丹後の地名プラス

そら知らなんだ

七夕伝説
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -110-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
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伝承郷土芸能③
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米騒動①
米騒動②
七夕行事
七夕伝説





少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上タイムリミット上言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

伝説の混合


丹後の七夕伝説といえば、これ一択。
これはこれで興味引かれる伝説だが羽衣伝説と一緒になっている。

『峰山郷土志』
七夕伝説の織女
 牧畜、農業とならんで、郷土産業の双璧となるものに養蚕と絹織物がある。五箇地区のが大路部落(大呂とも)に伝わる七夕(田畑、棚機とも)伝説は、比治山伝説ほどの風格は持だないが、庶民の生活にとけこんだ生々しいテーマに、かえって親しみがもてるし、みのがしがたい意昧がある。
 この伝説のあらましは、
―比治の里に三右衛門(さなねも)という狩人があって、ある朝、山頂の池(女池、雌池)で水俗する八人の天女を発見し、そのうちの一人の羽衣を奪って天女と同棲して、三人の女児をもうけ、農業、養蚕、機織の業をひろめたが、天恋しさにたえかねた天女は、子供から羽衣のかくし場所を聞き出し、大黒柱の中にかくしてある羽衣をとり出すと、軒先の夕顔(ゆうごう)(干瓢=瓜の一種)の蔓をよじのぼり、外から駈けもどって来た三右衛門に「七日々々に会いましょう」と再会の日を約束して昇天して行くという筋書で、七日々々が七月七日と聞き違えられたのは、「あまのじゃく」という悪神のいたずらからであった--という。
 -また三右衛門は、天女を慕って夕顔の蔓をよじて天上にのぼり、天女に会い、天の川の架橋を請け負った。しかし、この工事が完成するまでは、天女のことを思い出してはならないという約束であったが、予定の七月七日が来て、橋がほとんど出来上がったとき、三右衛門は、天上にとどまり天女といっしょに暮らせるよろこびに、ふと天女を思い出した。と、たちまち洪水が出て、橋はおし流され、三右衛門は下界へ迫いかえされた--という後日物語がある。
 この伝説は、棚機とも、田畑とも書かれ、同じくタナバタと呼ばれているが、前半は比治山伝説をかたどり、後半は中国の牽牛、織女の伝説である七夕の星祭りに終っている。その後、三右衛門の家には代々美女が生まれたので、その美系にあやかるため、毎年七月六日、七日の祭りには、遠近をとわず参詣する人々で賑わったというが、現在でも大路の「三右衛門の家」では、毎年七月六日から七日にかけて盛大な七夕祭りが催され、この日を限り宝物の古い矢と矢筒、および牽牛織女の画軸などが展観される。宝物の展観は全くこの二日間を限るので、そのおきてを破ると、たちまち暴風雨におそわれるといって戒められている。
 また、この天女がはじめて稲(水稲)の栽培を教えたので、五穀の神、すなわち田畑(たなばた)の神として祭るのであると解釈されてはいるものの、祭りの形式からみると星祭りに近く、織物など婦女子の技芸の神として織女をお祭りしていることになる。一般に七夕伝説と呼ばれているのも無理ではない(現在祭日。八月六、七日)。
 これに似かよった伝説は、たしか琉球にもありて、組踊り(くめおどり=琉劇)にも仕組まれていたと思うが、琉球の天女も三人かの子供を産み、やはり子供に教えられて積み藁の中にかくしである羽衣をとり出して昇天するといった筋書であったと思う。もちろんこれは中国の『捜神記』の一節から取材したものであるが、また丹後の七夕伝説ともよく似ている。
 羽衣伝説-むつかしくいえば白鳥処女伝説の部類に属するわけで、こうした伝説は世界各国にいろいろと形を変えて伝えられている。
 なお、この伝説のもととなっている八人の天女の中の一人が、いわゆる豊宇賀能売命で、五穀養蚕の神であったことについては、『日本書紀』巻一に、 --軻偶突智の神が埴安姫と結婚して、稚産霊をお産みになりました。この神の頭の上に蚕と桑が生じ、臍の中に五穀ができました。--と、あり、また、一書には、-この和久産巣日神(稚産霊)が豊宇気毘売命である。--としている。
 頭に蚕と桑を生じ、腹の真中に五穀ができたという話は、同書中の、月読見命に切り殿された保食神の話とよく似ており、これを実際にあてはめてみると、丘陵山麓地帯に桑を栽培して蚕を飼い、水まわりの悪い畑地に粟や稗をつくり、腹の中心すなわち平坦耕地に水田を開いて稻を植えたことを裏書きしていることになる。これをさらに日本全土にあてはめ農産業の分布を考えるならば、奥羽、関東、中部、近畿、中国、四国、九州と一層興味深いものとなる。
 ところで、日本で初めて桑を植えたのは、豊受大神を伊勢の度会にお移しする六年前、雄略天皇即位十六年(四七二)とある。その十二、三年後、第二十三代顕宗天皇の頃に、絁(あしぎぬ)という絹織物がつくり出され、竹野郡から献上した絁が正倉院御吻の中に保存されていると聞くし、また第五十八代光孝天皇仁和三年(八八七)には、「丹後の国の貢物の絹は、特にはなはだしく粗悪であると、朝廷からお叱りを受けた」という記録が、『縁城寺年代記』に残っているから、調貢の中に、すでに絹織物が加えられていたことが想像されるし、さらに、豊宇賀能売命が真名井原におくだりになったのが七月七日であり、勅使大佐々命がお迎えにみえたのも、年代こそ変われ、同じく七月七日であるというから、大路部落の七夕伝説が、そっくり中国の焼きなおしであるとは考えられない。
 しかし、現在伝えられている行事だけをみるならば、星祭りの匂いが非常に濃いといえよう。この時の神話、伝説のほとんどが、中国文化の彫響を受けていたということでもある。

『峰山郷土志』
【田畑(たなばた)の家】大路、『丹後風土記』の比治山伝説にちなんだ七夕伝説についてはすでに述べた。この地は昔、三家(さんか)の里(二箇村にも同じ口碑)ともいい、天女を妻にした三右衛門は千軒長者ともいうから、大呂千軒(六十軒のこと)の大部落であったろう(一説、千軒長者は、天女を養女とした和奈佐であるともいう)。真名井の豊宇賀能売命(田畑、棚畑の神)に関する伝説によると、真名井原に天降られたのが崇神天皇三十九年七月七日であり、勅使大佐々命によって、伊勢へ迎えられたのが雄略天皇二十二年七月七日で、「七月七日」に縁の深いところから、中国の牽牛織女星の七夕伝説と混同されたものであろう。田畑の家と呼ばれる三右衛門の家(安達姓)では、田畑の神をまつるといりて、毎年七月六日の夕から七日にかけて祭事を行ない、美貌の女児をさずかるよう参詣者が多かった。竹の笹に「天の川」など書いた色紙を結び、一般の七夕祭り(星祭り)と変わりないし、宝物中の掛軸も、牽牛織女の画である。また、三右衛門が狩に用いたという熊の毛皮の矢筒と矢などが保存されているが、鎌倉時代のものであるという。

『丹後の民話』(萬年社)
三ネモと七夕様
”天女の羽衣”と”七夕様”のはなしは、実はひとつのもの…

 むかしむかし大呂に、三ネモ(三ヱ門)と、いう若い猟師がおったそうな。ある夏の、暑い日に何かいないかと思って、足占山ちゅう山の、その頂上ふきんに、水の溜った穴があったそうなが、その池には、よう鳥がつくので、今日も何かがいると思って、えっさえっさ登ってみると、どうだろう。池の近くの木の枝に、見たこともないきれいな、きれいな着物らしいものがかけてあるだそうです。三ネモは、正直者ですので、他人の物など盗ったりすることはなかったが、あんまりきれいなものですので、つい持って帰って見とうなった。そこで、手で取るのは悪いと思って、鉄砲の先に引っかかったようにして、知らん顔をして、木の下を通ったら思ったように、きれいな物が鉄砲の先に引っかかってきた。おお急ぎで三ネモは我が家に帰って、そのきれいな物をどこかにかくした。
 池で泳いでいたのは美しい天女の七夕様で、水から上って、着物を着ようとしたら、着物が見当らん。「はてなおかしい。ことだな。いま通つたのは、三ネモだったが、あれは正直者だで、人の物を盗るような男ではないし、そうかというて、風に吹きとばされたようにもないし。着物がないと、天に帰ることができんし、困った事になった。どうしようか」と、考えこんでしまった。そうして、 「そうだ。三ネモを調べて見てやろう」ときれいな娘さんに化けて、三ネモの家にやってきて。 「私をこの家においてくれ」とたのんだ。三ネモも、一人ぐらしだし、なにかと不自由しているときだったし、きれいな娘さんなんで「よしよし」と、二つ返事でこの娘さんを家におくことにした。そうしてこの娘さんに、嫁さんになってもらった。
 嫁さんになった天女は、いろいろと考えて、家の内を調べてみるが、羽衣は見当らん。そのうちに子どもができて、三つにもなった。
 ある日、その子どもに、「お父っさんは、毎朝、神様を拝んでおるが、どこを拝んどるか」と、聞いてみたら、子どもが言うには「表の床の柱を拝んでおる」いうので、主人の出て行ったあとで、床の柱をよう調べてみたら柱の下の所にわからんようにして、込木がしてあった。おかしいおもって込木のところをはずしてみたら、その中に探しておった羽衣が入れてあった。喜んだ天女は、これさえあれば、天に帰れる。と、喜んで、書き置きをして、三ネモにあてて「もし私に会いたいのなら、千荷のまや肥の上に、この種子を蒔いて、つるが延びたら、それを伝わって、来てほしい。実は、私は、天女でした。羽衣が見つかったので、天上に帰ります」と、書き置きをして、羽衣を着て、ひらひらと、天に帰ってしまったそうです。仕事から帰ってきた三ネモが、この手紙を見て、きれいな女だと思ったら、天女だったのか、そんなら、なおのこと別れてなるもんかと、村中をたのんで、千荷のまや肥を積み重ねて、その上に、残してくれた種子を蒔きつけた。それはゆうごう(かんぴょう)の種だった。
 すると、ほどなく種子は芽を出し、つる草が、天に向って、どんどんと、伸びて行って先の方は雲よりも高う高うなった。これを伝って行けば、天に昇れるにちがいない思った三ネモは、つる草の葉の元に、足をかけては、えっさ、えっさと、のぼって行った。何日のぼったか、どれだけ登れたか、わからんほどだったが、とうとう天上にのぼり着いたようなんで、三ネモが、天上に姿を現わすと、七夕さんや、天人達がおおぜい集まってきて「ようまあ、ここまで無事に来られたなあ」と、みんな喜んで迎えてくれた。「それでも、お前がきてくれても、何もしてもらう仕事がないが、瓜畑の番人でもしてほしい。しかし、なんぼ瓜があからんでも、とって食うことはならんで」と、いうことで、毎日、毎日、瓜畑の番人をしておったが、あんまり、うまそうな瓜が、ようけなっとるもんで、一つ位は、とって食っても、わからんだろうと思って、一つとって食って見たら、ほんまに、うまいうまい瓜だったんで、も一つぐらいは、と思って食っとったら、にわかに、大洪水となって、三ネモは、どんぶり、どんぶり流されてしまった。
 それを見た七夕様が、三ネモに向って、「七日七日に会うでー」と叫んだが、そうしたら、悪魔がおって、「七月七日に会うでえ」と、とり次いだんで、七夕さんは、年に一度、七月七日の晩に、三ネモと会う事になり、三ネモの流された川は、天の川となって、今も天に残っとると、いうはなしです。ほんで大呂の七夕様の家には、残された子どもの子孫が今もつづいているそうな……。    (長岡・堀 かつ様より)

『磯砂山の昔ばなし』
その二は、峰山町五箇の比治山の麓、大路地区に伝承され語り継がれてきた話で、天女と夫婦になった猟師の家系を継ぐという家があって、今も羽衣伝説に関わる七夕祭りの催しが続けられているというものです。
 むかし、峰山の比治の里に、さんねも(三右衛門)という若い狩人が住んでいました。
 ある夏の朝、さんねもは、いつものように、狩りに出かけて、比治山の頂上近くまできました。すると、なんともいえないいい香りと、不思議な音楽が聞こえてきました。近寄って見ると、池で水浴びをする八人の天女がいました。そして、近くの木の枝には美しい羽衣が掛けてありました。さんねもは、その羽衣の美しさにひかれて、一枚を抱えると、いちもくさんに家へ帰りました。そして大黒柱に穴をあけその中に隠してしまいました。
 池からあがって、羽衣が無くなっているのに気がついた天女は、天へ帰ることができず困ってしまい、さんねもを訪ねてきました。そして、「わたしの羽衣を返してください。」と、たのみましたが、さんねもは「いいや、大切な家の宝にするんだ」と、いくら天女がたのんでも返してくれません。
 天女は、とうとうあきらめてしまいました。そして天女は、さんねもの嫁になり、美しい三人の娘も生まれました。
 天女は美しいばかりでなく、蚕飼いや機織り、米づくり酒づくりとなんでもたいへん上手でした。比治の里の人びとは、驚いたり感心したり、そして、天女からいろいろと教えてもらいました。幸せなさんねもは、毎日狩りに出かけ、いっしょうけんめい働きました。
 天女のおかげで、比治の里はみるみる豊かになり、人びとはとても幸せに暮らせるようになりました。秋には稲穂がゆれ、どの家からも機を織る音がして、美しい音楽のように風にのって聞こえてきました。 しかし、天女は天が恋しくてたまりません。
 ある日、さんねもが狩りにでかけた後、とうとう娘たちに、「父さんは毎日どこを拝んでおられるの?」と尋ねました。娘たちは大黒柱を指さしました。
 天女は、大黒柱の穴の中から隠されていた羽衣を探しだすと、娘たちにこれまでのわけを話し、さっそく羽衣を身にまとい、大空へ舞い上がりました。
 駆け戻ってきたさんねもに、天女は「七日七日に会いましょう」と言いました。その時、様子を見ていたあまのじゃく(天邪鬼)が「七月七日にあいましょう」と、さんねもに伝えてしまいました。
 悲しむさんねもの手には、天女からもらったゆうごう(夕顔)の種がありました。さんねもは、天女が恋しくて会いたくてたまりません。
 もらったゆうごうの種を蒔いて天女をなつかしんでいると、なんとゆうごうのつるは、天にむかってどんどんと伸びていきました。天女に会えるかもしれないと、さんねもはつるをつたって天まで登っていきました。つるは天までとどいていました。さんねもは天まで登りきりました。見ると、天女たちが、楽しそうに舞い踊っている美しい天上の世界です。そして、妻の天女が寄ってきていいました。
 「せっかく来てくださったのですから、天の川に橋をかけて下さい。けれど、かけ終るまでわたしのことを思い出してはいけません。そうしたら、あなたといっしょに暮らすことができます。」さんねもは喜んで、橋をつくる約束をしました。
 さんねもは一生懸命に橋をつくりました。やがて橋の出来上がる約束の七月七日がきて、あと少しで出来上がる「ああ、もうすぐ天女と暮らせる」とうれしさのあまり約束をわすれて、天女のことを思い出してしまいました。
 すると、天の川がみるみるうちに溢れだし、大洪水となって、さんねもは橋もろとも、あっというまに下界へおし流されてしまいました。
 比治の里にかえったさんねもは、天女が恋しくて、比治山の頂上からいつも天を眺めていました。静かになった天の川は、大きく美しい星の帯となって夜空に横たわりさんねもの姿を、天女がみているようでした。
 その後、比治の里の人びとは、天女の娘の一人をおまつりするため、小さな社をたてました。この社は乙女神社と名づけられ、美しい女の子がさずかると多くの人びとがお参りしました。

七夕の織女星(おりひめ星)は、西洋星座でいえば琴座の主星(ベガ)である。琴座の琴は琴の名手・オルペウスの琴である。
彼は妻を冥界から連れ戻す一歩手前で「決して振り返ってはならぬ」の禁を破ってしまい、妻を永久に連れ戻すことができなくなる。
オルペウス伝説は伊弉諾伊奘冊の物語にも似ていると言われるが、大路の七夕伝説も似ている。

『中郡誌稿』
安達三右衛門
(五箇村誌草稿)
田畑(タナバタ)神の跡小字大路安達庄蔵氏宅なりこの家代々三右衛門を以て家の名とす大路にて最旧家なりこの事跡口碑に妄説を伝ふ宜しく風土記逸文にしたがふべし
旧七月六日七夕まつりにぎはしく支那の星まつりと混合して竹に短冊をさげてまつり餅をつきて祝ふ
(実地調査)安達氏祖先猟師にて磯砂山雌池にて天人の羽衣を獲云々との古風土記伝説の家と伝へ祖先伝来と称する矢筒一個矢四本及天女と牛を引き居る老翁とを図きたる図一幅を蔵す当地方俗間に有名なり矢筒は真黒になり居りて見分け難き程なり図幅は幾段にも雪を現はし秋草など書き添へ愛らしけれと至て近作にして土佐風の図なり之を織女像と称し七夕以前に之を披閲する時は暴雨ありとて見ること許さず編者郡誌編纂の為め強て之を一覧せしに偶々驟雨迅来す郷人皆其験あるに感歎せり
童謡古伝
(実地調査)大路にて古くより伝へたる子守歌あり
大路の山の雉(木地にかく)の子鳴くと鷹がつかむぞ
此の童謡に就て木地屋の孩児泣きて止まさりしかば親なる者怒りて戸外に出し置きたるに鷹来りて抓み去りたりと俗伝を伝ふさまでの註解をも要せさるにと思ふ








 音の玉手箱
 精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石

Амурские волны    Waves of Amur River



The Amur Waves on Accordion (Амурские Волны на Баяне)
ADRIAN BORDEIANU- Amur waves / Амурские волны - M Kuess
Waves of Amur River (Arranged for Cello and Piano by Nina Kogan)
"Амурские волны" М. Кюсс, Иван Дятлов и Мужской Хор НИЯУ МИФИ
Хор Сретенского монастыря "Амурские волны"


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