丹後の地名プラス

そら知らなんだ

日子坐王(彦坐命)
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -121-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
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日子坐王
丹波道主王





少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上タイムリミット上言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

丹波の伝説の始祖王・日子坐王(彦坐王)

丹後にも、舞鶴にもなじみの古代人物で、網野銚子山古墳の被葬者、青葉山の土蜘蛛を退治した人物とされる。彼の時代は、大和国が作られていく時代の最初か、古墳時代の初め頃のことであろうか、時代が合わないが、そうした伝承がある。丹後の始祖王であり、丹後にとどまらない古代史上のスーパーhērōsである。
皇族とされているが、特に特に功績偉大な「王」と呼ばれる存在で、其の子孫は天下四方に繁衍し、丹波・但馬・播磨のみならず常陸・甲斐・美濃・三河・伊勢・近江・山城・攝津・河内・和泉・大和・吉備・若狭・因幡などに広汎に分布している。王は地方勢力の中心として、大王(天皇)にも勝る実力と名声があり、全国に王や王の子孫・一族を『神』として祀る神社が数多く存在する。そうした神社を巡ってみたいと思ってはいるが、できそうにもない、膨大な事蹟を残した王であった。
三輪山麓に拠点があった大和の北に位置した伝説の日子坐王国、伝説の古王国、弥生~古墳初期時代の大和を凌ぐ大国の王が日子坐王か。そう言うよりも大和も日子坐王国内の一国であったのかも知れない。のちの和珥氏と渡来氏(息長氏)の、大和国誕生以前のクニグニの王であったのかも知れない。

日子坐王(記)、彦坐王(紀や姓氏禄の表記)は、伝えられるところによれば、父は開化天皇。母は意祁都比売(おけつひめ)(和珥氏)。兄弟は、
長兄に比古由牟須美命(彦湯産隅命亦の名は彦蒋簀命)-丹後の王-(母は丹後)
次兄に崇神天皇(御真木入日子印惠命・御間城入彦五十瓊殖尊)-大和の王
日子坐王本人-近江の王-(母は近江)
弟に建豊波豆羅和気(記のみ)-安曇海人の王-(母は葛城)
大和勢力が近辺の勢力を統合していった歴史を血縁関係に置き換えて語ろうとしたものであろうか、それとも実際にも血縁関係があったのであろうか。

ヒコイマスと読むか、ヒコマスと読むか
垂仁5年紀の狭穂媛の曰さく言葉のなかに、註として
…。其の丹波國に五の婦人有り。志並に貞潔し。是、丹波道主王の女なり。〈道主王は、稚日本根子太日日天皇の子孫、彦坐王の子なり。一に云はく、彦湯産隅王の子なりといふ。〉當に掖庭に納れて、後宮の數に盈ひたまへ」とまうす。
開化6年紀には
彦湯産隅(ひこゆむすみ)命〈亦の名は彦蒋簀(ひこもす)命〉

比古由牟須美(彦蒋簀)と日子坐は、一応は別の人物で異母兄弟とされるが、同一かも知れない。ヒコマスとヒコムスはマとムが違うだけ、発音上の違いだけ、彦今簀と表記したりすると、どちらでも読める、また丹波道主の父を日子坐としたり比古由牟須としたりして区別がつかない。さらに後裔氏族まで見れば、日子坐、比古由牟須美、建豊波豆羅和気の三者は同一のものでないかの説もある。
丹後は日子坐王ではなく比古由牟須美命に始まる、といったようなことは論じられない、全般的には丹後は日子坐王に始まり、比古由牟須美命は竹野媛の子、旦波大縣主由碁理系の人と捉えられ、彼の事蹟は迦具夜比売が語られるくらい、開化天皇の長兄で、崇神天皇の兄と伝えられる人としては、丹後においてすら軽い忘れられた存在である。

彦蒋簀はヒコモス、ヒココモスで、イ音はない、そうならば日子坐はヒコマスと読むのが古い本来の読み方でなかろうか。いろいろ呼び方があったということは、日子坐王は一人の人物ではなかろうと思われる。「湯」は鋳銅時の解けた銅、あるいは斎・忌で、ユユシイ、触れてはならない神聖なもののこと。
自分らの祖神である伝説上の人物か神のことをそのようにたいそうに呼んだのであろうか。先祖神であって、実在はしそうにもない。
『新撰姓氏録抄』(815)山城国皇別に、軽我孫公。治田連同祖。彦今簀命之後也。
この彦今簀は日子坐のことだが、今簀はイマスとも、コムスとも読めるそうである。
『三国遺事』(1145)に、
古朝鮮〔王儉朝鮮〕
…(王儉は)唐高(堯)が即位してから五十年たった庚寅に、平壌城〔今の西京〕に都し、はじめて朝鮮と呼び、また都を白岳山の阿斯達に移した。そこを弓〔方とも書く〕忽山、または今弥達ともいう。国を治めること一千五百年間であった。

註に、
弓忽山・今弥達=(kom-kol,kom-tal)の記写で、「熊谷・熊山」をあらわしている。
へぇー!「今」は、コンだから、確かに日本語でもコムと読めなくはない。
コムは熊であり、神である。スはタマシイのシイであろうか、タマ(魂)シイ(芯・神)のことであろうか。
そうすれば、ヒコモスで日の魂、日の神であろうか。自分らの祖神である太陽神を日子坐と呼んだのではなかろうか。日本語では説明ができそうにもない古代の名であって、朝鮮語を想定するわけであるが、もっとも確かなことは不明である。

開化天皇(稚大和根子彦大日日尊)

父の9代開化天皇自体が、欠史八代の一人で、その実在性が怪しまれているが、ともかくも春日の率川(いさかわ)宮に都したという(率川坐大神御子神社か・奈良市本子守町)。率川は佐保川の支流、今の奈良市の三笠山の西になり、これまでの都の地(三輪山麓・纏向遺跡)からは、ずいぶんと北にふれている、もう2~3キロも北ヘ行けば、山城国(京都府)になる。この天皇さんは特別に、北方の勢力と関係が深いのではないかと見られる、深いどころかそのものなのかも知れない、また実際に丹波竹野媛を妃とし、丹波と繋がっている。春日の地に都しているので和珥氏(春日氏)と関係も深い、深いどころかそのものかも知れない。日本海側から南下した和珥氏と渡来氏連合の大和に於ける橋頭堡のような感じにみえる。
地元大和の従来からの物部氏や葛城氏も関係がある。

開化記
此の天皇、旦波の大縣主、名は由碁理の女、竹野比売を娶して、生みませる御子、比古由牟須美命。又庶母伊迦賀色許売命を娶して、生みませる御子、御真木入日子印惠命。次に御真津比売命。二柱 又丸邇臣の祖、日子国意祁都命の妹、意祁都比売命を娶して、生みませる御子、日子坐王。一柱 又葛城の垂水宿祢の女、鸇比売を娶して、生みませる御子、建豊波豆羅和気。此の天皇の御子等、并せて五柱なり。

開化紀
六年の春正月の辛丑の朔甲寅に、伊香色謎命を立てて皇后とす。〈是は庶母なり。〉后、御間城入彦五十瓊殖天皇を生れます。是より先に、天皇、丹波竹野媛を納れて妃としたまふ。彦湯産隅命〈亦の名は彦蒋簀命〉を生む。次妃和珥臣の遠祖姥津命の妹姥津媛、彦坐王を生む。

日子坐王


この北方日本海系と繋がる流れの代表が日子坐王で、
『開化記』には、日子坐王の系譜が五世にわたり神功皇后(息長帯比売)まで、後裔氏族も書き上げられている。とんでもなく詳細である。
(A)山代の荏名津比売、亦の名は苅幡戸弁を娶して、生める子、大俣王。次に小俣王。次に志夫美宿禰王。
(B)春日の建国勝戸売の女、名は沙本之大闇見戸売を娶して、生める子、沙本毘古王。次に意邪本王。次に沙本毘売命、亦の名は佐波遅比売。次に室毘古王。
(C)近淡海の御上の祝が以ち伊都玖、天之御影神の女、息長水依比売を娶して、生める子は、丹波比古多多須美知能宇斯王。次に水之穂真若王。次に神大根王。亦の名は八瓜入日子王。次に水穂五百依比売。次に御井津比売。
(D)其の母の弟意祁都比売命を娶して、生める子、山代之大筒木真若王。次に比古意須王。次に伊理泥王。
凡そ日子坐王の子、并せて十一王なり。

計算が合わない。「王」は12柱、「比売」3柱で、「日子坐王の子」の合計は15柱である。(B)の系譜、春日氏の系譜は、稗田阿礼の記憶モレを後出しで付け加えか、春日氏(和珥氏)と関係がないとは思えない。

兄大俣王の子、曙立王。次に菟上王〈二柱〉。此の曙立王は、〈伊勢の品遅部君、伊勢の佐那造の祖〉。菟上王は、〈比売陀君の祖〉。次に小俣王は、〈当麻の勾君の祖〉。次に志夫美宿禰王は、〈佐佐君の祖なり〉。
次に沙本毘古王は、〈日下部連、甲斐国造の祖〉。次に意邪本王は、〈葛野の別、近淡海の蚊野の別の祖なり〉。次に室毘古王は、〈若狭の耳別の祖〉。
其の美知能宇志王、丹波の河上の摩須郎女を娶して、生める子、比婆須比売命。次に真砥野比売命。次に弟比売命。次に朝廷別王〈四柱〉。此の朝廷別王は、〈三川の穂別の祖〉。此の美知能宇斯王の弟、水穂真若王は、〈近淡海の安直の祖〉。
次に神大根王は、〈三野国の本巣国造、長幡部連の祖〉。次に山代之大筒木真若王、同母弟伊理泥王の女、丹波能阿治佐波毘売を娶して、生める子、迦邇米雷王〈迦邇米の三字は音を以ゐよ〉。此の王、丹波の遠津臣の女、名は高材比賣を娶して、生める子、息長宿禰王。此の王、葛城の高額比売を娶して、生める子、息長帯比売命。次に虚空津比売命。次に息長日子王。〈三柱。此の王は、吉備の品遅君、針間の阿宗君の祖〉。又息長宿禰王、河俣稲依毘売を娶して、生める子、大多牟坂王。〈多牟の二字は音を以ゐよ。此は多遅摩国造の祖なり〉。上に謂へる建豊波豆羅和気王は、〈道守臣、忍海部造、御名部造、稲羽の忍海部、丹波の竹野別、依網の阿毘古等の祖なり〉。


崇神記には、
又此の御世に、…日子坐王をば、丹波國に遣はして、玖賀耳之御笠〈此は人の名なり。玖賀の二字は音を以ゐよ〉を殺さしめたまひき。
紀では丹波國に遣はせたのは丹波道主命となっている。

記紀などの伝えるところに依れば、上記のようなことであるが、口頭で伝わったいくつかの昔話や伝説や神話を、誕生まもない大和王権に都合よく一つにまとめた物語であって、そのままが史実の記録とも受け取りがたい、記紀の間にも微妙な記述のフレが見られる、ワシがニッポン最初のエライモンだと語りたい記紀側としては極力無視したい人物である、都合よくゆがめまくってでも取り上げないことには、過去も現在も語れなかったのであろうか。
hērōs神話、男の子向けのおとぎ話のおしゃべり、話半分の受け取りでいいようなものかとも思うが、詐欺師のようなまるっきりの嘘八百でもなさそうで、何ほどかは真実が含まれていそうである。全否定してしまうと、全ての手ががりを失ってしまう、どのあたりまでどう見るかは悩ましい。

日子坐王を祀る神社 など

文献記録と合うとは限らない、記録にあっても社が残っていない、社があっても記録がない場合もある、どちらも残っていないことも多いと思われる。
能登
古麻志比古(こましひこ)神社(式)石川県珠洲市若山町字経念
江戸期は古麻志山一宮気多大明神と呼ばれていた。縄文弥生からの遺跡(散布地)の上にある。祭神は日子坐主命。
「古麻志比古」の社名は、鎮座地周辺が、かって「胡麻志」と呼ばれていたため、地名を人格化したとする説や、高麗(こま)系の渡来人の祖神とする説、さらに、朝鮮半島にある、熊が呪術的修行によって天神の子を産むという信仰から、熊霊=コモスに由来するという説、これは、出雲における神魂(カモス)の神と同根で、日本海側の信仰の古形を示唆しているとする。
どうなのかともかくも「古麻志比古」とは日子坐王のことと見られている。
高麗之(こまし)、コモス、(ヒ)コマスなのか、それともほかの意味があるのか、社名しか残っていないためわからないが、中央の文献には何も残っていない。もしかすると日子坐王は高句麗系の渡来人たちの祖神であったかも知れない。
能登のあたりは渡来系住民の地である、能登半島から四国にかけてのベルトは日本列島でも特異な場所になる。

(参)
久麻加夫都阿良加志比古神社(くまかぶとあらかしひこ)(式)石川県七尾市中島町宮前
祭神は阿良加志比古神と都努加阿羅斯止神
神社庁の説明に、「この神々は韓国の王族で阿良加志比古神については地神とも、3~4世紀頃の南朝鮮の阿羅(あら)国の王族とも言われており、その後、現在の鎮座地方を平定され守護神としてお祀りしてあります。都奴加阿良斯止神についても『日本書紀』の「垂仁紀」2年条の分註に、『御間城天皇之世、額有角人、乗一船、泊于越国笥飯浦。故号其処曰角鹿也。問之曰、何国人也。対曰、意富加羅国王之子、名都怒我阿羅斯等。』の記事があり、4~6世紀頃、朝鮮の南の方に栄えていた国の王子で、現在の敦賀に上陸、渡来したと記されております。」
氣多(けた)神社(式大・能登一宮)石川県羽咋市寺家町
社伝(『気多神社縁起』)によれば、第8代孝元天皇の御代に祭神の大己貴命が出雲から300余神を率いて来降し、化鳥・大蛇を退治して海路を開いたという。『気多社島廻縁起』では、気多大菩薩は孝元天皇の時に従者を率いて渡来した異国の王子とし、能登半島一帯を巡行して鬼神を追放したと記される。『気多社祭儀録』では、祭神は第10代崇神天皇の御代の勧請とし、神代からの鎮座とする説もあると記される。また一説として、孝元天皇の御代には七尾市に鎮座(現・気多本宮、能登生国玉比古神社(気多本宮))し、崇神天皇の御代に当地に遷座したとも伝えられる。
氣多神社は越中一宮もそうであるし、但馬にもあって郡名にもなっている、因幡国気多郡、遠江の山香郡気多郷、阿波国の毛田など。当社と同様にケの神を祀った渡来人の社であろうか。
美麻奈比古神社(式) ○美麻奈比咩神(式) 石川県鳳珠郡穴水町川島
祭神は美麻奈比古神 美麻奈比咩神、菊理媛神、宇迦之御魂神、建御名方神、猿田彦命だという。鎮座地の穴水をミマナと訓じとも言うが、美麻奈は任那であろう。加羅からの渡来人の祖を祀った社であろうか。

近淡海は、
草岡(くさおか)神社(式)滋賀県長浜市余呉町国安
祭神は、高皇産霊神、神皇産霊神、彦坐王命、菅原道真公
神社庁の説明に、「彦坐王当地に降臨し給い、余呉の庄の開発並びに郷民を愛撫し、産殖に治水事業に努められた。余呉の庄とは、合併前の片岡、余呉の地域を上の郷、中の郷、下の郷と分括されて上の郷片岡天神とよんでいた。御在世中に御子にあたる崇神天応が行幸されている。故実に彦坐王命国安姫命を入輿し給い、その皇子廉彦王命は池原姫を娶り給い、その又皇子、彦理王命は夜叉池村より伊加津女命を入輿し給いしとあり、この間300年以上で草岡郷の太租なり。彦坐王命薨後は恩鴻後は恩鴻を敬慕し、本社に霊を祀る。」
「国造本紀に『淡海の国造は日子坐王命』とあり、姓氏録には「開化天皇第三王子彦坐王命」とあり、丹波国より淡海国造となられ余呉の庄の荒廃したるを御覧になり、当地区の開拓、殖産に多大の御盡力になり御神徳を讃え、当社に奉祀御祖神としてあまねく祟敬せらる。」
確かに、「国造本紀」には、
淡海国造
志賀高穴穗朝の御世に、彦坐王の三世の孫・大陀牟夜別を國造に定賜ふ。

とあるが、淡海国造は琵琶湖西南側から今の京都市東側に勢力がある和珥氏系(和邇・小野の地名が残る)で、日子坐王系なら、その東の野洲側の安国造であろう、開化記に「美知能宇斯王の弟、水穂真若王は、〈近淡海の安直の祖〉」とある。近淡海安国造が彦坐王の三世孫・大陀牟夜別であったと思われる。直は国造に多い姓で、同じ氏族かごく近い氏族同士であろう。国造本紀は「淡海国造」でなくて、「淡海安国造」の「安」を書き漏らしているものと見られている。野洲と丹波は関係があったのである。

佐波加刀(さわかと)神社(式)滋賀県長浜市木之本町川合
祭神は、日子坐王、大俣王、小俣王、志夫美宿禰王、沙本毘古王、袁邪本王、佐波遅比売王、室毘古王
神社庁の説明に「大俣王以下七柱の王方は何れも同皇子の御子であります旧事本紀(国造本記)に本社の祭神たる彦坐王の3世の孫大蛇牟夜別を成務天皇の後世淡海国造に定められたとあるところより推察するならば、その国造の子孫がここに繁行すると共に、いつの世にか祖先たる彦坐王を始めとし関係の他の王を併せて奉斎する1社を創立したのが本社の起りと思われます。」
琵琶湖北東側は淡海安国造一族(だから丹波系)の開発になる地のようである。

比売多(ひめた)神社(式)滋賀県長浜市高月町東柳野(賣比多の社名になっている)
比売多君の氏族の本源の地でその祖神を祀り且つその墳塋を遺したものであると伝える。日子坐王の孫にあたる菟上王は、〈比売陀君の祖〉
比売多神社のある伊香郡とその西の高嶋郡は式内社が飛び抜けて多い、後の息長氏や継体天皇の地盤になった所である。

大澤神社(式)滋賀県長浜市木之本町黒田
祭神は、澤道彦命と大國主命
澤道彦命は、『姓氏禄』河内国皇別に、豊階公。河俣公同祖。彦坐命男澤道彦命之後也。とあって、彦坐命の子とされている。
記に、沙本毘売命、亦の名は佐波遅比売とあり、彦坐命の子の澤道彦は沙本毘古(狭穂彦)ではないかともいう。
反乱伝承のある人で、彦坐命系豪族連合と大和との間でイザゴサがあったときのリーダーではなかろうか。こんな所に拠点があったのかも…

治田の地名
『姓氏録』に、治田連(はりたのむらじ)。開化天皇皇子彦坐命之後也。四世孫彦命征北夷功効。因割近江国浅井郡地之。爲墾田地。大海。真持等。墾開彼地。以爲居地。大海六世孫之後。熊田。宮平等。因行事治田連姓也。
彦坐命の後裔、その四世孫の彦命が北方の蝦夷を討って近江国浅井郡を与えられて墾田として、大海・真持らが、その地を開いて住み着き、大海の六世孫の後にあたる熊田・宮平らが治田連の氏姓を賜った。

治田(はるた)神社 滋賀県草津市南笠町
祭神は、開化天皇 彦座命 大海真持連
神社庁の説明に由緒は、「雄略天皇六年、この地方の開拓者治田連彦人が祖神として、開化天皇とその皇子彦座命の神霊を勧請したのに創ると伝えられる。神社の西北にある駒形南笠古墳二基も治田氏に関係のあるものと考えられ、文化年代には二十二丘の古墳があったことが栗太志に記されている。」という。
治田連の本貫地であろうか、『和名抄』の治田郷(近江国栗太郡)(発多の訓注がある)、墾田、小懇田、尾張とかいう開墾地のことであろう、このあたりも淡海安国造の地である。

軽野神社(式)滋賀県愛知郡愛荘町岩倉、蚊野外
祭神は、袁邪本(をざほ)王。配神に、日子坐王 天児屋根命 稲倉魂命 譽田別尊 句々廼智命 宇多天皇 菅原道真公
記に意邪本王は、〈葛野の別、近淡海の蚊野の別の祖なり〉。沙本毘古の弟だから小沙本のことという。、、
北ヘ1㎞くらいの所に「安孫子(あびこ)」という所がある。
『姓氏録』左京皇別下に、軽我孫。治田連同氏。彦坐命之後也。四世孫白髪王。初彦座分来賜阿比古姓。成務御代。賜軽地卅千代。是負軽我孫姓之由也。軽野神社のあたりが軽の地であろうか、近くに蚊屋野神社がある、軽は銅か加耶か。渡来人であり、金属関連の性格がある。彦坐命四世孫白髪王については不明。

石坐(いわい)神社(式) 滋賀県大津市西の庄
祭神は、天命開別尊 (天智天皇) 弘文天皇 伊賀采女宅子媛命 豊玉比古 彦坐王命 海津見神
神社庁の説明に、創祀年代不詳、社伝、社家古伝によると、当社の創始は、瀬田に設けられた近江国府の初代国造・治田連がその四代前の祖・彦坐王を茶臼山に葬り、その背後の御霊殿山を、神体山として祀ったのに始まると考えられる。
彦坐王の御事蹟は明白ではないが、治田連とその一族は、湖南地域一帯の水利治水、農・漁業の開発・発展に大きな成果をあげたため、これを尊崇した地域住民がその一族の祖・彦坐王を開発の先達として崇拝するに至ったものと考えられる、という。壬申乱後、天下の形勢は一変し、近江朝の神霊の「天智帝・大友皇子・皇子の母宅子媛」を弔祭できるのは一乗院滋賀寺のみとされ、他で祭祀するのは禁じられていた。そこで持統天皇の朱鳥元年に滋賀寺の僧・尊良法師が王林に神殿を建てて御霊殿山の霊祠を遷すと共に相殿を造って近江朝の三神霊をひそかに奉斎した。この時から八大龍王宮と称え、石坐神社とも称した。

美濃
伊波乃西神社(式) 岐阜県岐阜市岩田西。隣接して「日子坐命墓」がある。
祭神は、日子坐王とその子・八瓜入日子(やつりいりひこ)
八瓜入日子は、開化記に、
天之御影神の女、息長水依比売を娶して、生める子は、丹波比古多多須美知能宇斯王。次に水之穂真若王。次に神大根王。亦の名は八瓜入日子王。次に水穂五百依比売。次に御井津比売。とあり、
丹波道主命の三番目の弟で、神大根王ともいう。
美知能宇斯王の弟、水穂真若王は、〈近淡海の安直の祖〉。次に神大根王は、〈三野国の本巣国造、長幡部連の祖〉。
崇神記に「日子坐王をば、旦波の国につかわして、玖賀耳の御笠を殺さしめ給いき」とある。勅命かは怪しいがその後美濃国各務郡岩田に下り、治山治水、農耕ほかの殖産興業に尽力されたという。八瓜入日子王(神大根王)は父君の後をつがれて、この地方の開発に功が多かった。日子坐王薨去の後、御陵を清水山の中腹に築かれた。当社の西に隣接している。明治8年12月に至り、日子坐王陵と確認されたので、宮内省陵墓寮の所管に移された。御陵墓祭は、3月21日であるが、毎年10月11日には、滋賀県木之本町の老若男女数10名が観光バスを連ねて参拝する。これは、その地に日子坐王をはじめ、御一族数柱を祭神とする神社がある為、10月10日例祭の後御陵参拝を行事としているからに他ならない、そうである。
「国造本紀」に、三野前(みぬのみちのくち)国造。春日率川朝の御世に、皇子・彦坐王の子・八爪命を國造に定賜ふ。
春日率川朝は、そこに都を置いた開化天皇のことである。
景行天皇記では大根王が美濃国造の祖、景行天皇紀では神骨を美濃国造、「国造本紀」では八瓜命を三野前国造と伝え、本巣国造と美濃国造、三野前国造は同一の国造であったと見られている。本拠は美濃國本巣郡美濃郷(本巣市身延)という。

加毛神社(式) 岐阜県安八郡輪之内町下大榑東井堰
祭神は、神別雷(かんわけいかづち)
江戸期は白髭神社と称していた。
古代国造時代に開化天皇の皇子、鴨君彦坐王の子、神大根王が美濃国の国造となり、その子孫は西南濃地方に繁行した。よって、開拓者たちは、鴨氏の祖神を奉斎したという。

長幡部連
長幡部神社(式)茨城県常陸太田市幡町
長幡部神社(式)埼玉県児玉郡上里町長浜
延喜式の主計式では倭文部の調布は長さ四丈二尺、広さ二尺四寸、長幡部の絁(アシギヌ)は長さ六丈、広さ一尺九寸とある。倭文部のものより一丈八尺も長いから、長幡といったのであろう、という。常陸の場合は美濃より来たという伝えもある(風土記)。長幡は絹織物、渡来氏族の技術で、長幡部連はその伴造か。鉄コンビナート遠所遺跡のある弥栄町鳥取に「絁の碑」があるように織物氏族は金属技術も持っていたと思われる。

甲斐国造氏
「国造本紀」に、甲斐國造 纒向日代朝の御世に、狹穗彦王の三世孫・臣知津彦公、此子・鹽海足尼を以て、國造に定賜ふ。
纒向日代朝は景行天皇のこと、山梨市に鎮座する式内論社・金櫻神社(旧名・橋立神社)は、日下部氏と同族の丹波氏族である鹽海足尼(しおみすくね)が本国の天橋立より橋立明神を勧請したと伝わる。


若狭
弥美神社(式)福井県三方郡美浜町宮代
祭神は、室毘古王。
室毘古王は、〈若狭の耳別の祖〉。

闇見神社(式)福井県三方上中郡若狭町成願寺
祭神は、沙本之大闇見戸賣命
室毘古王(弥美神社祭神)の母で、当地倉見庄に住んでいたという。

大和
軽樹村坐(かるこむらにます)神社(大二坐) 奈良県橿原市西池尻町軽古青木
祭神、誉田別命。彦坐神、白髪王(軽氏の祖神)。
軽といえば当地が本貫地であろうか。
『姓氏録』左京皇別下に、軽我孫。治田連同氏。彦坐命之後也。四世孫白髪王。初彦座分来賜阿比古姓。成務御代。賜軽地卅千代。是負軽我孫姓之由也。これは淡海の安であろうと思われるが、当地が本貫地か、あるいは逆か、

丹波
小幡神社(式) 京都府亀岡市曽我部町穴太宮垣内
祭神は、開化天皇、彦坐王、小俣王
崇神天皇の命により派遣された四道将軍のひとり、丹波地域を治めた丹波道主命が、皇祖開化天皇を主神として祀ったことに始まるといわれ、開化天皇の御子の彦坐王と、その御子小俣王の三代を奉斎している.。古代史学者の上田正昭氏は当社の宮司であった。玖賀耳之御笠は、この辺りの人でなかろうか。小俣=小幡=桑田で、玖賀は桑田郡の桑か、仁徳16年紀に桑田玖賀媛が見える、桑田と玖賀は繋がると思える。老ノ坂峠を流れ下るのが小畑川で、桑田が川下側に続いている様子に見え、乙訓郡式内社久何神社、さらに北の愛宕郡式内社久我神社がある、山背国風土記逸文に久我国とあって、山背よりも丹波に近いと見られていたと思われる、クガは3郡に跨がって存在した大国ではなかったか、小幡神社の西5㎞くらいの所に「加舎」地名がある、御笠の本拠地かも…

竹野神社(大)京都府京丹後市丹後町宮宮ノ谷
祭神は、天照皇大神、竹野媛命、建豊波豆羅和気命、日子坐王命
開化記に、此の天皇、旦波の大縣主、名は由碁理の女、竹野比売を娶して、生みませる御子、比古由牟須美命。
とある、まさにその地である。竹野神社は竹野媛が年老いて天照大神を祀ることに始まると伝えられる。
建豊波豆羅和気王は、〈道守臣、忍海部造、御名部造、稲羽の忍海部、丹波の竹野別、依網の阿毘古等の祖なり〉。ともある。
建豊波豆羅和気命(武歯頬命)は、攝津の依羅(よさみ)地方の豪族であった依羅吾彦(よさみのあびこ)一族の祖神と見なされているが、丹波之竹野別らの祖であるとも伝えられる。

網野神社(式)京都府京丹後市網野町網野
祭神は、日子坐王、住吉大神、水江浦嶋子神
日本海側最大の網野銚子山古墳が近くにある、日子坐王の陵墓ともいわれる。

-丹波道主王の神社は別途とりあげる-

但馬
粟鹿神社(大)兵庫県朝来市山東町粟鹿
社伝によれば「祭神は但馬国造の遠祖・日下部連の祖父で四道将軍の一人とされる日子坐王」とされる。日子坐王の終焉の地と伝えられ隣接してある円墳は彼の墓と言われている。以前には石室築造に使ったと思われる石が露出していたといい、時代は合わない。
三野(みの)神社(式) 兵庫県豊岡市日高町野々庄字下小屋
祭神は、師木津日子命(3安寧の皇子)あるいは 天湯桁命(天湯河板挙命) 彦坐命
由緒書では、祭神を天湯桁命・彦座命、兵庫県神社庁が、祭神を「師木津日子命」説で、『古事記』は、師木津日子の子は、伊賀須知之稲置・那婆理之稲置・三野之稲置の祖という。

伊伎佐神社(式) 兵庫県美方郡香美町香住区余部字宮内
社伝によると、文武天皇の慶雲3年(706)、諸国に疫病が流行したため、諸国に令して神祇を祀らしめた際、美含大領椋椅連小柄が、彦坐王命を伊伎佐の丘に勧請したのが当社のはじめ。という。

摂津
大依網(おおよさみ)神社(大)大阪市住吉区庭井
祭神は、建豊波豆羅和気王
建豊波豆羅和気王は、〈道守臣、忍海部造、御名部造、稲羽の忍海部、丹波の竹野別、依網の阿毘古等の祖なり〉。
旧東成郡依羅(よさみ)村で、このあたりを我孫子(あびこ)という。

伊和志豆神社(式) 兵庫県西宮市大社町。広田神社の境内社
祭神は一説に彦坐命(広田神社を創建せられた神功皇后はその4世の孫)を祀ると言われる。

出雲
久佐加神社(式)島根県出雲市日下町上筋
祭神は、大穴持命、日子坐王命
由緒書に、「日子坐王命は武勇に優れておられ、御子多く諸国に繁栄されたので、末えい日下部氏人が各地に奉斎されました。当地も往時日下部氏が開拓された所であるので、大穴持命と共に日子坐王命が奉際されています。」









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Conquest of Paradise



Conquest of Paradise (Vangelis) - Cello-Orchester Baden-Württemberg
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