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暦の伝来②
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![]() 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 (資料はネット上のものなど 感謝) 日本の暦自然暦。1年2倍暦仮説『魏志倭人伝』裴松之の注釈に、![]() 当時の倭人について、『魏略』いわくとして、「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」(その風習は正しい年暦と四つの節分を知らず、ただ春の耕作と秋の収穫を計って年紀とする)とある。 倭人には暦がなく、春の種まきと秋の収穫で年数としている、という。(ここから春秋二倍暦説もある。また「年」の漢字には、稔り、穀物の意味もある) こうした自然の移り変わりで知る原始的アバウトな「暦」を自然暦という。「年」という漢字から考えても、中国も古くは穀物の収穫をもって1年としていたのではなかろうか。 1収穫が今の1年のことだが、倭人は1春耕で1年、1秋収でまた1年と数えて、今の1年を2年と数えていたのかも知れない、の仮説もある。 景行147才、仁徳143才、2倍と考えても長すぎる- 白川静『常用字解』に、 ![]() 〔解説〕会意。 漢字は稲作地でできた文字ではないので、禾は稲ではなかろうと思う、黄河流域で栽培されていたアワキビ類の穀物でなかろうか。 岩波『古語辞典』は、 とし【年・歳】《稲などのみのりの意。一回のみのりに一年かかるところから、後に、年の意。漢字[年]も原義は穀物の熟する意》①稲。また、稲のみのり。「わが欲りし雨は降りきぬかくしあらば言挙(ことあげ)せずとも-は栄えむ」〈万四一二四〉。「-つくりたのしかるべき御代なれば稲ぶさ山のゆたかなりける」〈栄花日蔭〉。「稔、ミノル・トシ」《名義抄》②時の単位。四季一巡する期間。一年。「-にありて一夜妹にあふ彦星も」《万三六五七》③… 品種により多少は異なるが、アワは5月下旬播種で 10 月上旬収穫。キビは5月下旬播種、9月中旬から下旬収穫だそう。 中国伝来の5つの暦伝来の始まり、百済から伝わった暦法が用いられた。『日本書紀』 欽明14年(553) 六月に、内臣〈名を闕せり。〉を遣して、百済に使せしむ。…。 別に勅したまはく、「醫博士・易博士・ 欽明15年 二月に、…別に勅を奉りて、易博士施徳王道良・暦博士固徳王保孫・醫博士奈率王有?陀・採薬師施徳潘量豊・固徳丁有陀・楽人施徳三斤・季徳己麻次・季徳進奴・對徳進陀を貢る。皆請すに依りて代ふるなり。 当時の百済では宋(南朝)の 持統6年(692) 十一月…甲申(十一日)に、勅を奉りて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行ふ。 中国伝来の5つの暦(いずれも太陰太陽暦) 唐の 大衍暦(唐)は、吉備真備が天平7年(735年)に唐から持ち帰った。当時の日本には暦学に通じた人材が不足していたため、実施には慎重な準備が進められた、後に藤原仲麻呂政権下で実現された。天平宝字8年(764年)から貞観3年(861年)までの98年間用いられた。天安2年(858年)からの4年間は改暦の準備として 五紀暦(唐)は、天安2年(858年)から貞観3年(861年)までの4年間、それまで使われていた大衍暦と併用された。五紀暦が単独で用いられることはなかった。 宣明暦(長慶宣明暦)(唐)は、天安3年(859年)に渤海使がもたらし、それまでの大衍暦・五紀暦に代わり用いられる。暦博士大春日真野麻呂の強い推挙によるものとされている。その後、朝廷の衰退や、承和年間における遣唐使の途絶以後、日本の朝廷が中国王朝との正式な外交関係を持たなかったこと、日本の暦学(暦道)自体が独自の暦法を作る水準までに達していなかったことによって改暦が行われず、長期にわたり使用されたために誤差が蓄積することになる。日本においては中世を通じて823年間継続して使用され、史上最も長く採用された暦となった。 日本製の暦(和暦)それまでの宣明暦が中国の経度に合わせて作られていたのに対し、貞享暦は日本の経度・緯度に合わせて計算し直された。 中国元代の授時暦を参考に、日本の里差(経度差)を補正し、1年の長さが徐々に変化する消長法を援用して改良。 これにより、それまで長期間にわたり暦と季節のずれが生じていた宣明暦が廃止された。 貞享暦の施行に伴い、渋川春海が初代幕府天文方に任じられ、暦の編纂実務が朝廷から幕府の管轄に移った。 将軍徳川吉宗が西洋天文学を取り入れた新暦を天文方に作成させることを計画したが、吉宗の死去により実現しなかった。結局陰陽頭・土御門泰邦が天文方から改暦の主導権を奪い、宝暦4年(1754年)に完成させた宝暦暦が翌年から使用されたが、西洋天文学にもとづくものではなく、精度は高くなかった。 貞享暦よりも出来が悪いという評価は覆し難く、日本中で様々な不満が出て、改暦の機運が年々高まっていく事となった。結局、幕府や朝廷は不満の声に抗しきれず、改暦を決定した。評判の高かった天文学者の高橋至時を登用し、寛政暦が作成され、宝暦暦はその役割を終えた。 寛政暦は、1798年(寛政10年)から1843年(天保14年)まで使用された、日本で導入された太陰太陽暦。高橋至時らによる、西洋天文学の成果を初めて取り入れた画期的な暦法で、旧暦宝暦暦の誤差を修正するため、清の天文書『暦象考成後編』などを元に作成された。 宝暦暦が出来の悪い暦法であったことから、幕府は西洋天文学を取り入れた暦法に改暦をしようとし、麻田剛立の門下であった高橋至時を幕府天文方に登用し、同門の間重富とともに改暦の準備に当たらせた。高橋至時らは先任の天文方(山路徳風ら)と協力し、寛政9年(1797年)に暦法を完成させた。この暦法では、西洋天文学の書物の漢文訳である『暦象考成後編』を元に、月と太陽にだけであるが楕円軌道法を導入したが、惑星については周転円に基づく理論であった。また、精度の悪い古代の観測結果を説明するために、消長法を採用した。弘化元年(1844年)渋川景佑らにより『寛政暦書』(35巻)が出版。図にティコ・ブラーエのものをいれるなどしている。天保8年(1837年)の大小暦(大月〈30日〉、小月〈29日〉)は、2月、4月、6月、9月、11月が小月であり[4]、その覚え言葉が「西向く士」であった。 天保暦(天保壬寅元暦)は、弘化元年(1844年)から明治5年(1872年)まで約30年間使用された。渋川景佑が中心となり西洋天文学の知見を取り入れて編纂され、当時としては世界最高水準と評価されている。明治5年(1872年)に新暦(グレゴリオ暦)に改暦されたため、現在は「旧暦」と呼ばれることがある。 明治6年の改暦。グレゴリオ暦の採用天保暦の廃止及び太陽暦の導入、定時法と24時制の導入 西暦1872年に当たる明治5年11月9日、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(通称:改暦ノ詔書並太陽暦頒布)とする改暦ノ布告(明治5年太政官布告第337号)を布告した。この布告では、明治5年12月2日(1872年12月31日)をもって太陰太陽暦(天保暦)を廃止し、翌・明治6年(1873年)から太陽暦を採用すること、「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」として、グレゴリオ暦1873年1月1日に当たる明治5年12月3日を改めて明治6年1月1日とすることなどを定めた。 併せて時刻の扱いを不定時法から定時法に改めるとともに、1日を24時間に分け、午前と午後で時刻を表す12時制を導入した。 (参) こよみの暦注![]() ![]() ![]() 一般に、暦の上段には日付・曜日・二十四節気、七十二候などの科学的・天文学的な事項や年中行事が書かれ、中段には十二直、下段には選日・二十八宿・九星・暦注下段などの事項が書かれる。また、六曜は日付の下に書かれることが多いが、これも暦注に入れる。 暦注は記載される位置から、上中下の三段に分類され、 上段:干支。中段:十二直。下段:その他の吉凶 明治改暦において、中下段の暦注は迷信に過ぎないとして、廃止された。 暦注を配当する方法を撰日法という。中国から伝来した大唐陰陽書などがもとにされている。八十八夜や二百十日のような、日本独自の暦注もある。 暦注の吉凶は、もとは中国の陰陽五行説や『宿曜経』、易などから発生したもので、それが占い的側面への関心が強かった日本の暦道に取り込まれ、独白の発展を遂げていった。たとえば六曜は、発祥の地である中国では「その義取るに足らず」と批判され、定着しなかったものである。 もともと暦は占いは表裏一体で、西洋の占星術なども暦と双子のような関係であった。宗教・迷信や政治的・宗教的権威とは関係のない科学的根拠に基づいたニュートラルな暦になるまで、暦は占いや権威の大事な道具であった。 しかし一方で、古来、非科学的な迷信である暦注に対して批判的な見方も多かった。古くは、大同2年(807)に時の平城天皇が暦注の削除を命じている。また、江戸時代でも弊害の多い迷信として批判され、明治の改暦も暦注の廃止が目的の一つであったとされる。昭和17年(1942)にも暦注の禁止が言い渡されているが、戦後になると再び暦に暦注が掲載されるようになり、現在もなお広く暦注が信仰されている。 主な暦注 春:立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨 夏:立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑秋:立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降 冬:立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒 太陽の黄道上を15度ごとに24等分し、およそ15日ごとに区切ったもので、 約2000年前に中国で考案され、平安時代に日本に伝わった。太陰暦では実際の季節とは1年で10日ほどのズレが生じるが、節気は太陽暦なので、そうしたことがない。 太陽暦(新暦)が主流になった後も、季節の移り変わりを知るための暦として、農事暦や旬を楽しむ生活の指標として使われ続けている.。 ただし、古代中国の気候は現在日本と1月ほどのズレがあるので、二十四節気と日本の実際の季節感には差がある。 地道な観測と記録の積み重ねにより、古代の人々は現在の天文学的な知識がなくとも、太陽の星座間の見かけの動きを知り、二十四節気といった精密な季節区分を確立したといわれる。 雑節 雑節は二十四節気とは別に、特に生活、農耕に密着した時節で、太陽歴ともよく合致しているのでなじみが深い。 節分、彼岸、社日、八十八夜、入梅、半夏生、土用、二百十日、二百二十日… これに、初午・三元を元にした上元(前半年の最初の望月、小正月)、中元(3番目の四半年の最初の望月、盂蘭盆会)、下元(4番目の四半年の最初の望月)、大祓を加える場合もある。 八十八夜…立春から数えて88日目、米の字に通じ、だいたい霜の降る最後の時期。 入梅…芒種の後の壬の日を、暦上入梅という。立春から数えて135日目、太陽黄度80度、以後30日間を梅雨という。 半夏生…夏至から11日目頃を初日として5日間。田植えの終わり頃の時期。 三伏…夏至の後の第3の庚の日を初伏、第4を中伏、立秋後第1の庚の日を末伏といい、極暑の期間。 土用…7月20日頃を入りとして立秋になる前の18日間。春夏秋冬と4回の土用があるが、普通は7月20日、あんころを食べる日だそう。 二百十日…立春から数えて210日目、9月1日頃。台風シーズンと、稲の開花期が重なる為、農家の厄日とされ、300年程前から暦に記載されるようになった。 社日…春分・秋分に最も近い戊の日、春は五穀豊穣を神に祈り、秋は初穂を報謝して神を祭る。 寒の入り…1月5日頃から立春の前日まで冬の土用に当る時期を寒という。一年中で最も寒い、その初日の事、寒についた餅はカビないという。 十干は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類、十二支は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類、これらを合わせて干支と呼ぶ。 十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。古代中国にはじまる暦法上の用語。 暦を始めとして、時間、方位、ことがらの順序などに用いられる。六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。 干支によって日付を記述する干支紀日法は、すでに殷代の甲骨文に現れている。 古代中国では1月を3分割して「旬」(10日)というサイクルを考案し、十干という順序符号をつけた。甲骨文には「卜旬(ぼくじゅん)」があり、これは、ある特定の日(癸の日)から向こう10日間の吉凶を占ったものである。10日、すなわち十干を3回繰り返すと1か月(30日)になるので、十干と十二支を組み合わせると、2か月(60日)周期で日付を記録することになる。 ある日を甲子とすると、第2日が乙丑、第3日が丙寅というように進んで第60日の癸亥へと進み、第61日に至ると再び甲子に還って日を記述していった。これは、3,000年以上経った今に至るまで、断絶することなく用いられている。また、干支紀日は『日本書紀』など東アジアの歴史書にも広く使用されている。 十干・十二支すべての組合わせは120だが、そのすべてが組合されるわけではなく、十干の「甲、丙、戊、庚、壬」と、十二支の「子、寅、辰、午、申、戌」、十干の「乙、丁、己、辛、癸」と、十二支の「丑、卯、巳、未、酉、亥」が組み合わされるため、60干支となる。癸亥の次は最初の甲子に戻って繰り返す。このように60年周期で干支が一回りするため、60歳になることを還暦を迎えるという。 のちに陰陽五行説によって干支に陰陽と五行割り振られて、年や日の吉凶が占われるようになった。 後漢の時代、60年周期の干支を1年ごとに機械的に進めていく干支紀年法が用いられるようになり、絶えることなく現在まで続いている。これは、後代に干支が伝来した朝鮮や日本とも共通である。例えばウマ年は卑弥呼の時代以前からずっと12年周期で繰り返されている。 広開土王碑と12世紀成立の高麗朝による正史『三国史記』の干支に1年の違いがあるなど、時代や地域によっては必ずしも一定しないことも散見されるという。 中国でも日本でも暦はしばしば改定されているが、干支による紀日は古代から連綿と続いており、古い記録の日付を確定する際の有力な手がかりになる。 さらに、旧暦の月は29日また30日で規律があまりなく、閏月もあるが、干支を使えば閏月があるかないかがわかる。 埼玉県行田市埼玉の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣には「辛亥年七月中記」の紀年があり、銘中「獲加多支鹵大王」を雄略天皇とする考えが主流であることから、「辛亥年」を471年とする説が有力である。411年、あるいは531年とする説もある。 和歌山県橋本市隅田の隅田八幡宮に所蔵されている人物画像鏡には、「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿…」という銘文が鋳されていて、この「癸未年」は、「男弟王」が継体天皇と考えられることから、503年とする見方が有力である。443年説もある。 兵庫県養父市八鹿町の箕谷二号墳出土の太刀には、「戊辰年五月(中)」の銘がある。戊辰年は、大刀の形状や伴出した須恵器の形式から、推古十六年(608)にあてるのが最も有力と考えられている。1983年12月に、出土した鉄刀(刀身68.8cm、推定長77cm前後の圭頭系大刀)をエックス線検査したところ、刀身の柄寄りの部分に「戊辰年五月(中)」と刻まれた銅象嵌による銘文が発見された。 干支年号をもつ鉄刀の出土例としては、稲荷山古墳に続いて全国2例目。この銘文から「戊辰年銘大刀」と呼ばれており、金具等から、飛鳥地方で製作されたものと推定されている。二号墳は東西12m、南北14mの円墳で、長さ8.6m、幅1.2m、高さ1.7mの横穴式石室をもつ、舞鶴でもある小さな村長クラスの人物の墳墓でないかと言われる、見かけ上は、こんなオタカラが副葬されていそうな古墳ではない。 西暦2025年の干支は 民間では干支のうちの十二支の部分だけを用い、それに動物を配当した生肖紀年法が今も広く用いられている。(干支すべてを割り当てる紀年方を干支紀年法という) 江戸時代、江戸の八百屋お七という娘は、恋い焦がれる男性に会いたいばかりに、火付けして、その罪で処刑された。その「お七」が丙午年の生まれであったために、丙午生まれは「気が強い、おてんば」、「ひのえうま」の年に生まれた女性は夫を食い殺すという迷信や口碑が原因で、多くの夫婦が「それならば大変だと」、丙午には子供を産むことをひかえるようになった。 その丙午の俗信が昭和41年まで生き続けたために、この年の出生率は低かった。来年、令和8年はその丙午が巡ってくる。さてさてどうなるのだろうか。 、俗信の類を盲信して本質がおろそかになればかえって悪い結果となろう。核があれば平和・安全などとアホな迷信を盲信してはなるまゾ。しかも外国の核・日本の主権の及ばない核兵器、しかも我国に核を投下した国の核。ニッポンまつさつ策、全人類やきころし策、地球上の1人1人の頭上に 80tの爆弾がある危機の上積策の大狂信、こんなものに手を伸ばしてはなるまいゾ。負の連鎖、負のスパイラルをさらに加速させ、ノリタン線を越えそうな所ヘ持って行く、ヤバサが増すだけではないか、核だから能う限りの最悪の結果となろう。丙午冗談どころではないが、丙午ともども、ニッポンどうしたこととなるやら見届けたいものである。 六曜(ろくよう、りくよう)は、暦注の一つで、先勝(せんしょう、せんかち)・友引(ともびき)・先負(せんぷ、せんぶ、せんまけ)・仏滅(ぶつめつ)・大安(たいあん)・赤口(しゃっこう、しゃっく)の6種の曜。 日本では、暦の中でも有名な暦注の一つで、一般のカレンダーや手帳にも記載されていることが多い。今の日本においても影響力があり、「結婚式は大安がよい」「葬式は友引を避ける」など、主に冠婚葬祭などの儀式と結びついて使用されている。 六曜は室町時代に中国から伝来し、当初は「小六壬」と呼ばれていた。その後江戸時代に名称がかわり、天保年間ころに今の日本独自の形になったといい、歴史は浅い。 明治6年の太陽暦へ改暦されるにあたり、「吉凶付きの暦注は迷信である」として、政府は吉凶に関する暦注を一切禁止、尋常小学校の教科書にも迷信を信じるなと記載された。しかし、暦注の廃止は人々の反発を招き、明治15年頃から俗に「オバケ暦」と呼ばれる暦注が満載の民間暦が出回るようになった。政府が発行する官暦となった神宮暦も、新暦(太陽暦)と天文・地理現象の他は国家神道の行事等のみを載せ、吉凶の暦注は一切排されるはずであったが、六曜と旧暦を略本暦に附すという形で存続した。明治時代まで暦注には種々のものがあったが暦注追放を経て六曜はかえって重視されるようになったともいわれている。 八将神とは、太歳神・大将軍・大陰神・歳刑神・歳破神・載殺神・黄幡神・豹尾神 「暦の始めは八将神」といわれ、旧暦の巻頭には方向の吉凶を司る神々が記載された。八将神はその年の十二支に応じて毎年所在する方向を変え、1年間その方向に留まり、それぞれの方角に対しての禁忌が定められていた。 大将軍の遊行方位などややこしいこともあり、これを実行するには非常に難しく現代においてこの信仰は薄らいでいます。ただ伊勢暦や引札暦など旧暦のカレンダーには、八将神は先頭に大々的に記される事項となっていて、歴史古文書を学ぶ方は知識として知っておくにこしたことはない。 ![]() ![]() 月と星座の位置から、その日の吉凶を占う 二十八宿は、もともとは中国で月の天球上の位置を示すために作られたもので、天球上の月の通り道を28の星座に不均等に分割したもので、その一区分を「宿」と言い、月は1夜ごとに宿を一つずつ通過し、約28日で一回りすると考えられていた。 その区分の基準となった天の赤道付近の28の星座(中国では星官・天官といった)の事である。 二十八宿は中国からインドに渡ると、天文学的な意味が薄れ吉凶を占うものとなり、それが中国に逆輸入され、さらに日本にもたらされました。(インドでは二十七宿となったため、日本でも最初は二十七宿だった) ![]() ←キトラ古墳(明日香村)に描かれた天文図 キトラ古墳(7世紀末~8世紀初頭)の石室天井に描かれた天文図は、中国の天文体系に基づきながらも、北天の星々を天文観測に即して科学的に配置しており、緯度補正もなされている点から、極めて科学的で精緻な作図と評価されている。このような背景から、「現存する世界最古の科学的な天文図[15]」と紹介されることもある。描かれている星の総数は、277個である。 ![]() ![]() 九星は、古代中国から伝わる民間信仰で、一白水星・二黒土星・三碧木星・四碧木星・五黄土星・六白金星・七赤金星・八白土星・九紫火星の9つからなる。 ![]() たいていの暦注に掲載されているが、天体や暦に起源があるものではなく、古代中国に起源があるという、日本では明治以降にひろまった易占の一種という。暦に九星が掲載されているのは日本だけという。 中央を中宮とし、北から坎宮、艮宮、震宮、巽宮、離宮、坤宮、兌宮、乾宮と名づけ、この九宮を九星が循環する。 吉凶は万人共通でなく、その個人の生年月日によって変化する。 九星では180年を一周期とし、これを60年ごとに三等分し、それぞれ最初の60年から上元、中元、下元と呼ぶ。上元の時代には文明が栄え、生まれた人間にも品格があるとされる。しかし上元から下元へ行くにしたがって文明は退廃し、人心は低下するとされた。1984年(昭和五十九)から下元に入っているという。まだ20年ばかりは頽廃と低下の時代が続くのかも知れない。戦争だけはするなよ。 十二直(十二建星)は、暦注の一つで、建・除・満・平・定・執・破・危・成・納・開・閉のことである。暦の中段に記載されているため、「中段」「中段十二直」とも呼ばれる。二十七宿・二十八宿等と共に使用されることが多い。 本当は摩訶不思議複雑なのだが、簡単には、建・満・平は吉日、除・定・執・成・納・開は小吉、破・危・閉が凶日と単純に考えていいか。 北斗七星の動きを十二支に一致させて吉凶判断に用いたのが十二直である。昭和初期までは十二直が暦注中で最重視されていたが、最近では六曜や九星を重視する人が多くなり、以前ほどは使われなくなっている。 柄杓の形をした北斗七星の柄に当たる部分(斗柄)が北極星を中心にして天球上を回転することから、これに十二支による方位と組み合せて十二直を配当する。十二直に用いる月は節月である。節月毎にその月の夕刻に斗柄が向いている方位の十二支と、日の十二支とが同じになる日が「建」になるように配当する。実際には節月の最初の日にその前の日の十二直を繰り返す。冬至の頃には斗柄が北(子)を指す(健す)ことから、冬至を含む月を「建子の月」という。 「選日」とは、中国の陰陽五行説に基づいた暦注の一つで、十干十二支の組み合わせによってその日の吉凶を占うものです。、一粒万倍日、天赦日、不成就日、三隣亡などが代表的です。選日は「撰日」「雑注」とも呼ばれ、吉凶を判断して物事を行う日取りを選ぶために用いられる。 選日の種類と意味 一粒万倍日(いちりゅうまんばいにち): 一粒の種が万倍にも実を結ぶとされ、種まき、開店、投資などに吉とされる日。お金を出すことにも吉ですが、人から物を借りたり、借金をしたりすることは凶とされる。 天赦日(てんしゃび): 天が万物の罪を赦す日とされ、何事にも障害が起きない大吉日。 不成就日(ふじょうじゅび): 万事が成就しない、何事も悪い結果を招く凶日とされる。特に結婚、開店、移転、契約などには不向き。 三隣亡(さんりんぼう): 建築関係の仕事には大凶日とされ、普請始めや棟上げは避けるべきとされる。 八専(はっせん): 陰陽五行説で同じ気が続く吉凶が重なる日とされ、建物の破壊的な物事の着手、嫁入り、仏事などは凶とされる場合がある。 天一天上(てんいちてんじょう): 人事の吉凶を司る天一神が天上にいる期間で、どこへ行っても吉とされる。 十方暮(じっぽうぐれ): 何をやってもうまくいかない凶日とされ、新規事柄の開始や旅立ちなどに凶とされる。
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資料編の索引
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