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女王墓
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![]() 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 卑弥呼の冢耶馬台国の女王・卑弥呼の冢 卑弥呼(ひみこ、170〜247年頃)は、3世紀初頭に倭国(日本)の邪馬台国を治めた女王(成人で独身)、『魏志倭人伝』に記される。「鬼道」と呼ばれる呪術で国を統治、弟に政務を補佐させ、約30の国々を従えて魏へ朝貢し、239年には魏へ使者を送り「親魏倭王」の金印紫綬を授けられた。 実在は確実視されているが、その場所は現在も不明、現在も議論が続いている。 その国、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて国を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。 卑弥呼以て死す。大いに 「冢」とは、墳との違い。冢は日本では土篇をつけて塚と書かれることが多い。 「歩」とは、魏朝の時代の尺度(一歩が約1.45メートル)ほど、あるいは倭人伝に通じる「短里」で表現されたものとみて、30㎝ほどとみる、あるいは「歩」を人間の実際の歩幅(一歩=約60~70㎝)とみる。 その卑弥呼の冢ではないかと見られている墳墓は、 箸墓古墳(桜井市) ○平原一号墓(糸島市)-伊都国女王墓あるいは卑弥呼の墓と見られている ![]() 墳丘墓は、14m×10m。墳丘の周りには幅2m程の溝が取り囲む。方形周溝墓で、割竹形木棺。 ![]() ![]() 副葬品の中には日本製と中国製の破砕した銅鏡片が多数あり、これらの破片は39面分に復元された。弥生時代後期後半の墳丘墓と見られている。 副葬品は、大型内行花文鏡 5面(または4面) 別称「内行花文八葉鏡」、日本製、直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡。内行花文鏡 2面方格規矩鏡 32面四螭文鏡 1面メノウ製管玉12、ガラス製勾玉3、ガラス丸玉 約500、ガラス小玉 約500、ガラス管玉 約30、ガラス連玉 約900耳璫 3破片素環頭大刀 1。 副葬品の中に装身具が多く、かつ武器が少ないことから、平原王墓の被葬者は女性だと考えられている。伊都国は女王だった。 ○箸墓古墳(桜井市箸中) 名前の由来は、百襲姫の陰部に箸が突き刺さり絶命したという説話に基づく。『日本書紀』崇神天皇10年9月の条には、つぎのような説話が載せられている。一般に「三輪山伝説」と呼ばれている。 倭迹迹日百襲姫命、大物主神の妻と爲る。然れども其の神常に晝は見えずして、夜のみ来す。倭迹迹姫命、夫に語りて曰はく、「君常に晝は見えたまはねば、分明に其の奪顔を視ること得ず。願はくは暫留りたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀を覲たてまつらむと欲ふ」といふ。大神對へて曰はく、「言理灼然なり。吾明旦に汝が櫛笥に入りて居らむ。願はくは吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。 爰に倭迹迹姫命。心の裏に密に異ぶ。明くるを待ちて櫛笥を見れば、途に美麗しき小蛇有り。其の長さ大さ衣紐の如し。則ち驚きで叫啼ぶ。時に大神恥ぢで。忽に人の形と化りたまふ。其の妻に謂りて曰はく、「汝。忍びずして吾に羞せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。仍りて大虚を踐みて、御諸山に登ります。爰に倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて急居。〈急居、此をば菟岐于と云ふ。〉則ち箸に陰を撞きて薨りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を號けて、箸墓と謂ふ。是の墓は、日は人作り、夜は神作る。故、大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民相踵ぎて。手遞傳にして運ぶ。時人歌して曰はく、… ![]() ![]() 纒向古墳群(箸中古墳群)の盟主古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられている前方後円墳。現状での規模は墳長およそ290メートル、後円部は径約150メートル、高さ約30メートルで、前方部は前面幅約130メートル、高さ約16メートルを測る。その体積は約37万立方メートル。周辺地域の調査結果から、278メートルではなく290メートルであることが分かった。 後円部は四段築成で、四段築成の上に小円丘(径約44-46メートル、高さ4メートルの土壇、特殊器台が置かれていたと考えられる)が載ったものとも見られる。前方部は側面の段築は明瞭ではないが、前面には4段の段築があるとされる。ちなみに五段築成(四段築成で、後円部に小円丘が載る)は箸墓古墳のみで四段築成(三段築成で、後円部に小円丘が載る)は西殿塚古墳(大和古墳群)、行燈山古墳(柳本古墳群)、渋谷向山古墳(柳本古墳群)、桜井茶臼山古墳(鳥見山古墳群)、メスリ山古墳(鳥見山古墳群)、築山古墳(馬見古墳群)等が考えられ他の天皇陵クラスの古墳は全て三段築成(後円部も前方部も三段築成)とされる。被葬者の格付けを表しているのかも知れない。 全国に墳丘の設計図を共有していると考えられる古墳が点在している点、出土遺物に埴輪の祖形である吉備系の土器が認められる点などそれまでの墳墓とは明らかに一線を画している。また規模、埴輪などは以後の古墳のモデルとなったと考えられ当古墳の築造をもって古墳時代の開始と評価する研究者も多い。 第7代孝霊天皇と、妃の倭国香媛(意富夜麻登玖邇阿礼比売命、絙某姉は、蠅伊呂泥との間に生まれた皇女。 『日本書紀』では、百襲姫は大物主神(三輪山の神、大神神社祭神)の妻となったという。 『日本書紀』崇神天皇7年2月15日条では、国中で災害が多いので天皇が八百万の神々を神浅茅原に集めて占うと、大物主神が百襲姫に神憑り、大物主神を敬い祀るように告げたという。同書崇神天皇7年8月7日条では、倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人はともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられたといい、同年11月13日条ではその通りにしたところ果たして国内は鎮まったという。この「倭迹速神浅茅原目妙姫」は百襲姫と同一視される。また同書崇神天皇10年9月27日条では、四道将軍の1人の大彦命が和珥坂で不思議な歌を詠う少女に出会う。 少女は詠う 「ミマキイリビコはや おのが命を殺せんと ぬすまく知らぬに 姫遊びすも」。 大彦命は気になって尋ねる「なんじが言は何辭ぞ」。 少女は答える「物言はず、ただ歌うのみ」。 少女はもう一度同じ歌を詠うと姿を消した。大彦命は引き返してこのことを天皇に報告した。百襲姫はこれを武埴安彦とその妻の吾田媛による謀反の前兆であると告げ、果たして謀反は起こったが鎮圧されたという。この説話部分は、前後の記述関係から某かの神が童の口を借りて詠わせたともとれる内容である。三輪山の大物主神は三輪山の神とされる。続けて、同書では百襲姫による三輪山伝説・箸墓伝説が記される。 卑弥呼は共立された弥生の女王で、その冢としては、箸墓は立派すぎる、倭迹迹日百襲姫の墓としても、紀の記事と較べると立派すぎるように思える。 ○切山古墳(舞鶴市境谷)(4世紀中頃) ![]() ![]() 女王かも 石棺に使われた石材は、凝灰岩を加工した丹後半島産のもの、棺内の全面には、朱が塗られていました。石棺の中からは頭がい骨の一部のほか、鉄剣、鉄鏃、銅鏃などの副葬品も発見されました。後にこの頭がい骨を見た医療関係者から、被葬者は女性といううわさがささやかれてきました。 副葬品は鉄剣二、鉄板状利器一が東南長壁にそい尖端を足の方にむけておかれ、鉄鏃・銅鏃は北東隅にあった。このほか棺外北側、蓋石の高さの所に土師壺の破片が散乱していたが、付近の状況からみて、蓋石粘土の上に置かれたものと考えられる。 大谷古墳○大谷古墳(京丹後市大宮町谷内小字大谷) 竹野川を見下ろす丘陵先端に単独で築造された古墳、規模に比べて前方部が短い帆立貝式の前方後円墳であり、埴輪・葺石・段築はない。 出土品類から5世紀前半の築造と推定されている。被葬者の完全な人骨が遺存した。 人骨は、足首を除くほぼ全身各部の骨が残存した状態で発見されたが破損は著しかった。寛骨(骨盤の一部)の形状から女性と判定された、大臼歯歯冠の摩耗が著しく、腰椎椎体の前面に経度の嘴状骨増殖が認められることから死亡年齢が熟年前半と推定される。他地域で同時期に発見された女性の人骨と比較し、著しく長い脳頭蓋、極端に低い顔面、鼻といった特徴から縄文人的色彩が強いという。 このことから、当地域は古墳時代中期のある時期、女性首長による統治が行われていたとする説がある。また、支配者を象徴する鏡・玉・剣の三種の神器が出土している女性首長を葬った古墳は数例しかなく、そのため、発掘当時は「丹後の卑弥呼」と比喩され話題になった。また、移築に備えた作業中に、墳丘盛土の下層から弥生時代の台状墓に伴う主体部が4基重複(合計6基)した状態で確認されている。 発掘の経緯 1987年(昭和62年)、京都府中郡大宮町の企業造成予定地として、大宮町字谷内小字大谷地区が選ばれた。造成予定地の中心部に位置する大谷古墳については、設計上現状保存が困難とされ、記録保存を前提とする発掘調査を実施することになった。 案内板 墳丘は、全長32メートル、後円部径26メートル、前方部幅19メートル 基底部からの高さ:後円部4メートル、前方部2.5メートル 墳丘の裾部:幅約1.5メートル 墳頂部:直径12.5メートル × 短径11メートルの主軸方向に長い不整な円形 ![]() 出土品 銅鏡1面10.8センチメートル、縁面0.4センチメートル、反り0.2センチメートル。極めて保存状態が良い。勾玉1点:緑色半透明を呈する良質な硬玉製品「C」字型。腹部に未調整面がある。ガラス小玉33点:青色を呈する臼玉状品。 鉄剣1本:。断面はレンズ状を呈している。身の一部に布目痕、茎の一部に木質が遺存する。全長43.7センチメートル、刃部長33.9センチメートル、最大幅3.0センチメートル、厚さ0.5センチメートル、茎部長9.6センチメートル[8]。 鉄斧1点::鍛造の袋状鉄斧。袋状の成型は粗雑である。全長7.2センチメートル、刃幅3.3センチメートル。刀子1点。 弥生時代の遺物(下層部の弥生時代墳墓) 弥生土器:壺、甕、高坏等の器形がある。鉄鏃1点:木葉形の鏃身に茎がつくものと考えられている。 石棺花崗岩質の地山を切り出した部分、墳丘の主軸と直交する方向に、組合式石棺が営まれている。墓壙は長さ4.55メートル、幅2.8メートル、北東辺の一部に張り出した部分は階段と見られている。深さは約1メートル、石棺材を添えつける位置のみ溝状に彫り凹められている。内部は弁柄で一面えんじ色に塗られていた。粘土等で石材隙間が密閉され千数百年にわたり土砂の流入を防いできた為、保存状態が良かったと推測される。 ![]() ![]() 男性被葬者には複数の刀剣が副葬されるのに対して、女性被葬者では1本に限定されるなど、刀剣類の副葬数に性差が存在していたともいう。 刀剣が1振りで、玉類が多いと女性と推定しても、だいたいは当たっているかも知れない。玉類の副葬は丹後は特に多く、総計は優に1万点を超えている。そうすると女王ばかりの国であったのかも知れない、弥生後期のことで、女王と呼べるほどの卓越した権力者であったかは不明だが、この時代は比較的に地位が高かったのかも知れない。 ガラス玉は、海外からもたらされた貴重なもので、供給元は、たぶん中国の越の方ではないかと勝手に想像しているのたが、その交易は安定していなくて、古墳時代になると10分の1以下にもなってしまったのではなかろうか。ガラス玉が入手てきない古墳時代ではなかったかと思われる。玉がない女王墓もあったのではなかろうか。 女性人骨が出土した古墳女性人骨が出土した古墳は全国で8例知られている全国の古墳の総数は16万基以上。兵庫県が最も多く18851基、次が鳥取県13486、次いで京都府13117となっている。 確実に女性だと鑑定された古墳は、わずかに8基のみである。状態のよい人骨が発掘されなければ、性別は判定できないため、本当はもっと多かろうと思われる。 女王墓は日本史を知るうえで大変に貴重な歴史遺産である。 ○向山古墳2号墳(兵庫県朝来市和田山町) 副葬品内行花文鏡1、ヤリガンナ2、土器7 2号墳は、長さ10.6m×幅6.5mの長方形を呈する古墳で、墳頂に3基の埋葬施設を持つ。人骨が遺存していたのは、中央にあった第2主体部である。第2主体部がこの古墳のもっとも中心的な埋葬施設である。竪穴式石室に木棺が内包されていたという。竪穴式石室の内法は長さ1.92 m・幅0.52mであり、木棺内法は長さ1.53m・幅0.29mである。木棺内に東頭位の人骨が検出されている。副葬品に内行花文鏡1面とヤリガンナ2本がある。また竪穴式石室の墓壙には二重口縁壺が据え置かれていた。 県立考古博物館の案内 この骨は朝来市和田山町の向山むかいやま2号墳で見つかった約1700年前の古墳時代の女性の骨です。山の上につくられた古墳の石室の中で、木の棺に入れて埋葬されていました。奥歯はがよくすり減っているので、この人の死亡年齢は40才から60才くらいの熟年であると推定されています。下半身の骨は残りが悪かったので、身長は不明です。上あごにひどい虫歯のあとがあるので、歯痛はいたで苦しんでいたようです。 石の部屋の壁が赤くなっているのは、赤色せきしょく顔料がんりょうであるベンガラが塗られているためです。また、女性の頭の部分が鮮やかに赤くなっているのは、水銀すいぎん朱しゅが塗られているためです。顔を赤く塗るのは、巫女みこをかたどった埴輪に見ることができるので、この女性が巫女であった可能性も考えられます。このように石の部屋や顔を赤くぬることは呪術的な意味があったと考えられており、古墳時代では珍しいことではありません。 この女性の枕元には中国製の鏡が副葬されており、この地域のリーダー的な女性であったことがわかります。巫女のように人々に神の声を伝え、皆から慕われた人だったのでしょう。 そのほか、女性人骨が出土した古墳 ○山形県米沢市 5世紀後半 戸塚山古墳137号墳 帆立貝式前方後円墳:墳丘長24メートル 身長145cm 40~50歳 米沢市の案内によれば、戸塚山古墳群中、もっとも大きな古墳は山頂の139号墳です。長さ54メートル、高さ4.5メートルと大きなもので、上から見ると台形と円形を組み合わせた形の前方後円墳です。この古墳の東側に、ホタテ貝の形をした帆立貝式古墳が2基(137・138号墳)あり、137墳が発掘され話題を呼んだ古墳です。長さ24メートル、後円径21メートルの大きさで、中央を2.6メートル掘り下げた所に石を組み合わせて作った箱形の石棺がありました。石棺の大きな蓋石を持ち上げると、その中には人の骨一人分がほぼ完全な形で横たわり、まわりから縦に長い櫛が3個、握りの部分を鹿の角で作った鉄製の刀子が発見されました。古墳から人骨が発掘されたのは珍しいことです。人骨は独協医科大学の解剖学の先生達によって調べられ、骨盤などから見て明らかに女性で、身長145センチほど、年齢は壮年中後期(40歳から50歳)と推定されました。また、全体的に骨が細くきゃしゃな体つき、22本残っていた歯のうち7本が虫歯であることが特色として示されました。甘い物が食べられ、重労働をしないで育った、身分の高い女性と想像されます。 古墳のある戸塚山山頂からは米沢盆地が一望でき、米沢地方を治めた王・女王のお墓の場所にふさわしい所です。また、石蓋に使われた一枚岩は重さ約1トンの砂岩で、下から運ばれたものと考えられ、その経済力や支配力の強大であったことがうかがえます。 ○山口県平生町 5世紀前半 神花山古墳 前方後円墳:墳墓長39メートル ほぼ完全な状態で発掘されたが占領軍に持ち去られ現存は頭蓋骨のみ 20代前半女性。 平生町の案内には ![]() 平生湾に面した標高39メートルの神花山の山頂部にある前方後円墳です。全長約30メートル、高さ約2.5メートル。5世紀前半に造られたものと推定されます。この古墳の発見は、第2次世界大戦のさなかの昭和19年。当時この付近一帯は海軍の軍用地でした。この神花山の頂上に高射砲の陣地を構築するため敷地をつくっていたところ、石棺が発見されたのです。中には、ほぼ全身の人骨が納められており、当時は壮年男性のものと考えられていました。しかし敗戦後の混乱により、現在は頭骨だけが保存されています。昭和62年、長崎大学医学部の松下教授の鑑定により20代前半の女性の頭骨と判明しました。古墳時代の女性の人骨が、発見されることは大変珍しく、貴重なものです。昭和57年山口県の指定史跡となりました。町は遺骨をモデルに復元像を作り、平生町民俗資料館に展示しています。これをもとに建立された古代女王像(高さ約10メートル)は、神花山古墳のシンボルとなっています。○愛媛県今治市 5世紀中頃 古谷犬山谷古墳 方墳:10x10メートル。 ![]() 古谷犬山谷古墳の真下の谷には式内大社である多伎神社が鎮座し、その境内や裏山の斜面には古墳時代後期(6~7世紀)の群集墳である多伎宮古墳群が築かれてる。.古谷を含む旧朝倉村には古墳時代中期以降、多数の古墳が造られており、県内でも有数の古墳の密集地として知られている。. 古谷犬山谷古墳は古墳時代中期(5世紀中頃)に造営された古墳。墳丘は西から東へのびる丘陵の先端部付近を堀切状にカットして周濠を設け、地山を削りて整形した一辺約 10m四方の方墳で、墳丘中央に遺骸を埋葬する施設として二基の石棺が設けられている。石棺は頭位を東へ向けて南北に並置され、それぞれの石棺内部からは人骨とともに大刀が出土した。大刀は北石棺では被葬者の右脇に、南石棺では両脇に一振りずりが切先を足下ヘ向けて置かれ、大刀と側壁との間には側壁沿いに拳大の小石が規則正しく列べられられていた。 .2基の箱式石柁からそれぞれ1体ずつ、合計2体の人骨が出土した。南石棺人骨は老年の男性骨、北石棺人骨は年齢不明の女性骨である。 ○大分県宇佐市 4世紀後半 免ヶ平古墳 前方後円墳:墳丘長50メートル 30~40歳 ![]() 全長約51mの前方後円墳。後円部径約27m、葺石・周濠を備える。前方部は消失している。後円部墳頂で竪穴式石室と箱式石棺の2基の埋葬施設が見つかり、割竹形木棺が納められた竪穴式石室からは三角縁神獣鏡や玉類、腕輪形石製品、武器、工具などが、箱式石棺からは女性の人骨とともに銅鏡や玉類、腕輪形石製品などが出土した。 2つ目の埋葬施設、箱式石棺2m×0.5mの石棺が土に直接埋められていた。この棺の中からは女性の人骨が見つかった。 ○大分県大分市 5世紀中頃 築山古墳 前方後円墳:墳丘長90メートル 埋葬者が速吸日女(速来津姫)という説がある。石室に34㎏の朱が使われている。5世紀中頃。 「海部の女王」を埋葬した、海部(豊後国海部郡)を代表する古墳の一つ、1932年の植林作業中に2基の緑泥片石製箱式石棺が発見され、その後の調査で4体の人骨が発見された。 1932年(昭和7年)、植林作業の際に後円部から2基の緑泥片岩製箱式石棺が発見され、その後の調査で「北棺」(長さ1.8メートル、幅0.65メートル、深さ0.73メートル)と呼ばれる石棺からは右腕に貝釧をつけた1体の女性、「南棺」(長さ1.95メートル、幅0.75メートル、深さ0.8メートル)からは3体の人骨(うち一体は女性)が発見された。 女性のみが単独で埋葬されている点などから呪術者であった女性の墓ではないかと推測されている。地元で祀られている「速吸日女」の墓ではないかという説や、邪馬台国議論に加わり卑弥呼の墓ではないかとする説が主張されている。 総量34kgという大量の朱が使われているなど、最高級の豪華葬であったことも判明し、海部の歴史を知る上で重要な遺跡。 副葬品 南棺から朱、 麻織物片、 絹織物片、 絹綿(石棺内部を朱で装飾し、絹織物を敷き詰めた上に遺体を安置したと考えられる) 鉄刀(環頭大刀を含む)11、 鉄剣4、捩文鏡1、ガラス製小玉180、 鉄鏃90、釵、鉄製農工具など(斧頭5、鍬先13、刀子2、鎌2、鉇3、毛抜形鉄器6、 北棺から貝釧11、 管玉2 ○熊本県宇土市 4世紀後半 向野田古墳 円筒埴輪、葺石 ![]() 前方部を北に向ける全長約86mの前方後円墳。採土工事によって前方部が失われ、また、後円部墳頂平坦面も削られている。古墳時代前期後半と考えられ、後円部中央の竪穴式石室から、30代後半~40代の女性の人骨が発見されるなど、当古墳では貴重な発見が多数あり、出土遺物は国の重要文化財に指定されている。 埋葬施設は竪穴式石室で、内部に舟形石棺を据える。石棺内外からは被葬者の人骨(成人女性)のほか、銅鏡・玉類・車輪石・刀剣類・工具類など多数の副葬品が検出されている。以上より築造時期は古墳時代前期の4世紀後半頃と推定される。人骨の出土のほか、被葬者が女性単独という点で注目される古墳になる。 当古墳の被葬者は女性であることが明らかとなり、女性の地域権力者の存在が確認されました。これは、古墳時代前期社会における首長権力のあり方を考える上で非常に重要な発見であり、当古墳は、熊本県地域だけでなく、日本における古墳時代前期を語る上で欠かせない古墳です。という。
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資料編の索引
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