼小学校グランド遺跡と呼ばれていた遺跡で、小学校改築工事等の際に出土した土器片の検討から、弥生時代中期後半期の遺跡である可能性が指摘されてきた。平成11年から14年にかけて実施された発掘調査の結果、弥生時代中期中頃から後半にかけて営まれた環濠を有する集落跡と、この集落の代表者を埋葬したと推測される貼り石を持つ大型の墳墓が発見され、主に、弥生時代中期中~中期末に形成された遺跡であることが判明した。集落の規模が最大となる時期は中期中頃で、その後、集落内に大型の墳墓が設けられるなどして、徐々に集落の姿を変えながら中期末まで存続した。飛鳥時代の遺構も認められ、後の時代にも生活の場と利用されたことも判明した、という。 注目の中心部の詳細図 『加悦町史資料編1』 集落の構造 日吉ヶ丘遺跡は、図1のように、東西約200㍍、南北約250㍍の台形の平面形を持つ。集落の最も外側に外環濠が巡るかどうかは確認されていないが、小学校校舎の東方で行われた改修工事の際に、溝状遺構と共に多量の弥生土器が出土したとの伝聞があり、存在の可能性が高い。
遺跡の立地する丘陵は、谷部に向かって分岐しており、北側尾根と東側尾根に分かれる。それぞれの丘陵先端部計二力所について調査が実施された。南側の調査地区を南地区、北側の調査地区を北地区として説明する。 弥生時代に属する遺構が顕著に検出されたのは、南地区である。丘陵中腹で環濠二条(SD01・02)をはじめ、竪穴式住居跡・掘立柱建物跡からなる建物群(竪穴式住居跡SH01・SH02・SH03・SH04・SH05・SH16、掘立柱建物SB01群・SB02群・SB03群・SB04)、方形貼石墓(SZ01)、方形周溝墓(SZ02)、柵列(SA01)などが検出された。検出された遺構から、遺跡の平面構造を概観してみよう(図1・2)。 首長居宅・村の管理する米倉・祭りの広場など、集落の中心にあたる場所は、丘陵の最も高い場所(現在、桑栞飼小学校グラウンドのある丘陵基部)に位置すると推測される。上記遺構の分布状況から、集落の主な機能は、南側の丘陵(南地区)にあったとみられる。西地区居住者は後述するように多数の鉄器を保有し、管玉生産など専業的とも言える手工業的生産活動を行ったことを確認でき、集落において重要な役割を担っていたと推測できる。建物跡群の南側で検出された柵列(SA01)にも注意が必要である。柵列は弧状に連なることから、円形に近い形状になるものと予測される。柵で囲まれた空間には、西地区で最も重要な建物跡が存在するかもしれない。これに対して、北地区は遺構が希薄であることから、居住区域とは異なる役割が与えられたと推測できる。 主な遺構の概要 西地区で検出された遺構は、環濠(SD01・02)、建物跡(竪穴式住居跡SH01・SH02・SH03・SH04・SH05・SH06、掘立柱建物SB01群・SB02群・SB03群・SB04)など、土壙群(図5上段)、集落を囲む環濠の一部(SD01・02)などである。 掘立柱建物跡群は、環濠集落の中心域に近い場所に配置された柵列SA01と環濠SD01の間に集中してみられる。竪穴式住居跡は、これらの掘立柱建物群と一部重なりを見せつつも、環濠SD01と環濠SD02間に集中する傾向を見せている。掘立柱建物跡群と竪穴式住居群は分布域を異にしており、性格の差異をうかがわせる。 環濠 SD01は、幅約三・一㍍、深さ約一、四㍍、断面字形の大溝である。日吉ヶ丘1期に掘削され、2期には方形貼石墓SZ01・方形周溝墓SZ02の周溝として利用された。日吉ヶ丘4期にはほぼ埋没する。SD02は、幅約三・一㍍、深さ約一・三㍍、断面字形の大溝である。日吉ヶ丘1期に掘削され、方形貼石墓SZ01・方形周溝墓SZ02の周溝として利用された日吉ヶ丘2期には埋没したとみられている。 墳墓(方形貼石墓SZ01・方形周溝墓SZ02) 環濠SD01と環濠SD02の間に構築された長方形の墳丘墓である。平野を望む丘陵先端に位置する。丘陵基部側は遺存状態が良好だが、先端側は削平されており、全形の詳細はわからない。 方形貼石墓SZ01は、SD01・SD02・SD07・SD08で区画し、長辺三二・〇㍍前後、短辺一九・四㍍から二〇・〇㍍前後の墳丘を形成している。北西隅は溝が途切れ、陸橋がある。斜面には、扁平な花崗岩を幅約一㍍の幅をもって貼り巡らせている。墳丘の南寄りの所に埋葬施設SX01が設けられていた。長さ五㍍、幅三・二㍍の墓坑に、組み合わせ式木棺が納められていた。木棺の長さは約二・一五㍍、幅約〇・八五㍍、深さ約〇・四㍍である。木棺内の調査では、赤色顔料と多量の管玉が検出された。管玉は木棺の北小口に六七七点以上がまとまって確認されており、頭飾りなど何らかの製品の一部に用いられていたと考えられている。日吉ヶ丘2期。国指定文化財。 方形周溝墓SZ02は、方形貼石墓SZ01の南に造営された方形周溝墓である。SD01・SD02・SD08で区画され、墳丘を形成している。南北長約二一㍍、東西長約一八・五㍍、高さは約一㍍である。墳丘中央付近に埋葬施設SX02が設けられていた。埋葬施設は、長さ約三・五㍍、幅約二・五㍍の長方形の墓坑の中に木棺が配置されていた。平面の確認のみであり、造営時期などの詳細は不明である。方形貼石墓SZ01の被葬者の権力を継ぐ者の墳墓であろう。 日吉ヶ丘の墳墓は長辺約32㍍、短辺約20㍍、残存高は周溝の底から2㍍余りで、墳丘斜面上半には平らな石を貼り付けていた。この規模は当時(弥生中期)は全国ナンバー2である。 ナンバー1は、吉野ケ里の北墳丘墓で、南北約40㍍、東西約27㍍以上の長方形に近い形と推定される。14基の甕棺が見つかり、ガラス製の管玉や有柄把頭飾銅剣が一緒に収められているものもある。 弥生後期になると、さらに巨大で、倉敷市の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)。 弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に造営された首長の墳丘墓。墳丘の各所から出土した土器片の多くが壺形土器、特殊器台・特殊壺の破片である。直径約43㍍、高さ4、5㍍の不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持ち、現在確認されている突出部両端の全長は72㍍。 貼石墓とは 丹後の貼石墓 丹後では舞鶴市の志高遺跡、京丹後市の奈具岡遺跡、小池墳墓群、与謝野町の日吉ヶ岡遺跡、寺岡遺跡、千原遺跡、宮津市の難波野遺跡でも確認されており、丹後地域の有力者の墓と考えられている。 この頃に日本各地に特色を持った墳丘墓が出現し、畿内では方形の盛土の周囲に溝を掘る方形周溝墓、出雲地域では方形の墳墓に四隅を突出させ、板石を貼る四隅突出型墳丘墓などがあり、丹後の貼り石慕は山陰との交流を物語ると考えられている。 「方形貼石墓概論」より↓ 出土物 古墳公園資料館の説明 日吉ヶ丘遺跡貼石墓
日吉ヶ丘の貼石墓は今から2200年~2000年ほど前の弥生時代中期につくられました、大きさは33m x 22mの長方形で、高さは2. 5mほどあったようで、周囲には幅5.5m、深さ1.3mの溝を巡らせています。また、墓の周りには一抱えほどもある大きな石を一面に貼り付けています。 墓の中央にある木棺跡からは、当時貴重だった朱と碧の管玉が677個以上発見されました。 さて、弥生時代中期に墓の周囲に石を貼るという風習は、山陰地方独特のもので、中でも丹後で多く発見されています。また、墓の周囲には幅5mを越えるような溝を掘っており、このように墓の周囲に溝を掘るという方法は近畿地方中央部の墓で多く見られるものです。 このように、本遺跡の貼石墓は、近畿中央部と山陰の要素が混ざり合ってできた墓で、弥生時代中期の丹後に存在した王の墓と考えられます。 『加悦町史資料編1』 方形貼石墓の墓坑から七〇〇点近い管玉がまとまって出土している。図はその一部である。直径一㍉前後、長さ〇・六㍉~〇・八㍉前後の細くて小さな管玉が多い。当遺跡でも管玉製作をしていたことが判っているが、もう少し大きく、このように多量の管玉を製作したことは考えにくいことから、この資料については、他地域の玉作専門集団が製作したものを入手し、埋葬したものと考えられている。
朱については論が見られないが、高濃度の辰砂のようで、これもたぶん、他地域のものであろうと思われる。 鉄と玉 鉄器類(図12下段) 弥生時代集落に伴うと考えられる鉄器・鉄片が二一点と銹片や細片化しか鉄片が出土した。鉄器には、鋳造品と鍛造品がある。
鋳造鉄器(87~96) 87は、鋳造鉄斧である。88は鋳造品で、一字形鋤先などの農具の先端が遺存したもの。89~91は鋳造鉄斧か。93は、不明。94・96は、木柄を装着した鑿か鏨のような工具と考えられる。 鍛造鉄器(97~105) 97は刃部が撥形に短く広がる袋状鉄斧である。98は袋状鑿である。99はヤリガンナの可能性がある。100は、小形の鑿あるいはヤリがンナ。101は、ヤリガンナの刃部の可能性がある。103は、ヤリガンナか。柄部に樹皮紐が巻かれている。104は、板状鉄斧。105は、広根柳刃式の鉄鏃である。 その他の鉄器(106) 106は、鍛錬鍛冶にみられる滓の一部か、鞴羽口の溶融部分である。この遺物は、弥生時代中期にこの遺跡で鍛造鍛冶が行われていたことを証明する遺物として重要なものである。 管玉未製品(109~113) 109は、碧玉原石を分割する工程のもの、111は、分割して四角柱としたもの、110・112は、それを研磨調整して形を整えたもの、113は、研磨して円筒形とし玉錐で孔を開ける途中のものである。 寺岡遺跡日吉ヶ丘も巨大ではあるが、そこより北東3㎞ばかりのところにある、野田川町寺岡遺跡ではに33×20㍍mという墳墓に大きな石を貼りつけた巨大貼石墓が知られていた。日吉ヶ丘よりも少し大きいではないか。日吉ヶ丘よりも10年ほど早く発掘調査が行われている、現在は農地になって消滅。野田川町寺岡遺跡のSX56は長軸33メートル、短軸20メートルを測る長方形プランを呈する。墳丘の造成は、四周に溝を巡らし一端を陸橋状に削り残す。埋葬施設は3基が確認され、中心に位置するものは長軸6.7メートル、短軸4.2メートルを測る素掘の墓壙内に長軸3メートル、短軸1.4メートルを測る箱形木棺を納める。副葬品はない。築造年代は弥生中期後葉という、日吉ヶ丘より少し遅れる。 『寺岡遺跡(野田川町文化財調査報告2)』 方周搆墓SX56は、第14トレンチで検出された南北に長い長方形プランの方形周溝墓である。溝心心間で計測した規模は、南北33m、東西20mを測る。調査で確認できたのは、西辺と南辺の周溝、北辺と東辺の周溝の一部と、主体部3基である。北東部は階段状に下がる水田面および道路となっていて、遺構は遺存しないものと判断される。
周溝は、最もよく残っていた西辺中央部で幅4.3m、深さ90cmを測る。南西隅部が途切れているが、削平によるものではなく、陸橋部を形成するものと思われる。溝内には、小児人頭大以上の大きさの花崗岩の自然石が散乱していたが、最も残りの良い西辺で観察したところ、墳丘側斜面に限って散乱していることがわかり、貼石を伴う方形周溝墓の一例となることが判明した。ただし原位置をとどめるものはみられないことから、貼石は、流失して現存しないが墳丘斜而の上位にあった盛土部分に施されていたものと推測される。西辺周搆の埋土は上下2層に分され、下層は暗灰色粘質土で水分の多い泥土状を呈している。弥生中期から古墳時代にかけての遺物を極く少量含む。上層には各時代の遺物を含むが、飛鳥時代から平安時代に至る歴史時代の遺物を比較的多く含む。南辺周溝内西部、土層観察用畔付近から出土した弥生土器1個体は、完形に復元しうるもので、供献土器の転落品とみなしうるものである。 第1主体部は、墳丘のほぼ中心部で検出された、南北方向に軸をおく木棺直葬墓である。底面の平らな一段墓壙を掘り、その底面中央にH字形に板材を組み、周囲を裏込め土で充填して棺身とし、埋葬の後蓋板を架け埋め戻す構造のものである。墓壙の規模は、長さ6.7m、幅4.2m、深さ53cmを測る。木棺は、総長3.85m、幅1.4m、高さ25cmの規模をもつ。棺に使用された板材は、西側板が長さ3.85m、幅40cm、厚さ45cm前後、東側板が長さ3.8m、幅40cm、厚さ30cm前後の重厚なものであったこと、土色変化などから判明した。木口板の厚さについては検証できなかったが、側板に近い厚さを想定した場合、埋葬空間となる棺の内法は、長さ2.5m、幅65cm、深さ40㎝前後を推定復元することができる。棺内の副葬品、墓壙内の供献土器等の伴出遺物は皆無であった。 第2主体部は、第1主体部の南東側で確認された南北方向に主軸をおく土壙墓である。長さ3.4m、幅1.5m、深さ14cmを測る。後述する第3主体部の状況などから、木棺を伴う可能性は極めて高いが、残存部分がわずかであったため、調査では木棺痕跡を確認することはできなかった。伴出遺物は皆無であった。 第3主体部は、第1主体部の西側で検出された、南北方向に主軸をおく木棺直葬墓である。長さ3.2m、幅1.2m、深さ28cmを測る墓壙内に余裕なしで納まるH字形の木棺を埋納したものである。木棺の側板は長さ2.85m、厚さ20㎝を測る。棺の内法は、長さ1.7m、幅55cm前後と思われる。北側木口部の裏込め土上面から供献土器と思われる弥生土器1個体分が出土した。 玉作り 本遺跡出土の石器のうち、量的には磨製石斧と、玉砥石が多く出土した。
磨製石斧について見てみると、凝灰質泥岩など極めて軟質の石材を使用し、製作されているが、これは、本遺跡に限られたことではなく、丹後地方を中心とした地域にその分布の傾向が見られる。なぜ、このような軟質の石材が用いられたか、石斧の使用法をも含めて、今後検討を要する問題である。 また、玉砥石多数のほか、碧玉原石も今回検出されており、ごく小規模ながらも、本遺跡で玉作りを行なっていたこととは間違いなく、峰山町の途中ヶ丘遺跡などと共に、日本海側の玉作り文化を考えていく上で、貴重な一資料を得ることができた。 音の玉手箱
Dvořáks 9. Symphonie «Aus der neuen Welt» - 4. Satz |
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