丹後の地名プラス

そら知らなんだ

丹波道主命
(丹波比古多多須美知能宇斯王)
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -122-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
シリーズ


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伝承郷土芸能③
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暦の伝来②
日子坐王
丹波道主王





少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上タイムリミット上言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。


比古由牟須美命(彦湯産隅命)


垂仁5年紀の狭穂媛の曰さく言葉のなかに、註として
…。其の丹波國に五の婦人有り。志並に貞潔し。是、丹波道主王の女なり。〈道主王は、稚日本根子太日日天皇の子孫、彦坐王の子なり。一に云はく、彦湯産隅王の子なりといふ。〉當に掖庭に納れて、後宮の數に盈ひたまへ」とまうす。
開化6年紀には
彦湯産隅(ひこゆむすみ)命〈亦の名は彦蒋簀(ひこもす)命〉

紀では、丹波道主の父とも伝わる。

開化記に、此の天皇、旦波の大縣主、名は由碁理の女、竹野比売を娶して、生みませる御子、比古由牟須美命。
開化記に、比古由牟須美王の子、大筒木垂根主。次に讃岐垂根。〈二王。讃岐の二字は音を以ゐよ〉此の二王の女、五柱坐しき。
垂仁記に、大筒木垂根王の女、迦具夜比賣命を娶して、生みませる御子、袁邪辨王。〈一柱〉

古事記では、
旦波大縣主由碁理-竹野比売-比古由牟須美┬大筒木垂根┬迦具夜比売-…
                             └讃岐垂根-┼合わせて五女

彦湯産隅と彦蒋簀は同一ではなかろう。彦蒋簀は古い時代の神格で、大縣主の孫であったりはしまい、むしろ油碁理家の祖神のようなものであろうか。
彦蒋簀…由碁理-竹野比売-比古由牟須美┬大筒木垂根┬迦具夜比売-…
                            └讃岐垂根-┼合わせて五女

油碁理(ゆごり)()は、溶けた金属(溶融金属)を「湯」といい、今でも同じように「湯」と呼ぶ、これを鋳型に流し込んで冷えれば製品となる。碁理は肩こりの「こり」で、固まること。
縣主は今の郡程度の領土の主、大和大王領とされる。大縣だから、丹波郡+竹野郡を治めた地方長官のようなもの。
彦湯産隅は油碁理の孫とされる、彦湯結、BMはよく互転する音。溶けた銅が結んで固まることか、油碁理と同じ意味と思われる。どちらも解けた銅が冷えて固まること、あるいは固まったものと思われる。
竹野(たかの)媛は竹野神社(竹野川河口にある神社)の祭主であろう。竹野媛は銅と関係がないかと言えば、そうしたことではない、彼女はかぐや姫である。竹野媛=高野(かぐや)
高山波 雲根火雄男志等 耳梨与 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曾 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
中大兄の三山の歌 一首   『万葉集』13
香具山は 畝傍を惜しと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし …
原文の「高山」は、カグヤマと読んでいる。石凝姥を以て冶工として、天香山の金を採りて、日矛を作らしむ。とある、その天香山(あまのかぐやま)のこと、この時代は金と言えば銅のことである。
現代日本人には、何でタカが(カグ)なのか、その関連が理解できなくなったが、当時こうした文章を書いた渡来人たちには、言葉遊びのような連想ですぐ頭に浮かんだ関係があったのであろう。日本語で書くとサッパリ不明だが、たぶん両言葉の中にarといった言葉が含まれていそうに思われる。
舞鶴にも天香具山があり、その南麓に高野地区があり大蛇退治伝説が残る。高野はオロチにてぞありましける、何かそうした話があった(『今昔物語』)。銅はサッパリと忘れられてしまったが、オロチ伝説は残る。竹野神社にもオロチ伝説が残る(依遅ヶ尾の大蛇)。

大筒木垂根(たりね)
筒木は綴喜郡のことと見られている。山城国綴喜郡綴喜郷、今の京都府京田辺市に多々羅という地名がある、この辺りの垂根であろう。タリは山とか国の意味、ネはニムで、垂根は国王の意味だと思われる。多々羅王、またタルは月なので、月の王とも取れる。後の継体の筒城の宮の地で、日本海系の開発にかかる地。綴喜郷には田辺もある、舞鶴も同じで天香具山の麓一帯が加佐郡田辺郷である。
福知山市大江町内宮に三日月(みかげ)神社があり、大筒木垂根を祀る。大江山銅山の地である。三日月は御蔭、弥加宜のことで、カゲはカグてあろう。なぜ大筒木垂根を祀るのか由緒不明。

日子坐王の子に山代之大筒木真若王がいて、どちらも大筒木で混乱するが、この系統は息長氏に繋がるとされる。朱智神社(息長氏の祖神・迦爾米雷命を祀る)や観音寺(「息長山」を号する、その山号は偽書由来ともいう)。京田辺市普賢寺谷は息長氏が近江から移り住んだ地とされ、神功皇后(息長帯比売)とも繋がる重要な地とされる。丹後からと近江からと銅鍜冶が入った地なのだろうか、それとも同じものなのだろうか。

讃岐垂根王
サヌキはサナキで銅鐸のことと言われる、讃岐といってもあちこちにあるが、近くでは因幡国八上郡散伎郷(散岐郷)、兵庫県多紀郡篠山町佐貫谷、大和国広瀬郡散吉郷(式)讃岐神社(奈良県北葛城郡広陵町三吉)がある。鎮座地名の「三吉」は「みつよし」と読むが、かつては「散吉」と書いて「さぬき」と読んでいた。一帯は讃岐国の斎部氏が移り住んだ地で、讃岐の故郷の神を勧請し創建したものとみられるという。讃岐垂根王と関係した社かも知れないが、由緒は伝わらない。
銅鐸と言えば、あるいは弥生期の畿内ワニ王朝は銅鐸文化圏そのものかも知れない。


迦具夜(かぐや)比売
曾祖母(竹野媛)の名を継ぐ媛のようで、浦島太郎や天の羽衣やかぐや姫といえば子供も知ってる童話の主人公だが、みな丹後と関係が深い。竹取物語のかぐや姫のモデルでないかとされる。
『竹取物語』
いまは昔、竹取の翁といふもの有けり。野山にまじりて竹を取りつゝ、よろづの事に使ひけり。名をば、さかきの造となむいひける。
新日本古典文学大系本の脚注に、「さかき」は古本・古活本「さるき」、群書類従本「さぬき」。[か]と「る」の字体類似、さらに「る」と「ぬ」の音転を考えると、新撰姓氏録・右京皇別下に景行天皇の後裔と見える讃岐氏の一族で、大和国広瀬郡散吉郷(散吉神社がある)に本貫をもつ人としての命名か。とある。竹取の翁は讃岐造という名であったようである。
かぐやは銅矢(かぐや)軽矢(かるや)のことで、銅のヤジリを作っていた鍜冶集団の祭祀王であろう。穴穂矢という鉄のヤジリは出てくる、平和になってくると、需要もなく消滅していったのであろうか。
つつきと月、タルと月、なぜ月と結びつくのはよくわからない。
翁が竹を切れば黄金が出てきた。銅矢の製作は、今なら軍事産業で、ウハウハのボロボロボロのボロ儲けの独り占め、死ぬのは自分の息子ではない、貧乏人の子を多量にである、こんなエエ商売はなかろう。三日間宴会を開いたという、勿論税金であろう。平和は儲からない、平和なら喧嘩を売れ、戦争よすぐに来たれ、貧乏人が飢えていようが武器を何兆円と爆買いせよ、どこかの女ナチも顔負けの、罪な呪われた商売であったのかも知れない。大軍拡の行き着く先は核武装で、自国のみならず地球を焼き尽くすことである、いくら大金を積み上げても勝者になれない。ウハウハで豊かで強くなるのは利権集団のみ、アホげなわかりきったヨタ話にダマされることなく国民たる者としては正気を失わぬようしたいものである。

袁邪辨(をざべ)
垂仁天皇との間に袁邪辨王がある、事蹟の記録はない。

丹後は考古学的には鉄王国の感があるが、そのベースには銅技術があったのであろう。大活躍している様子が語られる。。

丹波比古多多須美知能宇斯王(丹波道主王)


丹波比古多多須美知能宇斯王は日子坐王の子と古事記はしている、日本書紀も丹波道主王を彦坐命王の子としているが、一に曰くとして彦湯産隅命の子ともする。丹波の地名を負っているので、丹波の王なのであろう。
日子坐王は母が近江志賀の和珥氏で、どちらかと言えば近江の和邇が本貫、和珥氏は志賀の地名があるように、志賀海神社を祭祀する安曇海人系であろうか。志賀島は後漢光武帝の金印が出土した島で、新興の天皇さんよりも古い由緒深い「漢委奴国王」氏族なのかも知れない。和珥はトーテムの鰐か鮫かも知れないが、「王(ワン)」(中国語)(古代朝鮮語ならワン・ニム)かもしれず、朝鮮系倭国王に由来するのかも知れない。
天理市に和爾(わに)という地名がある。神武紀に、和珥の坂下に、居勢祀(こせのはふり)といふ者有り.、と見えるが、このコセは、新羅の始祖王・赫居世(かくこせ)のコセで、コソのこと、フジコソ神社とかのコソで、神様とか人物の尊称。(赫居世も銅王の意味か)。古代朝鮮語だから、和珥氏も朝鮮系王族であったのかも知れない。
和爾の南が檪本で和珥氏の本拠であったが、その東大寺山古墳(140メートルの前方後円墳)から鉄刀がザクザク、その1振りの刀身の棟に、「中平□□(年)五月丙午造作文(支)刀百練清剛上応星宿□□□□(下避不祥)」の24文字の金象嵌銘があった。中平は後漢の年号で、西暦の184~189年、卑弥呼同時期。和珥氏は後漢と何らかの通交があったことは確かなようで、天皇さんよりも古い王家であったかも知れない。幻の和珥王朝があったような感じがしてくる。

彦多都彦命
「多多須」とは、多々羅の神であろうか。
『国造本紀』に、
稲葉国造 志賀高穴穂朝の御世に、彦坐王の兒・彦多都彦(ひこたつひこ)命を国造に定賜ふ。
とある、彦多都彦命と同一人物と見られている。そうしたことなら、タタス=タツでタタスは立つの軽い尊敬語、立っていらっしゃるの意味。しかしそうした意味だろうか。
ここから丹波道主王は丹波のみならず、因幡まで勢力があったと見られている。

宇部神社(大)(鳥取市国府町宮下)(因幡一宮)は、建内宿禰を祀るが、『神祇志料』は祭神を『国造本紀』にある因幡国造の祖先、彦多都彦命としており、本来は伊福部氏の祖神のを祀り、後に武内宿禰命を祀るとされたとみられる、という。

伊奈波神社(論)(岐阜市伊奈波通り)(美濃三宮)は、斎藤道三が稲葉山に稲葉山城(後の岐阜城)を築城するにあたり、現在地に遷座したといい、五十瓊敷入彦命を主祭神とし、妃の淳熨斗媛命、母の日葉酢媛命、外祖父の彦多都彦命、臣下の物部十千根命を配祀する。因幡というより丹波神社の感がある。。

四道将軍。丹波道主王は美濃まで平定したとは言われていないが、丹波から山陰方面が担当区域か。
崇神10年紀に、
九月の丙戌の朔甲午に、大彦命を以て北陸に遣す。武渟川別をもて東海に遣す。吉備津彦をもて西道に遣す。丹波道主命をもて丹波に遣す。因りて詔して曰はく。
「若し教を受けざる者あらば、乃ち兵を擧げて伐て」とのたまふ。既にして共に印綬を授ひて將軍とす。

崇神記に、
又此の御世に、大毘古命をば高志道に遣はし、其の子建沼河別命をば、東の方十二道に遣はして、其の麻都漏波奴〈麻より下の五字は音を以いよ〉人等を和平さしめたまひき。又日子坐王をば、旦波國に遣はして、玖賀耳之御笠〈此は人の名なり。玖賀の二字は音を以ゐよ〉を殺さしめたまひき。

丹波道主王を祀る神社 など


神谷神社(太刀宮)(式) (京丹後市久美浜町新町)
由緒に「四道将軍、丹波道主命を近畿で唯一お祀りしています。丹波道主命が身につけていたという宝剣【国見の剣】をお祀りしてあることから【太刀宮】と呼ばれています。」とある。

村岳(むらおか)神社(式)(京丹後市久美浜町奥馬地)
村岳神は太刀宮(神谷神社)の臣下で、四道将軍旦波道主命(太刀宮祭神)が当地で前途の武運を祈るため出雲の八千矛神を勧請した、という。

(みささぎ)神社(京丹後市久美浜町坂井永助)
陵神社の御祭神は丹波道主命を奉祀し、山頂の古墳は、道主命の墳墓にして、西麓宮の谷なる部落は御陵守なりきといひ伝ふ、という。

蘆高神社(京丹後市久美浜町芦原)と王屋敷
古墳上に奉祀せる神社。祭神は、古来旦波道主命の妃を奉祀せりといひ伝ふ。
「熊野郡誌」は、編者按ずるに崇神天皇の代、四道将軍の一人に丹波道主命川上麻須郎女を娶り、此の地に邸宅を構へ居住せられしものにて、王屋敷は道主王の屋敷といへる意ならむ。

衆良神社(式)(京丹後市久美浜町須田)
「熊野郡誌」は、按ずるに河上摩須を祀れるものの如し。垂仁天皇の朝の勧請と伝ふ。河上摩須は丹波道主王の外舅にして、上代地方の豪族たりしなり。

熊野神社(式)(京丹後市久美浜町甲山)
『丹後旧事記』(崇神天皇十年癸巳九月勧請也当国土形里国府に定の道主命下向ましまして当郡川上麻須郎の女を娶り給ふ是に四柱の女君有て五十狭茅尊の皇后次妃と成のよろこびのあまり将軍道主命の勧請にて宝殿は川上麻須郎造立し玉ふ

熊野若宮三神社(京丹後市久美浜町品田)
『熊野郡誌』に、由緒。式内社にして其の創立最も古く、人皇第十代崇神天皇の代、道主命の勧請に係れりといひ伝ふ。とある。

意布伎神社(京丹後市久美浜町油池)
『丹後旧事記』に、垂仁天皇の朝旦波道主勧請。延喜式竝小社。とある。

大宇賀神社(式)(京丹後市網野町郷入道)
『丹後旧事記』に、大宇賀神社。黒部村。祭神=大宮宜大明神 若宮売大明神。
 延喜式の竝小社にして谿羽道主命の勧請なり崇神天皇四十九年竝松社廿七社あり当郡の神戸所にて春部郷といふ今世黒部といふはあやまりか。とある。

深田部神社(式)(京丹後市弥栄町黒部)
社伝は崇神天皇の時、丹波道主命が当地方平定後、五穀豊饒を祈願して豊宇気大神を祀り、社を創建したという。のち社殿も荒れ果てたので、深田の山(通称八幡山)に鎮座する八幡社に合祀したとされる。

六神社(京丹後市丹後町上野)
『竹野郡誌』に、(神社明細帳) 祭神 月読神 誉田別紳 天津児屋根命 天照皇大神 豊受比売神 丹波道主命

矢田神社(式)(京丹後市峰山町矢田)ほか丹波郡九座
『丹後旧事記』は、丹波郡は九座一神の地にて五穀成就の神なりとて皆豊宇気持豊宇賀能売両社を氏神とする事谿羽道主命みづからの娘君を神仕へとて此神を祭り玉ひける信心に依て四人の娘君垂仁の后次妃となり玉ひし余風ありと伝ふまことに有難き神国のためしなれば記す。と。

船岡神社(京丹後市峰山町五箇)
五箇小学校(閉校)のすぐ下の「船岡山」にある。四道将軍として丹後へ派遣された丹波道主命の居館跡と伝わる地。のちのたぶん郡家の地。丹波道主命が祀られている。かつては「府の岡」と称されており、これは命の居住せし府跡であるという。

船岡神社(京丹後市弥栄町芋野の石上神社に合祀)
今の石上神社は船岡・徳宇両社を明治42年に合祀したもので、正慶期(鎌倉期)の棟札の残る古社。吉沢・芋野両村の氏神である。合祀前の船岡神社の祭神は、饒速日命と丹波道主命。

溝谷神社(式)(京丹後市弥栄町溝谷)
崇神天皇の時、丹波道主命が祀り、その子新羅将軍大矢田宿禰が新羅大明神として祀ったという。境内社の大宇加神社には丹波道主命が祀られている。神功皇后伝説がある。新羅も日本も、道主王も日矛も、区別つかなくなってくる、古くは同じものだったのであろうか。

大宮売神社(大二坐)(京丹後市大宮町周枳)
崇神天皇の時、四道将軍丹波道主命がこの地に始めて祀るといわれる。

比治真名為神社(式)京丹後市(峰山町久次)
『丹哥府志』に、崇神天皇十年丹後道主命その子八乙女をして豊受皇太神を斎奉らしむ。と。

あしかの社(伊根町亀島立石)
『丹哥府志』【あしかの社】(あしかは地の名なり、あしかまの潟にある社なり)
あしかの社は何を祭るや村人もしらず、されど珍ら敷社の名なれば村長に頼みて扉を開き拝み奉れば古代の装束にて古き尊像あり、是より前五十建速石別命を祭りてより村を建石といふと古老にきくしかも何れの社なる事をしらず、今此尊像を拝みて初て此社なる事をしる、五十建速石別命は丹後道主命の孫なり、丹後道主命に五女あり皆召されて后妃となる、五十建速石別命は第四妃薊瓊入姫の子なり、兄を速石別命といふ、与謝板並速石里より貢を奉る、弟を五十日足彦尊といふ与謝五十日の里より貢を奉る、五十建速石別尊には与謝稲浦より貢を奉る、よって五十建速石別命を祭るなり。

飯役神社(宮津市中野)
『元初の最高神と大和朝廷の元初』に、浮渓(ふけい)大明神(吹井社)が、飯役宮と改称せられたのは、同地に、印鎰社があって、浮渓大明神と合祀せられ、豊宇賀能売神の飯盛りの役と印鎰の鎰とが重なって、その名称を生じたものである。浮景の浦に存在して、丹波道主、氷沼道主、豊宇賀能売神等をお祭りした古社である。

天満神社(与謝野町加悦町加悦)
丹波道主から四一代の孫といわれる細目道春の三男倉彦が、菅原是善に仕え、是善が八八一年(元慶五年)に亡くなったので、子の道真に仕えた。道真が筑紫に流された時、一緒にかの地へ行き、九十才のとき加悦に帰って天満宮を祭ったと伝えられている。ここに、「ナメクジ石」と「梅形砂」とがあり、梅形砂はその名のとおり梅の花の形をしているが、信仰の厚い者でないと見ることができないといわれている。.

弥加宜(みかげ)神社(式)(舞鶴市森)(通称大森神社)
「風土記残缺」に、杜坐彌加宜社 彌加宜社は、往昔、丹波道主の祭り給う所也。(以下一行虫食)杜中に霊水有り、世に杜清水と号く(以下虫食)。とある。
日子坐王が天之御影神の女息長水依比売を娶りて生める子は丹波道主王、その丹波道主が、母方の祖母・御影神を祀ったのが当社であろうという。カゲはカグであろう。滋賀県野洲市三上山麓の御上神社の祭神で近くの大岩山から24個の銅鐸が出土。栗太郡治田郷の辻村あたりからやってきた銅タタラ師の祀った社であろうか。

阿良須(あらす)神社(舞鶴市小倉小字フル宮)
崇神天皇の御代、四道将軍の一人、丹波道主命が青葉山の土蜘蛛、陸耳御笠を征伐のさい加護をうけた天神地祇を柳原の森にまつったのを起源とするとされる。また祭神は豊受大神とし、一説には大宮売大明神・若宮売大明神として、両神は丹波道主命が丹波郡周枳(現中郡大宮町)の大宮売神を勧請したと伝える。志楽(しらく)小学校の向かいにある社で、シラクといいアラスといい、渡来っぼい名である。加佐郡有道郷に阿良須神社がある。アリヂとアラスは同一と思われ、アリヂはアラシトという阿利叱智・阿羅斯等の日矛系と道主王は区別つかない。

成生神社(舞鶴市成生)
地元では、大将軍社と称し、日子坐王を祭神とする。

鬼嶽稲荷神社(福知山市大江町北原)
案内板には、昔、神社はもっと頂上にあったと伝え、人々は大江山のことを御嶽と呼んでいました。社伝では、往古、四道将軍として当地へ来た丹波道主命が父、日子坐王の旧蹟に神祠を建立したと伝えます。とある。

一宮神社~五宮神社福知山市大江町()
「大江町誌」によれば、一宮神社から五宮神社までの五社は、神社明細帳ではいずれも祭神不詳となっているが、丹波道主命の五子を祀ったのだという伝承が残る。という。

網野銚子山古墳の被葬者はは日子坐王あるいは丹波道主王、神明山古墳は道主王、黒部銚子山古墳は道主王の伝承がある。


八坂神社(綾部市上杉小嶋)
伊也神社(式)(綾部市広瀬町城山)
『綾部市史』に、綾部の伝承 綾部市内には日子坐王・丹波道主命に関係のある伝承をもつ神社が二つある。その一つは上杉町の八坂神社である。祭神は素戔鳴尊・大己貴尊・少彦名命。受持之神で、昔は飯宮(はんのみや)大明神と称した。社伝によると崇神天皇の十年秋、丹波国青葉山に玖賀耳という強賊がいて良民を苦しめるので、勅命を受けた日子坐王・丹波道主命が軍をひきいてきたところ、丹波国麻多之東において毒蛇にかまれ進むことができなくなった。時に天より声があったので、素戔鳴尊ほか三神をまつったところ験があって病がなおり、首尾よく賊を平げることができた。帰途、この地に素戔鳴尊と諸神をまつったのに由来するというのである。(飯宮由来記)前に記した『丹後風土記』の記事と符合する伝説である。八坂神社には、「永久五酉稔(一一一七)三月総社麻多波牟官神」の銘のある神鏡が伝わっていたから、平安時代には八田郷の総社であったと思われる。
もう一つは広瀬町の伊也神社である。ここには、「崇神天皇の御代丹波道主命本郡に来り 甲ケ峯の麓に宮を築き天照大神 素戔鳴尊 月読尊の三神を崇敬し神社にまつった」という伝承がある。これらの伝承からみて、この地方には古くから丹波道主命父子による丹波の平定が信じられていたと考えられる。

阿須須伎神社(式)(綾部市金河内町東谷)
『何鹿郡誌』に、郷社にして天御中主之神、高産霊神、神産霊神、道主貴神を祭神とす。

與能(よの)神社(式)(亀岡市曽我部町寺蛇谷)
『亀岡神社誌』に、「與能神社所蔵の「諸国神社神秘抄」写しによれば「崇神天皇の時、丹波道主之命を将軍として、桑田都に三座の神社を祀った。これ三宅神社、山国神社、與野神社である」と記述されてある。また「丹波道主之命は人王九代開化天皇の孫彦坐王第八王子で、母息長水依姫で道徳武備の勇将である。興能大明神は比の時の鎮座である」とも記されている。」とある。
三宅神社(式)(亀岡市三宅町猪坂)
山国神社(式)(京都市右京区京北町鳥居宮ノ元)


川内多多奴比(かわうちたたぬひ)神社(式)(兵庫県丹波篠山市下板井)
神社に伝わ由緒に、崇神天皇の時、四道将軍の一人「丹波道主命」がこの地で賊徒と争った際、白髪の老人が現れ、白玉と剣を授け、その加護によりこれを平定し、この神宝を二神として社殿を創建したと伝えられている。
楯縫神社がこの辺りには多い、多々奴比はその意味、河内郷の楯縫神社という。

夜夫坐神社(大二小三)(=養父神社)(兵庫県養父市養父市場字宮ノ谷)
祭神は、倉稲魂神・少彦名命・大己貴神・谿羽道主命・船帆足尼命。

佐々伎神社(兵庫県豊岡市但東町佐々木)
崇神天皇十一年道主命、比奈良岐と計り北國開發の祖は少彦名命、大國主命を祀る社を創立せしに創まると傳ふ

雲部車塚古墳(丹波篠山市東本荘)は丹波道主王の陵墓とする伝承がある









 音の玉手箱
 精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石

Chopin Polonaise No.6 op.53 Héroïque




ショパン「英雄ポロネーズ」演奏ホロビッツ(1987ウィーン楽友協会ホール)
Martha Argerich - Chopin - Polonaise No 6 in A-flat major, Op 53
Chopin Polonaise No.6 op.53 Cyprien Katsaris
Seong-Jin Cho – Polonaise in A flat major Op. 53 (Prize-winners' Concert)

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