![]() ![]() ![]() ![]() |
七夕行事
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
![]() ![]() 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 七夕行事![]() ![]() 七夕の起源 中国に源を発する七夕伝説は、 中国文化の影響を強く受けた朝鮮半島、 日本、ベトナムなどに伝播し、 3000年後の現代にまで伝えられている。 七夕伝説は、 愛し合う牽牛と織女 (伝説によって名前は異なる) が、 天帝の怒りに触れ離ればなれにそれるが、 年に一度、 七月七日の夜にだけ会うことを許された、 という物語。 中国において、 「織女」 「牽牛」 の名が見えるのは 『詩経』 の小雅が初出と言われる。 七夕伝説は 『 日本でも 『古事記』 や 『万葉集』 にすでにその物語などが詠み込まれた歌を見ることができるように、 中国周辺の各地に伝わった時期は古い。 七夕伝説は現代にまで伝えられてきたという長い時間の経過の中で、 それぞれの地域地域の文化風土風習などと習合混合し、変容し、この時期の総合伝統的祭事のようなものになっている。 中国発の七夕だが、在来の何とも習合していない「純粋な七夕祭」を見ることは、民俗風習としてないのではなかろうか。 ![]() 七夕の伝統的行事 『大江町誌』 七夕は今も残る行事だが、昔は現在とは全然比較にならぬほど盛大な行事であった。七夕は後世のアテ字で、もとは棚機であったのだろうといわれている。昔は笹竹を二本立てて色紙をつるした。この色紙に字を書くとき里芋の葉にたまっている水を早朝にあつめ、これで墨をすって願いごとを書いた。里芋の葉にたまった水を墨をすって字を書くと、字が上達すると信じられていた。この笹竹の間に新竹を横むきにくくりつけ、それに、ナス、トマト、キュウリなどいろいろな野菜をさげて供える。
七夕さんは初物が好きなので、他人の畠から盗んででも初物を供えるのだと伝えた。そして各戸でソラマメを煎った。夕食がすむと子供たちは各戸の七夕をみて廻り、ソラマメをもらって歩く。一升も二升ももらってくる子もあって、これを醤油こうじの材料にした家もあった。翌朝、朝早く起きて七夕の飾りつけを川へ流しにいった。 以上が昔、大江町でみられた七夕の風習であった。七夕当日は、少しでも雨が降るとよいといい伝える。この日は、井戸やみぞさらえをする日というのも伝わる。これは夏越の禊祓と関係をもつ風習だったのではないかと思われる。 ![]() 初生の野菜をつるす、ブドウ、イネ、カキ、オクラ、ナス、イチジク、トマト …吊るす野菜や穀類に特に決まりはありません。 ![]() ★今年は8月2日が旧暦七月七日にあたり、2日の朝、らんぷの家に播磨地方の七夕飾りを立てました。2本の笹飾りの間に1本の女竹を渡し、そこに、色づき始めたホオズキ、やっと穂が出始めたイネ、初生りのカキ、クリ、イチジク、そしてナスやキュウリやトマトなど、畑の野菜をそれぞれ一対にして
吊るすものです。これは、播磨地方だけではなく、但馬や丹波地方の農村部にも見られ、昭和30年代頃までは広く知られていた七夕飾りです。
![]() ★“七夕さんはハツモン喰いやから”と明治生まれのおじいさんたちは言いました。秋の豊作祈願でもあり、また、かつての「盆棚」の名残りとも考えられます。
★江戸時代後期の随筆『守貞謾稿』などを紐解くと、お盆の一週間前くらいに準備をする精霊棚には、初生りの野菜をそれぞれ一対にして、吊るし供えている様子が見えるのです。 七夕はこうした行事↑でなかったかと思われるが、 多くは失われて、今は幼稚園の祭になってしまった様子で、元が何で何が失われたかもわからないほどに失われている。 棚機とは中国の織女も天ノ川と関係がありそうだが、日本は棚機姫といっている。棚機は古い日本の禊ぎ行事で、乙女が着物を織って棚にそなえ、神さまを迎えて秋の豊作を祈り人々のけがれをはらうというもの。 選ばれた乙女は「棚機女(たなばたつめ)」と呼ばれ、川などの清い水辺にある機屋(はたや)にこもって神さまのために心をこめて着物を織ります。そのときに使われたのが「棚機」(たなばた)という織り機です。 やがて仏教が伝わると、この行事はお盆を迎える準備として7月7日の夜に行われるようになりました。と、一般にいわれる。 ![]() 「棚」は、店棚の棚が一番よくわかる、元々は地面の上に商品を並べていたのであろうが、見世棚(タナというか台というか)を作ってその上に商品を並べるように発展したものであろう。大きな店をタナといい、小さな店をミセという。ここから起こった言葉であろう。 元々は地面に織機を置いて織ったのであろうが、やがて棚(台)を置いてもその上に織機を置いて織るようになる、棚(台)の上に機織機を置いて織るのを棚機と呼ぶのだろう。 今はまったく見ることはできない棚機姫の想像の復元図 ![]() ![]() 棚機姫の場合は、川の上や川のふちに棚機を置いて織っている。川と関係がある。 常世の国と七夕川の神、水の神の織物を織る巫女といわれるが、川が意識されているようで常世思想との習合が感じられ、元は常世の神を祀ったものであろうか。そのための織物であったと思われる。常世国は丹後でも信じられていた。天橋立=常代の浜 ![]() 『丹哥府志』 異名 錫杖嶋、白糸浜、万代の浜、六里の松、海橋立、六里洲、天路通橋、仙洲、天橋、浮嶋、浮橋、内外の浜、如意嶋、天の浮橋、常代の浜、久志の浜
常世橋・常世浜(伊根町本庄浜) ![]() 筒川の河口に架かる橋。この先の海に常世の国がある、のであろうか。浦島太郎の鯛釣り島がある。 常世の国は、 死者の行く永遠の世界。黄泉の国。海のかなたにあると考えられた不老不死の国。と一般には説明されるが、もっと内容がありそうな国である。常世の浜↓ ![]() 『日本書紀』雄略二十二年条 七月に、 書紀では七月となっているが、七月七日に、この海岸↑から浦島太郎は龍宮へ行ったとする伝えもある。 常世浜(=夕日浦)(網野町浜詰) 『丹後国竹野郡誌』 夕日浦 一名常世浜
![]() 但馬国司、田道間守という人が、垂仁天皇の命をうけ、常世国へ、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めに出かけたということは「日本書記」の垂仁天皇九十年に記されている。田道間守が、十か年もかかって香菓を持ち帰ったのは今の浜詰の海岸で、函石浜に近い清水岩あたりだと言い伝えているそうで、このあたりの海岸が常世の浜と呼ばれる。 棚機姫の川は常世の国に通じる川であり、常世は海のカナタにあると信じられた、そこは死者の先祖の国である→精霊(燈籠)流し、精霊船。 ![]() ![]() 世の中は死の国だけではどうにもならない、生の国、時の流れを逆転させて若返る国というものもあるはず、生があってはじめて死もあるはずなのだが、常世国は、これからこの世に生まれてくる次の命がある国でもあった、げんに産屋は川や海のふちにあり、現世に存在するあらゆる物の死と生成の国である。 またナスやイモも生まれ、織物の元が生まれてくる国でもあった。害虫もケガレもヨゴレも生まれてくる国であった。川べにある産屋↓ ![]() ![]() ![]() 虫送り↑ 「稻の虫送ろや、沖の島まで、送ろや」 と唱えながら歩く。舞鶴あたりでは新暦の7月7日に近い夜である。沖の島とは常世国であろうか。 歌垣・嬥歌と七夕攝津歌垣山(大阪府豊能郡能勢町倉垣)![]() 「摂津国風土記逸文」 歌垣山 攝津の國の風土記に曰はく、雄伴の郡。波比具利岡。此の岡の西に歌垣山あり。 昔者、男も女も、此の上に集ひ登りて、常に歌垣を爲しき。因りて名と爲す。 筑波山(茨城県つくば市) ![]() 「常陸国風土記」 それ筑波岳は、高く雲に秀で、最頂は西の峯崢しく嶸く、雄の神と謂ひて登臨らしめず。唯、東の峯は四方磐石にして、昇り降りは峡しく屹てるも、其の側に泉流れて冬も夏も絶えず。坂より東の諸國の男女、春の花の開くる時、秋の葉の黄づる節、相携ひ駢闐り、飲食を齎?て、騎にも歩にも登臨り、遊樂しみ栖遲ぶ。其の唱にいはく、 筑波嶺に 逢はむと いひし子は 誰が言聞けば 神嶺 あすばけむ。 筑波嶺に 廬りて 妻なしに 我が寢む夜ろは 早やも 明けぬかも。 詠へる歌甚多くして載車るに勝へず。俗の諺にいはく、筑波峯の會に娉の財を得ざれば、兒女とせずといへり。 杵島山(佐賀県杵島郡白石町) ![]() 「肥前国風土記」逸文 杵島山 杵島の縣。縣の南二里に一孤山あり。坤のかたより艮のかたを指して、三つの峰相連なる。是を名づけて杵島と曰ふ。坤のかたなるは比古神と曰ひ、中なるは比賣神と曰ひ、艮のかたなるは御子神(一の名は軍神。動けば則ち兵興る)と曰ふ。郷閭の士女、酒を提へ琴を抱きて、歳毎の春と秋に、手を携へて登り望け、樂飲み歌ひ舞ひ て、曲盡きて歸る。歌の詞に云はく。 あられふる 杵島が岳を 峻しみと 草採りかねて 妹が手を執る。(是は杵島曲なり。) 祖神祭であったと同時に、子孫を迎える祭でもあったと思われる。 どうしたことかといえば 万葉集に130首を越える七夕に関連する歌がある。 山上憶良の七夕の歌 1518: 天の川相向き立ちて我が恋ひし君来ますなり紐解き設けな 4311: 秋風に今か今かと紐解きてうら待ち居るに月かたぶきぬ 『懐風藻』(751年)にも 大宰大貳正四位下紀朝臣男人。五言 七夕。 犢鼻標竿日 隆腹曬書秋 風亭悅仙會 針閣賞神遊 月斜孫岳嶺 波激子池流 歡情未充半 天漢曉光浮 「歡情未充半 天漢曉光浮」の最後の句から押して、「犢鼻標竿日」らの意味は汲むべきものであろう。文学作品だから、実際はこの通りであったかは別としても、七夕の夜の下界は、だいたいこうしたことであったのかも知れない。天上界の男女だけの逢瀬の日ではなかった。 歌垣と七夕が一緒になった地域や時代もあったのであろう。 今だったら道学先生どもばかりでなく日本人大方が腰抜かすことであろう、オカゲかどうか、出生数は死亡数を下回りつづけて、日本が自壊消滅する日はそう遠くない、田舎はもっともっと早く訪れよう…どちらが高いモラルを持つかは決めがたい 外国の例 現代では主に中国南部からベトナムを経て、インドシナ半島北部の山岳地帯に分布しているほか、フィリピンやインドネシアなどでも類似の風習が見られる。 現在も雲南省のペー族、チンポー族、イ族、雲南省のミャオ族(花山節)、広西チワン族自治区のチワン族などで祭事として盛んに行われている。(Wikipediaより) ワレラの遠い祖国の地と習俗がわかるようなことである。 盆踊りは歌垣の遺風を残すのかも ![]() ![]() 夜這も これも最近まで残っていた風習であった。道学先生著になるのか市史などは決して取り上げることはないが、例えば 『倉梯校百年誌』 友二郎 風紀の矯正などにもとりくみました。自分が(青年)団長のころ、「夜這い」の風習をなくするのにも努力しました。これが矯正されたのはこのあたりでは早い方やったと思います。
(友二郎氏は明治38年倉梯校卒というから、明治の終わり(1912)くらいまでは夜這いの風俗はあったと見てよく、遠い大昔の習俗ではない。Wikipediaは明治政府のモラルがないの弾圧によるという。何百万と殺した政府や政治屋が不道徳呼ばわりするものとは) 行事の習合・混合と派生盆と七日盆 盆は盂蘭盆という祖神を祀る仏教行事で、インドあたりから中国、朝鮮を経て伝わってきた行事。7月15日くらいを中心に行われる、7日はその始まりの日である。 ササブネで何を流すのか ![]() ミソギハライ・川裾祭・水無月祭・虫送り・人型流し・眠り流し 東北地方のねぶたも竿燈も七夕も、7月7日の夜に川や海に穢れを流す灯籠流しや灯籠送りが変形したものと考えられている。 七夕行事のひとつに、秋の収穫前に労働の妨げとなる睡魔を追い払うため、人形などの形代に睡魔を委ねて祓え流す「眠り流し」という習慣があり、これがさまざまな祭りになって発展しました。ねぶたは「眠たい」の方言の「ねぶたい」が訛ったものと考えられている。 浦島太郎・乙姫と七夕の関係 網野町浅茂川の川裾祭。水無月神社の祭礼として毎年行われる、丹後最大の夏祭。7月の末、浅茂川の河口にある水無月神社(左奥) ![]() ![]() 氏子圏中の不浄物を集めた重いミコシが浜へやって来る。 海中に建てられた神棚のようなもの。これが常世国の入口であろう。何という神が祀られているか不明だが、祓戸の神であろう。 ![]() ![]() 浦島太郎は龍宮城へ行ったのではない。蓬莱山(日本書紀)・蓬山(風土記)に行ったと書かれている。龍宮へ行ったとするようになったのは後世のものであるが、浦島太郎は乙姫を連れて帰って来ないことには意味がない、玉手箱をもらって一人で帰って来るのは後世の過伝ではなかろうか。乙姫こそが常世国の生成豊穣の女神であり、彼女をこの世に迎えるめでたい物語が本来のスジでなかろうか。 ヨゴレやケガレをすべて流して(川裾祭の前段)、入れ替わり清浄な聖地に彼女を迎えたと思われる。そうして盛大な本祭(丹後最大の夜祭・花火大会)が行われる。 ハナシとしては何も伝わらないが、ワレラは皆この乙姫様の子孫である。祭典の流れから遠い先祖たちの失われた物語を推測してみるだけである。 星の混同 丹後の場合は七夕伝説は豊受大神と関係している。豊受大神は乙姫のような生成豊穣の神であるが、天から降りてきた神とされて、海の彼方の神の乙姫とは別とされたのであろう。しかし7月7日を祭日としているように、古くから習合混合が見られる。これは同じ星祭の関連によるものであろうか。 豊受大神の前身とみられる豊宇賀能売命は天の八乙女の一人とされ(比治山の頂の真井に降った八人の天女の一人)、それは北斗七星の1つの星とされる。豊受大神は北極星(太一)と見られる。 北斗七星や北極星と織女星とは別の星だが、いつのうちにか、混同されたのであろうか。 ![]() 伊勢神宮の式年遷宮用の用材が送られる。「太一」とあるのは「伊勢神宮」を意味している。 ![]() ![]() ![]()
|
![]() ![]() 資料編の索引
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Link Free Copyright © 2025 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com) All Rights Reserved |