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暦の伝来①
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![]() 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 (資料はネット上のものなど 感謝) ![]() ストーンヘンジ↑紀元前2500年から紀元前2000年の間に立てられたと考えている。 時を知る天文台か、とも言われる。 こんな大がかりなことをしなくとも、棒を一本立てておけば、だいたいの季節と、その日の時刻を知ることができる。←どの地方の写真か不明だが、赤道近くでなければ、棒のカゲが一番長くなるときが冬至で、一番短くなるときが夏至、その中間が春分・秋分になる。カゲのできる方向で時刻を知ることができる。ただし昼間の太陽が出ているときしか使用できない。 暦は、天体の運行と関係したもので、地球の自転を元にして日、月の公転を元にして月、地球の公転を元にした年など、いくつかの単位に細分されている。時刻は暦ではわからない。 古代人がまず最初に気づいたのは、日(太陽)の出没、すなわち1日であった。また、季節の推移と、それが一定の周期で一巡することにも気付き、年の概念が現れる。さらに周期的な月の満ち欠けに気付き、これがおよそ12回繰り返すと季節の一巡することに気づいた。こうして日・月・年の単位が成立した。 地球の自転と公転、さらに月の公転はそれぞれが勝手に動いているもので、お互いには何も関係がなく、互いの整数倍でもない。また、それぞれの周期は厳密にはわずかにユレもある。 暦の月が、実際の月の満ち欠けと一致するのは太陰暦だけで、太陽暦と月の動きは全く関連付けられていない、しかしそれでも多くの言語で暦月と月の名称に関連があり、また太陽暦でも通常1ヶ月が30日前後となっているのは太陰暦の名残であると考えられている。 暦は地方地方や時代時代で、各種たくさん作られた、簡単なようで本当はチョームズイ、天文学、数学と占星術などと結びついて発展してきた。 日本語の「コヨミ」は ←フェルメール「天文学者」(1668年)一時はナチの手にわたり、危うく爆破される寸前であった、数奇な運命をたどった絵画。 ユダヤ系金融一族が所蔵していたが、ナチス・ドイツが1940年のフランス侵攻時に押収。絵の裏面には、ナチスの所蔵物であることを示す小さい鍵十字が刻印された。 ヒトラーは美術に関心が高く、若き頃は画家を目指していたという。後には自分好みの美術館を建設する計画を立て、展示する作品集めを始めた。 ルーヴルやエルミタージュにも劣らぬ壮大な美術館を夢見て、膨大な数の作品を収集した。「収集」といっても、買い叩き、騙し取り、特にユダヤ人財産は押収するというありさまで、実態は略奪と呼ぶに近い。ヒトラーが好んだのは、古典作品で、特にフェルメールに魅了されていたという。もう1作「絵画芸術」(↓)という絵画も、オーストリアの貴族からヒトラー個人が1940年に購入している。 ![]() 次第に戦況が悪化し、美術どころではなくなってくると、ヒトラーはひとまず大事なコレクションを安全な場所へ移すことに決め、オーストリアのアルトアウスゼーにある岩塩坑に隠された。ベルリンの地下壕にこもって指揮をとるようになってからも、ヒトラーは「天文学者」の写真をよく眺めていたという。 とうとう悪運つきてヒトラーは自殺。その報を受けたアルトアウスゼーは、すぐさま坑道を爆破する準備に取り掛かった。撤退の際は軍事施設や文書などを全て処分し、敵に何も渡さないよう命じられていた。ところが、ヒトラーは「美術品は私利私欲ではなく、美術館のために集めた。適切に遺贈してほしい。」旨の遺書に残して、コレクションは破壊の対象外になっていた。 敗戦が色濃くなる中で指揮系統も混乱し、きちんと伝令が伝わらなかったようで、爆破準備は着々と進み、坑道内に爆弾を仕掛けるところまでいったものの、すんでのところで爆破は食い止められた。美術品の破壊に胸を痛める者たちが、懸命に爆弾を取り除いたという。ドイツが降伏するわずか3日前のことで、「天文学者」「絵画芸術」も命拾いしたという。どこまで史実が知らないが、そうしたアメリカ映画もあった。 大戦終結後「天文学者」はロートシルト家に返還され、その後1983年に遺産相続税の一部現物税としてフランス政府に納められた。これ以来「天文学者」はルーヴル美術館に展示されている。 暦は大きく分けて、太陽暦、太陰暦、太陰太陽暦がある。 太陽暦は、 地球が太陽の周りを公転する周期(太陽年)を基準にした暦法、現在、世界中の多くの国で使われている「グレゴリオ暦」がその一種で、1年を基本的に365日とし、4年に一度のうるう年で調整する。太陽暦は通常12ヶ月で構成されるが、実際の月の満ち欠けとは関係はない。太陰暦は、 月の満ち欠けの周期(朔望月:約29.5日)を基にした暦。1年を12ヶ月、29.5×12=354日として計算するため、太陽暦の1年(約365日)より約11日短くなる。このずれを補正するために太陰太陽暦では約3年に一度、閏月を加えて13ヶ月の年を作る方法が取られる。季節とのずれがあるため、農業など季節に合わせた活動には不便が生じる。月は潮汐と関係する漁業者に適しているという、人類最初の暦は太陰暦で、メソポタミア、エジプト、ギリシャ、中国では太陰暦が発達した。イスラム暦(ヒジュラ暦)は、純粋な太陰暦で、イスラム世界では宗教行事の日程決定などに広く使われている。 29日の月と30日の月を交互に繰り返し、1年は約354日となり、太陽暦の365日よりも毎年約11日ずつずれていくため、特定の月が常に同じ季節にならない。断食月であるラマダーンは毎年時期が早まり、季節を巡っていくが、補正されることはない。預言者ムハンマドがマッカ(メッカ)からマディーナへ移住した「ヒジュラ(聖遷)」が行われた年(西暦622年)を元年とする。月初めは三日月である。新月は月は太陽と近い所にあるため、見ることはできない、三日月くらいになって、日没後の西の空に、はじめて月を見ることができる、これを月初めとした、国旗の三日月はそうしたことであろうか。 イスラム暦は宗教的な目的(礼拝時間、ラマダーン、巡礼など)で使用されるが、農耕や他国とのやり取りなど日常生活では太陽暦も併用される。 ←メソポタミアの月神シン(スメール語ではナンナと呼び、アカド語ではシーン)メソポタミアの宗教および神話では、月神は天界の神々のなかで最高位に置かれ、太陽神シャマシュ(男神)と金星の女神イシュタルはその息子と娘であった。月神シンは南メソポタミアのウルを中心として、人間の保護者として厚く崇拝された。のちには北メソポタミアのハッラーン(ハラン)にも神殿が建てられ、その信仰は異教時代のローマにも伝えられた。普通翼のある雄牛に乗った姿で表現され、数字30、雄牛と三脚、三日月が象徴物。日本神話にツクヨミが保食神を殺し、その死体から穀物が生じた、という神話があるように、月と農耕が結び付けられる場合もあり、類似するハイヌウェレ型神話は他の民族にも見られる。 太陰太陽暦 太陰暦と同様に、月の満ち欠けで1か月を定めるので、月の朔日はいつも新月になる。太陰暦の1年は29.5日×12=354日と1太陽年に比べて11日ほど短く、その差は3年でほぼ1か月に達する、その1か月をうるう月にすることで、ずれを補正するのが太陰太陽暦。日本や中国で使われた暦、ユダヤ暦、古代ギリシャ暦などが該当する。本来バラバラに動いている3つの天体の自転、公転周期を簡単に一日一日の暦にまとめるのは、簡単なハナシではない。 時の単位。年、月、日1日とは、元々「1日」というのは地球上から見た太陽の周期的な動き(および、それにともなう空や地上の周期的な明暗の変化)を元にした時の捉え方で、人類に普遍的な捉え方であり、どの文明においても、用いられてきた。 地上から見て普通には(見かけ上は)、朝の日の出から、次の日の日の出までが一日で、地球が1回自転する時間である(太陽日)、しかし厳密には、地球が1回自転しただけでは1日にならない。地球は自転だけでなく公転もしているため、一回転しただけでは、まだ太陽は出ない。 地球上で次の日の出を再び迎えるには、地球が公転で動いた分だけ、余計に自転しなければならない。純粋に(宇宙空間座標上で)、地球の自転一回転にかかる時間(恒星日)は23時間56分04秒ほど(ほどというのは地軸のユレがあり地球自転時間もユレがある)。 地球の自転は、地球が自身の地軸の周りを回転すること(自転)である。回転方向は東向きであり、北極星方向から地軸をみると反時計周りになる。 ![]() 余計に必要となる自転にかかる時間が4分ほど、合わせて1日24時間になり、これを太陽日と呼んでいる。 この「余計に自転しなければならない量」は一定ではなく、複雑に変動する。公転軌道が真円でなく楕円で、さらにその楕円軌道も10万年かけて変動し、さらに近くの惑星の引力の影響を受けて、歳差がある。 1月とは 地球上から見て見かけ上は、普通は新月から次の新月までの時間が1月である(朔望月)。この時間は平均すると29日12時間44分3秒。月は地球を公転しているが、楕円軌道のため、この時間の変動幅は大きく29日6時間から29日20時間まで変動するという。一方、恒星月は、宇宙空間座標上、地球を一周する公転周期のことで、約27.32日である。 今のグレゴリオ暦でも1年を12ヶ月に分けているが、1年で、12回と1/3ほど地球を公転している。 1年とは 地球が太陽の周囲を1公転する時間だが、恒星年の長さは 365日06時間09分09.765 秒 = 365.256 363 02日(2016.5値)である。春分点を基準とする太陽年よりも20分24.6秒ほど長い。この差を 太陽年は、春分点を基準として、地球が太陽の周りを公転するのにかかる時間の平均値。約365.24219日(365日5時間48分45.96秒。 地球の自転軸は歳差により約26,000年の周期で自転と反対方向に回転するため、太陽に対する地球の自転軸の向きは、空間に静止した座標系で考えた1周である恒星年(365.25636日)よりも短い時間でもとに戻る。 しかしこの向きこそが地球の季節を決定しているので、暦の1年は恒星年でなく太陽年を用いて決められている。 歳差北極星は、北の空のほぼ同じ位置にずっと見えているので、北の方角を知るときの目安としてよく使わる。しかし、何千年後も現在の北極星がこのような位置に見えるわけではない。 地球の地軸(自転軸)は、地球の公転面に対して約23.4度斜めに傾いている。 ちょうど地軸の北側が指している方向に現在の北極星があるので、地球が自転しても、北極星だけは、ほとんど動かないように見える。 地軸が指している方向は、ずっと同じでなく、地軸は、公転面に垂直な方向に対して半径約23.4度の円を描くように移動し、約26000年の周期で一回りする。そのため、その円周上付近にある恒星(こと座のベガ・織姫星)が、1万2千年先の“北極星”となる。 このような地球の運動を「歳差(さいさ)」運動と言う。この動きは、コマを回したときに、コマの心棒が一定の傾きを保ったまま、ゆっくりとその頭を回していく動きと似ている。 地球が歳差運動をするのは、太陽や月、惑星の引力によって、傾いている地球の地軸を引き起こそうとする力が働くためという。 ![]() ![]() 西暦の始まり暦は古今東西にはたくさんあって、それぞれ使われてきたが、その中の今の日本で使われている「西暦(グレゴリオ暦)」の起源。カレンダーの語源や、月の名の英語名、2025の紀年の元となっているローマ暦。ローマ暦にも長い歴史がある。古代ローマの暦は古代ギリシア暦を元にしてつくられロムルス暦→ヌマ暦→ユリウス暦と変遷したという。 ロムルス暦とヌマ暦で決められた月名は、語形変化を被りつつも、ほぼそのまま英語等の現代まで受け継がれている。ローマといってもローマ市とその周辺だけで使用されていた。 その後も何度か改暦が行われたが、実際の季節と合わなくなっていた。平年の1年の長さは355日で、2年に1度、2月23日と2月24日の間に22日間または23日間の閏日を挿入した。閏年の1年の長さは377日または378日になる。閏日の挿入は最高神祇官の職責であったが、この官職の職務は軽視されがちであり、規則どおり閏日を入れないことがしばしばあった。政治的な理由で、1年の長さを恣意的に操作するため、閏日を挿入したりしなかったりすることもあった。そのため、暦の上の日付と季節がまったく合致しなくなった。末期には、1月が秋に来る異常事態となった。このため、当時の執政官ガイウス・ユリウス・カエサルは抜本的な改暦を決意し、紀元前46年の暦に、閏月を都合3回合計90日挿入した上で、翌紀元前45年のIanuariusのKalendaeより1年を365.25日とする太陽暦に移行させ、閏月挿入に伴う暦法上の混乱を収束させた。これがユリウス暦である。 ユリウス暦。 時の計測の精度を上げるには、観測を積み重ねること、したがって何度も何度も暦を使うことが必要。メソポタミアで何世紀にもわたって観測が積み重ねられたおかげで、ヒッパルコスやプトレマイオスなどを代表とするギリシアの天文学は、1太陽年や1朔望月の長さを正確に測定することができた。 前3世紀のアレクサンダー大王の東方遠征は、地中海世界に一種の文化革命を引き起こした。ペルシャ メソポタミア、エジプトの文化に触れたギリシャ人は、これらの文明から時の区分法を取り入れ、1日を昼夜それぞれ12時間に分け、週の単位を採用した。のちには、カエサル(Julius Caesaユリウス・シーザー)がエジプトを訪れ、アレクサンドリアの学者と接触したことが、ローマ暦を太陽暦に変えるきっかけとなった。今日われわれが用いている暦は、こうした一連の改革の産物である。もとの形は口-マ暦だが、それをさらに遡ればメソポタミア(1日24時間、曜日の名前、アレクサンドリア(太陽暦)、エルレサレム(週の単位、主日)にたどりつく。 カエサルの指示で科学的根拠に基づいて改暦されたユリウス暦は、今のグレゴリオ暦とほとんど変わらない、閏年が少し多いいくらいである。 ←カエサルの改革共和政末期の前46年、ローマの暦は乱れきっていた。神官たちが特権を濫用して閏月を不当に操作したため、暦日が季節と3ヶ月もずれていた。当時、終身独裁官と大神官を兼ねていたカエサルは、政治と宗教の両権力を握っていることを利用して、暦法の改革を断行した。彼は長期的に安定した支配基盤を望み、過去の制度の機能不全を改善して、堅固な帝国を打ち建てようとしていた。改暦によって、ローマの支配下にあるすべての人民が、同じ方法で時を測れるようになる、と考えた。 カエサルは、当時、学界の最高権威であったアレクサンドリアの天文学者の意見にしたがい太陽暦を採用した。1太陽年は365十1/4日とされていたので、4年周期が導入され、最初の3年は365日、4年目は366日と定められた。閏日は古い暦の年末に当たる2月に挿入されることになった。2月は28日か29日だったが、それ以外は30日と31日の月が交互に並べられた。吉日の数が増やされ公的活動が促進された。 こうしてローマは強力な道具を手に入れた。新しい暦は多少正確さを欠いてはいたか(1太陽年は365 十 1/4日よりわずかに短い、すっきりとして分かりやすく、先々の活動を予定し、組織するのに都合がよかった。神官団の権力は大幅に縮小され、以前のように閏月を恣意的に挿入することはできなくなった。 一方、月はもはや天体の月周期とは無関係になり、カレンダエ・ノナエ・イドゥスもただの指標にすぎなくなった。この改革で、カエサルは堅固で長持ちのする暦法を築きあげた。ユリウス暦は1582年まで効力を保った。 七月をJulyと呼ぶのは、彼の生まれた月を彼の名としたためである。 八月をAugustと呼ぶのは、初代皇帝のアウグスチスの名による。ユリウス亡きあと、正しく閏年を入れなかったり乱れていた暦をアウグスチヌス帝の時から再び正しく行われるようなったという。 ラテン語で(英語も)、September、Octōber、November、Decemberは、ラテン語の数詞septem, octō, novem, decemに由来する。年の最初の月であった、今の3月から数えて、7、8、9、10番目の月の意味。今の月の順序と月名との間にずれが生じたのは、紀元前153年の改暦によるもの。オクトパスは8本足の意味。メタン、エタン、…のオクタンは、炭素を8個持つ飽和炭化水素を呼ぶ。 古代ローマでは週は8日で、7日単位ではなかった。 1週が7日である起源は、古代バビロニアの月の満ち欠けの周期や、太陽・月・5つの惑星(計7つ。水星、金星、火星、木星、土星、太陽、月)が1日を支配するという天動説に基づいた占星術にあるという。(天王星は土星の2倍もの距離があって普通は肉眼では見えない、1781年に望遠鏡を使った観測で惑星だと訂正されている)。 この概念は、旧約聖書における神が7日間で世界を創造し、7日目に休んだという記述と結びついて、ユダヤ教・キリスト教の文化圏を通じて広まったという。だいたい3世紀ごろからだったという。 イスラム暦でも7日だが、土曜日が週の始まりとされ、金曜日が特別な日(安息日)。多くのイスラム圏では、金曜日の午後から日曜日までを週末として休日にしており、週の始まりと週末の概念は一般的な西暦の週とは異なる。 ロシア民謡の「一週間」 日曜日に 市場へでかけ糸と麻を 買ってきた … 日曜に市が立ったのだろう。7日制だったことがわかる。 「ソビエト連邦暦」は、1929年から1940年まで、7日制の週を廃止して5日週や6日週を採用した期間があった。宗教的な曜日を廃止し、国民を5グループに分けて交代で休み、工場を連続稼働させて生産性を上げることが目的だった。しかし、国民の不満や生産性向上の効果が上がらなかったため、不評を買い、第二次世界大戦の激化を背景に1940年6月26日に7日制が復活されたという。 革命暦だが、フランスでも革命暦があって、1年は365日で、革命政府が指定した年が別に閏年となった。1年は12か月、すべての月は30日で、あまった5日(閏年は6日)は年の終わりに置いて休日とした。1か月を10日ずつ3つのデカード(週・旬とも訳す)に分け、従来の週 と七曜を廃止した。混乱を生じたのは、年数を共和制宣言の行われた1792年9月22日から数え、さらに年初もこの日(グレゴリオ暦で9月22日に相当する日)にしたことであった。 革命暦が失敗に終わった理由として必ず挙げられることに、暦だけでなく時間の単位も変更したことがある。フランス革命暦では、1週は10日、1日は10時間、1時間は100分、1分は100秒とすべて十進法が使われた(十進化時間)。合理性を追求したためだがこれまでの生活習慣と大きく異なるものであった。 時計に至ってはあまりにも性急に導入されたために一部を除いて普及することはなかった。革命暦は廃止され、元のグレゴリオ暦に戻った。 同時期に考案されたメートル法は十進法を採用しているものの、正式な単位として普及していまわれわれも使っている。 グレゴリオ暦 1582年、ローマ教皇グレゴリウス13世の時に制定された暦法。ユリウス暦は1年を365日と4分の1とし、4年に一度閏年を設ける暦法であったが、11分4秒の差であった実際の太陽年との差が累積して、春分の日がカエサルの時から13日早まってしまった。冬の方へ2週間も移ってしまった。11分×1600年≒12日 塵も積れば山となる、のたとえ通り、このズレは、春分の日(3月21日と決められていた)を基準に復活祭(イースター)の日を決める教会にとってやっかいなことになった。復活祭の主日は春分後の満月の後の日曜と決められていて、毎年変わる(325年のニケア会議決定)。 復活祭はイエスが復活したというだけでなく、すべての生命の復活と繁栄を祝う「春」に行われ、春の訪れを祝うお祭りとしても定着している。その一番大事な春の祭日が冬に移動してしまっては困る。 そこでローマ教皇グレゴリウス13世が、ユリウス暦を改定し、400年間に3度、閏年を省略することで修正した。この修正により、400年に97回のうるう年を設けるルールが導入され、1年の平均日数を実際の太陽の周期に近づけている。ユリウス暦をほとんど変えずに、しかも精度を格段に向上させている。簡単に言えば1600年に13日多いのだから、これは123年に1日多い、それは約400年に3日多い計算となり、400年間に3度閏年をなくせばよい、といった計算になる。 日本では明治6年(1873年)に導入され、現在の暦の基礎となった。 うるう年のルール: 西暦年号が4で割り切れる年はうるう年とする。 ただし、100で割り切れる年は平年とする。 さらに、400で割り切れる年はうるう年とする。 1年の平均日数:365.2425日となり、実際に観測で求められる平均太陽年(回帰年)の365.242189572日(2013年年央値)に比べて約26.821秒長いだけ、現在のズレは3時間。1日のずれが生じるまでに約3221年(これは自分で計算してみた数値)を要するまでに精度が高まり、ユリウス暦に比べると格段に精度が向上した。 高級機械式時計では1日20秒程度のずれなら許容の範囲内とされる。クォーツ式時計の平均的な精度は月差±15秒程度とされ、これらと較べれば、グレゴリオ暦の精度は驚異の域に達している。1600年の観測の積み重ねは恐ろしいものである。 電波時計は、10万年に1秒の誤差しかないとされるセシウム原子時計の時刻情報に基づいていて、この精度には敵わない。ただ電波時計は受信する距離によって誤差が生じる、もし30万㎞(地球と月ほどの距離)も離れていれば、1秒の遅れが出る。
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資料編の索引
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